【注釈】
■いちじくの譬えと警告
 今回はマルコ福音書を基準にしています。マルコ13章28~37節は、前半の「いちじくの譬え」(28~31節)と、後半の「警告」(32~37節)とに分かれています。前半の譬えは、共観福音書で並行しています(マルコ13章28~31節=マタイ24章32~35節=ルカ21章29~33節)。
 しかし、マルコ13章32~37節の「警告」の部分は、共観福音書では並行しません。マルコ13章34節は、内容的に見ると、マタイ25章14~30節の「タラントンの譬え」とルカ19章11~27節の「ムナの譬え」とに通じています。34節以外のマルコ13章32~37節は、マタイ24章42~51節とほぼ並行しますが、マタイは、ここの45~51節に「善い僕と悪い僕」の譬えを置いています。さらに、マタイ福音書では、36~41節に、153章ですでに扱った「ノアの日のように」が挟まり込んでいます。したがって、マタイ福音書は、「いちじくの譬え」(32~35節)と「ノアの日」(36~41節)と「警告」(42~44節)と「善い僕と悪い僕」(45~51節)のような構成になっています。一方、ルカ福音書のほうでは、ルカ21章34~36節が、内容的にほぼ今回のマルコ福音書の後半部分と並行します。ルカは、これの締めくくりに37~38節を加えて、イエスの受難へ向かう過越祭の週へつないでいます。
■マルコ13章
[28]【教え】譬え(原語「パラボレー」)のことです。ここでは、特に例をあげてたとえること。原文は「ところで/そこで、いちじくの木から譬えを学び取りなさい」です。
【いちじく】パレスチナでは、1~2月の冬の雨期の間、いちじくは葉をつけません。枝が湿り気と太陽を受けて「柔らかく」なり、いちじくの葉が出るのは3~4月で、これが「最初の実」をつけるのは5~6月です(マルコ11章13節を参照)。
【夏】「夏」(原語「セロス」)は果物と穀物の実りの季節ですから、この語は「収穫/果物」(原語「セリスモス」)の代名詞ともなります。逆に、夏が来ても「実を結ばない」場合、その木は「呪(のろ)われる」ことになります。マルコ11章12節以下に、イエスが実のないいちじくの木を呪ったとありますが、そのことが今回の譬えに関連するかどうか、確かでありません。なお、アモス書8章2節に、「夏(の果物)」(ヘブライ語「カイッツ」)と北王国イスラエルの「終わり」(ヘブライ語「ケーツ」)との掛け詞が出てきます。アモス書のこの箇所が、今回のイエスの言葉の背後にあるのではないか、と指摘されています〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)365~66頁〕。
[29]【戸口に近づく】11章13節のように、「いちじくの木」が、エルサレムの神殿崩壊を指しているとすれば、「これらのこと」とは、マルコ13章14~22節で告げられる神殿崩壊にいたるまでの一連の出来事を意味することになります。そうだとすれば、「戸口に近づく」は、人の子の来臨の「一歩手前」のことですから(ヤコブ5章9節参照)、来臨と神殿の崩壊とが密接に結びつくことにもなりましょう〔フランス『マルコ福音書』538頁〕。しかしながら、28節は、「ところで/そこで」で始まりますから、28~31節は、それまで(23節以前)とは異なる段階を指すという見方ができます〔コリンズ『マルコ福音書』615頁〕。「ところで/そこで」は32節にもでてきますから、時期的に見るなら、ここでのマルコ福音書の記事は、23節以前と24~31節と32節以下との三段階に分けることができるでしょう。
【これらのこと】この句は、14節に始まり25節に終わる一連の出来事全体を指すという見方ができます〔フランス前掲書〕〔コリンズ前掲書616頁〕。あるいは、この句を神殿崩壊とは切り離して、特に24~25節の天変地異のことだと言うこともできましょう。ごく自然に取れば、直前の28節のいちじくの譬えを受けていると見ることもできます。
[30]【この時代】イエスの視点から見れば、「この時代」とは、イエスと同時代の人たちのことですから、イエスと同世代のユダヤ人たちが生きている時期になります(マタイ23章36節を参照)。4節で弟子たちが「これら」(中性複数)の起こる時とその徴を尋ねていますから、30節の「これらすべてのこと」も、弟子たちの質問に対応していると見ることができましょう。そうだとすれば、「これらすべてのこと」は、エルサレム神殿の崩壊にいたるまでの一連の出来事を指しており、「この時代は滅びない」とあるのは、イエスと同世代のユダヤ人の生きている時代に必ず神殿崩壊が起こると預言していることになります〔フランス『マルコ福音書』538~39頁〕。しかし、ヒエロニムスは、30節の「この時代」を「この民族/部族=ユダヤ民族」のことだと理解して、「これらすべてのこと」が起こるまではユダヤ民族が滅びることがないと解釈しました〔フランス前掲書539頁〕。ヒエロニムスは、「これらすべてのこと」をエルサレム神殿の崩壊以後も終末まで続く不特定の時期の出来事だと見ているからです。「時代=民族」という解釈は、語法的にも内容的にも無理ですが、「この時代」をイエスと同世代だと限定せずに、神殿崩壊以後も続く人類の終末までの期間を指すという解釈は、現在でも有力です。
[31]31節はイザヤ書の次の言葉を反映しています。
    声が言う「呼びかけよ」。
    わたしは言う「何を呼びかけるのか」。
    すべての肉はみな草のよう
    その麗しさも、みな野の花。
    草は枯れ、花はしぼむ。
    主の風がそこに吹きつけるとき。
    「民草」とは言うもまこと
    草は枯れ、花はしおれる。
    しかし、わたしたちの神の言葉は
       とこしえに立つ。
    (イザヤ書40章6~8節私訳)
 「呼びかけよ」という声は、40章3節の「呼びかける者」と同様に、意図的に特定されていません。大事なのは、その者が伝える「主なる神からの呼びかけ」それ自体だからです。引用の「わたしは言う」は七十人訳と同じで、おそらく預言者イザヤ自身のことで、続く言葉も預言者が告げているのでしょう。これがおそらく、イエス自身が理解していたであろうイザヤ書のメッセージです。第二イザヤ書のこの言葉は、「慰めよ」で始まり、ついに捕囚から解放されて、再びエルサレムへ戻る希望を与えられたイスラエルの民に向けられたメッセージです。ところが、ここでは、神からの慰めと解放の「呼びかけよ」に対して、預言者は、「この民に、いったい何を呼びかけるのですか?」と、弱気な反論を返しているようです〔ヴェスターマン『イザヤ 40~66』OTL40頁〕。預言者は、長らく打ちひしがれてきた民の声を代弁しているのです(詩編90篇4~6節参照)。この弱気な発言に対して与えられるのが、締めくくりの「わたしたちの主の言葉はとこしえに立つ」です。「立つ」とは「復興する」「復活する」ことをも含んでいます(第二イザヤ書のこのような慰めと励ましの言葉はイザヤ書54章9~10節にも見ることができます)。おそらく、このメッセージは、イエスが引用した言葉として、キリスト教会に受け継がれてきたのでしょう、ここの引用は、第一ペトロ1章24~25節にも見ることができます。おそらく、イエスは、「夏」(ケーツ)と「終わり」(ケッツ)の掛け詞の聖書からの引用を用いて語ったのでしょう。教会は、この言葉を受け継いで終末伝承へ発展させることで、「この時代」が多重な内容を含むことになります。マルコは、これをそのままにして、31節を締めくくりとして加えたのです〔ボヴォン『ルカ福音書』(3)107頁〕。
 以上のマルコ福音書の記述を見ると、イエスの預言は、14節に代表される歴史的な一連の出来事から始めて、黙示的な啓示を表わす宇宙規模の出来事に及び、これを終末の人の子の到来に結びつけ、さらに、「いちじくの木」という自然現象を譬えにして、人の子の来臨を印象づけています。その上で、30~31節で、権威を帯びた啓示の言葉で締めくくっています。すでに指摘したように、イエスには、エルサレムとその神殿の滅亡が、終末的な天変地異とひとつになって見えていたのでしょう。しかし、イエスの預言は、その後のキリスト教会の情況によって変容を受けています。マルコ福音書のこのような語り方、歴史と黙示的な啓示と自然現象の譬えと権威ある啓示の教えとをつなぐ多様な語り方は、ヘレニズム世界にも共通するものです。例えばアリストテレスは、自然の譬えや人工の発案による譬えを用いたり、教えや格言を用いるなど「あらゆる種類の修辞法」を用いて論証する方法について述べています。マルコ福音書では、弟子たちが尋ねた「終末の徴」への問いかけに対して、これら様々な語りが、全体として、弟子たちへの答えになっています。だから、これら様々な語り方を区分して、それぞれの部分を例えば神殿崩壊の出来事だけに結びつける解釈は、ヘレニズム時代の語り方とマルコ福音書のここでの語り方に照らすなら、適切とは言えないでしょう。マルコ福音書は、歴史とその終末を迎えようとする主イエスの民が、艱難の中にあっても、なお希望と確信を抱いて歩むように勧めているのです〔コリンズ『マルコ福音書』615~17頁〕。
[32]【その日あるいはその時】32~33節は、それまでを受けて、これを続く34~37節へつなぐ導入部です。「その日その時」は、30節の「これらのことがすべて起こる日と時刻」のことですが、それは、35節の「家の主人」、すなわち「あなたがたの主」である「人の子イエス」が到来する時につながります。
【子も】「天にいるみ使いたち」と「父」との間に、冠詞付きの「子」"the Son" がでてくるのに注意してください。「子」は、天にいるみ使いたちよりも上位にいますから、内容的には「御子」のことです。ただし、ここはイエスの言葉ですから、「子」とはイエス自身のことにほかなりません。この「子」は、続く「父」"the Father" と対応しています。ここの「子」に、12章6節の譬えにでてくる「(父の)愛する息子」が反映しているという解釈があります。そうだとすれば、ここの「子」は、14章61節で大祭司が用いた「ほむべき方の子キリスト」へ続くことになりましょう。
【父だけがご存知】32節以下は、終末と人の子の来臨の時期にかかわる問題です。終末の到来の時期を様々な出来事から「読み解こう」とする努力、あるいは、このための計算方法が、ユダヤ教において試みられており、イエスの頃にも行なわれていました。これらの試みは、黙示文学の影響によるものです(例えばダニエル書9章24~27節/同12章11~12節など)。ユダヤ教のこのような試みは、キリスト教会にも受け継がれて、マルコ福音書の時代にも、「人の子が到来する時期」について、様々な計算が行なわれていたと思われます。マルコ福音書は、このような「先走った」啓示に動かされることへの警告を含んでます。ただし、このことは、終末を待望する信仰それ自体を否定するものではありませんから注意してください。逆に、キリストの教会は、神の言葉によって生起する歴史における出来事を深く洞察するよう迫られているのです。人類の歴史とそこで起こる出来事の「時」は、神の御手に握られていることを悟り、人の子を遣わした神による救済史の歩みを油断することなく見分けるように促されているのです。
[33]33~37節(34節を除く)では、毎回「あなたがた」への呼びかけが繰り返されます。この「あなたがた」は、文面から見れば「イエスの弟子たち」のことですが、マルコ福音書の読者たちを含むイエス以後のキリスト教会の人たちも含まれていると見るべきです。だから、マルコの視点から見れば、「あなたがたに分からないその時」とは、神殿崩壊以後から終末とイエスの到来までの期間を挟んた将来のことになります。
【気をつけて】原文は「(あなたがたは)気をつけなさい。眠らないでいなさい」ですが、これに「祈りなさい」が加わる異読があります。これは、14章38節のイエスの警告にならった後からの追加でしょう〔新約原典テキスト批評112頁〕。「眠らないで」とあるのは、マタイ25章1~13節の「10人の乙女たち」の譬えに通じています。
[34]34~37節では、「目を覚ましていなさい」がキー・ワードになります。この34節で、家の主人が、それぞれの僕に仕事を課して旅に出かける譬えは、マタイ24章14節以下の「タラントンの譬え」とルカ19章11節以下の「ムナの譬え」に通じるものです。しかし、マルコ福音書のこの34節は、「門番」にその焦点を当てて語られていて、これによって35~36節と結ばれています。だから、34~36節を内容的に見れば、マタイ24章45~51節の「善い僕と悪い僕」の譬えと、また、ルカ21章34~36節の警告と並行します。
[35]~[36]【夜中】イエスの頃には、真夜中の旅は、危険なために避ける傾向がありました(ただし、ルカ11章5~6節)。したがって、「夜中」と「鶏の鳴く時刻」は、およそありえない「予期しない」場合を想定しています。イエスの頃、ローマの太陽暦の影響で、昼は12時間に分けられていましたが、夜は、寝ずに番をする者の「見張りの時刻」として、通常、18~21時/21~0時/0~3時/3~6時の四つの刻限に区切られていました。ここでの「門番」は、イエスの弟子だけでなく、マルコの教会のメンバーたちをも含むイエスに従うすべての者にあてはまる譬えです(第一テサロニケ5章5~8節)。ただし、門番の役目は、盗賊などから家の財産を守ることですから、ここでは、特に教会の指導者たちに向けて、偽メシアや偽預言者たちから教会を守るよう「目を覚まして油断無く見張る」よう諭しているという解釈もあります〔コリンズ『マルコ福音書』618頁〕。
[37]【すべての人に】マルコ福音書の終末説話は、3節の「四弟子」に宛てて語り始められますが、締めくくりには、「すべての人」に及びますから、エルサレムの神殿崩壊だけでなく、「イエスの復活から人の子の到来を待つ」までの期間のすべての者に宛てられることになります〔コリンズ『マルコ福音書』617~18頁〕。
■マタイ24章32節以下
 マタイ24章32~44節をマルコ13章28~37節と対応させると、内容的にほぼ次のようになります。
(1)マタイ24章32~36節=マルコ13章28~32節。
(2)同37~39節=該当箇所なし。
(3)同40~41節=該当箇所なし。
(4)同42節=マルコ13章33節。
(5)同43~44節(盗人の譬え)>マルコ13章34~36節(門番の譬え)。
 これで見ると、(1)はマタイ福音書とマルコ福音書で並行しますが、(2)と(3)はマルコ福音書にはなく、マタイはこの部分をイエス様語録から採っているのが分かります。(4)はマタイ福音書とマルコ福音書で並行しますが、続く譬えは、マタイ福音書では「盗人の譬え」であるのに対して、マルコ福音書では「門番の譬え」です。
■マタイ24章36節~25章の構成
 マタイ24章36節以下から25章の終わりまでは、次のような構成になっています〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)374頁〕。
(36節)人の子の到来は隠されていて、これが、以下の七つの区分への導入になります。
(37~39節)ノアの日のように。
(40~41節)上げられる者と残される者。
(42~44節)盗人の譬えと警告。
(45~51節)善い僕と悪い僕。
(25章1~13節)10人の乙女たち。
(14~30節)タラントンのたとえ。
(31~46節)羊と山羊への終末での裁き。
 37~44節では「人の子の到来/顕現(パルーシア)」が3度繰り返されます。そこから、到来が遅れることへのたとえ話が三つ続き、終わりに、終末での裁き(羊と山羊の譬え)が告げられます。マタイのこのような語りの構成は、ヘブライの伝統的な聖書釈義で用いられてきた手法です。なお37~41節は、先の158章「ノアの日のように」で扱いましたので、その部分をも参照してください。158章でも指摘したように、神殿崩壊と人の子の到来とを時期的に区別しようとすれば、その切れ目を22節と23節との間に置くのか〔フランシスコ会訳聖書〕、28節と29節との間に置くのか〔新約原典〕〔新共同訳〕、35節と36節との間に置くのかが問われることになります。
■マタイ24章
[33]マタイ福音書では、「これら<すべて>を見た時」とあって、マルコ福音書の「起こる(のを見る)」が抜けていて、「すべて」が入ってきます。マルコ13章29~30節の場合と同じく、マタイ24章33~34節でも、「これらすべて」と「この時代」の解釈をめぐって、諸節があります。おそらく、マタイは、マタイ24章4~32節で告げられるすべての出来事と徴を(神殿崩壊の出来事をも含めて)指していて、「これらすべて」を「人の子のパルーシア(到来/到来)」と結びつけるのです。マルコ福音書の場合と同じく、マタイ福音書のこの箇所でも、「これらすべて」と「この時代」をめぐって諸節があります。原初のキリスト教徒は、人の子イエスの到来が、イエスの使徒たちがまだ存命中に起こると考えていました。これがイエスのほんらいのメッセージだったと思われます。おそらくマタイ自身も、同じように考えたのでしょう。マタイの頃には、イエスから直接教えを受けた人たちがまだ存命していたと考えられます〔デイヴィス前掲書367~68頁〕。
[35]マルコ13章31節では、「滅びる」と「滅びない」の動詞は、どちらも3人称複数の未来形ですが、マタイ24章35節では、「滅びる」は未来形の3人称単数(平叙法)で(ただし、複数形の異読があります)、「滅びない」は、アオリストの3人称複数(接続法)です。マタイは、「天と地」を一まとめにして、これをイエスの言葉と対照させます。「滅びない」は単なる未来ではなく、イエスが一度語った時は、それ以後も変わらない力と権威を帯びていることを示しています(マタイ7章24~27節の譬えを参照)。
「子も(知らない)」が抜けている異読が多数あります。「神の御子であるイエスが知らないはずがない」という教会による神学的な理由で省かれたと考えられます。「父<だけ>が」とありますから、「子も知らない」というのがほんらいの読みで、有力な写本では、「子も」が保持されています〔新約原典テキスト批評62頁〕。この節では、イエスが「神の御子である」ことが前提されているから、イエス以後の教会に由来する伝承だという見方があります〔ルツ著『マタイによる福音書』(3)534頁。しかし、神を父と仰ぐ「イエスの人間性」が現われていると見るならば、結論は、逆にイエスにさかのぼるものになりましょう。
37~41節はイエス様語録(Q17:20~35/Q17:37)から採ったもので、イエスにさかのぼるでしょう〔ルツ前掲書534頁〕。「人の子が来る」は名詞で「人の子の到来(パルーシア)」です。ユダヤ教の聖書解釈では、「ノアの洪水」が、人類への終末的な裁きの予型(タイプ)とされていました(『第一エノク書』65~68章では、ノアの洪水が世界の終末と裁きの予型とされています)。
「めとったり嫁いだり」とあるのは、創世記6章4節で、洪水前に堕落天使たちが人間の女を妻にしたことで、洪水の災いが地上に及んだという堕天使伝承が示唆されているという見方があります。しかし、ルカ17章27~28節の並行箇所から判断すると、ここは、単に人々が日常の生活を送っていたことを言おうとしているのでしょう。
イエス様語録では、「ノアの日」は「人の子の到来(パルーシア)」との関連で語られており、これはほんらい、終末での裁きよりも、イエスが伝える神の国の到来に際して、イスラエルの民に悔い改めを迫る目的で語られたものです。しかし、これが、特に終末での「人の子の到来/顕現(パルーシア)」として教会に伝承されました。
[40]~[41]この部分は、ルカ17章34~35節と並行します。ただし、ルカ福音書では、「同じ寝床に居る二人の男」となっていますから、マタイ福音書の「畑に居る二人の男」と異なります。マタイが、「同じ寝床の男」を「同じ畑の男」に変えたと考えられなくもないのですが、むしろ、ほんらいは、「寝床」と「畑」と「挽き臼」の三つの例があげられていたのではないか? その中から、マタイとルカは、それぞれに二つずつ選んだのではないか、と見ることができます〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)382頁〕。「同じ寝床に居る二人の男」は、父子あるいは兄弟などの肉親を意味します。ちなみに、ルカ福音書の異読(ルカ17章36節)には、三つ目に、「同じ畑に居る二人の男」の例があります。これは、おそらくマタイ24章40節に見習った後代の挿入だという見方もありますが〔新約原典テキスト批評168頁〕、そうではなく、ルカ福音書は、イエス様語録ほんらいの原型を三つとも遺していると見ることもできます〔デイヴィス前掲書382頁(注)61〕。
[42]この節はマルコ13章35~36節をマタイが縮小したものです。
[43]~[44]この部分にはイエス様語録が関連していますので、以下に、イエス様語録と『トマス福音書』から、並行箇所をあげておきます。
【イエス様語録(Q12:39~40)】

「そこで、次のことをわきまえていなさい。盗人がどの時刻に来るかを家の主(あるじ)が知っていれば、自分の家に忍び込ませはしない。だからあなたがたも用意していなさい。思わぬ時に人の子が来るからである。」〔ヘルメネイアQ360~64頁〕
 今回のイエス様語録の構成は〔マックQ96頁〕に従いましたが、復元は〔ヘルメネイアQ〕によっています。前半はマタイ24章43節からで、後半(「だからあなたがた」以下)はルカ12章40節からです。
【『トマス福音書』(21の2から)】
「それ故に私は言う、『家の主人は、盗賊が来ることを分かっているなら、彼は、彼(盗賊)が来る前に、目をさましているであろう。(そして)彼が自分の支配下にある自分の家に押し入り、自分の財産を持ち出すことを許さないであろう』。だからあなたがたは、この世を前に目をさましていなさい。(以下略)」〔新井献訳『トマス福音書』154~56頁〕
 『トマス福音書』のこの箇所も、マリハムという女性の弟子(マグダラのマリアのこと)からの問いにイエスが答える形を採っています。イエス様語録と、これに準じるマタイ福音書では、「人の子の到来(パルーシア)」に向けて心備えをするよう戒めていますが、『トマス福音書』では、「自分の支配下にある自分の家」とあるように、終末への備えではなく、「今のこの世に」あって、「本来の自己の有り様」を奪われないように注意せよという戒めになっています。これはグノーシス的な傾向によるものでしょう。『トマス福音書』の本文は、「盗賊」「目をさましていなさい」「財産」などをマタイ福音書によっていると見ることができますが〔荒井『トマス福音書』157頁〕、『トマス福音書』のほうは、共観福音書とは別個の伝承から出ているという見方もあります〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)385頁〕。そもそも『トマス福音書』の起源そのものが、イエス様語録と同じ頃にさかのぼるという早期説から、共観福音書以後のものと見なす後期説まであります。おそらく、どちらも正しくて、『トマス福音書』の本文には、最初期のイエスの言葉が含まれているものの、これが、後に(共観福音書以後に)グノーシス化することで、再編集されたと考えることができます。なお、『トマス福音書』(103)には、今回の箇所とは別に「盗賊がどこに入って来るか分かっている人は幸いである。彼は、彼らが入って来る前に、起き上がり、自分の支配下にあるものを集め、腰に帯を締めている」〔荒井『トマス福音書』272頁〕という重複があります。 

 マタイ福音書この部分は、内容的に見てルカ12章35~40節と並行しながらも、イエス様語録によっています。ただし、ルカ福音書では「このことを知っていなさい/覚えていなさい」(ルカ12章39節)と命令形で、人の子の到来に警戒するよう呼びかけていますが、マタイ福音書では、「次のことは、あなたがたがよく心得ていることである」とあって、誰でもが知っていることとして、「<もしも>泥棒が何時来るか<分かっていれば>」という例えを語り、その上で、これとは対照的に、「人の子の到来」が予想できない時に訪れると忠告しています。イエスは、おそらく、実際に泥棒が押し入った事件を例にとって、このたとえを語ったのでしょう。「泥棒は、いつ何時忍び込んで来るのか分からないのだから、油断しないで注意していなければならない。同じように、人の子の到来も・・・・・」と。この世の金持ちは、盗賊の到来の予想がつかないままに眠ることがあっても、霊的な指導者には、人の子の到来に向けて、眠ることが許されないのでしょう。身体を具えている以上、「人の眠りは、体の休息のために不可欠ですが、霊的な眠りは死を招く」〔クリュソストモス〕からです。
[43]【押し入る】土壁に穴を開けるなどして「入り込む」こと。
■ルカ21章
 今回のルカ福音書は、21章29~33節の「いちじくの木のたとえ」と、同34~38節の「その日の到来」への心構えとに分かれています。前半は、ほとんどマルコ福音書と並行します。後半部分は「人の子の到来」に向かうための目覚めと祈りです。内容から見るとマルコ福音書とマタイ福音書の「人の子の到来」への心構えと共通しますから、イエス様語録とマルコ福音書に共通する伝承から出ていると考えられます。しかし、ルカ福音書のほうは短く、おそらくここはルカの独自資料(L)からでしょう〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1354頁〕。
[29]「ほかのすべての木」を加えることで、譬えがいちじくの木に限らないことを印象づけています。これによって「~のように」という直喩の「たとえ」の性格が強くなりますから、その分、旧約聖書での「いちじくの木」と「イスラエル」との密接な関係が薄れることになります。「譬えを語る」とあるのは、ここでルカが、記述の資料を再びマルコ福音書のほうに変えたことを示唆するのでしょうか〔ボヴォン『ルカ福音書』(3)107頁〕。
[30]~[31] 【神の国】マタイ=マルコ福音書の「人の子の到来」の代わりに、ルカ福音書では「神の国」が来ています。いちじくやその他の木の譬えが、「御国の到来」の譬えであることがよく分かります。木の芽が出ると必ず夏の実りの季節が到来することを御国の到来の確かさと関連づけているのです。
[32]マルコ福音書では「これらのことすべて」とありますが、ルカ福音書では、「これらのこと」(31節)と「すべて」(32節)とに分けてあります。「この世代」とも受け取れるイエスの言葉は、ルカ福音書では「この時代」を意味します。ルカは、マルコ福音書の「この世代/時代」のことをイエス復活以後の教会が終末を待ち望む「その時代」と同一視しているのでしょう〔フィッツマイヤ前掲書1353頁〕〔ボヴォン『ルカ福音書』(3)121頁〕。ただし、人の子の再臨が、今や無期限に延期されているとルカが思っていると見なすのは誤りです。続く34節以下がこの誤りを示すからです。
[33]この節はマルコ13章31節と完全に一致しています。
[34]~[36]ルカはここで、再びマルコ福音書を離れてルカの独自資料のほうに戻ります。だから、ここには、マルコ福音書の「門番」の譬えもマタイ福音書の「盗人」の譬えもでてきません。ルカ福音書は、「人の子の到来/再臨」を「御国の到来」と同一視した上で、「その到来の日」が、全く突然に「罠のように」訪れると告げています。ルカは、特にその御国の到来が、「地の面に住むあらゆる人たちに」平等に臨むこと、それゆえに、神の罰として地上に臨む艱難を無事に逃れて、終末の裁きに堪えて「人の子の前に立つ」ことができるように祈れと警告するのです。
 この部分には、七十人訳のイザヤ書24章(とりわけ17節)が反映していると指摘されています〔フィッツマイヤ前掲書1356頁〕。イザヤ24章は「イザヤの黙示」(24~27章)と呼ばれている部分に含まれています。「イザヤの黙示」は、前587年の新バビロニアによるエルサレムの陥落の前後、おそらく前560年~50年の間に預言されたと考えられます〔新共同訳『旧約聖書注解』(Ⅱ)302頁〕。そのような歴史的な背景を基にしているとは言え、その預言は、黙示的な性格を帯びていますから、歴史的な背景をはるかに超えて、「地上に住むあらゆる場所のあらゆる階層の人たちを一まとめにして」語られています[カイザー『イザヤ書』(2)OTL181頁]。
 イザヤ書24章の1~3節は、大地の面を一変させる荒廃を告げます。4~6節は神の永遠の契約を破棄した人類への呪いと裁きです。7~13節は、「放縦や深酒で心が鈍くなった人たち」が、その生活を完全に失う有様です。16節の後半からは、過去の出来事に救いを見出そうとしたり、世界の裁きに先立つ「救い」を見出そうとする、様々な偽りの預言と裏切りへの絶望が語られます。大地は裂け、揺れ動き「全地に住む人よ、恐怖(ヘブライ語「パハッド」)と落とし穴(「パハット」)と罠(「パ」)があなたを襲う」(17節)のです。ルカ福音書もここで、このような神の裁きの時の訪れに「注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲う」と告げています。
[37]~[38]この部分は、ルカの独自資料(L)からか、ルカ自身によるものでしょう〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1357頁〕。マルコ13章37は、「目覚めている」ように「すべての人」へ呼びかけるイエスの言葉で全体を結んでいますが、ルカ福音書は、21章の終末説話を日ごとに神殿で教えるイエスの生活ぶりで締めくくるのです。
【日中は神殿の境内で】原文は「神殿で教えて過ごす」とあって、イエスの日々の暮らしぶりを伝えています。「神殿」とは境内と本殿を含む広い意味です。ここは、ルカ19章47~48節と対応しています。
【山で過ごす】原文の意味は、イエスは、夜になると、決まって「オリーブ畑」と呼ばれる山に泊まったです。「泊まる」は必ずしも野宿のことではありませんから、19章29節にあるベトファゲの辺りかもしれません(現在のエルサレム市に含まれているベトファゲ通りの辺りか)。
【朝早くから】民衆は、早朝から神殿に集まって、イエスの話に耳を傾けたのです。話の内容には、終末のことだけでなく、神殿を中心とする当時のユダヤの指導層への厳しい批判も含まれていたと考えられます。だから、ここは、続くルカ22章2節へつながります。
■ルカ12章
 ルカ12章38~40節は、内容的に見ると、マルコ13章35~37節、及びマタイ24章42~44節と並行します。ルカ12章35~48節全体は、終末での人の子の到来に向けて「目覚めている」こと(35~38節)、家の主人のように「用心を怠らない」こと(39~40節)(この部分は人の子の遅延とは直接関係がない)、「忠実と不忠実」への戒め(41~48節)の三つに分かれますが、全体が「僕へのたとえ」としてまとまって語られています。今回あげたルカ12章38節は、正確には、その前の37節とつながっていますから、39~40節だけが独立していて、ここはルカの独自資料(イエス様語録とも関連)からだと見ることができます。ルカ12章は、イエスの一行がエルサレムへ向かう旅の途中のことです。だから今回の箇所は、マタイ=マルコ福音書の終末説話とは文脈が異なっています。ルカは、地上の宝に心を奪われてはならないというイエスの教えに継いで、これと関連させることで、イエスの再臨に備えて主に忠実であること、このために目を覚ましているよう警告しているのです。ルカは、この12章において、イエス様語録やルカの独自資料やマルコ福音書などから選び出して独自に編集していますから、ルカ福音書の12章は、内容的にも資料的にも、ことのほか様々な要素が組み込まれています。なお、39~48節の部分は、イエス様語録とも関連します(マタイ福音書の並行箇所の注釈を参照)。「人の子の再臨」は、イエス復活以後のキリスト教会による創出だという説がありますが、ルカ12章35~48節をそのように単純化するのは危険です。終末の「主の日」を待ち望む信仰は、エッセネ派のクムラン文書にも見ることができるし、なによりも「主の日の到来」に向けて備えることは、旧約時代以来の伝承です。だから、イエス様語録の今回の部分もイエスにさかのぼると見ることができます。ただし、今回のイエス様語録には、後の教会の「人の子の再臨」信仰を反映している可能性があります。マタイはこれを終末説話の部分に置き、ルカは旅の途中の出来事したのです〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)985~87頁〕。
[38]【真夜中と夜明け】原文は「第二の刻と第三の刻」です。イエスの頃のパレスチナでは、ローマの太陽暦に準じて、昼は12の「時刻」で区切られていましたが、夜間は、夕方の6時~9時/9時~12時/0時~3時/3~6時の四つの「見張りの刻限」に区切られていました。ここでは、2番目と3番目の刻のことです。なお、「もしも(主人が)夕刻に帰ってきて(僕たちが)そのようにしているのを見るなら、(主人は僕たちに)同じようにする。たとえ第二の刻でも第三の刻でも」という異読があります。常に目覚めていることによって「終末的に生きること」、これが「主に奉仕する」ほんとうの意味であると教えているのです。
[39]【いつ(やって来るか)】原語は「どの時刻(hour)に」で、マタイ福音書の「どの見張りの刻」とは異なります。ルカは、40節の「思いがけない時刻(hour)」に合わせたのでしょう。なお、12章36節では「婚宴から帰ることを期待されている主人」のことですが、39節では「予期しない盗人(ぬすびと)」のたとえです。前者は、家の正面の入り口から入りますが、後者は、家のどこか分からないところから忍び込みます。さらに、「泥棒」と「強盗」とを区別する読み方があります。強盗は、主として、異邦人によるイスラエルの民への暴挙、あるいは異教徒へのユダヤ人の仕打ち(「善いサマリア人」のたとえにあるように)であるのに対して、「盗人」のほうは、日常のイスラエル人同士の間で行なわれることです。だとすれば、ここでのイエスの教えは、終末的な文脈と言うよりは、神の国を目指す者は、日常の煩いや誘惑が「忍び込まない」ように注意せよという意味にもなります〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)235頁〕。
[40]【用意する】原義は、人の子の再臨と終末へ向けて「備えができている状態で居なさい」です。ここに、終末を「意欲的に」待ち望む積極的な姿勢を読み取ることもできますが、むしろ、主にあって神から与えられる人それぞれの使命と役割を忠実に果たすこと、言い換えると、神からの働きかけに応じる受動的な姿勢をも背後に読み取ることができましょう。
                        戻る