【注釈】
■イエス様語録
  非暴力は、マタイとルカの両方にあって、愛敵と切り離すことができません。しかし、愛敵の部分は次回に譲ることにして、今回は非暴力に焦点をあてます。ところが、イエス様語録の非暴力の部分は、これが本来置かれていたイエス様語録の文脈では、マタイよりもルカのほうに近いのです。ルカでは、この部分が、6章27〜36節の「敵を愛する」教えの中に置かれていますが、これがイエス様語録1〜2の本来の文脈なのです。しかし一方で、イエス様語録の語句それ自体のほうは、マタイに近いのです。

■マタイ
  したがってマタイは、ルカと重なる部分、すなわちマタイの5章39節と42節とをイエス様語録本来の「敵を愛する」文脈からはずして、ここ非暴力の文脈に組み入れたことになります。同じようにマタイは、7章12節前半の黄金律をイエス様語録本来の文脈からはずして(ルカ6章31節のほうは、黄金律がイエス様語録と同じ「敵を愛する」文脈にあります)、「求めなさい」の締めくくりとしています。ところが、イエス様語録のテキストは、マタイとほとんど共通していますから、マタイは、イエス様語録の語句を変えることなく、それを本来置かれていた文脈からはずして、非暴力の教えとしていることが分かります。その上でマタイは、イエス様語録に加筆しています。例えばマタイの5章38節と39節前半と43節は、彼のイエス様語録への加筆です。だが、マタイの5章42節は、前の三つの節とは内容がやや異なっていて、具体的なことから、より普遍的な内容へと移っています。マタイはこのように、具体的で厳しい内容を語りながら、ややこれを緩める普遍的な内容を織り込むことを忘れないのです。5章37節の場合でも、この節は、やや「軽い」誓い方を意味するとも受け取れます。そうであれば、マタイは、イエス様の「厳しい」教えをやや緩和して、マタイの教会の実情に合わせたことになります。

マタイ5章
[38]目には目を、歯には歯を出エジプト記21章18〜37節には、他人に与えた危害に対する償いの仕方が細かく決められていて、この引用はその中のひとつからです(21章24節)。このような償いの思想は、古代の西アジアのハンムラビ(ハムラビ)法典にまでさかのぼるとされています。注意しなければならないのは、これらの規定が、おそらくハンムラビ時代でも、刑罰や処罰を目的とすると同時に、弱者を圧政から護ること、あるいは個人や集団による行きすぎたリンチを防ぐ意図もあったことです。すなわち、処罰規定は、その規定を越えてはならないという加害者保護の意味でもあったのです。「目には目を」が、あたかも復讐の原理であるかのように解釈されることがありますが、これは誤解です。この視点から判断するなら、イエス様の赦しと非暴力の教えは、旧約の規定の否定というよりは、それらの規定が本来意図していた公正と保護の原理をいっそう徹底して内面化したことになります。すでに見てきたとおり、マタイ5章のイエス様の教えには、旧約の内面化と否定との両方の場合がありますが、実は内面化を徹底させるなら、究極においては否定につながることを洞察しなければなりません。
[39]【右の頬を打つなら】39〜41節は、イエス様の言葉に由来すると考えられます。平手で打つ場合、左利きの人でなければ右の頬を打つことができません(ルカで「右の」が抜けていますのは、このためか)。したがってここでは、手の甲で相手の右の頬を打つことを指すという解釈があります。手の甲で打つほうが、平手よりもいっそう強く相手を侮辱する打ち方でした。しかし、あまり字義どおりの解釈にこだわるとイエス様の格言的な話し方を誤解することになります。こういう暴力は、相手に痛みを与える(子供を叱る場合のように)というよりは相手を人格的に侮辱する行為となるのです。
[40]【上着をも取らせなさい】借金の負債を返すことができず、訴訟で文字通り「身ぐるみ剥がれる」状況を考えています。先に「下着」を取り上げるのは、上着は貧しい人たちには寝具の代わりでもあったから(出エジプト22章25〜26節参照)、これを取り上げることは禁じられていたからです。当時のパレスチナでは、ヘレニズム政策と同時に経済的にも大土地所有制が進み、小農は借金を返すことができず、「身ぐるみ剥がれる」場合があったと思われます。このような不当な圧政によって惨めにされた人たちに向かって、イエス様は、そういう不当な圧制者に逆らうなと言うのです。先の富める者と貧しい者、幸いな者と不幸な者との対比がここでも先鋭化されています。
 マタイの場合は、パレスチナでの訴訟の場合を考えていますから、まず下着を取り上げます。これに対して、その上着も付けてやれと言っているのです。ところがルカの場合は負債のカタとして取られるのではなく、強盗によって奪われる場合が想定されています。強盗の場合は、まず上着を先に奪い、それから下着をも奪うことになります。おそらくルカは、ヘレニズム世界での道路上の追いはぎを頭に置いているのでしょう。
[41]【一ミリオン行くように強いる】「強いる」は古代国家が、徴兵や強制労働をさせるときの用語。ここでは、ローマ帝国による強制的な賦役を指します。1ミリオンは、ローマの1マイル、すなわち千歩のこと。
[42]【借りようとする】金銭的な貸し借りを指します。この42節とルカ6章30節とは、同じイエス様語録から出ていますが、「求める」という動詞が三者でそれぞれ異なっています。ルカのほうがより一般化した内容で、イエス様語録に近いかもしれません。

■ルカ6章
  ルカの6章29〜30節は、イエス様語録の1〜2と内容的に同じです。ルカのほうがイエス様語録本来の文脈ですから、この文脈で考えるなら、マタイが5章38〜42節で述べていることは、「敵を愛する」ことから始まることになります。ルカには、マタイにあるイエス様語録の3「重荷を背負う」がありません。ルカの時代には、パレスチナで行われていたローマによる強制労働はすでに過去のものだったからでしょう。マタイはイエス様語録に加筆し、ルカはイエス様語録から省いたと言えましょう。
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                               【付記】
■(1)暴力と聖書と神話
 「ひとりの人が死んで民全体が助かるほうがよい」という大祭司カヤファの言葉は(ヨハネ11の50)、神話的に見ると犠牲の原理をみごとに言い表わしています。こういう判断は、政治的な理念から生じるものです。政治には神話的な要素が組み込まれていますから、政治は犠牲の仕組みの上に成り立つと言えます。しかも政治は、犠牲をうまく隠蔽するように仕組むのです。こういう政治の仕組みが分かれば、犠牲のメカニズムが解明できると考えている人たちがいますが、犠牲は政治よりもより神話的な姿を見せます。ここでのカヤファは、大祭司として「いけにえ」を殺害する役割を帯びている人物です。彼の言葉で、「決定」したとありますが、この「決定」とは、ラテン語で「いけにえの喉を切る」ことを含むのです。
  カヤファの発言には、「聖なるものに対する迫害」がみごとに言い表わされています。そして聖書は、このような迫害への欲望と誘惑に抵抗する力を与えるものです。福音書は、あらゆる神話や宗教や哲学の総合に屈することなく、神話と政治のうちに隠されている迫害的な要素が、「非真理・偽り」であることを暴くのです。混沌状態では、警官も群衆に融合して(非差異化)「聖なる犠牲者」を血祭りにあげ、その行為によって、政治的権力が再編成されることになります。こうしてカヤファもピラトも一致して「十字架に付けよ」と叫ぶ群衆とひとつになるのです。フランス革命もマルクル革命も「奴等が滅んで共同体が滅びないほうがいい」と叫ぶのです。身代わりの山羊は、福音書では「神の小羊」となります。群衆によって海へ投げ込まれる「ヨナのしるし」がこれです。
  身代わりの山羊のテキストには二種類あります。テキストが犠牲について黙して語らないもの。犠牲者が身代わりであることを明確に語るものです。前者には、犠牲はテキストの中に組み込まれた形を取って構造化されています。後者では犠牲がテキストの主題として顕在化しています。前者が神話で、後者が福音書です。これが神話と聖書との区別なのです。だから福音書は、聖書と他の神話との区別を明らかにするのです。聖書の神話では、犠牲が隠された姿で神話化させるのではなく、これを主題としてはっきり提示します。聖書のキリスト教とは、このようにして、原始的な迷信への勝利となるのです。福音書の宗教は、あらゆる神話が語るのと同じことを、すなわち、共同体の基礎となった「殺人」を語っています。しかも福音書は最も原初的な神話に似ているのです。なぜなら、現代の進化した神話化は、集団による殺人を巧みに変容させているからです。聖書がほかの宗教と異なるのは、その神話を語るのに<違った様式>を用いている事である。暴力の表象を明らかにするためには暴力との関係で肯定否定にかかわらず共犯者であってはならないのです。イエスは迫害者の暴力を認めず、また模倣によってこれに復讐することもしません。福音書は暴力の起源への回帰ではありますが、暴力を解明し破棄するための回帰であって、これを繰り返し再演するためではないのです。(ルネ・ジラール著『身代わりの山羊』184ー210)

■(2)非暴力とキリスト教会
 イエスの山上の教えは、聖霊の現在性、すなわち聖霊が今ここにきているという特徴を帯びている。イエスの、この世的に見ると非現実的な神の国の教えを支えているのは、この聖霊の現在での臨在である。テルトゥリアヌスは、このイエスの非暴力無抵抗の信仰をそのまま受け継いでいて、軍隊にキリスト教徒がいることは認めるけれども、また、キリスト教徒は、祈りによって国会に貢献することを大事にして、基本的には、剣を取る者は剣で滅びるというイエスの教えに従っている。すなわち、朽ちることのない神の国がすでに来ていることを宣言している。
 アウグスティヌスは、キリスト教的な政府には、秩序を守り、帝国を犯す侵略者から帝国を守ると義務があるという。こうして防衛戦争が正義の戦争として位置づけられる。このようにして、神の国が、現在において完全に存在しているという考え方を訂正する。すなわち神の国は過渡的な価値なのである。だから、罪を罰する力は、キリスト教の愛と矛盾することはない。こうして秩序を維持する権威に満ちた力(権力)が、神の代理の権威になる。
トマス・アクィイナスは、国家の権威と平和とを尊重するが、彼は、神の国が現在すべきものであると考える点では、アウグスティヌスと意見が異なっている。神の国は、それと同質の共同体を建設し、それらを変革していく。教会と神の国とが一体となって、この世に現在する。このためには正義の戦争が肯定される。だから、トマス・アクィイナスにとっては、山上の教えは、第二次的な重要性しか持たない。
 宗教改革において、キリスト教の戦争観は大きく変わることになった。ルターは、武器の使用を認め、兵士の職を受け入れ、市民社会の秩序と平和のためには、政府が戦争することは合法的な権威であるとした。ルターは、個人と国家と教会と、この3つを区別して、教会の中における非暴力と、この世の国家における戦争とを区別した。また、無抵抗の非暴力を個人に当てはめたが、それを国家には当てはめなかった。そして世俗の秩序も神によって立てられたのとしながらも、キリスト教会は、直接その国家とかかわるものではない。しかし、宗教的な理由から、教会が国家の後ろ盾となって、国家を支持する戦争を認め、戦争は異教徒のトルコとの間では認められるとする。一方で、ドイツ農民革命の戦争を認めていない。
 クエーカーは、非暴力を貫いた。アナバプティストは、ルター派、カトリック、福音主義的な教会の弾圧に屈することなく、十字架と苦難の道を歩み、この世の職業とキリスト教徒は、ほとんど調和できないとした。彼らは、非暴力を貫くことによって、神の国が「すでに始まっている」ことを証ししようとしたのである。ジョージフォックスも、イエスが、人間の実行できない教えを命じたと信じることができないと主張した。
 カルヴァンは、宗派の支持のためには、世俗の権力の助けをも求める。世俗の政府は、教会の組織を守るために存在するものである。もしもそのような政府が、攻撃を受けるならば、力に訴えてこれを防御することを聖書は保証する。彼は、戦争が平和の最後の手段であると見なしているが、政府と教会とが一体となって行う正義の戦争を肯定する。
 この思想をさらに徹底させたのがピューリタンである。ピューリタンは、神の意志を擁護する点で、暴力を世俗の権力の合法的手段とみなしている。カルヴァンと同じく、キリスト教は、世俗の制度と同化することを目指す。宗教的・社会的・政治的な安定を与えることができる国家とその支配者は、神の公的権威を代表する。この目的に添う場合には、国家の秩序とともに宗教をも義務とするのである。したがって、「正義の戦い」には、神の導きの下にある宗教的理由を伴う。イスラム教徒に対する十字軍の聖戦に匹敵する聖戦思想がここにはある。神に命じられた戦争に参加するのはキリスト教徒の義務であり、それは真理の保持と宗教の純潔のために必要なものである。したがって、神の国とは、終末の到来を待つものであって、暴力による強制そのものも、このためのひとつの形態であると理解する。したがって、イエスの山上の教えと一致させる必要は全く感じない。
 グロティウスは、恩恵が自然法を高め完成するとして、福音の教えと自然の人間的な権利とを一貫させる。財産と純潔と平和を守ることは基本的人権である。すべての人間がキリスト教徒であれば戦争はないだろうが、戦争は暴力に対する対応として正しい。正義の戦いは死刑とともに、無実の人間に対する愛にその起源を持ち、隣人への愛からの義務によって戦争が行われるべきである。キリスト教徒は、個人として社会のあらゆる面で責任あるかかわり方をしなければならない。グロティウスは、個人と社会と教会との、道徳的な意味での違いを認めなかった。このようにして、正義の戦争がありえるかどうかではなく、いかにして、戦争を「正しく」行うかが問題となる。ここから「反戦よりもきれいな戦争へ」、という転換が起こることになった。
 戦争と非暴力との問題では、神の国の現在性と神の国の終末性の問題が出てくる。グロティウスは、神の国は聖霊を通して歴史の中に建設されるとした。トマス・アクィイナスは、キリスト教徒は、市民が持つ義務と異なるいかなる道徳的な義務も持たないとした。したがって、キリストの無抵抗非暴力に対する教えを、義務というよりは理想としてしまった。正義こそ、社会的行為の基本的な規範なのである。したがって暴力による攻撃には暴力的対応が求められる。カルヴァンも正義の戦いを認める。しかも彼は、神の国が、キリスト教徒の生活の中で今始められるべきだとする。彼は無抵抗を拒否するが、個人的には、非暴力がキリスト教徒にとって大事だとしている。トマスもカルヴァンも、教会と政府とが一体となるところでは、神の国の現在性と正義の戦争とが結びついてくることが分かる。
 以上をまとめると、神の国の現在性と神の国の終末性、ここに問題の本質がある。御霊の「臨在」の意味がこの点から問われてくることになろう。御霊の創造の過程としての破壊、あるいは創造そのものがもたらす破壊が、戦争と暴力、そして非暴力とをどのように関連付けるかが問われてくることになる。

■(3)ガンジーの非暴力とキング牧師
  ガンジーは、インドの貴族社会の出で、南アフリカでインド人への差別と闘った。そこで彼は「サティアグラハ・真実の道」を見出す。非暴力・不服従である。彼はその体験をもとにインドでの大英帝国への独立運動を始めた。「イギリス人がわたしたちの敵ではなく、彼らの考え方が敵なのです。」ガンジーは、イギリス支配への抵抗として綿の搾取からの自立を糸車運動で始めた。次に塩の運動を始めた。戦後インドは独立した。しかし、国家の暴力の後では、イスラムとヒンズーの宗教的対立が生まれた。ガンジーは言った。「私はヒンズー教徒であり、イスラム教徒であり、キリスト教徒であり、ユダヤ教徒である。」ガンジーは、インド人の心にある差別こそ、自分たちの自立を妨げていることを身をもって示した。インドが非暴力と闘っていたちょうどその頃に、中国では、毛沢東が、銃口による革命を実行していた。
  ガンジーがヒンズー教徒に撃たれてから2年後に、アメリカで、一人の勇気ある黒人女性から始まったバス・ボイコット運動が起こった。その時、その地区の牧師となったキングは、白人の暴力に対する手段として彼が読んでいたガンジーの方法を思い起こした。しかし、多数の白人国家の中での黒人の非暴力・不服従は過酷な弾圧を受けた。彼も「異邦人もユダヤ人も」すべての人への愛こそ、自分の生涯の唯一の遺産であると言い遺して、凶弾に倒れた。ガンジーはイギリスと闘い、キング牧師はアメリカと闘った。アングロ・サクソンは、2世紀の間、かつてのローマ帝国であった。この二人は、<人道への罪>に対して<真実の道>によって闘った。マザー・テレサが20世紀の聖人であるなら、キング牧師は20世紀の預言者であり、ガンジーは20世紀の賢者である。

■(4)ベルリンの壁崩壊とキリスト教会
  ベルリンの壁崩壊のきっかけを作ったのは、ライプチヒで守られてきた教会の礼拝集会であった。そこでは非暴力が説かれ、バッハのトッターとフーガ2短調が演奏されていた。1989年に、市民たちは自由を求めて、教会からデモ行進を始めた。度々の警察の弾圧にも関わらずデモは非暴力を守りつつ大勢の市民を巻き込んでいった。ついに7万人もの大群衆となってデモは行進した。ホーネッカーは戦車による弾圧を指令したが、エゴン・クランツとその部下は、ついに戦車を出さなかった。東ドイツの過激左派とソ連の戦車による軍事介入がこれを圧殺する要因であった。しかし、ゴルバチョフは最後まで武力介入を控えた。政治の介入する範囲を超えコントロールできない事態であると判断したからである。彼は介入を望むソ連政治局からソ連市民が危険に曝されていると誤った情報を受けていたが、西ドイツのコール首相との電話で、それが誤りであることを知った。コールとゴルバチョフとは信頼で結ばれていたからである。ホーネッカーが退いてクランツが後を継いだ。彼は旧体制を引き継ぐ人物に過ぎなかったので、日数などの制限された旅行法を出したが<国民の自由>は根本的な改革を望んでいた。新旅行法案が用意された、その時若い法案作成者が、<個人の旅行の自由を認める>という一項目を自己の判断で追加した。クランツは、保守的な党幹部会の前でこの法案を慎重に説明した。事態を理解していない幹部たちはこれを認めた。ところが発表者が誤ってその施行を<即刻実施>と発表し、これをテレビで知った多くの市民が東から西へ雪崩のように押し寄せて、ベルリンの壁は事実上崩壊した。警備兵は何の通報も受けないまま発砲命令が有効であったにもかかわらずこれを控えた。それは多くの偶然と歴史的な背景に支えられた誰も予想しなかった(コール首相談)早さで起こった<神の奇跡>であった。中国ではこれに先立って、天安門事件が起こっていた。北朝鮮では今だにこのような事態が生じる気配がない。宗教と自由と民主主義の力の勝利を象徴する出来事である。BS1(ドイツ放送局ZDS)99-11-8:壁崩壊記念日放送

■(5)テロとアメリカのキリスト教
  アフガンのテロと正義の戦争(聖戦)について、10月11日、米国イエズス会はブッシュ大統領に書簡を送り、テロに対する応答にあたって、難民を含む罪のない人たちを保護すること、報復ではなく正義を、無差別な軍事的応答を避けること、容疑者の特定や訴追のための立法によって憲法上の権利および市民権が侵害されないようにすること、中東の苦しみや怒りの根源を検証すること、国際法と人権を尊重すること、というつの項目を要求した。米国の教会では、テロによる死亡者の追悼礼拝が各地で行われ、中には遺体が見つからないまま行われるという場合もあった。米国が軍事行動をとるという政策決定をめぐって、米国の多くの教会では、米国の軍事行動を批判する声は愛国主義としばしば対立するようになり、「非暴力」と「正義の戦争」をめぐる論争へと発展した。 米軍米国が対タリバン攻撃を開始した7日、米国福音ルーテル教会のジョージ・アンダーソン総裁監督の名で民間人の生命を守り、軍事行動の代わりに外交による努力で平和的解決をするよう強く求める声明を発表した。同声明文は、しかし、その一方で、「私たちの理解では、ある特定の条件の下においては、軍事の行使以外に、罪のない人たちを守る方法はないかもしれない」とも述べている。一方、同教会の女性委員会運営委員会は12日から14日までシカゴで会合を行い、「人間安全保障を増進しこれ以上命が失われるのを防ぐために、法や外交その他非暴力的な手法を通じた正義」を追求するよう求める決議を採択した。8日、米国聖公会の総裁主教が主教会あてに書簡を送り、米国による軍事行動については意見が分かれていることを強調したうえで、主教会が「和解を行うことができるよう望む」などとした。9日、米国カトリック司教会議行政委員会は、「軍事行動は常に後悔を伴うものであるが、罪のない人たちや共通の善を守るためには必要かもしれない」としつつ、「軍事的応答は武力行使に関する伝統的な道義による制約によって導かれなければならない」とし、その標的はアフガニスタンの罪のない民衆やイスラム教ではなくテロを利用したり支えたりする者たちであることを明確にする努力を支持するとした。10日、「国の立法に関するフレンド派委員会」(FCNL)は、ジョー・フォルク幹事名によるブッシュ大統領宛の書簡で、爆撃を直ちに中止し平和的解決をするよう求めた。同幹事はまた、同日、フレンド派の他の3つの団体とともに同様の内容からなる共同声明を発表した。12日、米国キリスト合同教会(UCC)役員協議会は声明で、「我が国の指導者たちは暴力を暴力で返す道筋をつくってしまった。この決定に対する私たちの嘆きは、亡くなった人たちや私たちの愛国心、そして『アメリカに神の恵みあれ』という私たちの熱い祈りを否定するものではない。けれどもこの祈りは、これらの攻撃で殺される人々やそれを実行する人たちの両方を含め、この道筋によって危険にさらされるすべての人たちのための私たちの祈りとも連なるものなのだ」とした。16日、米国ギリシャ正教会のデメトリオス大主教は、教会の子どもたちと青年あてに、9月11日の事件にもかかわらず神が私たちを愛してくださっていることを確信させる手紙を発表した。その他、一部の教会では、テロリズムについて子どもたちにどう教えるかに関する教育資料や相談窓口がつくられた。22日、米国の宗教指導者がテロ攻撃の背景にあ意味を探る会議を開き、その模様がインターネットで中継して伝えられた。『キリスト新聞』(01年12月25日)号

■(6)アフガン戦争とアメリカのキリスト教
 非暴力の宗教が、どんな理由で戦争を支持するのか。アフガニスタン攻撃は米国のキリスト教会に、大きな問いを突きつけた。テロリストによる攻撃に対抗するために暴力が必要だ、という論理を見いださなければならない。「汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ」(マタイ福音書)という隣人愛の教えと両立する戦争論は、キリスト教が社会の価値観に大きな影響力を持つ米国ではきわめて重要になる。11月15日、カトリックの全米司教会議はアフガン攻撃を支持する声明を167対4の圧倒的多数で採択した。米国のカトリック人口は6300万人で人口の23%。その中心となる司教会議の声明は「罪なき人々を守り、公益を防衛するために必要なら国家や国際社会は軍事力を行使する権利と義務がある」と戦争を認める条件をあげた。その上で「テロが罪なき人々を標的としたため、公益が脅かされた。米国は公益を守る道徳的な権利と厳粛な義務がある」と対テロ戦争を支持した。キリスト教には「正戦諭」(just war)とよばれる思想がある。戦争とは非暴力の原則を否定する例外状態であり、その条件をいかに作り、正当化するか。4世紀の初期キリスト教会神学者アウグステイヌスから始まり、20世紀の戦争国際法の源泉となつた考え方だ。司教会議の声明も正戦論の伝統に立脚している。キーワードとなるのは「罪なき人々」(innocent people)と「公益」(common good)だ。同時多発テロは4000人もの罪なき人々、つまり武器を持たない非戦闘員を殺した。罪なき人々を守る目的は正しい戦争とみなされる。もちろん、非暴力の原則に立ち戟争に反対するカトリック信者もいる。だが、声明は「キリスト教の有効な対応のひとつ」と言及するにとどまった。一方で、アフガン市民が空爆の犠牲になることに反対し、米国がグローバリゼーションの利を貧しい人々に与える必要性を強調した。戦争を支持するものの、テロの背景にある貧困や不正を重視する姿勢も明確にし、宗教が難しい立場にあることを示したといえる。声明を起草したロー枢機卿は「どんな攻撃や脅威があっても、あらゆる武力行使を否定すべきだとは言えない。カトリック教会は武力行使に反対するが、公益を守る最後の手段としてのみ、認めるというのが、この難しい状況で見つけた道だ」と説明した。プロテスタントの多くも正戦諭にアフガン攻撃支持の論拠を求めた。プッシュ大統領も所属するユナイテッド・メソジスト教会によると、同教会内の組織「グッド・ニューズ」は「歴史的な正戦の教えに従って、われわれは米国が正しい理由と正しい意図を持つと信じる」と戦争支持を表明した。だが、同教会内の別組織「社会行動メソジスト連盟」は戦争に疑問を投げかけた。「米国とほかの国々で罪なき生命がさらに失われる前に、暴力の連鎖を止めなければならない。テロリストが反米主義をあおりたてる原因となったかもしれない米国の外交政策を再倹討すべきだ」 テロの原因を米国の政策に求め、戦争では解決できないという立場だ。これに対し「グッド・ニューズ」は「平和主義者の見方はわれわれと違う」と批判する。同じ会派の内部で意見が対立しているわけだ。「正戦論」だけですべてのキリスト教徒を束ねることはできない。戦争が長期化すれば、キリスト教会の対応も分裂していくかもしれない『エコノミスト』01-12-11「正戦論」中井良則(毎日新聞記者)〕。
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