51章 敵を愛しなさい
マタイ5章43節~48節/ルカ6章27節~36節
【聖句】
イエス様語録(Q)
1私はあなたがたに言っておく。
2あなたがたの敵を愛しなさい。
 そしてあなたがたを迫害する者のために祈りなさい。

3あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をむけなさい。
あなた
下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
だれかが、1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい。
求める者には与えなさい。
あなたから借りようとする者から取り戻そうとするな。

4人にしてもらいたいと思うことを、同じように人にもしなさい。
5自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。
徴税人でも同じことをしているではないか。
自分の兄弟だけに挨拶したところで。どんな優れたことをしたことになろうか。
誰でも同じようにするではないか。
返してもらうつもりで貸したところで、どんな報いがあろうか。
異邦人でさえ同じことをしているではないか。

6しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。
人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。
そうすれば、たくさんの報いがあり、あなたがたの父の子となるのである。
父はその太陽を悪人にも善人にも昇らせ、
雨を正しい者にも正しくない者にも降らせてくださるからである。

7父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者になりなさい。

マタイ5
43「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
44しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
45あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
46自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。
47自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
48だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

ルカ6章
27「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。
28悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。
29あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。
30求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。
31
人にしてもらいたいと思うことを、〔同じように〕人にもしなさい。
32
自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。
33
また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。
34返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。
35しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。
36あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

【注釈】

【講話】

■イエス様語録の教え
  まずイエス様語録の御言葉をお読みください。これが、マタイとルカのこの部分のもともとの文章です。とても分かりやすく生き生きとイエス様のお語りになった様子が表れています。 「敵を愛する」という教えそれ自体は、決してイエス様だけのものでありません。ギリシアの哲学でも仏教でもこれに類する教えがあります。お釈迦さんの物語には、飢えた虎を救うために自分の体を与えたという話が伝わっています。イエス様語録では「人からしてほしいと思うとおりに人にもしてあげなさい」という黄金律です、これが中心になっています。人間関係は、これさえしっかりと守れば大丈夫と言うことでしょうか。このようにここの教えは古今東西の普遍の愛の姿を下敷きにしています。しかしイエス様独自の特徴もはっきりと表れています。どこが普遍的で、どこがイエス様独特なのでしょうか。これからこの辺を見てみたいと思います。
 今回の部分にも、それぞれに語られた時代の背景が反映しています。一般的に言えば、マタイでは、貧しくて支配される側の人たちが自分たちを苦しめる支配者に対して、たとえ敵であっても非暴力で愛の心を失わないように教えています。マタイはイエス様語録をそのまま用いないで、例えばイエス様語録の「憐れみ深い」とあるのを「完全」へと言い換えています。これに対してルカでは、ほとんどイエス様語録の語りを保っていますが、用語をギリシアやローマのヘレニズム風に言い換えています。ルカは、比較的裕福な者や上に立つ者でも、慈愛の心を失わずに、人に無償で親切にし、与えるように教えているのです。受け身の愛と積極的な愛の両面が、ふたりの説く愛から読み取れます。私などは「自分にしてほしくないことは人に対してするな」と教えられた覚えがあります。これは黄金律に比べると消極的です。東洋的です。大事なことは、神様から人に注がれる「太陽のような慈愛」が、人間の愛の行為の源であることに変わりがないことを表しています。そこからたとえ罪人であっても人間相互の愛が生まれるからです。
■愛敵は同情か?
 私たち日本人が「愛」について語る場合に、一番分かりやすいのは「我が身をつねって人の痛さを知れ」ということです。自分が相手の立場だったらどうだろうと、相手に「同情する」ところからくる思いやりの心です。だから日本人の同情心は、困っている人や苦しんでいる人に向かって働く場合が多いのです。ところが、ここでイエス様の言われる「愛」は、決して同情のことではありません。私たちは苦しんでいる人たちに同情することはできますが、偉そうにして自分を見下す人に同情することはできません。ですから、ここで教えられている愛は、自分の身内に向けられる「我が身の痛さ」を知る同情のことでもないし、これを拡大した同じ日本人仲間に向けられる同情のことでもありません。さらにこれを拡大した全人類への同情でもないと思います。では「同情」は無用かと言えばけっしてそんなことはありません。なぜなら日本人の同情心には、相手を「分かってあげる」という愛にとって最も基本的なことが含まれているからです。理解することは愛することの第一歩ですから。善いサマリア人の話でも、部族や宗教を超えた人間としての同情が、彼にああいう行為をさせているのだと思います。ですから家族への愛、同胞への愛、さらにこれを他国の人たちへの愛へと広げることは、とても大事だと思います。「あなたの隣人を自分のように愛しなさい」という旧約聖書の教えも基本的に私たち日本人の言う「愛」と同じですから。マタイでは、イエス様の教えは、この隣人愛から出発して、これを徹底させていると言えます。
 では、「自分の敵」に向けられる思いやりの心はどうでしょうか? 上杉謙信は、武田信玄に対して「敵に塩を送る」という事例を残しました。これは困って苦しんでいる敵に同情することです。負けた敵に対する「武士の情け」もそうです。しかし敵が勝ち誇って、自分をバカにする時に、その相手に同情や愛を抱くことは人間には無理です。ですから、ここでのイエス様の言われる敵を愛する愛は、人間の自然な感情から生まれるものとは少し違います。
 どこが違うかと言いますと、敵を愛するためには、まずその敵を「赦す」ことをしなければならない。ここでは、愛に先だって赦しが来るのです。相手の「罪を赦す」ことです。こうなると日本人には分かりにくい。でもそこからしか敵への愛は生まれてきません。これは、イエス様の十字架の罪の赦しによるほかはないです。ですから、このような愛敵は、神様からの罪の赦しの恩寵、すなわち「カリス」(恵み・賜)です。これは人間の自然な愛情や感情を超えた次元のものです。十字架の罪の赦しを知らない人が、自分を迫害する者や自分をいじめる人のために罪の赦しを祈ることはできません。現在イラクでは、アメリカ軍の支配に対してテロが生じています。国連の事務所までも自爆テロの対象になりました。パレスチナでは、PLOがイスラエルの支配に抗議して、自爆テロを繰り返しています。敵を愛するどころではない。相手を決して赦さない姿勢です。これでは平和は来ないです。
 こういうのを見ていると、赦しの恩寵は人間からではなく、神様がイエス様を通してくださる御霊の働きによるほかないのがよく分かります。愛敵は御霊から来るものです。これは祈りなくしては生まれてきません。ですから、ここでイエス様の言われる愛敵は、「私たちが罪を赦しましたように私たちの罪をもお赦し下さい」という主の祈りへとつながります。マタイの山上の教えは、主の祈りが中心です。ルカがここで「あなたがた」を強調しているのも同じです。「イエス様の民」が初めて実行できることです。愛敵は、決して人間一般の自然な人情ではない。あなたがたでなければ決して実行できないよ。こうイエス様は言われているんです。御霊は風、イエス様は光にたとえられています。空気と太陽の光、これは神様が人間に絶対無条件でお与えになるものです。善いものにも悪い者にも太陽を昇らせる「神様の慈愛」は、絶対無条件の恵みですよ。人間を絶対に差別しない。マタイが、このような愛を「完全な」と言っているのはもっともです。これは隣人愛を越えて最高の霊的な愛ですから。動物には決してできません。霊的な人間だけに可能です。
■個人の場合
 そこで「敵を愛する」と言う時の「敵」を個人の場合に限定してみましょう。これだとここにいる皆さんには分かりやすい。「男は家の外へ出ると7人の敵がいる」などと言われますが、だれでもひとりやふたりは敵がいます。さて、御霊の愛はこの場合どう働くのか? ひとつだけはっきりしておきましょう。この愛は人間的な同情ではないと言いました。だから、ここでは、「私たちの」気持や「私たちの」感情は関係ないです。敵を愛することなどとても「私には」できません。だから、私はクリスチャンにはなれません。かつて私にこう言った学生がいましたが、この学生、自分が神様にならなければクリスチャンになれないと言っているのと同じです。人は神様ではないからこういう人は決してクリスチャンにはなれません。もしもこういう人がクリスチャンになったら、その時は自分が神様になったと思いこむから、もっと悪いです。ならないほうがいい。向いている方向がちょうど逆ですから。
 敵を愛することなど自分にはとてもできない。このことをはっきりと自覚するところからしか、御霊の愛は働かないのです。ですから、聖人ぶったり、偉くなろうとしたり、正しい立派な人間になろうなどとするのは止めてください。そんなことをしたら、苦しむかうぬぼれるかのどちらかに陥ります。「不可能なるが故に信ず」という言葉が教会にあります。だから祈るのです。今日の集会がよい天気に恵まれますようにと私は祈りました。こんなこと、自分にできると思ったらとんでもないです。できないから祈るんです。でも神様にはできる。
 実は今日、この愛敵ではなく三位一体の話をしようと準備をしたのですが、それは止めました。でもやはり三位一体に触れないわけにはいきません。なぜなら、三位一体でいつも私が言うことは、三位の神様は、それぞれ別のペルソナでありながら「一体」、ひとつだということです。どうしてひとつなのかと言えば、それは「交わり」によってです。私たちもそうです。それぞれ全く異なっていても、イエス様との「コイノニア」(交わり)によってひとつです。だからこうしてここに皆さんがいらっしゃるのです。この三位一体の神様を信じるのは、その三位一体の神様の交わりに私たちも与るためだと第一ヨハネの手紙1章3~4節で読みました。だから、私たちもその交わりに入ることができるのです。私たちはイエス様から降る聖霊を通じて、イエス様の父なる神様との交わりに入る。これが聖霊のお働きです。私たちはなんにもしない。ただ黙ってお委ねする。これしかないです。その意味で、どうか皆さん、自分であれこれしようと思わないで、「自然になって」ください。御霊のお働きのままにまかせて、霊風の吹くままにしてください。それだけです。自分の気持ちなど、放っておけばよろしい。
 三位のペルソナが一つになるためには、ぐるぐると運動していなければなりません。だから、三位一体の神様とは、絶えず動く神、動き創り出しいう神様なのです。だから三位一体の神様との交わりに入ってくると、自然に御霊がその人を通じて「ほかの人にも」」働いてくださる。この間、長年共産党の仕事をしていた93歳のお婆さんが、私の家に来て、死ぬ時はキリスト教の葬式をして欲しいと頼みに来ました。家内が親切にしてあげたので、死ぬ時にはキリスト教で死のうと思ったらしいです。このように、イエス様の御霊にあって人と接していれば、なんとなく御霊が働いて、人は神様へと導かれるのです。相手がどんな人間だろうといっさい無関係、三位一体の神様の働くところ、そこには人を神様との交わりに引き入れる力が働くのです。これを神様の愛と言えば愛です。だからキェルケゴールという哲学者が言いました。「人を愛するとは、その人をキリストへ導くことだ」と。これは何がなんでも伝道して、人をキリスト教に改宗させなさいという意味ではありません。キェルケゴールが言うのは、その逆です。御霊が働いてくだされば、自然とその人は神様に目が開かれてきます。伝えるより伝わる御霊ですよ。真理を伝えたいなら、自分自身がその真理になる。これだけです。長年英語の先生をしてきましたから私にはよく分かりますが、自分が到達した以上のものを人に伝えることはできません。
 ですから、職場でも仲間関係でも、そこで「敵」に出会ったら、自分の気持ちに左右されずに、思い切ってイエス様にお委ねして、御霊の導きに従ってみてください。信じるとはこういうことです。信じるとは従うことです。これが愛です。この愛には勇気が要りますよ。人間的な同情ではないですから。イエス様の言われた愛は、何かを「やらない」ことではなく「やること」です。イギリス人のウェッジウッドという人、あの陶器で有名な人です、彼は「やってみなければ分からない」とよく言いました。とにかくイエス様を信じて「やってみる」、思い切ってね。そうすれば、きっとうまくいく。だから愛とは信仰です。信仰とは勇気です。勇気とは実行することです。これは論理や理念ではない。自分の気持ちや感情でもない。そんなものは放っておけばよろしい。まず祈る。それから、焦らず気負わず、ただ自然に、しかし、とにかく「やってみること」です。
■民族や国家の場合
 マタイの中でイエス様が引用された「隣人を愛し、敵を憎め」というのは、旧約聖書の教えからですが、これはイスラエル共同体の間だけで通用する倫理です。同胞の間では、隣人愛とモーセの十戒を守りなさい、しかし、民族の敵や国家の敵と戦う時には憎しみを持って容赦するな。これが旧約聖書の教えでした。実は新約聖書の時代でも、山上の教えやイエス様の愛は教会のクリスチャン同士だけの間で成り立つと考えられたことがありました。だから、異教徒やユダヤ人や「教会の敵」と見なされた人はそこから排除されたのです。シェイクスピアの『ヴェニスの商人』が書かれた時代がそうでした。かつての日本でも同じです。私などは戦時中にアメリカ・イギリスのことを「鬼畜米英」と教えられました。だから、沖縄でもサイパンでも、たくさんの民間人が、アメリカ軍に降伏しないで、せっかく助かる命を自殺して死んでいった。たくさんの女性が、高い崖から海へ身を投げたから、アメリカ軍はその崖を「バンザイ・クリフ」(万歳の崖)と呼んだのです。
 ところがイエス様は、そういう敵を愛せよと教えられた。イエス様の教えはすごいです。どんな国も民族もまだ到達できないような霊的に高い倫理を今から2千年前に教えられたのですから。これは21世紀の倫理です。これからの人類の倫理です。これを守らなければ、人類はほんとうに滅んでしまうかもしれません。しかし、国家同時がいくら条約を結んでも、そんなことでは戦争はなくならない。国家の敵、民族の敵と言うけれども、戦場で戦う兵士たちに個人的な恨みは何一つないのです。それなのになぜ殺し合うのか? だからどんな場合でも、人間は個人を忘れてはいけません。個人としての自分が敵を憎まなかったら、敵も自分を憎んではいないことが分かります。人類の平和は、ひとりひとりの個人の自覚からしか生まれてきません。だからどんな場合でも、自分自身であることを捨ててはいけない。 「自分自身であること」、これを守ってくださるのが、あなたがたの内に宿る御霊です。なんにもしない。ただイエス様に委ねなさいと言っておきながら、御霊が「あなた自身であること」を守ると言うのですから、面白いです。不思議です。
  だから、ここでの愛は、聖霊の働きなくしては不可能です。愛敵の教えは、古来から教会でもなかなか守れませんでした。イスラム世界への十字軍やインディアンへの迫害、黒人差別やカトリックとプロテスタントとの間の宗教戦争、過去のキリスト教国は、愛敵どころか憎敵ばかりやってきました。今でもブッシュのキリスト教はイスラムのテロリスト憎しで一貫しています。ところがそういう中で、少数ながらこの教えを守った人たちが、個人でもグループでもいました。そういう少数派のグループは、異端扱いされて教会から迫害されることもしばしばありました。ヴェトナム戦争当時、50万ものアメリカ兵がヴェトナムで戦っていました。ところが、アメリカのメノナイト派やフレンド派系の人たちは、その間も医薬品を北ベトナムに送り続けた。当然アメリカ国内から非難されました。でも彼らは止めなかった。信仰の自由というのはこういう時に大切です。現在は、アメリカとヴェトナムとは友好的な関係にあります。戦時中にこういうアメリカ人がいたことが、戦後の両国の平和のためにどんなに役立っていることか。
 東ティモールは、独立したばかりの小さな国で、いろんなものが不足しています。しかし今現在、ここで一番問題になっているのは、経済ではありません。東ティモールは、インドネシアから独立する前に、同じ民族同士で、独立派とインドネシアの支援を受けた反独立派とが、殺し合いをやったのです。独立後に、独立に反対した人たちはインドネシアに逃げました。しかし今、この人たちが東ティモールに帰ってきたのです。自分の家族を目の前で殺した人たちが再び同じ村に戻ってきた。皆さんは、この人たちを赦せますか? しかし、この人たちを受け入れないと、東ティモールは成り立たない状態です。東ティモールはカトリックの国ですから、神父さんたちや和解委員会の人たちが、村を回って、人々を集めて、何とか戻ってきた人たちを受けれてほしいと話し合いを続けています。これからの世界では、こういうことをやらないと平和も独立も自由も繁栄も来ないのです。
 今までは、キリスト教はどちらかと言えば、自分たちと違う宗教や生き方の人々を排除する論理で動いてきました。これからは、反対に包含する方向に向かわなければなりません。国連のように、全部を包み込む方向で歩むことが最も大事なことなのです。教会とか国家とか宗派とかそういう非人格的な組織から平和は生まれません。平和は人間の心からしか生まれない。日本という国家ではなく、日本人からです。「私たち日本人は」(We Japanese)、これが日本の憲法は始まりですから。聖書を読んで感動するのはいいけれども、愛敵を本当に実行するのは難しいです。でも、こういう方向で聖書を読み、信じて歩むことが要求されているのです。十字架の赦しから注がれる神様の御霊の愛によらなければ、「敵を愛する」ことはなかなかできないからです。
■宗教の場合
 国家や民族の場合についてお話ししたことは、そのまま宗教にもあてはまります。かつてカナダで、インディアンの子供たちが強制的に親から引き離されて、子供だけの施設に収容されて、キリスト教の教育を受けさせられたことがありました。異教の親から引き離して、キリスト教を強制することが子供たちへの幸せと愛だと信じられたからです。子供も奪われた親はどんな気持ちだったでしょうね。親から引き離された子供はどんな気持ちだったでしょうね。これはいったい聖書の言う「宗教的な愛」でしょうか?
 今私たちの家は町内会の会長をやっています。町内の大きな行事に地蔵盆があります。もしも私が、お地蔵さんには悪霊が憑いているから、そんな行事は止めるべきであるとか、地蔵盆をキリスト教の子供祭りに変えなさいと言ったらどうでしょうね? さらに、私たちがこのように言うのは、あなたがたのためを思う隣人愛からですと言ったら、町内の人たちはどう思うでしょうね? 私たちはそういうことはやりません。堀池町では、地蔵盆だけは、実際に取り仕切っている人が別にいますが、私たちも会長として、できるだけ地蔵盆がうまくいくように手助けをしました。仏教を悪霊の宗教だと信じているクリスチャンは、これを聞いたらびっくりするか批判するでしょう。私の見るところ、地蔵菩薩は、昔から庶民に愛されてきましたが、最近では特に子育て地蔵として、地蔵盆は町内の宗教的な慣習になっています。ヨーロッパの街中を聖母マリアの像を担いで練り歩くのも、イコンのキリスト像に口づけするのも、お地蔵さんを祀って子供のために祭りをするのも、私は同じ宗教文化だと思います。だから、私たちは、地蔵盆がうまくいくように、事故や病気が起こらないように、天候に恵まれるように、イエス様に祈っていました。
 これを聞いて、クリスチャンのくせにけしからん。こう思う人たちが、現在の日本にも結構いると思いますよ。キリスト教以外の宗教を否定して、これを厳しく批判する。これがキリスト教を「信じない人への」愛だと思っているクリスチャンや宣教師さんたちがいるからです。こういう人たちは、マザー・テレサと逆です。彼女は、死んでいく人がヒンズー教なら、その葬式で、仏教ならその葬式で、人それぞれの葬式で葬ってあげた。なんと、ヒンズー教の僧侶が、マザーのところへ助けを求めてきたそうです。だから、マザーが亡くなった時に、インドでは国葬をしました。カトリック・キリスト教の女性の葬式をヒンズー教のインドが国葬にしたのです。仏教もキリスト教もイスラムもヒンズー教も人間の宗教文化です。絶対的なものではない。何も拝まないのがいいのなら、イスラム教が一番です。イスラム教では、眼に見えないアラー以外は絶対に拝まない。
 ただし、やってみて分かったのですが、地蔵盆というのは、いつ頃から現在の形になったのか知りませんが、町内の一大イベントとして、宗教的慣習に基づいて毎年行われています。しかし、実際にお地蔵さんを信心している人は、ごくごくわずかで、子供も大人もほとんどの人は、ただの町内のイベントだと思っています。ですから、本来の宗教的な観点から見ますと、霊的にいかにも空虚で、むなしい感じがします。石でできた素朴なお地蔵さんは、かわいいと言えばかわいいのですが、宗教的な拠り所としてはあまりにはかなく幼い感じがします。町内の子供たちのためと隣人同士の交わりの場としては機能していますが、それ以上のものは全くありません。むかしは身代わり地蔵として、それなりに霊的な意味もあったのでしょうが、現在ではそういう宗教性は全く失われています。何となく現在の日本社会の宗教性を象徴しているようで、考えさせられました。「あなたがたは、金や銀など外見だけの空しいものによって贖われたのではありません。それらは、昔から伝えられて今は空疎になったしきたりや慣習から出ているにすぎません。そうではなく、イエス・キリストの尊い血で顕された命によって贖われたのです」(第一ペテロ1章18節意訳)とあるとおりです。悪霊などとは無関係ですが、いかにもむなしいです。この意味で、まさに日本の現在の霊性を象徴していますね。
 ですから、これからの聖書的な霊性は、今は力を失った宗教、暴力的な宗教、文化的に未発達な宗教など、あらゆる宗教を包含する方向で進まなければなりません。イエス様の御霊は、人類のいっさいの民族も宗教も包んでいてくださいます。こういう方向で聖書を読んでください。そうでないと核戦争で、キリスト教徒も仏教徒もイスラム教徒もみんな滅びますよ。
■被造物を活かす御霊
 実は、人間の宗教だけでなく、大自然の被造物全体もイエス様の御霊にあって活かされているのです。聖書には、イエス様が神様のみ言(ことば)、ロゴスとして、万物よりも先に存在しておられたとあります。


  こうヨハネ福音書の始めに書いてあります。「この方によらないものはひとつもなかった。できたものには、彼にある命があった。」とあります(後半はこのほうが本来の読み方です)。いっさいの創造されたものには、イエス・キリストにある御霊の命が働いている。こういうことです。神様はイエス様の御霊を通じて、全世界をお造りになったのです。あらゆる宗教のあらゆる民族も人種も、この神様のみ言であるイエス様の御霊にあって生じ、活かされ、保たれています。人間だけではない。この大自然そのものも、宇宙全体も、この神様の御霊によって創造され、御霊によって保たれ、現在も御霊によって創られ続けているのです。これが聖書の教えです。何教がいいとか悪いとか、そんな次元の問題ではないです。仏教は呪われているが、原爆を落としたアメリカは祝福されているなどと、冗談ではないです。
 皆さんの内に働いておられる神様の聖霊、イエス様の御霊とは、そういうものすごいものなんです。イエス様の御霊に感じて、私たちは初めて、自分が大自然と同じ命に活かされていることを実感します。聖霊は「創造する御霊」(Spiritus Creator=The Creating Spirit)ですから。どうかコロサイ人への手紙1章9~20節を後でよく読んでください。この手紙は、イエス様が十字架にかかられてから30年あまり後に書かれたものです。どうか皆さん、神様は全人類を愛しておられる。太陽のように善いものにも悪いものにも光と雨を注いでくださる。イエス様の神様は、御霊を贈って、この日本を愛していてくださるのです。日本だけではない。全人類を愛していてくださる。こういうイエス様とイエス様の御霊を信じて、こういう神様との交わりに入ってください。
戻る