182章 預言者を殺すエルサレム
       マタイ23章37〜39節/ルカ13章34〜35節
             【聖句】
■イエス様語録(Q13:34〜35)
エルサレムよ、エルサレムよ、
預言者たちを殺し、
彼女(エルサレム)に遣わされた者たちを
  石(いし)打(うち)で殺す者よ!
わたしは幾たび、あなたの子たちを
  かき集めようと努めたことか!
ちょうど雌(めん)鳥(どり)が自分の雛(ひな)たちを
  己(おのれ)の翼のもとに集めるようにして。
それでも、あなたたちは応じてくれなかった。
 
見よ。わたしはあなたたちから離れ去り
  家は人気(ひとけ)を失う。
(だから)わたしはあなたたちに告げよう。
(今から後)あなたたちは、わたしに会うことが(でき)ない。
時が来て、あなたたちがこう言うまで
「主のみ名によって来られる方に祝福あれ!」
 
■マタイ23章
37「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。
38見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。
39言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」
 
■ルカ13章
34エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。
35
見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることはない。」
 
                             【注釈】(T) 
               【注釈】(U)             
               【講話】
■イエス様語録の伝承
【出来事の真実とは?】
  例えば、現在90歳の私市自身の生涯を思い返すと、70年前の二十歳(はたち)の頃のことを私は現在でも鮮やかに思い起こすことができます。それどころか、今から85年前に、母と一緒に、北海道の厚内の駅で汽車に乗ったことさえ鮮やかに思い返すことができます。しかも、90歳の現在から、その時のことを思い返すと、私が数え4歳の時に病気で亡くなったあの時の母が、どういう想いで厚内から帯広へ汽車で向かっていたのか?これをある程度推察することさえできます。さらに、自分が、72年前に、北海道から京都大学を受験したことが、どういう意味を持っていたのか?4歳の時にも、18歳の時にも、分からなかったことが、90歳の今になって、「ああ、そういうことだったのか」と理解できます。「あの時の出来事」が今になってやっと分かるのです。
  いったい、「あの時の出来事」の「真実」とは何でしょうか? 誰かが私に言います。「お前が今言う<その出来事の真実>とは、90歳の今のお前の<生活の視座>から<思い返して>見ていることなのだから、今お前が想う<その時の出来事の真実>は、その時の<真実>でもないし、その時の<実態>とも無関係だ。」さあ、こう言われると、私はどう想うでしょうか?
 <あの時に>思った出来事の意味と、<今思い返して>見えるあの時の出来事の意味と、いったいどちらのほうが、「あの時の出来事」をほんとうに正しく見ているのでしょうか?90歳の今は、あの時ではない。ずっと後のことだ。だから、「今のお前」に見えている真実は、「歴史的に見れば」、ほんものである<はずがない>。皆さんは、こう思いますか? 
【伝承すること】
 今述べたのは、私市元宏個人の記憶という「伝承」によって生じることです。では、イエス様の言動は、どうでしょうか?イエス様の言動を伝えたのは、キリスト教会です。その方法は、最初は口頭による口伝であり、その後(イエス様の受難と復活の15年ほど後?)、文書による文献伝承が入ります。キリスト教会のこの伝承方法は、私市元宏個人の記憶による伝承方法と異なる。皆さんは、こう考えますか? 
 キリスト教の教会は、ナザレのイエスが復活した出来事から生じた聖霊体験に基づいて出発しました。聖霊体験は、イエス・キリストの復活という「真理」を実体験することにほかなりません。「復活のイエス・キリスト」から注がれる聖霊こそが、イエス様語録の伝承方法の実際の担い手です。
 ブルトマンは、学問的に<実証する>ための方法論として、「文献学的な」方法論を用いました。しかし、文献学的な方法論<だけ>では、「伝承」とその霊的な実態を的確に採り込むことができません。歴史のイエスが、語った声、身振り、顔、何よりもそのイエスを通じて発せられる「霊的な雰囲気」と、これがもたらす「出来事」、これを「文献」は的確に伝えることができません。文献では伝えることができない、声や身振りや雰囲気の出来事を「見たこと」「聞いたこと」「感じたこと」を、声や言葉や身振りや歌や儀式で伝える方法は、人類が編み出し実践してきた「伝承」の方法です。人類は、10万年以上もの間、この伝承方法によって、出来事を驚くほど的確に伝えてきました。
 私でさえ、自分の70年〜80年前のことを鮮やかに覚えているのなら、イエス様がキリストとして復活したのは、マルコ福音書が書かれた<わずか>40年前のことです。新約聖書で最も遅く書かれたヨハネの黙示録でも、イエス様の受難から70年しか経っていません。現在90歳の私は、今から20年前のことを鮮やかに覚えています。
 イエス様語録は、イエス様の受難の直後から、口伝特有のリズムを帯びた伝承形態として始まり、口伝あるいは文書によるイエスの言葉伝承は、『トマス福音書』を考慮に入れるなら、受難の30年後の紀元60年頃には、イエス様語録(Q)という文書として、すでに成立していたのではないでしょうか。
■エルサレムの滅亡と希望
 イエス様は、深い悲しみと憤りを込めて、近い将来に起こるエルサレムの滅亡を預言しました。同時に、「人の子」が再び到来するときには、裁きにもかかわらず、神の赦しにある不思議な希望がエルサレムに臨むことも予見していました。
 マタイは、70年前後のエルサレムの破壊とイスラエルの滅亡を間近に体験して、悲しみを通り越して、祖国の滅亡への深い憤りを覚えながら、北シリアの地で、ユダヤの民の悲惨な実態を目の当たりにして、神の裁きの厳しさを実感していたでしょう。
 ルカは、小アジアで、異邦人への福音の展開を視野に入れて、イエスを十字架につけたエルサレムへの裁きと将来への希望を彼特有の福音的な展望の中で解釈しています。
 翻(ひるがえ)って、2023年の私たちは、どうでしょうか? 私たちは、1948年に、ユダヤ民族が、二千年に及ぶ苦難の歴史を乗り越えて、念願かなって、パレスチナに、再びイスラエルを建国したことを知っています。しかし、二千年前に破壊され消滅した「エルサレム神殿」は、まだ、再建されないまま、「神殿再建」への課題を現在に残しています。
 イスラエルは今、イランを中心にした「反イスラエル」のイスラム諸国に取り囲まれています。イスラエルのネタニヤフ首相は、その独裁制を強めて、ガザ地区への軍事的圧力を強め、その武力によって、周辺諸国からの自立と安全を強化しようとしています。それにもかかわず、かつて、エルサレム神殿が聳(そび)えていた「神殿の丘」には、現在も、「岩のドーム」と称されるイスラムの神殿が黄金の輝きを見せていて、イスラエルの人が、この神殿の丘に入ろうとすると、イスラム教徒から警戒の目を向けられます。
 丘の上には、かつての神殿の面影は何処にもなく、神殿を支えていた城壁の北側部分だけが、丘の端に今も遺されています。だから、イスラエルの信仰深いユダヤ教徒は、今も神殿の名残を留めるその城壁蹟(あと)に降りていって、壁に向かって聖典を唱え、熱心に祈りを捧げています。口にこそ出しませんが、イスラエルの人たちの唯一の願いは、神殿の丘に、イスラムの「岩のドーム」に代わって、イスラエルの神を祀る「エルサレム神殿」を再興することでしょう。
 かつてイスラエルを訪れたときに、わたし(私市)は、サッカー場ほどの広さの神殿の丘の上で、岩のドームを眺めながら、そんなことを考えて、しばらく立っていました。辺りには誰もおらず、わたし独りだったからです。
【宗教的寛容】
 もしも今、イスラエルが、神殿の丘に建(た)つ岩のドームを破壊して、イスラエルの神殿を建築しようとするなら、間違いなく、イスラム諸国との戦争になるでしょう。実は、かつて、中東戦争の時に、勝利に酔ったユダヤの祭司が、この際思い切って岩のドームを爆破しようと申し出て、イスラエル軍の将校にたしなめられたという記事を読んだことがあります。
 ユダヤの国は復興したけれども、肝心のエルサレム神殿は、まだ復興していません。中東(オリエント)のイスラエルは、今こういう微妙な段階にあります。だから、アメリカの(いわゆる「ネオコン」と称される)キリスト教団体の中には、エルサレム神殿が復興する時こそが、イエス様の再臨の時だと信じる人たちが居るようです。このように、今、クリスチャンの間では、エルサレム神殿の復興とイエス様の再臨とを関連づける人たちが、少なからずいます。
 ミャンマーの仏教徒によるイスラム教徒への迫害。スリランカのヒンズー教徒と仏教徒との争い。北アイルランドのプロテスタントとカトリック・キリスト教徒との争い。イラクのシーアー派とスンニー派とのイスラム同士の争い。中国の無宗教を唱える政治権力によるキリスト教への迫害。「宗教」は、今も人類の平和を脅かす「危険性」を具えているのです。
 現在のエルサレムの神殿の丘は、こういう宗教同士の対立を最も先鋭な形で、私たちに悟らせてくれる「聖地」です。イエス様の再臨を待ち望むキリスト教徒として、私たちはここで、「宗教的寛容」こそが、これからの福音の大事な要因であることを悟る必要があります。
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