181章 いちじくの木の警告
 マルコ13章28〜37節/マタイ24章32〜44節/
 ルカ21章29〜38節/同12章38〜40節
 
■マルコ13章
28「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。
29それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口
に近づいていると悟りなさい。
30はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。
31天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
32「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。
33気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。
34それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。
35だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。
36主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。
37あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」
マタイ24章
32「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。
33それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
34はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。
35天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
36「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。
37人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。
38洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めっとたり嫁いだりしていた。
39そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。
40そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
41二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
42だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。
43このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。
44だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
■ルカ21章
29それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。
30葉が出始めると、それを見て、既に夏に近づいたことがおのずと分かる。
31それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。
32はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。
33天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
34放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。
35その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。
36しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」
37それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた。
38民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た。
■ルカ12章
38主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。
39このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。
40あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
【注釈】
【講話】
■伝統的な終末解釈
 ミラノの司教であったアンブロシウス(在位374年〜97年)は、ルカ21章の終末説話について、これを辞義どおりに理解するよりも、個人の霊性において生じる出来事として理解しようとしています。彼は、宇宙的な終末よりも、個人の霊性にキリストが到来することのほうを重視します。だから、キリスト者の霊性に起こる変革こそが大事だと説いたのです。それでも彼は、世界的な終末の危機の徴として、4世紀の後半にスカンディナヴィアからローマ帝国に侵入したゴート族や、北イタリアへ侵攻したフン族などの例をあげています。彼は、貪欲と罪の情欲に支配された「この時代」が、「人の子の到来」の時に滅び去ると信じていました〔ボヴォン『ルカ福音書』(3)125〜26頁〕。
 中世のカトリックの多くの司教たちは、ルカ21章を辞義通りに受け取って、「神殿の崩壊」はヨセフスの記した出来事だと見なしました。その上で、自分たちと同時代の世界の出来事にイエスの預言を関連させています。しかし、それらが直ちに世界の終末につながらないことも知っています。だから、人々に向かって、ペストの流行などの様々な艱難の中にあっても、「忍耐して魂の救いを勝ち取る」ように、この世のことに煩わされることなく、贖いの時を目指して道徳的に歩むように勧めています〔ボヴォン前掲書127頁〕。
 16世紀の宗教改革者ルターは、「人の子の到来」が、選ばれた者への救いとなることを告げて、聖書のこの言葉は「甘い砂糖のような魅力的なメッセージ」であると説いています。しかし、彼は、太陽と星星を含む宇宙規模の大災害と「人の子の到来」とを区別することなく、この二つを一緒にしています。これに対してカルヴァンは、共観福音書全体の終末説話を辞義通りの救済史と歴史的な出来事との両方から見ています。彼は、イエスの言葉と福音書記者の言葉とを区別しました。彼は、「長く悲しい悪の迷路の中にあっても」、表面的な世の出来事に目を奪われることなく、キリスト来臨の遅延にもかかわらず、忍耐をもって救いを待ち望むよう教えています。大事なのは、人間による迫害にもかかわらず、神はその民を護ってくださることであり、エルサレムが異邦人の手から解放されるその時には、人の子の来臨が近づいていることを知ることだと教えています〔ボヴォン前掲書128〜31頁〕。
■三つの視点
 上の解釈を見て分かるのは、終末については、世界の終わりを見通す「救済史」からの視点と、終末を現実の歴史と関連づける「歴史的」な視点と、「個人の死後の救い」に与ることと、これら三つの問題が相互に絡んでいることが分かります。
 今回の箇所は、個人としての人間が、死んだらどこへ行くのか?という問題とは、直接に関わりがありません。現在の、キリスト教神学でも、「終末と人の子の到来」と一人の人が死んでからどこへ行くのか?とは、別個の問題だとされています。しかし、個人の救いと人類の終末とをはっきり分けることは、図式としては分かりやすいけれども、わたしたちの実体験にはそぐわないと思います。「個人の救い」と「人類の終末」との関係は、コイノニア会のホームページの「時事告刻」に、「『霊の人』と日本人」と題して載せてありますので参照してください。
■救済史と人類史
 聖書によれば、神のご計画によって、人類は、その終末において、イエス・キリストの再臨に際して、個々の人が「霊の体」を具えた「霊の人」に変容するか、それとも神の怒りの火で焼かれて心身共に滅び去るか、「恩寵」か「裁き」か、そのどちらかを受けることになるとあります。これを人類の「救済史」と言います。これに対して、考古学や文化人類学などの科学的な視野から見る「人類史」があります。救済史と人類史は、相互に関連しています。両者の関係を否定する人たちもいますが、その人たちは、関係を否定するのではなく、そもそも、救済史そのものが存在することを信じないで否定するのです。しかし、どんなに否定しても、現実に救済史を信じている人たちが20億以上も存在していて、その数は、減るどころか増え続けています。人類は、「言葉を語る人」、「食べる人」、「学ぶ人」などと同じように、その本性において「宗教する人」だからです。だから、救済史は人類史と関係がないどころか、救済史を抜きにして、ほんとうの人類史を語ることができません。
 わたしたちは、救済史を人類史と関連づけることによって初めて、人類のもろもろの宗教が、どのように進化してきたかをみることができます。そこから、キリスト教とほかの宗教との正しいつながりが見えてくると思います。人類史は、猿人から原人へ、原人から旧人へ、旧人から現在のホモ・サピエンスへと、700万年とも言われる長い年月の進化の過程を想い起こさせます。福音的なホモ・スピリトゥスが、人類の進化となんらかの関係があるのかもしれませんが、この点は、進化の具体的な出来事がまだよく分かっていないので、なんとも言えません。進化思想は、かつてのナチスのように、人種の優生思想に道を開く恐れがありますから、軽々しく言うことができません。
■「人の子」の啓示
 今から2000年ほど前に、イエス様が来られて、ご自分を通して、全く新しい人間としての「人の子」を啓示してくださいました。ホモ・サピエンスは、誕生してから20万年後に、全く新しい「人の子」を啓示されたのです。言うまでもなく、この「人の子」は、それまでのホモ・サピエンス類から生まれたものです。宗教は、人間の営みの大事な分野です。だから、人類は、「ホモ・レリギオースゥス」(宗教する人)としての営みを行なってきました。けれども、それまで人類が行なってきた「宗教」は、モーセ律法に基づく最高度のユダヤ教と言えども、人間が営む「宗教」に潜む恐ろしい罪性を取り除くことができませんでした。それどころか、人間が営む宗教は、人がこれに熱心になればなるほど、いっそう人間相互に争いと罪悪をもたらすという逆効果さえ生じてきたのです。罪を宿したままの現在の「宗教する人」は、霊的に見れば、死んだ存在です。人を殺すのは、自分が「霊的に死んでいる」からです。
 だから、天地をお創りになった神は、イエス様という一人の人間を通じて、新しい霊性を宿す「霊の人」を人類に向かって啓示されたのです(マタイ5章21節以下)。イエス様は、「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)としての人類に、全く新しい「ホモ・スピリトゥス」(霊の人)を啓示してくださいました。イエス様が啓示された「霊の人」は、「今の時代」の人類に向けられたものですが、それは「今の時代」にありながらも、今の時代を超える新しい「来たるべき時代」に向かう人類です。来たるべき時代が到来して、初めて新しい「霊の人」ホモ・スピリトゥスが完成するからです。現生人類(ホモサピエンス)の「今の時代」は、まだ終わっていません。現在も進行中です。しかし、すでに新たなホモ・スピリトゥス(霊人)の時代が、イエス様の到来と復活によって<開始されている>のです(マルコ1章15節)。だから、現在の人類は、新たな「人の子」が今の時代の人類に顕された「エピファニア(顕現)」の時から、今の人類の時代が終わり、新たな「人の子」の時代がこれに代わる「パルーシア(来臨/再臨)」の時との、この二つの時期の狭間の救済史を歩んでいることになります。
■イエス様の警告
 今回の箇所で、イエス様は、「目を覚ましていなさい」「警戒しなさい」と繰り返し注意をうながしておられます。わたしたちは、いったい何にそれほど警戒しなければならないのでしょうか?「目覚めている」とは、何に対してでしょうか? それは、イエス様が啓示された新しいに時代に属する「霊の人」を忘れて、いつの間にか、従来どおりの「今までと同じ時代」の罪にまみれた宗教する人へ逆戻りすること、これに警戒するよう呼びかけておられるのです。だから、今回の「油断しないで目覚めていなさい」は、現在の人類への警告です。イエス様のこの御言葉は、自分はクリスチャンだから、あるいはキリスト教会のメンバーだから、必ず救いに与れるはずだと思い込んでいる現在のキリスト教の人たちへの鋭い警告にほかなりません。親子、兄弟、姉妹、母娘の間でさえも、誰が引き上げられ、誰が残されて滅びるのか?全く予想できないからです。人間の「宗教」が、「今の時代」に属する限り、どれも五十歩百歩です。核戦争が起こったら、キリスト教徒も仏教徒もイスラム教徒も神道の人も、全員死にます。だから、神の裁きに対して「警戒せよ」は、人類の「あらゆる宗教の人に」平等に告げられているのです。地球が核戦争になったら、地球から脱出して火星に移住しようなどと計画している一部の金持ちの特権階級が居ます。わざわざ、火星まで死にに行きたいのか?そう思います。それとも、互いの臓器を奪い合って、人工の生命装置を作り、自分だけは、少しでも長生きするつもりなのでしょうか?今回の「警戒しなさい」は、こういう人類への皮肉で鋭い「滅び」の警告です。
 救済史を人類史と同一視することはできませんが、救済史は、人類史に必ず影響を及ぼし続けます。救済史的に見るなら、これからは、アジアにおいて、新たなイエス・キリストの福音が啓示される時代が始まります。わたしたち日本人は、今、こういう大事な岐路に立たされています。終末の到来までに「福音が全世界に宣べ伝えられる」とありますから、これからは、アジアのキリスト教の時代が始まります。東アジアのキリスト教は、知力と霊的な素質を具えた日本の民から始まる。私はこう考えます。だから、日本民族主義などという小さな望みではなく、新しい人類の未来を切り開き、アジアと世界に平和をもたらす霊の民となるために、どうかイエス様とその神の導きを信じてください。
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