【注釈】
■マルコ福音書の大苦難と終末予告
前回では、イエスによる神殿崩壊の予告に始まり、弟子たちからの「その時としるし」への問いかけがあり、続いて、世界に起こるであろう様々な混乱とイエスを信じる者たちへの迫害が告げられ、同時に、福音が全世界に伝えられることが予告されました。今回のマルコ23章14~27節は、終末に先立つ苦難(14~23節)と人の子(イエス・キリスト)の再臨(24~27節)の二つの出来事に及んでいます。今回の前半(14~23節)で、前回あいまいであった神殿崩壊への「しるし」が、「憎むべき破壊者」として、その姿をはっきり現わします。この「しるし」によって、事態は終末の到来へさらに近づくのです。
時期的に見ると、今回の部分は、ユダヤ戦争の始まりからエルサレムの陥落と神殿崩壊(70年)までの期間と同一視される傾向があります〔フランス『マルコ福音書』519頁〕。ユダヤ戦争は、ローマ軍の攻撃に反撃したユダヤ側の勝利が発端となりました(66年)。しかし、ユダヤとローマのエルサレムをめぐる攻防だけでなく、ユダヤ人の間でも、扇動者どもと、ローマとの和解を求める大祭司たちとが、相互に闘っていたのです。皇帝ネロから全権を委任されたヴェスパシアーヌスは、68年に皇帝が死ぬと、エルサレムへの軍事行動を停止し、彼自らが皇帝になると(69年)、息子ティトゥスにエルサレム占領の任務を与えました。歴史的に見れば、ユダヤ戦争の発端から神殿崩壊までの間には、「憎むべき破壊者」に相当する神殿の冒涜事件は幾つも起こっています〔教皇ベネディクト16世ヨゼフ・ラツィンガー『ナザレのイエスⅡ』里野泰昭訳(春秋社)2013年39頁〕。とは言え、ユダヤにいるイエスの弟子たちが、取るものも取りあえず逃げ出さなければならいような事態とは、具体的にどのような出来事なのか?これについて見解が一致しません。23節から判断するなら、「憎むべき破壊者」(これについては別項目で扱います)も、偽メシアや偽預言者の出現も、まだ終末の到来以前のことです。「憎むべき破壊者」という言い方が、前167年に起こった神殿への冒涜(ダニエル書8章12~13節/第一マカバイ記1章54節)から出ているのは間違いありませんが、前2世紀のこの出来事が、マルコ福音書でどのような意味で「終末へのしるし」とされているのか?この点が必ずしも明らかでないのです。
これには、マルコ福音書が何時書かれたのか?という問題も関連します。もしもマルコが、神殿崩壊の出来事を過去のこととして回顧しているのであれば、もう少し明瞭な形で、具体的に「事後預言」することができたはずです。それとも、マルコは、「憎むべき破壊者」の出現から神殿崩壊にいたるまでのごく限られた狭間の時期に、マルコ福音書を書いたのでしょうか? あるいは、マルコは、ユダヤ戦争以後のローマ帝国からの圧力を慮(おもんばか)って、わざとあいまいな言い方をしたのでしょうか? また、今回のイエスの言葉が、弟子たちと直接どう結びつくのか?という疑問も提示されています(14~20節はユダヤ人一般に向けられており、21~23節は2人称複数に宛てて語られています)。
すでに指摘したように、イエスは、ダニエル書7章13~14節の「人の子」伝承に基づいて、終末への予告を語ったと考えられます。これが、口頭と文書で伝承される過程で、イエス以後のキリスト教会が置かれた状況と重ね合わされているのは確かです。マルコは、早くから伝承されたイエスの予告の言葉を変えることをせず、そのまま「収集した」という見方もできますが〔フランス前掲書521頁〕、これに対して、マルコは、ユダヤの伝統的な黙示文学の手法に従って、伝えられた伝承を彼なりに「編集し直した」という見方もあります〔コリンズ『マルコ福音書』599頁〕。
ここで注目されているのが、パウロが第一テサロニケ4章13~18節で語っている終末の伝承です。パウロはここで「主の言葉によって明言する」(同4章15節)と述べています。この「主の言葉」(単数)こそ、イエスにさかのぼるもので、共観福音書に伝承されている終末説話の基になっているというのが多数の見解です〔コリンズ前掲書599~600頁〕。例えば、「生き残っているわたしたちも、彼らと同時に雲間へ取り上げられて空で主に出会う」(同4章17節)とあるのは、マルコ13章27節の「選ばれた者たちを集める」ことと共通し、「雲間へ」とあるのも同26節の「人の子が雲に包まれて来る」と共通しています。ただし、これについても、パウロがどこまで「主の言葉」をそのまま伝えているのかが問われますが。こういうわけで、今回の箇所は、「神学的に多様な解釈を生じる手を焼く箇所」〔フランス前掲書522頁〕だとされています。
■マルコ13章
[14]【憎むべき破壊者】マルコ福音書のギリシア語は冠詞付きで「荒廃をもたらす忌まわしいもの(=冒涜)」(中性名詞単数)です。この言い方は、ダニエル書の8章13節/9章27節/11章31節/12章11節の4箇所にでてきます。ヘブライ語では、「荒廃させる汚れた厭うべきもの」(同9章27節/11章31節/12章11節)ですが、9章では複数で、11章と12章では単数です。ただし、同8章13節のヘブライ語は「荒廃をもたらす無法/不敬虔/冒涜するもの」です。これらの言い方は、ほんらい異教の偶像を指す用語です。ダニエル書の七十人訳のギリシア語では「荒廃をもたらす厭うべきもの」です(9章27節/11章31節/12章11節)。ただし11章31節は、テオディティオン版では「破壊し尽くす厭うべきもの」です。テオディティオンは2世紀半ばのヘブライ語聖書のギリシア語訳者ですが、特に彼の訳したダニエル書は七十人訳に代わるもので、彼の原版は前1世紀にさかのぼると推定されています。七十人訳でもほんらい偶像を指すことに変わりありませんが、8章13節の七十人訳は「荒廃させる罪過」です。
マルコ福音書のギリシア語は七十人訳の「荒廃をもたらす厭うべきもの(偶像)」と一致します。しかし、七十人訳の8章13節では「荒廃をもたらす罪過」とあり、特に11章31節のテオディティオン版では「破壊し尽くす厭うべきもの」とあるのが、神殿崩壊と関連づける意味で注目されます。
ダニエル書が言及しているのは、セレウコス朝のアンティオコス4世が、エルサレムの神殿に対して冒涜的な祭儀を強要した歴史的な出来事のことです(前167年)。彼は、神殿の焼き尽くす祭壇の上に、ギリシアの最高神ゼウスを祀る祭壇を築いたのです(第一マカバイ記1章54~59節)。マルコ福音書の「憎むべき破壊者」は、この出来事を念頭に置いているのは間違いありません。では、マルコは、この出来事をどういう意味に解釈していたのでしょうか? また、マルコ福音書は、ダニエル書のこの引用で、エルサレムの神殿崩壊までのどのような具体的な出来事を指しているのでしょうか? この点が問われることになります。
マルコ福音書では「憎むべき破壊者が<立つ>」とありますから、これは出来事ではなく、特定の人物を指すとも受け取れます。マルコ福音書で用いられている「破壊するもの」は中性名詞です(「立つ」は中性の分詞形ですが、これを男性の分詞形に読む説があります)。パウロ書簡には、イエス・キリストの再臨に先立って、破壊する不法の者が顕れて己を神とするとありますから、ここを第二テサロニケ2章3~4節の「不法の者、すなわち破壊の子」と関連づける説が有力です〔フランス前掲書523頁〕。なお、これも、先にあげた第一テサロニケ4章15節以下と同様にイエスにさかのぼると見られています〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)346頁〕。
マルコ福音書の「破壊者」とは、すでに起こった出来事/人物のことでしょうか?あるいは、未来の終末的な出来事/人物のことでしょうか? 一つの有力な出来事として、67~68年に、エルサレム神殿に立て籠もったゼロータイ(熱心党)と、これに対抗する大祭司アナノス(アナニアス)を指導者とするエルサレムの住民とが、互いに闘った出来事があります。この時に、ギスカラのヨハネは、アナノスと住民に味方するふりをしながら、ゼロータイと通じて、ついにイドマヤとも手を組んで、エルサレムの住民を挟み撃ちにしました。このためにアナノスは殺害され、住民は敗北し、エルサレムはギスカラのヨハネたちの手に落ちます。ローマによるエルサレムの滅亡は、このアナノスの死によって始まったとヨセフスは伝えています〔ヨセフス『ユダヤ戦記』4巻318〕。マルコ福音書の預言は、この時のゼロータイによる神殿への冒涜行為〔ヨセフス前掲書4巻388〕のことではないかという見方があります。ローマ軍に包囲される以前のこの時期であれば、エルサレムの住民が「山に逃れる」ことが、まだできたからです。このことから、マーティン・ヘンゲルは、マルコ福音書が書かれたのは、68/69年から69/70年までの冬の間ではないかと推定しました〔コリンズ前掲書609頁〕。エルサレム陥落以前に、キリスト教徒が「啓示を受けてペレアに逃れた」とエウセビオスの『教会史』(3巻の5)にもあります。確かではありませんが、マルコ福音書の読者たちは、「憎むべき破壊者」に、この出来事を想起したかもしれません〔フランス前掲書525頁〕。
ただし、マルコ福音書の表現は、ダニエル書の預言に基づいていて、神殿を冒涜するものが「立つのを見る」とありますから、これは、出来事よりも、何らかの偶像なり己を神とする人物のことを想定していると考えられます。ヨセフスによれば、「もし抗争があり、土地の者の手で神の聖域がまず最初に汚されるならば、戦争の法にしたがって都は陥落し、聖所は焼け落ちるだろう」と預言されていたとあります〔ヨセフス『ユダヤ戦記』(2)新見宏訳249頁〕。もしもマルコ福音書が、ヘンゲルの推定する時期に書かれたとすれば、マルコも、ローマとの戦争が本格化することで、かつてダニエル書で起こった「偶像が神殿に立つ」事態が再現されると予想したのでしょうか?あるいは彼は、己の神格化に酔った同胞のギスカラのヨハネのことを想い描いたのでしょうか?あるいは、ローマ軍が神殿にローマ皇帝の像を織り込んだ軍旗を立てることを予想したのでしょうか?それとも、かつてのソドムとゴモラへの神罰とそこから救い出される「選ばれた」ロトのことを想い出していたのでしょうか?あるいは、そのような事態が生じる時には、神が、「選ばれた者たち」のために、何らかの形でこれを阻止してくださると信じていたのでしょうか?この福音書が書かれた時期をも含めて、種々の憶測や想定が飛び交っていますが、確かなことは分かりません〔コリンズ前掲書610~611頁〕。
しかし、今回の「憎むべき破壊者(冒涜者)が立つ」という預言をイエスとその弟子たちの時にさかのぼらせてみるならば、おそらくイエス(と弟子たち)は、ダニエル書で預言されていたように、ヘレニズムの偶像を祀る神殿冒涜か、自己神格化する人物の到来か、何かこのような事態を予測していたと考えられます。
【読者は悟れ】かつて、この言い方は、エルサレムの滅亡以前に、黙示的な啓示を受けたキリスト教徒の間で記された預言の文書からのもので、キリスト教徒に緊急の避難を呼びかけたパンフ類に記されていたのが、「誤って」マルコによってイエスの口から出たことにされた、という仮説がありました。しかし、現在では、そうではなく、ダニエル書の「憎むべき破壊者」という謎めいた「象徴的な言い方」をどのように解釈すべきか、このことに注意をうながすための傍白だと理解されています。福音書は、通常聴衆に向かって朗読されましたから、「憎むべき破壊者」とはどういう意味かをその場の状況によって説明するようにこれを朗読する人に指示しているのです〔コリンズ『マルコ福音書』596~597頁〕。おそらくこの指示は福音書成立の初期からのものでしょう。
[15]~[17]「その時」とは「憎むべき破壊者」が立つ時のことで、これを見たら直ちに「山へ逃れる」よう指示しています。エルサレムとその周辺には「山/丘」が多数あります。この指示は、ローマ軍団によるエルサレム包囲よりも以前でなければ意味がありません。身重の女性と乳飲み子を抱えた女性が「山に逃れる」のはひときわ苦労することから、「冬起こらないように祈れ」とあるのでしょう〔フランス『マルコ福音書』〕。ユダヤでは、伝統的に、敵対者から逃れて山にある洞窟に身を隠すことが「悪しき者から逃れる」方法とされてきました(サムエル記上23章14節/同24章1~4節参照)。
【屋上にいる者】屋根の上にいる者が、降りないでどうやって逃げるのか?という疑問がありますが、パレスチナの家の屋上は平らで、日常いろいろな場合に使用されました。だから、奥上から降りて「家の中に入る」ことをせずに、そのまますぐ逃げなさいという指示です。「急いで」とあるのはロトへの警告を思い起こさせます(創世記19章17節)。
【上着】「逃れる」とは旅をすることです。上着は、旅をする際にも、野宿する時に大事な物でした。これが、家の中か畑に置いてあったのでしょう。
[18]ローマ軍団による実際のエルサレム包囲は、冬を挟んで行なわれました。「祈りなさい」とあるのは、イエスの弟子たち、あるいは女性たちなどの特定の人へではなく、一般的な指示だと考えられます。この節は、ここで語られていることが、すでに起こった過去の出来事ではなく、終末への預言であることを明らかに示しています〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)349頁〕。
[19]【それらの日】原文は「なぜならそれらの日々(複数名詞主格)が来る/あるであろう」です。「なぜなら」によって、15~18節の「ユダヤにいる人たち」への警告と結ばれていますから、「それらの日々」とは、エルサレムが包囲される時を指すとも考えられます。そうだとすれば、20節の「縮めてくださらないなら」は、ローマ軍による包囲の期間を指すことになりましょう。しかし、「(日々が)ある/来るであろう」とありますから、イエスの視点からは、エルサレムと神殿の滅亡が、終末的な大艱難と重ね合わされているのが分かります。マルコの視点からは、もしも彼が差し迫ったエルサレムの滅亡を目前にしているのであれば、イエスと同様の見方ができるかもしれません。しかし、エルサレム滅亡<以後に>過去を振り返っているとすれば、未来を現わす「それらの日々」をエルサレム包囲の期間だけに限定することはできません。
【決してないほどの苦難】「これほどの苦難は決してない」という言い方は、ダニエル書12章1節(特にテオディティオン版の)に、「そして苦難の時が来るであろう。民が地上に現われてからその時までになかったような苦難が」とあるのを反映しています。「今までもなかったし、これからもない」という言い方は、大きな艱難を表わすイスラエルの伝統的な言い方です(出エジプト記10章14節/同11章6節参照)。特にヨエル書2章2節では、この言い方が、「主の日の到来が近い」終末の「闇と暗黒の日」としてでてきます。したがって、この「苦難の日々」を歴史的に限定したり特定化するのは適切でありません。
【天地を造られた創造の初め】マルコ福音書だけの重複した言い方ですが。「苦難」を「創造」と対比させるのはおかしいという見方もありますが〔フランス『マルコ福音書』527頁(注)72〕、ここでは、終末が創世記の天地創造の時と対照されているのです。
【今後もない】「歴史の終わりを述べる言い方として、この句は、解釈上はなはだ座りが悪い」〔フランス『マルコ福音書』527頁〕。
[20]【主が】「神」を意味する「主」ですが、ここには冠詞がありません(マルコ5章19節では冠詞付きの「主」)。マルコ福音書では、旧約聖書からの引用にも冠詞がありませんから(マルコ1章3節/12章11節/同36節)、今回もこれに準じているのでしょう。
【選んだ人たち】原文は「主が選んでくださった選ばれた者たち」で、ここにもマルコ福音書の重複語法が見られます。しかし、「選ばれた者たち」は22節と27節でも繰り返されますから、今回の場合も単なる重複ではなく、人間の業や思惑によらない「ただ神による選び」の意味がこめられているのでしょう。ここの「選ばれた者たち」は、ダニエル書12章1節の「天の書物にその名が記されている者たち」から出ていると思われますが、今回の場合、そこにマルコ福音書の読者たちのようなキリスト教徒も含まれるのかどうかが問われます(ローマ8章33節/コロサイ3章12節/ヨハネ黙示録17章14節などを参照)。この言い方は、ほんらい「イスラエルの民の中の選ばれた者たち」のことですが、第一ペトロ1章1~2節では、この用語が異邦人キリスト教徒に対して用いられています。マルコ13章27節の「選ばれた者たち」もこの意味に近いと思われますから、おそらく今回も異邦人キリスト教徒をも含む意味で用いられているのでしょう。
【縮める】神が、「選ばれた者たち/義人たち」のために艱難/災害の裁きを「控える」という信仰は、ソドムの裁きをめぐるアブラハムの「執り成し」にさかのぼります(創世記18章26~32節)。「選ばれた者たち」のためのこのような神の配慮はイザヤ書65章8~10節にも現われます。この思想は、黙示文学に受け継がれて、新共同訳続編のラテン語エズラ記2章10~14節では、神の裁きがイスラエルの民に降されるのに対して、神の王国が異邦人の手にわたされるために、その裁きが「縮められる」ように祈れとあります。今回は「縮めてくださった」とアオリスト(過去)形になっています。ここでは、将来に起こることが神によってすでに生じたこととして語られているのです。
[21]~[23]【偽メシア】イエスの預言からエルサレム陥落までの間に出現した「偽メシア」の例としては、ガリラヤ人ユダの息子メナヘムがいます。66年に、彼は、反乱分子を率いてヘロデ王の築いたマサダの要塞にある武器庫を襲い、反乱の首領として「まるで王者のようにエルサレムに入った」とあります〔ヨセフス『ユダヤ戦記』2巻433以下〕。また、67年11月には、先の述べたギスカラのヨハネがエルサレムに入城しています。さらに、69年春には、ゲラサ出身のギオラの息子シモンが、「独裁者の権力を狙って」マサダからイドマヤにいたる範囲を略奪して、まるで王者のように軍団を形成してエルサレムの城壁に迫り、エルサレム内部のゼロータイと対立しました〔ヨセフス前掲書4巻503以下〕。彼らの行為は、当時のユダヤ人の目には「メシア的」な振舞いだと受け取られたでしょう〔フランス『マルコ福音書』528~29頁〕。
【偽預言者】偽預言者たちは、54年頃からすでに現われています。これら「ペテン師や無頼の徒」は、しるしや奇跡を見せると群衆に語り、荒れ野に人を集めています〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』20巻167以下〕。偽預言者たちは、エルサレムがローマ軍団に包囲された陥落の末期に(70年6~7月)、逃げ場を失った民衆に向けて「神の救いがあると市民をたぶらかし、ローマへの投降者少なくし、偽りの希望を吹き込み、(民は)神の使いだと称するいかさま連中にだまされた」とあります。このため、6000人の市民がローマ軍に焼き殺されました〔ヨセフス前掲書6巻285~288〕。
【しるしや不思議】「不思議としるし」は、ほんらい出エジプト記7章8節から12章36節にいたるエジプトへの十の災害と、これらによるイスラエルの勝利を表わす専門用語です。新約聖書では、とりわけメシアであるイエスを通じて顕される「奇跡」(この言い方は新約聖書にありません)の業のことです。上に述べたように、偽メシアによる「しるしと不思議」は、とりわけエルサレム包囲の最終段階において多く現われました。
【あなたがた】これは、直接にはイエスの説話を聞いている弟子たちのことですが、イエスの予告は将来起こることですから、神殿崩壊にいたるまでの期間にいる信者一般にも向けられています。
■24~27節について
ここから、終末説話の最も難解な箇所に入ります。まず、ここ24~27節が告げているのは、「宇宙規模の出来事」のことではなく、これを「神殿崩壊」の出来事だけに限定する解釈から始めます〔フランス『マルコ福音書』530~31頁〕。この解釈では、24~27節は、それまでの13章1節から23節までと、続く26~31節との間に置かれていて、いわば説話全体の「頂点」にあたります。23節までは、いわばイエスの神殿崩壊予告の準備段階であって、24節~27節で予告が成就され、続いて、ダニエル書に預言されているとおり、「人の子」が到来して、世界中から選民を呼び集める出来事が成就します。これによって、ユダヤ民族だけの神殿から、全世界の民のための「人の子」の神殿が完成することになり、こうして、13章2節のイエスの預言が成就することになります。しかし、こういう解釈は、「イエスとその弟子たちの時」から見た解釈であって、マルコ福音書が書かれた頃のキリスト教徒たちの視野をも採り込んだ解釈では<ない>ことに注意してください。
[24]~[25]【それらの日には】原文は「しかし/ところでそれらの日々には」です。「しかし」と解釈すれば、24節からは、それまでの「地上での出来事の時」とは異なった新たな宇宙規模の出来事の段階(時)に移行することになります。そうではなく、これを「ところで」と解釈すれば、同じ地上で起こる神殿崩壊の出来事が、「時」の移行ではなく、この地上での出来事が、そのまま「宇宙的な規模」の意義を獲得することになりますから〔フランス前掲書532頁〕、ここで語られているのは、ユダヤ戦争の結末<以後において>起こるであろうキリストの来臨/再臨のことではなく、神殿崩壊に伴うキリストの来臨だということになります。この解釈に対して、「それらの日々」とは、ほんらい終末時のキリストの来臨/再臨の日のことを指していたのが、マルコによって神殿崩壊の出来事と結びつけられたために、その意味が狭く限定されたという見方もあります〔フランス前掲書532頁(注)4〕。
【太陽は暗くなり以下】24~25節は、七十人訳イザヤ書13章9~10節を踏まえています。
なぜなら、見よ、逃れる術(すべ)のない主の日が来る。
憤りと怒り(の日)、世界を荒れ果てさせ
罪人等を地上から滅ぼす(日が)。
なぜなら天の星星とオリオンと天の全世界が
もはや光を放つことなく
日が昇っても暗く
月もその光を放たない。
(七十人訳イザヤ書13章9~10節)
これは、預言者イザヤによるバビロンへの審判を告げる箇所ですが、「バビロン」は、神に逆らう世界規模の地上の権力を指す象徴的な意義を帯びています。なおこれに類似した預言が、アモス書8章9節にも(捕囚期以前)、エゼキエル書32章7節(捕囚期)にもあります。さらにヨエル書(捕囚期後のペルシア時代後期で前4世紀?)では、太陽と月と星星と大地の天変地異が、終末的な「主の日」の到来と関連づけられて2章10節に、終末での主の霊の注ぎに伴って3章3~4節に、諸国を襲う強大な軍隊の到来とイスラエルを護る主の顕現に伴い4章15~16節に、3度も繰り返されています。次に引用するイザヤ書34章4節をも含めて、これらの預言は、イスラエルに敵対する大国、あるいは異邦の諸民に向けられており、しかもそれが、主による終末的な裁きとして語られています。ただし、今回のマルコ福音書では、これらの裁きが逆転して、エルサレムの神殿崩壊とこれに伴う終末の出来事への預言となっているのが特徴です。ただしアモス書8章9節では、この裁きが、イスラエル自身への断罪として預言されているのが注目されます。
【天体は揺り動かされる】七十人訳イザヤ書34章4節を踏まえています。
もろもろの天の諸力は溶け去り
空は巻物のように巻き上げられ
星星はすべてぶどうの葉のように落ちる
いちじくの木から葉が落ちるように。
これはイスラエルを取り囲む諸国の民へ降される裁きを告知するものですが、「もろもろの天の諸力」とあるのは、宇宙を構成する「もろもろの天体の領域に存在する諸天体(星星)とこれを動かしている(天使たちの)力」のことです。13章7~8節の「戦争」も「地震」も「飢饉」も辞義どおりの出来事を指しますから、24~25節の「太陽」や「月」の出来事も同様に辞義どおりに解釈する説があります。しかし、この部分は続く人の子の到来と密接に結びついていますから、世界(現在も続く時代)の終末に伴う出来事を象徴的な表現で告げているという見方もできます(第二ペトロ3章10~13節を参照)。なお、「太陽が暗くなる」は、イエスの受難に伴う出来事(マルコ15章33節)をも予告しているという説があります。さらに、付け加えると、捕囚期以後のユダヤ教では、創世記6章2節の「神の子たち」とは、光を発するもろもろの天体とこれらに宿る「天使たち」のことだと見なされました。しかも、これらの「神の子(天使)たち」は、地上の女性と関係したために堕落した天使たちであり、これらの堕天使たちが、ノアの洪水を引き起こす要因になったと解釈されました。今回の「天のもろもろの天体」も同様に天空で働く悪霊ども(堕天使たち)、すなわちサタンの手下どものことであり、彼らは、人の子の来臨によって最終的に断罪される、という説もあります〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)358頁〕。
[26]
夜の幻においてわたしが観ていると、
すると、見よ、天の雲に包まれて
人の子のような者が降りてきた。
そして日々の老いたる者まで来ると
その者(日々の老いたる者)の近くへ(導かれた)。
すると彼(人の子)に支配と栄誉と王国が与えられ
そしてすべての諸民族、諸部族、諸言語が彼に仕えるであろう。
彼の権能は永遠の権能であり、
過ぎ去ることがなく、
そして彼の王国は滅び去ることがないであろう。
(七十人訳ダニエル書7章13~14節)
イエスによる26節の「人の子」の到来は、ダニエル書のこの預言を踏まえています。24~25節が終末の否定的な裁きを告げているのに対して、26~27節は、人の子の到来に伴う肯定的な様相を呈しています。26節の「人の子」の到来について、次の四つの点が注目されます〔フランス『マルコ福音書』534~35頁〕。
(1)イエスは、ダニエル書の「人の子」預言を自分自身への預言として受けとめています(マルコ14章61~62節を参照)。
(2)ここでは、イスラエル民族の勝利から「人の子」へと勝利が転移されていて、パウロ書簡を含む新約聖書は、この「人の子」とこれに従う民こそが「真のイスラエル」であると告げています。
(3)この転移は、神殿崩壊と人の子の来臨という二つの出来事に挟まれて起こる出来事です。
(4)ところがここで預言されているのは、人の子が、天において権能を授けられて王位に「即位する」ことであって、必ずしも、「人の子」が地上に「来臨する」ことを意味するものではないことです。人の子の来臨への期待は続く27節にでてきます。
(4)は大事な視点です。なぜなら、(4)は、地上に来臨した人の子イエスが、天において即位して、全世界を支配する権能が彼に授与されることですから、これは、将来の出来事とは言え、イエスの昇天によって<直ちに>実現することです。だからイエスは、ダニエル書の預言が、自分が地上を去った「直ぐ後に」実現することを示唆しています。マルコ14章62節で、イエスが大祭司に向かって「<あなたたちは>見るだろう」と告げたのは、まさにこの意味でしょう。だから、共観福音書の読者たちから見れば、26節の預言は、将来起こりえる終末の時のことではなく、イエスの十字架と復活と昇天によって、<すでに成就されている>出来事にほかなりません。
[27]【そのとき】26節と27節は「するとその時」で始まります。この対応は、二つの節が同一の「時」を指していると見なすのが自然です。では、その「時」とは何時のことでしょうか?人の子が天で権能を授与された時(30年のイエスの復活と昇天)なのか? エルサレム神殿が崩壊した時(70年)なのか? 全世界に福音が伝えられる将来の世界の終末の時なのか?
そもそもこの期間を人の子の昇天と即位から神殿崩壊の時までの期間に狭く限定すべきでしょうか〔フランス『マルコ福音書』534~36頁〕。それとも、イエス・キリストの再臨とこれに伴う最後の審判の時までを含むのでしょうか〔コリンズ『マルコ福音書』614~15頁〕。24~27節で告げられる宇宙規模の天変地異は、黙示文学において語られる世界の最終的な終末時における神の働きを象徴しています。また、26~27節は、罪人への裁き(断罪)だけでなく、むしろ、忠実な者たちの救いのほうに重点が置かれていると見るのが適切です。したがって筆者(私市)は、神殿崩壊というイスラエルへの断罪だけでなく、世界の最終段階における人の子の再臨と救いの時をも含む終末の時を指すと見なすほうが適切だと考えます。だから、イエスの即位によって神の国(支配)は<すでに開始されて>いますが、神殿崩壊とこれが象徴する救済史の新たな転移を含みつつも、終末は、なおも将来に向けて現在も進行していることになります(マルコ1章15節)。
【人の子が】人の子が「来るのを見る」とあることから、人の子の「来臨/再臨」(パルーシア)と「顕現」(エピファネイア)と、二つが同時に起こることが分かります。ここは、イエスが裁判の席で大祭司に告げた答えに通じています(マルコ14章62節)。こういう「再臨」(パルーシア)と「顕現」(エピファネイア)は、パウロがすでに伝承していたことです(第一テサロニケ4章13~17節)。特に、第二テサロニケ2章8節では、サタンの業が「黙示される」時に、主イエスが「その再臨(パルーシア)による顕現(エピファネイア)によって、これを滅ぼす」とあります。パウロを受け継いだテモテは、「わたしたちの主イエス・キリストの顕現」として伝え(第一テモテ6章14節)、さらにテトスが「わたしたちの大いなる神と救い主イエス・キリストの栄光の顕現」(テトス2章13節)と告げています。この伝承は、共観福音書から、ヨハネ黙示録19章11~16節にいたって、その全貌が明かされます〔ボヴォン『ルカ福音書』(3)118頁を参照〕。主イエスの最初の来臨と再臨とを区別するのは、その「力と栄光」であり、これは「裁き」と「救い」の両面を具えています。
【天使たちを】「アンゲロイ」を「遣わされた者たち」というほんらいの原義の添って理解して、この語はキリスト教の宣教師たちのことだという解釈もありますが、ここはそうではなく、人の子と共に来臨する天使たちことです(マルコ8章38節)。彼らは、終末の時に、選ばれた者たちを救うために「遣わされる霊」です(ヘブライ1章14節)。
【選ばれた人たち】七十人訳申命記30章4節によれば、捕囚の地に散らされたイスラエルの民が、心から主を愛して主に従うなら、主は再び彼らを「たとえあなたの離散が天の果てから天の果てまでであっても、主なる神はそこからあなたを集めるであろう」とあります。マルコ福音書では、「集められる」のは「イスラエルの選ばれた者たち」、いわゆる「残りの者たち」に絞られるという見方があります〔コリンズ『マルコ福音書』615頁〕。しかし、今回のマルコ福音書では、それだけでなく、「選ばれる」のは全世界の諸民の中からですから、ここでも、ユダヤ民族から異邦の諸民族へ転移が生じることになりましょう(マタイ8章11~12節を参照)。ただし、このように世界の四方から「選ばれた人たちを呼び集める」ことも七十人訳ゼカリヤ書2章10~11節(新共同訳ゼカリヤ書2章14~15節)で預言されています。
■マタイ24章
[15]【預言者ダニエル】マタイ福音書では、マルコ福音書になかった「預言者ダニエル」がでていて、「憎むべき破壊者」がダニエル書の預言に基づくことをはっきりさせています(「破壊者」も「立つ」も中性の単数で一致)。したがって、「読者は悟れ」とあるのも、ほんらいは、(旧約)聖書か、あるいは福音書を朗読する者が、ダニエル書のこの預言をどのように解釈するかについて、朗読者に注意を呼びかけていることになりましょう。
[16]~[18]マタイ=マルコ福音書では、17~18節(23節も)は「憎むべき破壊者が立って」エルサレム神殿を冒涜する時への警告ですが、イエス様語録とルカ福音書では、人の子到来の日のことになります〔共観福音書講話153章「ノアの日のように」を参照してください〕。
【山に逃げなさい】ユダヤ戦争の折りに、キリスト教徒たちが預言を受けて、ユダヤの東方のペレアに逃れました。マタイ福音書の読者/聴衆は、このことを思い起こしたでしょう。
【屋上にいる者】マルコ福音書では文意がややあいまいなので、マタイは、屋上から降りても「家の中に入らないように」と、その意味をはっきりさせています。
[20]【安息日に】マタイ福音書では、マルコ福音書にない「安息日に」が加えられています。安息日には城門が閉まるからとか、あるいは安息日に逃げるとユダヤ教徒でなくキリスト教徒だと分かるなどの憶測があります。しかし、マタイの教会にはユダヤ人キリスト教徒が多かったために、ユダヤの伝統的な安息日を守る人たちが居たことがこのような指示につながったと考えられます〔デイヴィス前掲書350頁〕。
[21]マルコ福音書では「苦難の日々が来る」→マタイ福音書では「苦難(単数)が来る」。マルコ福音書では「神が天地を創造した創造の初めから」→マタイ福音書では「世界/この世の初めから」。マルコ福音書では「創造」が重複して強調されていますが、マタイ福音書では、「苦難の訪れ」に焦点が移ります。
[22]マルコ福音書では「神が期間を縮める」ですが、マタイ福音書では「(苦難の)日々が縮められる」と受動態です。これは、マタイが良く用いる「神の手による受動の出来事」(神的な受動態)を表わす言い方です。
[23]~[24]23節と27節については、共観福音書講話の153章「ノアの日のように」の箇所で、ルカ福音書に準じてすでに扱いました。153章の注釈の「イエス様語録」と「マタイ福音書」の項をご覧ください。今回のマタイ24章23節では、マルコ福音書の「しるし」がマタイ福音書では「<大きな>しるし」となっています。
[25]マルコ福音書の「あなたがたがは警戒しなさい」がマタイ福音書には抜けています。マタイは「前もって言う」だけで十分だと考えたのでしょう。
[26]マタイ24章26~27節はマルコ福音書にありません。この部分はイエス様語録(Q17:23と24)から来ています〔ヘルメネイアQ502~507頁〕。マタイが、イエス様語録のこの部分を今回の箇所に配置したのは、おそらくマルコ13章21節との類似からでしょう。今回のイエス様語録も、内容の核となる部分はイエスにさかのぼると考えられます。同じイエスの言葉が、伝承過程で「枝分かれ」して、マルコ13章21節とマタイ24章26~27節になったと思われますが、その伝承過程で、キリスト教徒による変容を受けていると見るべきでしょう。そうだとすれば、マタイ23章の23節と26節とは、イエスの同じ言葉が重複されていることになります〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)353頁、及び(注)164参照〕。
【メシアは荒れ野に】七十人訳のエレミヤ書4章11節には、主の日に神の裁きが降って、「その時、この民とエルサレムに告げられる『荒れ野には惑わす霊がいる』」とあります。 メシアが荒れ野で惑わしのしるしを行なうのは、かつてのモーセを真似るからです。なお、「荒れ野に」と「奥の部屋に」とが対比されていますが(マタイによる編集か?)、こういう対比は申命記32章25節の「家の外では剣が、家の内では怖れが」にも見ることができます。
[27]27節は、共観福音書講話の153章「ノアの日のように」の注釈でも扱いましたので、153章のマタイ24章27節の項をご覧ください。
【人の子も来る】ここでマタイ福音書だけに「パルーシア」(来臨/再臨)という用語が出て来ます。イエス様語録から分かるように、ほんらいのイエスの言葉は、エルサレム神殿の崩壊と終末の到来が二重映しに預言されていたと考えられます。しかしマタイは、24章で、26節までのエルサレム滅亡と29節以降の終末の到来の二つを出来事を時期的に区別しつつも、二つの出来事の終末性を保持するために、これら二つをつなぐ27節で「人の子の来臨」を導入したと見ることができましょう〔フランス『マタイ福音書』891~99頁〕。
[28]七十人訳ヨブ記15章23節では、ヨブの言葉に反論するエリファズが、「悪しき者と暴虐を行なう者」へ神の裁きが降される様子を次のように語っています。「彼はすでに禿鷹の餌食へと定められている。自分が死骸のままに置かれるのを自ら悟っている。暗黒の日が彼を巻き込むことを」。これは悪しき暴虐者に臨む神の裁きを語る慣用的な言い方(諺)だったのでしょう。イエス様語録では、稲妻と禿鷹とノアの日(大洪水)の到来が並んでいますから、死体を襲う禿鷹も「誰の目にも明らかな」しるしとなる出来事を指しています。これが、終末での裁きと重ねられていますから、禿鷹に襲われる死骸は、ダニエル書に預言されている「荒廃をもたらす憎むべき破壊者」(マタイ24章15節)に降る運命をも示唆しているのでしょう。
[29]【たちまち】この「たちまち」は、神殿崩壊の出来事(=苦難の日々)の「直後」のことを指すと見て、マタイ福音書が書かれたのは、70年の直後ではないか?という説があります〔デイヴィス前掲書357頁〕。そこまで断定しないまでも、マタイは、自分たちの置かれている時代が、神殿崩壊と連動していて、天変地異による終末が差し迫っていると考えていたと見ることもできます〔ルツ『マタイ福音書』(3)517頁〕。しかし、マタイ24章15節以下の「荒らす憎むべき者」をヨハネ黙示録13章1~8節の「獣」と同一視すれば、これに続く同23節の「その時」へとつながりますから、今回の「たちまち」も神殿崩壊の出来事と関連するものではなく(したがってマタイ福音書の成立も80年代以降)、マタイは天変地異の終末の到来をまだ将来のことだと見ているとも解釈できます〔デイヴィス前掲書329頁/357頁〕。この場合、世界の終末は、エルサレム神殿の崩壊を描く画面の言わば遠景を構成することになります〔ルツ前掲書517~18頁〕。
【太陽は以下】神殿とは、ほんらい、これを拝する人間の世界(宇宙)観を象徴ものですから、イスラエルの民にとって、エルサレム神殿の崩壊が、自分たちの宗教的な世界観と宇宙的の崩壊という隠喩性を帯びて語られるのは自然です。マルコ福音書の天変地異は、旧約聖書の預言に基づきながら、イスラエルの民の世界観の崩壊を象徴的に言い表わしていると言えます。しかし、マタイ福音書の場合は、人間が想い描く世界の崩壊という隠喩性を超えて、わたしたち人間の合理的な時空の宇宙観それ自体が、神の終末的な介入によって意味を失うほどの終末的な危機が告げられているという見解もあります〔ルツ前掲書525頁〕。
[30]【人の子の徴】29節では、地上の出来事から天空のほうに目を向け変えましたが、これに伴って、「終末の裁き」という暗い予想が、「選ばれた者の救い」という肯定的な様相を呈してきます。この意味で、30節は終末説話の頂点です。「(天における)人の子の徴」はマタイ福音書だけです。27節にあるように、「人の子の来臨」は誰の目にも明らかな普遍性を帯びています。
(1)古代イスラエルでは、闘いを告げ知らせるラッパと共に丘の上に「旗」を掲げる慣わしがありました。この慣わしが預言者に受け継がれ、主の裁きを世界に行なうために勝利を求める勇者たちが集められます(イザヤ書13章2~10節)。終末の救いと裁きを行なう「人の子の徴」とは、この「旗印」のことだと見る説があります。
(2)(1)の闘いの旗印と関連づけて、「人の子の旗印」とは、特にイエスの十字架だと見る説があります〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)359~60頁〕。
(3)ここで言う「人の子の徴」とは、人の子の来臨に<伴う>何らかの徴のことではなく、「人の子自身こそ天からの徴」であるという解釈があります。だから「地上のすべての民が仰ぐ徴」とはイエス自身のことにほかなりません(ヨハネ黙示録1章7節)〔ルツ『マタイ福音書』(3)519~20頁〕。
(3)の解釈と関連して加えると、ヨハネ黙示録12章1節には、太陽をまとい月を足下に起き十二の星の冠を頂く女性(エクレシアの象徴か)が「天からの徴」として現われます。続いて同3節には、その女性が産む子を襲う「もう一つの徴」として巨大な赤い竜が出てきます。さらにヨハネ黙示録13章では、「大言と冒涜の言葉を吐く」獣(「666」で象徴される)が登場しますが、同14章1~5節では、この獣が小羊の到来によって断罪され、同時に、「額に小羊の徴を帯びた」贖われた者たちへの救いが成就します。今回のマタイ福音書の「人の子の徴」をこの小羊と同一視する解釈があります〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)359頁〕。
【地上のすべての民族】これもマタイ福音書だけの表現です。「地上のすべての民は胸を打ちたたいて(=激しく悲しむ)、人の子の来臨を観る」とあるのは、七十人訳ゼカリヤ書12章10節に「(エルサレムの住民すべてが)彼らの手によって刺し貫かれた<わたし>(主自身のことか?)を観ることで、激しく胸を打ちたたく」とあるのを踏まえています。ただし、ここはマタイによる編集ではなく、マタイ以前からの資料からだと考えられます〔デイヴィス前掲書360頁〕。
[31]【天使たちを】マタイ16章27節には、「人の子は<父の栄光>に包まれて、み使いたちと共に来臨する」とありますが、今回は、「父」ではなく、人の子だけが、<自分の天使たち>を世界に向けて遣わすのです。マタイ福音書に限らず、今回の共観福音書は、終末に来臨する「人の子」を最高位の存在としているのが分かります。「選ばれた者たちを集める」というのは、ほんらい、イスラエルに敵対する諸勢力によって諸民族の間に散らされたイスラエルの民の選ばれた者たちが、主ヤハウェによって「四方の地の果てから呼び集められる」ことです(イザヤ書43章5~7節)。しかし、終末の人の子の来臨では、「天の果てから天の果てにいたる」あらゆる諸民族の中から選ばれた人たちが、人の子イエス・キリストのもとに呼び集められるのです。ただし、このこともすでに預言されていたことで、ゼカリヤ書2章5~17節では、捕囚の後に再建された神殿と同時に、四方の民に開かれた「城壁のない神殿」の到来をも予測しています。その時、主は、かつてイスラエルを苦しめた民を裁き、エルサレムは、「多くの国々から来た」主に従う民がそこに住まう「神の聖なる住まい」として再び選ばれるのです。マタイは、おそらく「この預言を」念頭に置いているのでしょう。
【大きなラッパの音】原文は「大きなラッパ」(七十人訳のギリシア語は「サルピグス」)ですが、これは「大きな音を出すラッパ」の意味でしょう。角笛(ギリシア語で「サルピグス」)は、王の即位の際(列王記上1章34節)だけでなく、主なる神の顕現の際にも鳴り響きました(出エジプト記19章16節)。七十人訳イザヤ書27章13節には、「主の日」には、「ラッパを吹き鳴らす大きな音と共に」、離散のユダヤ人たちが集められる様子が描かれています。マタイ福音書の読者には、人の子の来臨と共に響くラッパの音は、自分たちの救いが成就する時を告げ知らせるものです(第一コリント15章52節)。
■ルカのエルサレム滅亡と人の子の来臨
今回のルカ福音書の構成は、21章20~24節と25~28節とに大別することができます。前半(20~24節)は、「エルサレムが軍隊に囲まれる」で始まりますから、ルカは、すでに起こったエルサレム滅亡の出来事を眼前に置いていることが分かります。ルカ福音書では、このエルサレムの滅亡について、イエスの口からすでに預言されています(ルカ19章41~44節)。ただしルカは、マタイ=マルコ福音書にでてくるダニエル書の預言「荒らす憎むべき破壊者」については全く触れません。また、マルコ福音書の「その時/それらに日には」(マルコ13章17節など)もなく、天地の創造の初めと終末的な危機の対比もありません。その代わり、ルカ福音書には、「(旧約聖書に)書かれていることがことごとく成就する報復の日」(22節)とあり、これを受けて、ルカは、23~24節で、70年のエルサレムの滅亡とこれに伴うユダヤの悲惨を前6世紀のネブカドネツァルによるエルサレムの滅亡と重ねるのです。
後半(25~28節)で「人の子の来臨」が予告されます。この部分は、ルカ17章22~37節の「ノアの日のように」と重なります(当該箇所を参照)。ただし、ルカは、マルコ福音書のように、エルサレムの滅亡を人の子の来臨を重ねることをせず、これら二つの出来事を区別しています。ルカは、エルサレムの滅亡と人の子の来臨の間に、「異邦人の期間が満ちるまで」(24節)の期間をおいているのです。
このようにルカ福音書では、かつての捕囚の出来事とこれに伴う預言が、イエスによるエルサレム滅亡への預言とつながり、終末には、預言どおりにエルサレムの滅亡が起こった時のように、「国々はあわてふためき、不安に陥り、恐れのあまり気を失う」事態が再現することが予告されています。その上で、キリスト教徒の民には、これらの出来事を見たら、自分たちの贖いの成就が近いことを悟るよう指示されるのです。わたしたちは、ここにルカの描く救済史を見ることができます。
資料として見ると、今回の部分にルカによる編集の手が加わっているのは確かですが、ルカの資料はマルコ福音書からではなく、ルカの独自資料からだと考えられます(例えば「エルサレム」の綴りの違い)〔ボヴォン『ルカ福音書』(3)114頁〕。
■ルカ21章
[20]ルカ福音書は、20~24節がローマ軍の包囲によるエルサレムの滅亡という歴史的出来事を指すことをはっきりさせています。
【エルサレムの滅亡】原文は「それ(エルサレム)の滅亡」です。マルコ福音書では、ヘレニズム流のギリシア読みで「ヒエロソリュマ」(マルコ11章1節)ですが、ルカ福音書はヘブライ語に近く「イエルーサレーム」です。マルコとルカとは、異なる資料を用いているのでしょう。ところが、「(その)滅亡」の原語「エレーモーシス」(荒廃させる/破壊すること)は、マルコ13章14節の「<荒廃をもたらす>憎むべき者」と同じ用語です。この用語だけでなく、「報復の日」(22節)、「大きな苦しみ/艱難」(23節)、「神の怒り/裁きの罰」(同)など、マルコ福音書の「憎むべき破壊者」を想わせる用語がでてきます。ルカ福音書では、マルコ福音書の具体的な人物/出来事が、より一般化された形で受け継がれているのが分かります〔ボヴォン『ルカ福音書』(3)114頁〕。
[22]【報復の日】原文は「これらは報復の成就する日々である」です。「報復」とあるのは「復讐」よりもむしろ至高の神からの「処罰」に近い意味です〔ボヴォン前掲書〕。「刑罰の日」〔塚本訳〕。ここは北王国イスラエルの偶像礼拝を「姦淫の罪」として糾弾した七十人訳ホセア書9章7節の「報復/刑罰の日々」を反映しているでしょう。22節の「これらの日々」は、続く23節の「あの日々」と対応しています。どちらも24節の「異邦人の時代が完了する時期」へいたるまでの先立つ日々のことでしょうか〔ボヴォン前掲書〕? そうだとすれば、ルカは、エルサレムの滅亡が、異邦人の時代に先立つと考えたのでしょうか(24節参照)? それとも、「異邦人の時代」と「これら/それら」の日々は同時に並行するのでしょうか? どちらにせよ、これらすべてが、「あなたがたの贖いが近づく」時(28節)に先立つのです。
【書かれていること】これは(旧約)聖書全体を指しています。ルカは、ダニエル書の預言を反映させてはいませんが、このような形で、旧約聖書の預言とイエスの終末預言とを結びつけています。
[23]マルコ福音書と共通するものの、マルコ福音書の18節「冬起こらないように祈れ」が欠如しています。エルサレムの包囲と滅亡は69年の4月から70年の8月までだったので、ルカは、すでに行なった出来事を考慮してこの句を省いたのでしょう〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1346頁〕。
【それらの日】原語は複数です。21節の「その/このとき」と並んで、前節の「報復/処罰の日々」を指します。なお、「この地」「この民」もルカ福音書だけですが、これは、ユダヤの地と民のことです。
[24]ルカは、ユダヤ戦争の時にエルサレムで現実に起こったことを踏まえていますが、これを言い表わすのに七十人訳聖書の文言を用いています。
【剣の刃に倒れ】「剣」とは短剣のことです。ここは七十人訳シラ書28章18節のギリシア語を踏まえていますが、シラ書は諺集で、「人の舌の悪口は剣よりも恐ろしい」とあります。だから、その内容よりも、その文言だけを反映させていることになります。
【あらゆる国に】原語の意味は、「あらゆる異邦の諸民族のところへ」です。七十人訳申命記28章64節には、「主なる神は、地の果てから果てまでの<あらゆる異邦の諸民族のところへ>あなた(イスラエル)を散らすだろう」とあり、また、「かつて(律法を守る)あなたがその国土に増えるのを主が喜ばれたのとちょうど同じように、主の律法の言葉を守らないならば、あなたは直ちに国土から移されて、異邦人の間に散らされ、異邦の偶像に仕えるだろう」とあります。
【踏み荒らされる】七十人訳ゼカリヤ書12章に、「(その日に)エルサレムは包囲される」とあり、続いて、同12章3節に「その日に、エルサレムは、あらゆる諸民族に踏みつけられる石となる。これを踏みつける者は皆、その石を嘲る」とあります。七十人訳のこの箇所は、現行のヘブライ語原典と(したがって新共同訳と)内容的に異なっていますが、ルカは七十人訳の言葉を踏まえているのでしょう。用語は異なりますが、類似した言い方として七十人訳ダニエル書8章13節があります。
【異邦人の時代】これをルカと同時代のこととして、「異邦人に福音が宣べ伝えられる時代」を指すという解釈があります(ローマ11章25節を参照)。しかし、ここはそうではなく、「踏みつけられている」とあるように、聖都エルサレムがローマに占拠され、異邦人に軽蔑されている期間を指すという解釈もあります〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1347頁〕。「踏みつけられる」と「成就する/満たされる」という二つの動詞で結ばれた「異邦人の期間」とは、ローマの占拠と異邦人の回心の両方を含むルカ流の言い方でしょう〔ボヴォン『ルカ福音書』(3)115~16頁〕。
[25]ルカ福音書では、ルカの視点から見てすでに起こった出来事であるエルサレムの滅亡(20~24節)から、25~28節では、これから起こるであろう将来の「人の子の来臨」へと移行します。ただし、すでにルカ17章20~37節で、人の子の来臨が「ノアの日のように」突然やって来ると告げられていますから、今回の箇所では、エルサレムの滅亡から人の子の来臨までの間に長い期間を挟みこむことで、「ルカは、マルコがリンクさせたこと(二つの出来事)、エルサレムの終焉と世界の終焉とを明確に区別する」のです〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1348頁〕。イエスが現われたことでエルサレムの滅亡が予告されますが、これとは対照的に、人の子イエスの再臨では、主イエスの民への贖いの成就が約束されるのです。
こういう解釈に対して、21章20~28節を丁寧に読むなら、二つの出来事はどちらも未来形で語られていますから、はたしてルカ福音書は、これら二つを時期的にそれほど明確に区別しているのか?と疑問を覚えるのも事実です〔ボヴォン『ルカ福音書』(3)116頁(注)84〕。人の子の来臨の際にも大きな天変地異が伴いますから、ルカ福音書は、これら二つの時期的な区分をあいまいなまま、「霧に包まれた状態に置いて預言している」〔ボヴォン前掲書〕という見方もできます。
【それから】原語の「カイ」は、「それから」〔新共同訳〕、「また」[フランシスコ会訳]、「そして」〔岩波訳〕、「すると」〔塚本訳〕などに訳されています。英訳(〔NRSV〕〔REB〕)は、この接続詞を無視しています。マルコ福音書では「それらの日々には」ですから、同時性がより強くなります。
【海がどよめき】天体の異変についてはマルコ13章の当該箇所を参照。ルカ21章25節後半はマタイ=マルコ福音書にありません。直訳すれば「そして地上では、海の高鳴りの音に怯えて、諸国の民は不安にかられる」です。イスラエル民族は、「海」を秩序を崩壊させる「混沌」の象徴と見なす傾向がありますから、「不安に駆られる」は、天変地異への恐れを表わす用語です(詩編65篇8節参照)〔ボヴォン前掲書116頁〕。
[26]26節でも前節の天変地異への「怖れ」が続きます。次々と起こる異変に伴って、ついに人々は、「世界的な(地球規模の)」異常事態を予感して、「恐れのあまり気を失う」ほどになります。
【天体がゆり動かされる】辞義どおりに天体(星星)が「衝撃を受ける」だけでなく、天体を支え動かす「見えない力」それ自体までもが、常軌を逸して揺り動かされることです。神の声によって天と地が「揺れ動く/揺れ動かされる」という黙示的な言い方は、ヘブライ12章25~29節にも繰り返しでてきます(26節/27節)。
[28]【始めたら】28節はマタイ=マルコ福音書にありません。原文の冒頭は、「これらが起こり始めると」です。「これら」とは25~26節の「徴」であり、「近づく」のは「人の子の再臨」です。
【身を起こす】13章11節に「(悪い)霊に憑(つ)かれて<身を屈して>いて<身を起こす>ことができない女」がいます。イエスが彼女に手を当てると、彼女は「まっすぐ立って、神に栄光を帰した」とあります。救いの御霊が働くと、それまで「身を屈して」抑圧されていた者が、「身を起こす」のです〔ボヴォン『ルカ福音書』(3)119頁〕。なお、これが呼びかけられている「あなたたち」とは、イエスを信じている共同体の人たちです。
【解放】原語の「アポリュトローシス」は「身請け」「解放」「贖い」の意味を含みます(「イエス・キリストにある贖い」ローマ3章24節)。この「解放/贖い」は、人の子の再臨の時に完全に成就しますが、同時に、イエス・キリストにある者は、イエスによって「すでに贖われた状態に居る」とも告げられています(ローマ8章2節/コロサイ1章13~14節/エフェソ1章7~8節)。救いが「近づいている」とは、このように、終末的な状態が「すでに始まっている」ことを意味するのです。
戻る