180章 大苦難と人の子の到来
マルコ13章14〜27節/マタイ24章15〜31節/ルカ21章20〜28節
■マルコ13章
14「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。
15屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。
16畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。
17それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。
18このことが冬に起こらないように、祈りなさい。
19それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。
20主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。
21そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。
22偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。
23だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」
24「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、
25星は空から落ち、天体は揺り動かされる。
26そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
27そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
■マタイ24章
15「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、
16そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。
17屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。
18畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。
19それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。
20逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。
21そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。
22神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。
23そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。
24偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。
25あなたがたには前もって言っておく。
26だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。
27稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。
28死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ。」
29「その苦難の日々の後、たちまち、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。
30そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。
31人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
■ルカ21章
20「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。
21そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。
22書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。
23それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。
24人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。」
25「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。
26人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。
27そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
28このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」
【注釈】
【講話】
■終末予告と過去の出来事
今回の箇所は、神がイエス様を通して、「めん鳥が翼の下にひなを集めるように」(マタイ23章37節)エルサレムを護ろうとしたのに、これに応じなかったために、神はその神殿を離れ、神殿は破壊され、エルサレムは滅亡し、最後の審判と世界の終わりが訪れることを予告するものです。しかし、この不幸な出来事は、全宗教史、全人類史に長く大きな影響を及ぼしただけではありません。これを分岐点にして、救済史的な出来事が起こりました。
ローマ軍に包囲された70年頃のエルサレム神殿では、もはや神殿での犠牲の獣が手に入らなくなっていました。ついに神殿での犠牲が中止されたのです。この時点で、この世界には「贖罪の犠牲の場」が無くなったのです。今回のイエス様の預言は、神殿の終わりだけでなく、罪を贖う犠牲の場が喪失するという「救済史の終わり」をも予告しているのです。だから、神殿の犠牲が終わると同時に、神殿そのものの存在意義も終わったのです〔ラツィンガー『ナザレのイエスU』45〜47頁〕。
ところが、この出来事と対照的に、キリスト教徒の間では、神殿の犠牲に代わって、イエス様の最後の晩餐とその死と復活を記念して「パンを裂く」行為が行なわれていました。エルサレム神殿と、イエス様の死と復活とが入れ替わるという事態が生じていたのです。このような事態が来ることは、パウロ神学からも予想されることでした(ローマ3章23〜26節)。パウロが指摘するように、十字架と復活のイエス御自身が、罪の贖罪のための神殿の代わりになったからです。それだけでなく、イエス様の聖霊を宿す信者一人一人が、神の神殿となるのです(第一コリント6章19〜20節)。神殿で、かつて民のために贖罪を行なった大祭司の役目が、今や永遠の大祭司であるイエス・キリストによって行なわれるようになったのです(ヨハネ17章/ヘブライ4章14節〜5章10節)。イエス様の神殿破壊の予告は、神殿の救済史が終わり、イエス・キリストの十字架による贖罪の時代が来ることにほかなりません〔ラツィンガー前掲書57頁〕。
■終末予告と現在
今回のマタイ福音書の箇所は、著者マタイが置かれている「現在の」(同時代の)視座から書かれています。そこでは、歴史のイエス様の預言と、イエス以後の教会の終末観と、著者マタイの時代(80年代?)の終末観とが、渾然一体になっていて、著者マタイは、自分が置かれている「現在の」状況を暗い終末的な様相の下で描いています〔ルツ『マタイ福音書』(3)522頁〕。それは、世界中に無法がはびこり、教会には偽預言と偽メシアが跋扈している時代です。しかし、マタイのこういう「黙示的悲観主義」に対して、それでもなお「世界の主キリストから与えられる希望を見失うことがあってはならない」、こういう呼びかけが聞こえてきます〔ルツ前掲書526頁〕。
共観福音書は、イエス様の時代から世の終末までの間に、「福音が全世界に伝えられる」という「異教徒の時代」が存在すると告げています。「異教徒」とは「諸民像」のことですから、これは、言い換えると「教会(エクレシア)の時代」です。この時代はまた、偽メシアと偽預言の時代でもあり、「賢い乙女と愚かな乙女」(マタイ25章1〜13節)の譬えの時代ともなります。それは同時に、イエス様の愛を生きる真理と、暴力と偽りとが対立する時代だとも言えましょう〔ラツィンガー『ナザレのイエスU』59〜60頁〕。マタイ福音書の終末説話の中心となる出来事は<イエス様ご自身>です。しかも「マタイの今この時」に御臨在して働いていてくださる「イエス様の出来事」です。過去に証しされ来たるべき未来をも含む<現臨するイエス様ご自身>です。
■終末予告と人類の将来
今回の終末予告を、過去に起こった出来事と現在の情況とに関連させて概観しました。では、これを未来へ投影すると何が見えてくるでしょうか? ここで思い切って、わたしなりの予測を語らせていただきます。今回の共観福音書が証しするのは、次のような諸点です。
(1)異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。
(2)神が天地を造られた創造の初めから今までにない困難が来る。
(3)天体は揺り動かされる。
(4)困難の期間が縮められなければ、だれ一人救われない。
(5)あなたがたの解放の時が近い。
(6)人の子が大いなる力と栄光を帯びて来る。
(7)彼によって選ばれた人たちが四方から呼び集められる。
(1)〜(4)の艱難と(5)〜(7)の希望ですから、「四難三望」です。まず(1)の「異邦人の時代が満ちる」ことについて見るならば、1917年にイスラエルの建国を認めるバルフォア宣言が出されてから、30年後の1948年に、現在のパレスチナにイスラエルが再建されました。これをもって預言の成就と見るかどうかはともかく、エルサレムの滅亡から1900年後に、エルサレムの再建が成就したのは確かです。 2018年現在、アメリカ大使館がエルサレムへ移転することで、エルサレムがイスラエルの首都であることを正式に認めようとする動きが、アメリカとイスラエルの間で進行中です。もしもわたしの推測が正しければ、イスラエルの最終的な願いは、現在イスラムのモスクが建つ神殿の丘に、再びイスラエルの神殿を建設することではないでしょうか。イスラエルの建国と共に、(1)の預言が成就したというので、キリスト教徒の間に、終末待望の機運が出てきました。新約聖書に見る「ユダヤ人の時代」から「異邦人の時代」への移行とは逆に、「異教徒の時代」から「ユダヤ人の時代」へのような交代、あるいは再交代の出来事が進行していることになるのでしょうか。その一方で、共観福音書は、世界の創造以来かつてなかったほどの宇宙規模の災害が起こると預言しています。それがどういうことなのか知るよしもありません。しかし、6500万年前に、かつて恐竜が地球上に跋扈(ばっこ)していた時代に、現在のメキシコ湾に隕石が落下し、その際の粉塵により、太陽は暗くなり月も光を失い、空の星も見えなくなったのは確かです。もしも将来核戦争が起こるなら、今回の預言は、誇張でもなければ妄想でもなかったことになりましょう。
現在人類は、AI(人工知能)の発達に明るい未来を思い描いています。しかし、もしもわたしの予想が正しければ、AIの発達は、人間の身体的な生命の延長にその最終的な目標を定めるでしょう。あらゆる人工の技術を駆使して、なんとかして何時までも死なない肉体を維持することに科学と医療の技術が結集すると予測します。その結果、他人の身体を切り売りすることで、自分の生命を維持し続けようとするごく一部の特権階級と、これの犠牲にされる貧しい人たちとの間に、歴然と格差が広がる時代が訪れるかもしれません。さらに、もしも天体が揺り動かされるような困難が地球を襲うならば、一部の特権階級は、大多数の人類を犠牲にしてこの地球に置き去りにし、自分たちだけは地球外の安全な惑星に逃れるという時代が来るかもしれません。現在、地球の外から宇宙人が地球を襲うというSF映画が盛んに作られていますが、このことは、宇宙人ではなく、わたしたち人類こそが、地球外の惑星を襲うことを予知させるものです。わたしは、現在のAIにも、宇宙開発競争にも、嬉々として無条件で類の明るい未来を思い描くことができません。
共観福音書は、人の子イエス様が、突然に人類全体を訪れると預言しています。しかも、そのことは、現在イエス様を信じる人たちの内に宿るイエス・キリストの聖霊の働きと密接に繋がっています。わたしは、この事態に、たとえ天体が「揺り動かされる」事態が起こっても、それでもなお「揺り動かされることがない砦」(ヨエル3章14〜16節)となる「イエス様にある永遠の生命」の創造的な営みを見出すのです。現在のホモ・サピエンスは、おそらく何百万年後には、必ず消滅します。しかし、天地を創造された神は、現在すでに、人類の中に、たとえ肉体が死んでも、なお死ぬことのない命を働かせることで、現生人類とは異なる新たな人類の創造の業をすでに始めておられるのではないでしょうか。これが成就する時が、今回の共観福音書が約束する、イエスを信じる者への「贖いの時」なのでしょうか。
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