【注釈】
■マタイ5章
「誓い」について語るのはマタイのみです。全体の構成を見ると、33節に旧約からの引用があり、これに対立する形で、34節に「いっさい誓いを立てるな」とあります。続いて34節~36節で「天にかけても・・・なぜなら・・・神の玉座(イザヤ66章1節)・・・/地にかけても・・・なぜなら・・・神の足台(イザヤ66章1節)・・・/エルサレムを指しても・・・なぜなら・・・大王の都(詩編48篇3節)・・・/あなたの頭にかけても・・・なぜなら・・・髪の毛・・・」という構成になっていて、最後の37節では、「然り、然り」「否、否」で締めくくられています。
この段落全体のもとの形としては、ヤコブ5章12節があげられています。「なぜなら」以下の旧約からの引用は、後から追加されたものでしょう。また36節「あなたの頭にかけても」以下には旧約の引用がないから、この節はさらに後からの追加でしょうか。37節の意味がやや不明ですが、これもヤコブ書5章12節をマタイ流に言い換えたものと思われます。
[33]【偽りの誓いを立てるな】33節の旧約からの引用は、一見するとモーセ十戒の「偽証してはならない」(出エジプト20章16節)を踏まえているように見えます。しかし十戒の「偽証」は、裁判の際に誓いを立ててから嘘を言うこと、つまり偽証罪のことを指しています。ところがイエス様が「偽りの誓いを立てるな」と言うのは、裁判の際の偽証のことではありません。ここでは「一度誓ったならその誓いを破るな」「主に対して誓ったことは必ず果たせ」という一般的な「誓いの成就」を指しているのです(レビ19章12節/民数記34章3節/申命記23章22~24節)。
[34]【一切誓いを立ててはならない】イエス様の時代、直接神の名によって誓うのは畏れ多いとされていたから、この名を避けて、その代わりとして「天」「地」「エルサレム」「神殿」「祭壇」「神殿の黄金」などが誓いの際に用いられ、また、これらのどれを用いるかによって、誓いの尊厳と神聖さにも差がつけられていました(マタイ23章16節~22節を参照)。このためこのような「誓いのランク付け」は、誓いを軽く見る日常的な乱用を生み出す結果になったのです。イエス様は、このような誓いの乱用と段階付けを根底から否定して、いっさいの誓いは「神の名によって」行うのと変わらないとしたのです。彼の誓いの禁止は、そこから発していて、それは誓いそのものが持つ尊厳を否定するものではなく、これの神聖さをいっそう際立たせるためでした。
シラ書23章9~11節は、誓いを慎むように教えています。誓いは、結果として自分の言葉の真実性に区別をつけることになります。したがって、常に誠実で賢明な人間は、自分の内に神を宿しており、それゆえに誓いは必要ないはずです。ヘレニズム世界では、自分以外のものに頼って誓いを立てるのは、自由人にふさわしくない行為であるとされるほどでした。日本で言う「武士に二言はない」がこれに当たるでしょうか。イエス様の時代でも、エッセネ派の人たちは、このような考えから誓いを否定していました(ただし入団の際の誓いは行われた)。イエス様はここでも、誓いの尊厳を内面化して、ひとりひとりが神の前に良心をもって語るならば、誓いは要らないと言っているのです。
[36]この節は後から追加されたのでしょう。ここはたとえ身じかな自分の身体でも神に支配されていて自分の意のままにはならないことを言いたいのです。したがって、未来のことは、たとえ約束しても、それは自分の力の及ぶことではなく、神のみ手にあるのだから、「御心ならば」として主のみ手に委ねるべきことを教えています。内容的に前の二つの節とは異なっていて、人間の無力さを表しているともとれます。
[37]【「然り、然り」「否、否」】これの意味も明確でありまえん。イエス様の時代のラビの教えでは「然り」あるいは「否」を二度繰り返すことは誓いに相当するとされていたが、ここはその意味でないのは明らかです。二度繰り返してあるのは、ヘブライ語の強勢語法をギリシア語で表現するためかもしれません。ヤコブ書5章12節では「然りを然りとし、否を否とせよ」とあり、マタイのここの意味もこれと同じだと思われます。自分の言葉には、神にある誠実さと責任をこめて、率直に簡潔に「はい」あるいは「いいえ」と言えば十分だという意味です。パウロが第二コリント人への手紙(1章17節以下)で言う「然り」もこの意味です。ちなみにイエス様は、ピラトの尋問に対して「それは、あなたの言っていることだ」(マタイ27章11節)と答えています。このイエス様の答えは、決して相手を否定しているのではありません。相手の発言を否定せずに、その責任を相手に負わせているのです。
【イエス様の教えとキリスト教会】イエス様の誓いについての教えは、初期のキリスト教では、あまり知られていなかったようです。パウロは、手紙の中で誓いの言葉を用いています(ローマ人への手紙9章1節/コリント人への第二の手紙1章23節/ガラテヤ人への手紙1章20節)。キリスト教がローマ帝国の国教になってからは、皇帝への忠誠の誓いや、官吏としての誓いがなされるようになりまし。しかし中世でも、カタリ派やヴァルド派など、異端とされたが清潔を重んじた人たちは、イエス様の教えを文字通りに守ったのです。ルターは教会と国家との領域を区別して、国家(教会以外の世俗)の領域では誓いが認められるとしました。しかし、プロテスタントでもクエーカ教徒たちは、誓いを否定しました。