48章 誓いについて
マタイ5章33~37節
【聖句】
マタイ5章
33
「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。
34しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。
35地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。
36また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。
37あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者〔悪から〕から出るのである。」

【注釈】

【講話】

■誓ってはならない
   イエス様の時代、神にかけて誓ったことは必ず果たさなければならない。しかし「地」だとか「自分の髪の毛」にかけて誓った場合は、たとえ守らなかったとしても罪にはならない。こんな使い分けがあって、かなりいい加減な誓いが行われていたようです。それでイエス様は、「守る」「守らない」の区別なしに、誓いは神様に向かってすることだから、誓いにそのような差をつけてはならない。そもそも「誓う」こと自体が、「誓わない」場合と比較して、自分の言葉の真実性に重みを持たせる意図がある。けれども、神の御霊を宿し、神の御前で語る人は、いついかなる場合でも真実を語るべきであり、したがって、そういう人には、誓いはいっさい要らないはずだから「いっさい誓うな」と言われたのです。
 さてこの教えとキリスト教会との関係で言いますと、この教えは、初期のキリスト教の教会ではあまり知られていなかったためか、必ずしも守られませんでした。パウロは手紙の中で誓っていますし、キリスト教がローマ帝国の国教になってからは、国家の官吏などは皇帝に誓いを立てていました。中世のキリスト教の騎士たちもいろいろな場合に誓いを立てています。ルターは、教会の領域と国家の領域を区別して、教会では誓いを否定しましたが、国の行政に携わる人のような場合には、誓いを認めました。イエス様の教えをそのまま守ると、大学に入ったときに、入学の宣誓をすることができなくなるし、高校野球の時に「宣誓」と言うこともできなくなります。私たちも、日常の生活の中では、誓いがどうしても必要なことがあります。結婚式もそうです。けれども、クリスチャンの間では誓いは要らないのです。
■御霊にあって語る
 では、「いっさい誓ってはならない」というイエス様の教えは、あまり意味がないのか言いますと、決してそうではないんです。終わりのところに「然り、然り」「否、否」とだけ言いなさいとイエス様が教えていますね。これは、私たちが、「はい」と言う時にははっきりと言い、「いいえ」と言う時にもはっきり言いなさい。神様を信じている人は、その心の中に、神様の御霊を宿しているんです。だから、人の前でも御霊に導かれるままに語る。これがとても大切です。この場合、「語る」というより「語らしめられる」というほうがあたっています。だからこれはどうにもならない。神様の御霊にあって、神様と共に語っているのなら、それ以上神様に誓う必要がない。これが「アーメン」と言うことです。昔の日本でも「武士に二言はない」と言いましたが、いったんこう言ったら、誠実にその通りに実行する。御霊に導かれて、御霊の導きを信じて語る。これが、誠実な語りかたです。
 この問題についてもうひとつ考えなければならないことがあります。それは、私たちに未来のことは分からない。今日これを約束したけれども、あるいはこう言ったけれども、ひょっとしてそうはならないかもしれない。出来事が起こるその「時」は、神様のみ手に握られていて、私たちはその神様の御手に委ねて歩んでいます。明日がはたしてどうなるか? これは誰にも分からないです。だからどのような場合でも、「御心のままに」という気持ちです、これを忘れてはいけません。「あなたがたの髪の毛を、一筋でも白くすることも黒くすることもできない」とあるのはそういう意味です。私たちは、御霊にあって語ります。しかし、それは絶対にそうなるという意味ではない。自分に与えられた御霊の導きは「絶対だ」こう信じるのは危険なんです。その時その時、誠実に、正直に、与えられたままを語ります。しかし御心に委ねるということを忘れずに発言しなさい。そうすれば、主はちゃんとあなたを導いて、「恥をかく」ことがないようにしてくださいます。イエス様はこのように教えていらっしゃるのだと思います。主のみ名によって御霊にあって発言する。これだけです。それ以上、ああだ、こうだとくどくど言う必要はないのです。
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