50章 非暴力について
マタイ5章38〜42節/ルカ6章29〜30節
【聖句】
イエス様語録
1だれかがあなたの頬を打つなら、別の頬をも向けなさい。
2あなたを訴えてあなたの下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
3だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。
4求める者には、与えなさい。あなたから借りようとする者からそれらを取り返そうとしてはならない。

マタイ
38「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
39しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
40あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
41だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。
42求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

ルカ
29あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。
30求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。

【注釈】

【講話】

■個人の場合
 マタイが語っている「悪人に手向かうな」は、もともと「敵を愛する」というところで語られていたイエス様の教えです。非暴力も無抵抗もこの「愛敵」の精神がないとできません。でも敵を愛するのは難しいです。一番難しい。私は敵を心から愛するなんてとてもできないから、無抵抗主義はだめだ、ということにもなるわけです。おそらくこういう私たちの思いと関係があるのでしょうか、マタイは、この部分を抜き出して、「悪に逆らうな」という非暴力、暴力に対して暴力で復讐してはならないという教えの中に入れたのです。たとえ敵を愛することそれ自体は難しくても、暴力に対しては決して暴力で抵抗してはいけない。こう言いたいためだと思います。
 どこまで本格的に無抵抗・非暴力を貫くのかという問題は、イエス様の神の国を現実のものとするのかそれとも終末的なものと理解するのか? これにかかってきます。神の国とは聖霊の現臨のことですから、言い換えると、御霊のご臨在がどこまで現実のものとなるか、それとも終末的な希望に留まるのかにかかってきます。神の国の現臨か終末かと並んでもう一つ大切な要因は、その御霊にある神の国の現臨が、どこまで個人化するかということです。組織や教団や政党や国家の形態で非暴力とか無抵抗と言ってもあまり意味はないと思います。個人個人が、個々のケースによって、御霊にある非暴力を貫くところから出発しなければなりません。そこから生じる共同形態こそほんものです。
 ではなぜ、暴力に対しては暴力で抵抗してはいけないのでしょうか? ひとつ考えられることは、暴力に暴力をもって応じるならば、その応じた側も、暴力をふるう側と同じレベルの人間にされてしまうということがあります。「けんか両成敗」という言葉があるように、自分が憎んでいる相手のやるとおりにこちらもやっていると、いつの間にか自分の姿が、相手の暴力の姿と同じになってしまう。ですからこれを避けるためには、相手の暴力から自分の身だけではなく、自分の心も守らなければならない。自己の霊的な人間存在が失われないようにしなければならない。こういう意味です。
  暴力には、言葉と行為と両方あると思いますが、ではどうすれば、自分に敵対する暴力から身を守ることができるでしょうか? これは個人的な場合ですが、まず、外から働きかける暴力です、これから、自分の霊的な内面性を切り離してしまう必要があります。祈りと主様の御霊の力によって、自分の内面を外から来る暴力的な働きかけから切り離す。こういう心境です。禅宗のお坊さんで、武田信玄の師でもあった快川和尚の寺に信長が火をつけた時に「心頭を滅却すれば火もまた涼し」と言ったそうですが、これも、自分の内面と身体の外側で起こっていることとを切り離して、初めてこういうことが言えるのでしょう。
 ではどのようにしてそれが可能になるのでしょう? それは、敵対する暴力をふるう相手の奥にあって、彼を操っている本当の「悪の力」を見分けることです。「悪人」に手向かうなとありますけれども、実はここは「悪」に手向かうなとも読むことができるのです。わたしたちはここで「人」と「悪」それ自体とを区別する必要があります。本当に戦わなければならないのは、実はその人ではないんだということを知る必要がある。その人を操りその行為をさせている悪の力を見抜く霊的な知恵が必要です。悪に操られているその人は、自分が何をしているのかを知らないからです。この点を御霊にあって見抜くことが大事です。イエス様が、十字架の上で「父よ、彼らを赦して下さい。彼らは自分のしていることを知らないのです」と言って祈られたのはこのためです。これによって本当の悪と初めて戦うことができます。
 だからパウロはこう言っています。「私たちにとって<たたかい・葛藤>とは血肉を具えた人間とではありません。世界を支配するもろもろの霊力、もろもろの霊能、この闇の世を動かすもろもろの霊的な力、もろもろの天体を動かす悪の霊どもなどとの格闘なのです」(エペソ 6:12・私訳)。「人間」とではないと言っているのは、人間と無関係だという意味ではありません。この世界には様々な霊的な力が働いていて、それが人間に働きかけています。時にはそれがフセインのような地上の支配者になったり、権威を帯びたカルト宗団の指導者になったり、世間を操りデマや悪口を流すメディアの働きをしたり、人に悪い運命をもたらす悪の力(占星術で災難をもたらす天体の動き)となったりします。人それぞれの個人的な罪とも関係します。このように、一見人間を通して働いているように見えるけれども、実はその奥に見えない力があって、霊の人というのは、そういう霊的な力を見抜いて、「それと」格闘する。こういう意味なのです。
 これによって本当の悪と初めて戦うことができます。こういう信仰の根元にあるのは、言うまでもなく十字架によって罪赦されて、イエス様の御霊の愛に護られ導かれているということがあります。イエス様こそ、まず敵を愛する御霊によって、私たちを救ってくださった。このイエス様に自分自身をお委ねして初めて、わたしたちにも「非暴力」への道が開かれると言うことができます。少なくとも暴力それ自体を憎む精神(付記7を参照)をしっかりと根付かせることが大事だと思います。イエス様の御霊にいっさいをお委ねして、御霊の風に吹かれ、その風に乗せられて、自己の内に働く悪の力から解放される。これが御霊にあるクリスチャンのほんとうのあるべき状態なのです。
■神話と暴力
  しかし、暴力には、個人の場合だけでなく、民族や国家による暴力もあります。いわゆる戦争の暴力、軍事力です。次にこの点を考えてみましょう。ギリシアやローマの神話、あるいは日本の神話でも、実はその奥には恐ろしい人間の罪や暴力が、隠された姿で潜んでいることが多いのです(注釈の付記1を参照)。これは神話だけでなく、おとぎ話やグリム童話のような場合でも同じです。子供にもわかる楽しい形ではありますが、過去のさまざまな恐ろしい体験や暴力とその犠牲の物語がそこで伝えられているのです。日本の童歌(わらべうた)などもそうです。このような恐ろしい暴力は、国家や民族ぐるみ、共同体ぐるみの暴力の形をとっています。だから神話は、過去の恐ろしい暴力を「伝える」と同時に、その本当の姿を「隠している」とも言えます。そういう体験を伝えること自体は大事だと思うのですが、問題は、そのようにして神話化された暴力を賛美することによって新たな暴力とその犠牲を生み出すことにつながるおそれがあることです。
  ナチスの時代に、ゲルマンの神話は、ドイツ民族主義の高揚に利用されました。太平洋戦争では、日本の神国思想と神風神話は、特攻隊を生み出し、国民の戦意をたかめるのに利用されました。戦場で死んだ兵士たちを祀る靖国神社も、やはり国家の軍事力という暴力の犠牲になった人々を祀っています。国家的な暴力の犠牲者は、戦場で死んだ兵士たちばかりでなく、原爆の犠牲者も日本兵によって殺された中国の犠牲者も同じですから、これらを全部ひとまとめにして祀るのであれば、問題ないでしょうが、靖国神社には、戦場で死んだ「日本軍の兵士」だけが祀られています。しかもその中に戦争の責任者たちも含まれているために、総理大臣の靖国参拝が、毎年日本や韓国や中国で問題にされるわけです。靖国神社の参拝が、死者の追悼のためだけであれば、鎮魂の意味があります。ところがその行為が、「靖国の英霊」を称えてこれを賛美することで、再び同じような国家の暴力の犠牲者を生みだす仕掛けとして機能をすることがないのか? こういう懸念があるから、日本でも韓国でも中国でも反対の声が絶えないのです。このように、暴力と犠牲を潜ませた宗教や神話や伝説は、その同じ暴力と犠牲を国家ぐるみ民族ぐるみで、再び生み出すための仕掛けとして、祭儀的に利用される危険があります。これを逆に見るならば、神話や伝説は、そういう暴力を美化して同じ働きを再生させるのに適した形を帯びているとも言えましょう。
 ところが、このような暴力の機能とこれによる犠牲を覆い隠すことなく真正面から取り上げてこれを追及してきた宗教があります。それが聖書の宗教です。聖書で扱われている神話・伝説・物語には、カインによるアベルの殺人物語に始まり、個人、部族、民族、国家、宗教共同体による相互の暴力とその犠牲が隠すことなく語られています。その中でも特に、国家権力と宗教的権威がつくり出す暴力とその犠牲が、最も明確な姿で語られているのが、新約聖書の福音書です。ここでは暴力とその暴力による犠牲が、イエス様の十字架というはっきりとした形をとって、語られ暴かれていて、その犠牲の意味を追求してゆくことが、キリスト教にとってきわめて大事なことになっています。
 ですから、新約聖書の宗教は、暴力と暴力による犠牲については、きわめて敏感です。どうすれば、人間の様々な暴力とこれによる犠牲を食い止めることができるのか? これが、イエス・キリストの十字架の大事なテーマとされているのです。イエス様の十字架こそが、暴力による犠牲を食い止める大きな働きをしていることを私たちは知らなければなりません。ここから、「非暴力」(nonviolence)ということが語られるようになりました。暴力に対しては暴力で対抗せずに、これに抗議する方法が生まれてきたのです。キリスト教と非暴力とは、深いつながりがあります。今日の聖句は、そのスタートとなる箇所です。
■戦争と非暴力
 初代の教会では、イエス様の教えた非暴力への信仰が保持されていました。しかし、アウグスティヌスの時代になって、教会と国家とがひとつになる頃から、キリスト教国家を守る正義の戦争という考えが生まれてきたのです。ところが16世紀から17世紀にかけての宗教改革で、カトリックとプロテスタントとが血みどろの戦争をします。この頃に、キリスト教の戦争観がまた変わります(注釈の付記2を参照)。
 しかし19世紀に非暴力を唱えた人で有名なのが、ロシアの文豪トルストイです。このトルストイは、インド人のガンジーが進めていた人種差別撤廃の非暴力の抵抗運動に深く共鳴しました(注釈の付記3を参照)。ガンジーは、インド独立運動のためにもこの非暴力を貫きました。20世紀になって、そのガンジーの思想を受け継いだのが、公民権運動のキング牧師です。さらに、旧ソ連の支配下にあった東ドイツでも、教会を中心にした非暴力運動が大きな力を発揮しました。この運動によって、ついにベルリンの壁が崩壊して、東欧の人たちは自由を勝ち取ったのです(注釈の付記4を参照)。
 現在は、イラク戦争をめぐって、アメリカの軍事力の行使に対してさまざまな批判がなされています。アメリカのキリスト教会では、この問題をめぐって戦争前から論じられています(注釈の付記5を参照)。アメリカの軍事力によるイラク攻撃を正当化する教会、これに批判的な教会、あるいは条件をつけた上でこれを認めている教会など、教会の意見はいくつかに分かれていて、分裂している印象を受けます。日本も今、米英に追従して軍隊をイラクに派兵することが審議されていますが、日本の国内では意見が分かれています。
 非暴力の抵抗に対しても、やはりひとつの限界があることもまた事実です。ナチスの時代に、ボンヘッファーというドイツの若い神学者が、ヒットラーの暗殺計画に参与して、このために殉教しました。先に「殺すな」とあるところでお話ししましたが、国家権力や宗教的権威による組織的な暴力は、聖書が最も憎むものです。わたしはこういう特別の場合には、武力による抵抗もやむを得ないと思っています。
 イラクに限らずアジアでも、現在イスラム原理主義によるテロがインドネシアやフィリピンで起こっています。このため現在、イスラム教徒はテロリストの仲間だ、という見方が世界的に広がりつつあります。しかし、7月10日のBS23で、マレーシアのマハティール首相の後継者と見られるアブドラ副首相が、日本を訪問して、NHKの記者によるインタヴューの中で、イスラム過激派(テロリストたちのこと)は、イスラム教を「ハイジャック」していると言っていました。そして真のイスラム原理主義は、平和で穏健であるから、民主主義と決して矛盾するものではないと語っていました。アジアにおけるイスラム教のこのような動きに注目したいです。暴力に訴える過激なイスラム教徒と平和を目指す穏健で民主的なイスラム教徒とをはっきりと区別することが大事だと思います(注釈の付記6を参照)。また、キリスト教の側が、仏教やイスラム教徒やヒンズー教徒を敵視したり、宗教的な対立を招くような言辞や行動をとることは厳に慎むべきであると思います。このことは、特に今後のアジアにおいて、大事な意味を持っていると考えてください。この意味で、「暴力それ自体を憎む」こと、これを子供たちに教えるのを忘れてはならないのです。
 日本は敗戦以来、「平和憲法」を守り通してきました。誰がなんと言おうと、この憲法を守ってきたのは、私たち日本人です。敗戦の教訓から学んだ「私たち日本人」です。そしてこの憲法の下で、日本は未曾有の経済的な発展を遂げることができました。ダレがなんと言おうとこれは紛れもない事実です。私は、神様がこの国の非暴力とその憲法とを支えてくださって、これを祝福してくださった。こう信じています。
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