【注釈】(Ⅱ)
■マタイ23章
マタイ23章37~39節は、その前の34節を受けて、続く24章1~2節へつながります(したがって、今回のマタイの箇所は、内容的に、共観福音書講話177章へつながります)。マタイの今回の箇所は、先立つ23章36節で、イエスが「アーメン。わたしはあなたたちに言う。これらすべてが、今の時代(世代)に臨む(生じる)だろう」と告げているのを受けています。すでにエルサレムの滅亡(70年)を目(ま)の当たりにしたマタイには、「これらすべて」に、(イエスの時にはまだ生じていなかった)エルサレムとその神殿の崩壊、さらにユダヤの滅亡とが含まれてくるのは自然です。しかも、その悲劇が生じる「今の世代」とは、マタイにとっては、イエス様語録が言う 「今の世代」ではなく、1世紀末のユダヤの罪過に対する「裁き」への責任を負う自分を含む「今の世代」になりましょう。マタイには、エルサレムの滅亡こそが、「終末的な裁き」だと映っていたと思われます。
[37]【エルサレム、エルサレム】このような二重の呼びかけは、通常のギリシア語の用法ではありません。セム語の用法からでしょうか?(使徒言行録9章4節を参照)。マタイ=ルカの「イエルーサレーム」(Ierousareem)は、イエス様語録からです。語録では、この綴りは七十人訳に見られるもので、ユダヤ人がギリシア語で表わす場合に用いる綴り方です。イエス様語録では、「エルサレム」へのこの綴り方はここだけです〔マーシャル前掲書116頁/575頁〕。
【預言者たちを殺し】過去にも、主(ヤハウェ)は、イスラエルに預言者たち遣わしましたが、イスラエルは、預言者たちに逆らい、「自分たちに遣わされた預言者」を殺したとあります(エレミヤ書2章30~31節/ネヘミヤ記9章26節)。イエス様語録はこの事を踏まえていますが、これに、イエス自身に起こる受難の出来事が重なります。マタイ21章34~39節でも、同じ事が、イスラエルへの終末的な裁きを帯びて語られます。
【自分に遣わされた人々】文頭の二重の呼びかけと共に深い悲しみと憤りを帯びています。受動態は、派遣が神によることを示す「神的受動」"divine passive"です〔W.D.Davies and D.C. Allison. Matthew 19--28. Vol.3. ICC. T&T Clark.(1997)320〕。
【石で打ち殺す】歴代誌下24章21節/マタイ21章35節/ヨハネ8章59節/使徒言行録7章57~58節を参照。
【めん鳥が雛を】ギリシア語の「オルニス」は、雄鳥(おんどり)と雌鳥(めんどり)の両方を指します。「雌鳥」という訳はルター(と「ウルガタ訳」)にさかのぼるもの〔ルツ前掲書〕。雌鳥が雛を集めるという母性的な愛情の譬(たとえ)は、旧約時代から受け継がれて(ルツ記2章12節/詩編17篇8節/同36篇8節/同61篇5節など)、イエスの時代にも広く行き渡っていました。最初期のキリスト教会もこの母性愛を受け継いでいます(ガラテヤ4章23~27節を参照)。
【何度も】共観福音書では、イエスは、受難の時に1度しかエルサレムを訪れていません。しかし、ヨハネ福音書では、洗礼者ヨハネの頃にもイエスがエルサレムを訪れたとあります(ヨハネ4章1~3節)。しかし、イエスが、旧約時代からの「知恵」の伝統に従って、天の父の語り手として、「わたし」言葉でエルサレムへ語っていると解釈すれば、「幾度となく」は、エルサレムの全歴史を指しますから、問題は解決します〔デイヴィス前掲書321頁〕。
【集める】旧約聖書では、散らされたイスラエルの民が、終末に再び一つに集められることを指しますが、それは同時に、異教の諸民族が、主(ヤハウェ)の導きのもと、エルサレム神殿に詣(もう)でる時にもなります。なお、ここでは、エルサレム神殿が、「神の臨在/宿り」(ヘブライ語「シェキナー」)の場であることにも注意してください。
【応じようとしなかった】原文は、「受け容れる意志がなかった」「受け容れることを欲しなかった」です。イエスが、イスラエルの知恵伝承を踏まえて語っているとすれば、ここで、神の知恵が、その「宿りの場」としてイスラエルを選んだ(とりわけエルサレム神殿)とあるのを踏まえているでしょう(シラ書24章5~8節)。そのエルサレムが、「知恵の人イエス」の訪れに「応じようとしない」ことへの深い悲しみが伝わってきます。
[38]この節は神殿破壊を含む審判の言葉です(ラテン語エズラ記9章1~25節を参照)。
【お前たちの家】「見捨てる/放置する」も「お前たちの家」も語録からです。(イエスは)エレミヤ書2章7節「私は私の家を捨て相続地を見放し私の愛する者をその敵の手に渡した」を踏まえて語ったのでしょう。主なる神が「私の家」と言うのは 「エルサレム神殿」(イザヤ56章7節/ゼカリヤ3章7節/マラキ3章10節/)、あるいは「イスラエルの国と民」(民数記12章7節/歴代誌上17章14節/ゼカリヤ3章7節)を指します。イエス様語録のイエスは、ここで「エルサレム」に呼びかけていますが、「家」は、とりわけ、エルサレムの「神殿」を指すと思われます(マタイ21章13節と24章1~2節を参照/ヨハネ2章16~17節を参照)。ここ38節では、神殿が、神の臨在する「私の家」ではなく、「お前たちの家」と呼ばれます。
【見捨てられる】戦火に巻き込まれた市街のように、見るも恐ろしい荒廃した有様のことです(現在形に注意)。70年のエルサレム崩壊を思わせます〔デイヴィス前掲書321頁〕。主に従わなかったイスラエルの神殿が「見捨てられる」ことは、すでに列王記上9章6~9節で、主がソロモン王に語った言葉で預言されています。ヨセフスの『ユダヤ戦記』(6巻299~300節)によれば、ペンテコステの祭り(この年は6月8日)の時に、祭司たちが神殿の壁の内側の庭に入ると、武器のようなものがぶつかり合う音がして、「さあ、われわれは、ここから立ち去ろう」という声が聞こえたと伝えています〔フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ戦記』(3)秦剛平訳/山本書店(1990年)170~71頁〕。
[39]【言っておく】イエスがエルサレムに向かって「言葉を強めて」(「だからはっきりと言う」)預言する言葉ですが、これは「近い将来を含む」未来への」預言です。
【今からわたしを決して目にしない】受難を目前にしているイエスの現在から見れば、エルサレムはイエスを「見失う」ことになりますが、ここには、イエスの復活さえも「見失う」エルサレムの悲劇が示唆されています。復活を見ることがないエルサレムが、次に「イエスを見る」(ギリシア語で「パルーシア」"parousia"と言います)のは何時なのか?これが、次に続きます(使徒言行録1章11節/ヨハネ16章16節参照)。
【主のみ名によって・・・・・】詩編118篇26節からの引用です。この言葉は、はるばる巡礼に訪れたイスラエルの人(たち)を祭司がエルサレム神殿へ巡礼を迎える際に、あるいはエルサレムの住民たちが巡礼者たちに、告げていた祝福の言葉です。これは、イエスのエルサレム入城に際して、民衆がイエスを迎えた時の言葉です(マタイ21章9節)。ところが、ここでは、イエスを長らく見失っていたエルサレムが、イエスの再臨に出遭って、言わばイエスを「終末の審判者」としてを迎える場面になります。
いったい、39節は、「裁き/審判」の言葉でしょうか? それなら「祝福」が語られることがないはずです。それとも、(終末には)エルサレムが「救われる」ことを指すのでしょうか? それなら、ユダヤ教の伝統的な解釈では、「主の訪れの日」に、「悪しき者たち」(エルサレム?!)は「裁き」を恐れるはずです〔デイヴィス前掲書323頁〕。
筆者(私市)は、イエス様語録から判断して、この言葉は、イエスを見失っていたエルサレムが、終末には、イエスと出逢うことによって、悦びを見いだすことを預言していると解釈します(シラ書48章24節)。この点では、とりわけ、次の言い方が注目されています。
【時まで】ここは、イエスの再臨の時にはエルサレムが祝福を受けることを指すのではなく、「もしもあなたたちが、イエスを祝福して迎え入れる時が来るのならば」、その時に初めて、イスの再臨が生じることを言おうとしている。このように解釈する説もあります。「時まで」とは、「もしも・・・・・するなら」という条件だと見なすのです〔デイヴィス前掲書323~24頁〕。
【あなたたちは言う(であろうか)】次の三通りの解釈が想定されます〔ルツ前掲書457頁〕。筆者(私市)は(1)の説に従います。
(1)イエスが再臨する時には、エルサレムもイエスを歓迎するようになる。
(2)エルサレムがイエスを歓迎する時になって初めて、イエスの再臨が顕われる。
(3)イエスの再臨の時には、今は頑なに拒むエルサレムでさえ、イエスの裁きに出遭うことで、恐れおののき敬意を表する。
■ルカ13章
今回の箇所に先立つルカ13章31~33節では、イエス(預言者)とヘロデ(権力者)とファリサイ派(宗教指導者)が出てきます。ルカは、イエスの「悪霊を追い出し病を癒す」善い業が、何処までも「歩みを進める/成功のうちにはかどる」と告げますが、その歩みは、神の不思議なご計画によって、最終段階において、預言者のエルサレムでの殉教によって成就するのです。ルカが、イエスを「預言者」と見なすのは、語録集によるもので、ルカほんらいの見方ではありません。神からの特別の預言者イエスが殉教を通じて「メシア」とされる場は、「エルサレム」以外ではありえない。ここには、福音の歴史的展開を視野においた「エルサレム」へのルカの特別な想いがこめられています。
[34](マタイと同様に)神から遣わされた預言者イエスが、神からの「知恵の御霊」にあって語っています。「預言者たちを殺す」「石で打ち殺す」は、先立つヘロデ(権力者)とファリサイ派(偽預言者/偽教師)を念頭においているのでしょうか。「石で打ち殺す」は、正式の裁判による処刑を意味します。語句はマタイ福音書と一致しますが、「雌鳥が、その翼の下に雛を集める」が、マタイとはやや異なる言い回しです。
【応じようとしなかった】ルカは、とりわけ列王記下21章(1~15節)のマナセ王と預言者イザヤとを念頭においていたのでしょうか〔ボヴォン前掲書328頁〕。
[35]【お前たちの家】イエス様語録のイエスは、神殿への巡礼の場であるエルサレムを「預言者たちの死に場所」と見ていました。マタイは、「家」がエルサレム神殿を指すと考えていたと思われます。しかし、ルカは、すでに滅んだイスラエルの国を想いながら、この「家」が、エルサレムの町と住民たちを指すと見ていたのではないでしょうか(ルカ13章27~30節を参照)〔マーシャル前掲書576頁〕。ルカは、イエス・キリストが「御国の王」として、エルサレムを再び訪れることを重視しています。
エルサレムのために嘆くへ