【注釈】(Ⅰ)
 この回から、「聖句」には、聖書協会共同訳(旧約聖書続編付き)(2018年)を用いました。
■イエス様語録について
【イエス様語録とは?】
 共観福音書とイエス様語録の関係は、とても複雑ですから、詳しく説明するとかえって混乱を生じます。できるだけまとめて説明します。共観福音書の成立過程に関して、従来の通説では、先ずマルコ福音書が書かれ、その後でマタイ福音書とルカ福音書が書かれたことになっています。さらに、マルコ福音書の90%がマタイ福音書に含まれていて、マルコ福音書の45%がルカ福音書にも含まれています。その上、マタイ福音書とルカ福音書の両方に共通するイエスの言葉で、マルコ福音書にはない部分が相当あります。これらのことから、マタイとルカとは、それぞれ別個にマルコ福音書を参照しながら、しかも、マルコとは別に、「イエス様語録」(Q)を参照している。こういう仮説が生まれました。だから、マタイ・ルカ福音書は、マルコ福音書とイエス様語録(Q)、主としてこの二つの「資料」を基本にしていることになります。おおざっぱな言い方ですが、こういう仮説を「二資料説」と言います。
 上に述べたことで分かるように、「イエス様語録」とは、現在実在している文書のことではありません。マタイ福音書とルカ福音書を相互に照合しながら、<文献的に>イエス様語録を特定しようと、長い間試みられてきました。この研究の結果が、James M.Robinson, Paul Hoffmann and John S. Kloppenborg. The Critical Edition of Q. Hermeneia (2000)です。だから、これは、イエス様語録「説」という仮説に基づいて「復元された文書」です。しかし、「復元された」とは言え、事実はそれほど単純ではありません。なぜなら、マタイ福音書とルカ福音書は、イエス様語録を用いていても、その用語や言葉遣いが異なるからです。マタイのイエス様語録とルカのイエス様語録とは異なっています。さらに、イエス様語録それ自体も、始めから固定された文書ではなく、イエス様語録(1)とイエス様語録(2)のように、段階的に編集されている、このように見ることもできます。だから、現在提示されているイエス様語録も、必ずしも確定したものではなく、マタイ福音書とルカ福音書の二つの読みのどちらのほうを採るのか?常にこの二者択一が迫られることになります。それでも、このイエス様語録の復元は、20世紀の文献批評の一つの大きな成果だと言えましょう。
【イエス様語録の発見】
 ロビンソンによる前掲書ヘルメネイア版のQの「解説」は、イエス様語録の発見過程のあらましを紹介しています〔前掲書ヘルメネイアQ xixff.〕。マルコ福音書に加えて、マタイ福音書とルカ福音書が「イエスの託宣集」(ロギア)を資料として用いていることを最初に提唱したのは、ドイツのライプチッヒの哲学者ヘルマン・ヴァイスです(1838年)。この説は、ハインリッヒ・J・ホルツマンに受け継がれ、彼が、マタイ福音書とルカ福音書とを詳細に比較することで、「イエス様語録」の存在が広く認められるようになりました(1863年)。この託宣集は「イエスの託宣(ロギア)」と呼ばれましたが、その後「イエスの言葉集(ロゴイ)」"Sayings of Jesus" と改められます(1904年)。これが、ドイツ語の"Quelle"から"Q"と呼ばれたのは1899年のことです。なお、日本語では「イエスの言葉集」と呼ぶべきですが、新約聖書関連の文書の中で、筆者(私市)は、これを「イエス様語録」と呼んでいます。「語録」とは偉大な師や先生の御言葉を記録すること、あるいは記録した書物のことです。
 第二次世界大戦の終わりと共に(1945年)、Q研究は、ブルトマンとその学派やギュンター・ボルンカム等に受け継がれます。ローマ・カトリックもQの存在を学問的に認めるようになり、Q研究に参与することになりました(1965年)。Q研究には、1950年代から1970年代の初期まで、多くの学者が参与しましたが、中でもホフマンは、Q探求を続けることで、Qが、60年代後半のユダヤ戦争にいたるまでの間に、幾つかの編集の段階を経ていると見なしました。初期のQには見られない黙示的な「人の子」が、後期のQに表われるからです。このQ研究は、ドイツからアメリカへ移ることになり、ジョン・S・クロッペンボルグによる総合的なQ研究が提示されます(1984年)。やがてQ研究は、国際的な組織としてthe Society of Biblical Literatureの一環となり、「Qセミナー」によって編集されました〔Robinson. The Critical Edition of Q. Lxvi-vii〕。
【イエス様語録の再発見】
 イエス様語録は、当初は、イエスがアラム語で語ったものが集められ、ギリシア語に訳されたと考えられ、その後、ギリシア語版だけがQ伝承として残った。このように想定されていました。しかし、イエス様語録が、ほんらいアラム語で書かれ、それが別個のギリシア語版へ訳されたという仮説は、その後放棄されることになります。
 しかも、マタイが使用したイエス様語録と、ルカが使用したものと、ふた種類のイエス様語録があったと考えられます。マタイ福音書とルカ福音書に共通する部分で、マルコ福音書に含まれて<いない>部分について言えば、そこで共通する用語は、共通部分全体の13%にすぎません。マタイ福音書とルカ福音書の共通部分の3分の1では、共通する用語が40%以下です。このことは、イエス様語録が、文書として成立した後の編集によって変えられたのではなく、この語録は、ほんらい文書ではなく、口頭伝承によるものであることを示しています〔James D. G. Dunn. A New Perspective on Jesus. Baker Academic (2005)110 〕。
 イエスの時代のガリラヤの多言語の環境から判断すれば、イエスがアラム語で語った言葉は、先ずアラム語で伝えられ、それが後にギリシア語へ訳されたというよりも、そもそもの初めから、バイリンガルの聴衆によってアラム語とほぼ時を同じくして、ギリシア語でも口頭で伝えられた。こう想定するほうが、実際の状況により近いのではないかと考えられます。
 イエスの十字架(30年頃)からの15年間は、「口頭伝承の時期」とされて、この期間は、文献学的な研究方法では近づくことができない「空白の15年」と言われてきました。しかし、口頭伝承は、十字架直後に始まり、それ以後も続き、マルコ福音書の成立(70年前後か)以後でも、口頭のネットワークは途絶えることなく広がり続けたと考えられます。だから、マタイ福音書とルカ福音書の著者には、文書としてのイエス様語録以外にも、口伝を通じて知りえた福音書の内容など、口伝と文書両方の多岐にわたる伝承が集められていたと考えられます。したがって、共観福音書とイエス様語録は、文書だけでなく、より流動的で多様な口伝の影響も反映していると見なすべきでしょう〔Dunn. A New Perspective on Jesus.122〕。
【文書としてのイエス様語録】
 Q資料が、口頭による言葉伝承ではなく、一つのまとまった文書であるかどうかについては、これを長らく確認することができませんでした。ところが、1945年に、エジプトのナグ・ハマディという所で、大量のコプト語で書かれた写本が発掘されます。それらは、主としてグノーシスに関係するものですが、その中に『トマス福音書』と呼ばれる文書があることが分かったのです(1952年)。『トマス福音書』は、本来ギリシア語で書かれていたもので、これのコプト語訳が、1959年に初めて出版されました。これは全部で114の「遺訓」から成るもので、それらのほとんどが、共観福音書に含まれるイエスの言葉と類似する内容だったのです。
 この「遺訓」は、グノーシス的な解釈を帯びていますが、明らかにQ資料から出たと思われるものが多く、この発見によって、Q資料が、単なる口頭の言葉伝承だけでなく、文書としてまとまって編集されていたことがはっきりしたのです。しかも、その名の示すように、『トマス福音書』は、単なる「イエス様語録」ではなく、「語録福音書」として扱われていたことを示しています。
 いったい、初期キリスト教のどの段階で、この『トマス福音書』が成立したのか?2世紀になって本格的に現われる「グノーシス思想」とも関係していることから、比較的後の編集だという説もありますが〔『聖書大事典』830頁〕、バートン・マックによれば、『トマス福音書』の35%は、Q資料と密接に関連していて、しかも、それが、Q2の段階で採り入れられたと思われます〔マックQ34頁/Appendix A〕。
【イエス様語録の編集過程】
 以上述べただけでも、読者は、Q資料の成立をめぐる複雑な過程の一端をうかがい知ることができましょう。したがって、文書としてのイエス様語録の成立と編集過程について、必ずしも一致があるわけではなく、特にその編集過程ついては、現在でも諸説があります。アメリカのイエス・セミナーのメンバーであるバートン・マックの説のあらましを紹介すると、マックによれば、Q資料はほぼ次のように考えられています。
 イエスと弟子たちはアラム語で語った。これがアラム語からギリシア語に訳された段階で、イエスの言葉伝承から「語録文書」へ編集されます。そこに受難物語はまだ含まれていません。Q資料は、少なくとも3段階(Q1~Q3)を経て成立しました〔Anchor Bible Dic.(5) 567--68〕。Q1からQ2への推移の過程で、Q文書を保持していたいわゆる「Qの人たち」に大きな変革が起こります〔マックQ132~35頁〕。その後(主としてエルサレム滅亡以後)誘惑の物語などを含む追加が行なわれてQ3が成立しました〔マックQ171~73頁〕。
 すでに指摘したように、このようなQとQの人たちへの見方は、その後大きく変化することになります。最近では、Qは、イエスの復活信仰成立の<後になって>成立したのではなく、すでにイエスの生前に、イエスの口から直接聞いた弟子たちが語り広めた言葉がQの基になっているという見解が出されています〔James Dunn,前掲書.26~28頁〕。筆者(私市)もこの見方に賛同します。この説によれば、Q、すなわちイエス様語録は、イエスの十字架以後の信仰共同体が作り出したものではなく、すでにイエスの生前に、イエスを信じる人たちによる共同体が存在していて、イエス様語録は、そこで、これの原型が形成されていたことになります。だとすれば、イエス様語録は、ほんらいアラム語で伝えられたもので、それがどの段階かで、おそらくヘレニスト・ユダヤ人キリスト教徒によって、ギリシア語に訳されたことになりましょう。
 ところで先に挙げた二資料説にも様々な問題があります。まずマタイ福音書にもルカ福音書にも、マルコ福音書とイエス様語録以外に、これらのどちらにも属さない独自の記事が含まれていることです。これらは、「マタイの特殊資料」(M)あるいは「ルカの特殊資料」(L)と呼ばれています。だから、おおざっぱに言えば、マタイとルカは、マルコ福音書と、イエス様語録と、それぞれの特殊資料とを用いていたことになります。また、マルコ福音書からの引用にしても、マタイとルカとで、引用が異なるだけでなく、引用された語句が、「現在の」マルコ福音書とも異なりますから、マルコ福音書には、現在のマルコ福音書の以前に、「原」マルコ福音書があって、マタイの引用などはそこからではないかと言われています。さらにマルコ福音書には、原マルコ福音書のほかに、もうひとつ別の版のマルコ福音書(「第二マルコ福音書」「改訂マルコ福音書」などと呼ばれます)があったのではないかとも推定されています。
 そもそも二資料説は、マタイとルカとが、相互に知らないままでマルコ福音書を引用しているという前提に基づくものです。ところが、ルカは、マタイ福音書を直接参照してルカ福音書を書いたのではないか? という説さえ提唱されています。こうなりますと、イエス様語録の存在を前提とする必要がなくなりますから、イエス様語録の存在それ自体が疑われることにもなります。現在、このイエス様語録否定説をとる学者は少数で、ほとんどの説は、何らかの意味で、イエス様語録の存在を認めています。
 しかし、これらのことから、従来考えられてきた二資料説よりも、はるかに複雑な過程が、共観福音書の成立の過程で生じていたことが分かってきました。厳密に言えば、イエス様語録さえも一つではなく、Q1とQ2のようにいくつかの段階があったと見られています。以上で分かるように、現在では、共観福音書の相互関係は、これを図式化できるほど簡単ではなく、これらに共通する伝承それ自体も流動的で、それぞれの福音書も、流動的な形成過程を経ていると見られるようになっています。
【イエス様語録と「人の子」】
 「人の子」言葉は、復活後のキリスト論において、ナザレのイエスを「人の子」と同一視することから生じたという見方があります〔Robinson,Hoffmann and Kloppenborg. The Critical Edition of Q.lix--lx〕。そうだとすれば、新約聖書にでてくる「人の子」という言い方は、イエス様の時代には存在しなかったことにもなります。イエス様語録(Q)での「人の子」は、全部で五カ所からです(ルカ9章58節/マタイ11章19節/マタイ24章27節/同37節/同39節)。
 上記の「人の子」説によれば、Qでの「人の子」言葉は、マルコ13章と同じ頃のユダヤ戦争の最終段で、エルサレム滅亡の70年前後のQ資料編集者が初めて(?)用いた用語で、それは、ダニエル書7章を反映していることになります。ただし、Q資料編集者は、初期のキリスト教会の差し迫る終末を「再生」させたとも考えられますから、それまで、Q資料には「人の子」言葉は存在しなかったことになります。
 <文字として>書かれた文書だけを学問的に実証可能な唯一の証拠とする「文献批評」の方法論に立つ限り、こういう結論が避けられないのでしょう。幸いにも、『トマス福音書』が「発見」されたことで、こういう文献批評の方法論の「限界」が提示される結果になりました。
 この「人の子」後期説は、『トマス福音書』の発見によって、訂正されることになります。「人の子」は、共観福音書よりも更に以前にさかのぼることが分かったからです〔The Critical Edition of Q. lxi〕 。Q資料と同じく、「人の子」言葉もまた、最初期のイエスの言葉を(口伝で)受け継いだ教会の伝承過程の様々な段階を反映していることになります〔The Critical Edition of Q. lxii--lxiii〕。 
  Q資料に出てくる「人の子」言葉は、「(人の子は)枕する所もない」(ルカ9章58節)と、「(人の子の)知恵の正しさ」(マタイ11章19節)以外は、マタイ24章=マルコ13章の終末に関わる部分からです。恐らくイエスの口から出た「人の子」言葉は、「人間性の子」(the son of humanity)の意味であったろうと想われます。イエスは、「人間性を具えた者」として「人の子」を用いたからです。ちなみに、日本語で通常用いる「人の子」は、まさにこの意味に近いと言えましょう。
 ところが、ここで、文献批評に代わるものとして、口伝による伝承史の意義が、重視され認知されるようになります。宗教的な口伝伝承が人類史において担ってきた「驚くべき適確性」は、これが、文献批評家たちはもとより、学問的な視野からも、まだ十分に認識されているとは言えません。
 伝承史から見ると、イエスが、自己を「人の子」と称するのは「人間性を意味する」と考えるのは誤りです。「人の子」は、ダニエル書7章13節では、4匹の獣に対抗する神の支配者であり、同時に「人の子」は、「イスラエルの民」とも重なります。だから、「人の子」は二重性を帯びています。イエスは、「この意味での人の子」を自らの神秘性を表わす表現として用いたのです。福音書で、「人の子」は、イエスの口からしか語られません。「栄光の人の子」と「受難の人の子」は同一であり、イエスを断罪した大祭司も「このこと」を理解していました。イエスは、「来たるべき人の子は、私とは別人だとは<言わなかった>のです」。〔里野泰昭「イエスの自己表明」里野泰昭・他執筆『史的イエスと「ナザレのイエス」』(上智大学キリスト教文化研究所編)(2010年)109~118頁〕。
  ヨハネ福音書では、イエスは、父に対して、自分のことを「子」と呼んでいます。イエスは、「アッバ父」と呼びかけて、自分を「父なる神の子」としました。ヨハネ福音書の「私はある」(エゴー・エイミ)もイエスの自己表現の大切な一つです。「人の子」「子」「私はある」は、歴史のイエスが自己を表わす言葉として用いた重要な表現です〔里野前掲書〕。
【今回のイエス様語録】
 9行目の「<己(自分)の>翼」とあるのはマタイ福音書から。12行目の「家は人気を失う/荒れ果てる」はマタイ福音書からで、ルカ福音書では「わたしはあなたたちの家から離れ去る」。15行目の「時が来て」はルカ福音書からで、マタイ福音書では「今から後」です〔The Critical Edition of Q.420--423.〕。なお、今回の箇所の語句の説明は、マタイ福音書とルカ福音書の「注釈」を参照してください。
 今回のイエス様語録は、前半と後半とに分かれています。前の部分は、エルサレムへの「裁き」あるいは「断罪」への宣託です。ここでは、イエスの口から、イスラエルの預言者たちが(伝統的に)行なってきたように、主(ヤハウェ)から不信仰なエルサレムへ向けられる「裁きと告発」が告げられます。ところが、後半では、主(イエス)の訪れをエルサレムが受け容れて救われる希望が告げられます。
 前半のイエスの言葉は、ユダヤの知恵文学の伝統に則していると言われています。歴史を超えた「(神からの)知恵」が、地上の人々に受け容れられず、天へ戻るというユダヤ教の伝承です。ユダヤ教のこの「知恵伝承」をキリスト教会が受け継いで、「知恵」の到来を「人の子メシア(イエス)」の到来と同一視し、その上で、「人の子」を拒んだエルサレムへ神の裁きが下るというのです。この場合、語録集のこの箇所は、エルサレムの滅亡(70年)頃に、キリスト教会によって作られたという説にもなります。しかし、イエス自身が、自分を「神の知恵」に与る者と自覚して語ったと見れば、イエス様語録の今回の箇所は、地上のイエスの言葉にさかのぼることになります〔Howard Marshall. The Gospel of Luke. The New International Greek Testament Commentary. The Paternoster Press (1978)574.〕。
 今回の箇所の後半は、詩編118篇26節前半からの引用です。「主のみ名によって、・・・・・」は、神殿を訪れる巡礼たちを迎える神殿の祭司からの歓迎の言葉です。イエスは、ここで、自分を拒否するエルサレムでの殉教(受難)を覚悟の上で、イエスが再びエルサレムを訪れる(再臨の)時には、エルサレムがイエスを歓迎することで救われる希望を語っていると受け取ることができます。
 前半と後半とを併せると、イエスを拒否するエルサレムへの裁きと審判の前半部と、再臨のイエスを歓迎して救われるエルサレムへの希望の後半とが、「内容的に一致しない」という指摘があります。このために、イエスへの拒否と歓迎の両方を結ぶ今回の箇所は、イエス様語録のどの部分に配置されていたのかが不明です。マタイは、これを一連の「わざわい言葉」に続けて編集していますが、語句はルカのほうがイエス様語録により近いです。
 今回のイエス様語録は、「預言者たちを殺すエルサレム」(使徒言行録7章52節を参照)と、「(再臨に際して)主を受け容れるエルサレム(のユダヤ人)」(ローマ人への手紙11章23節/26節を参照)とが一つになっていますから、イエス復活以後に、キリスト教会が、イエス・キリストの受難への裁きと再臨の希望とを一つに結んだのではないかとも言われています〔ボヴォン『ルカ福音書』:Bovon. Luke 2. Translated by Donald S. Deer. Fortrss(2013). 323. 〕。
 以上をまとめると、今回のイエス様語録の解釈については、以下の三つの説に分けられましょう〔ウルリヒ・ルツ/小河陽訳「EKK新約聖書註解」(Ⅰの3)の『マタイによる福音書』(452~454頁)教文館(2004年)より〕。
(1)天から地上に降下した「知恵」が、地上で受け容れられず、地上の民を見捨てて再び天へ戻るというグノーシス神話が基になった「知恵神話」だとする説。しかし、「知恵」が遣わすのは「知恵の人」であって、「預言者」を遣わすことはしません。
(2)エルサレムを訪れたイエスが、十字架の受難を目前にして語った裁きの言葉であるとするなら、イエスは「幾たび」もエルサレムを訪れているだろうか?という疑問が生じると言われます。しかし、イエスを預言者として遣わしている神(「わたし」)からの言葉だとすれば、「幾たび」は少しも不自然でありません。今回の箇所は、元来、ヘブライ語あるいはアラム語で語られた可能性があります。
(3)最初期の教会で作られた語録集の言葉で、おそらく、諸集会を訪れていた「放浪の預言者」が、自分を受け容れない集会に向けて語った決別の言葉である。
 ルツは、(3)の説を支持していますが、筆者(私市)は、(2)の説に従います。理由は、上に述べた語録集への「伝承」についての説明で理解していただけると思います。
 今回のイエス様語録は、マタイ23章では、一連の「わざわい言葉」に続いています(共観福音書講話177章を参照)。しかし、これはマタイの編集によるもので、イエス様語録では、今回の箇所が、ほんらい何処に置かれていたのか不明です〔ルツ前掲書450~51頁〕。したがって、筆者(私市)は、マタイによる編集には従わず、エルサレム内でのイエスの言葉として扱います。
                エルサレムのために嘆くへ