【注釈】
■イエス様語録
 このイエス様語録の復元は The Critical Edition of Q.(Eds. James Robinson, Paul Hoffmann and John Kloppenborg. Fortress Press, 2000.)と The Lost Gospel: The Book of Q.(Burton Mack, Element, 1993)との両方を参照したものです。これら二つの版の間には違いがあり、マックの版では「誰かが1ミリオン行くように強いるなら・・・」の部分がありません。また「父はその太陽を・・・」の部分は、ロビンソンの版では、始めのほうの「あなたがたを迫害する者のために祈れ」の後に続けています。ロビンソンの版はマタイを重視し、マックのほうはルカを重視していると言えます。
 イエス様語録のテキストは、イエスの言葉に最も近いと考えられていますが、そこにはイエス様語録の人たちによる編集も行われています。「誰かが1ミリオン行くように・・・」の部分は、ユダヤ戦争の頃のローマの軍隊による労役の体験を反映したもので、イエス様語録の人たちによって後から加えられたのではないかとも考えられます。また「人にしてもらいたいと思うことを・・・」といういわゆる黄金律は、直接イエスの言葉からではなく、イエス様語録の人たちによるものと考えられています。
 全体の構成は、(1)最初の出だし、(2)愛敵の教え、(3)愛敵から来る非暴力、(4)黄金律(これが全体の中心です)、(5)徴税人や異邦人との比較、(6)イエスを信じる人々の特徴(ここではイエス様語録の人たち)、(7)締めくくりの言葉、となっています。これに続いて「裁くな・・・」が来るのですが、今回は省略しました。全体を通じて「あなたがた」がひとつの鍵語になります。

■マタイ
  マタイは、イエス様語録に現れる徴税人や異邦人、太陽や雨など、具体的なイメージをそのまま用いてイエスの言葉を生き生きと伝えています。しかしマタイは、「敵を憎む」ことを旧約の教えとして呈示して、これをイエスの言葉と対比させており、「善人と悪人」に続けて「正しい者と正しくない者」を加えています。さらに締めくくりでは「憐れみ深い」とあるのを「完全になる」ことへと言い換えています。このようにマタイでは、イエス様語録本来のパレスチナ的な状況をそのまま反映させながらも、これをユダヤ人キリスト教徒たちが比較的多かった自分たちの教会の実情に適合させています。
マタイ5章
[43]【隣人を愛し、敵を憎め】マタイは、5章21節から始めた「あなたがたがは聞いている・・・しかしわたしは言う・・・」という形式の最後の締めくくりとして「愛敵」の教えを呈示しています。「隣人を愛する」ことについては、レビ記19章18節に「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」とあります。これが「神を愛する」ことと並んで律法の最も重要な教えであることはイエスも明言しています(マタイ22章39節)。しかし「敵を憎め」という言葉は直接旧約にはありません。ただし「神が憎む者を憎む」(詩編139篇21節/22節)とあるように、旧約にはイスラエルの敵に向けられる憎悪がしばしば表われます。一見して個人的な恨みと思われる場合でも、詩編109篇のように、「神に逆らう者」として激しい呪いが向けられています。この場合でも相手はおそらく自分を含む共同体の敵を指しているのでしょう。クムラン宗団の規定(1:4/2:4)には「神が斥ける者を憎むべきである」とありますが、これも詩編と同じ主旨です。
  ここで言う「隣人」は、同じイスラエルの同胞を指していますから、ユダヤ教では、「隣人愛」の範囲が「割礼」を受けた者など同胞や同じ宗教的共同体に限定される傾向があったのは事実であり、こういう「排除の論理」を指して、イエスは「敵を憎めと言われている」と言ったのでしょう。イエスの語りのスタイルは、このように格言的で諺的ですから「極端な形で絶対化される」(ウルリヒ・ルツ)傾向がありますから、この点で解釈には注意しなければなりません。だから、ユダヤ教において、必ずしも「敵を憎め」ということが強調されていたわけではありません。
[44]【敵を愛せよ】「敵を愛する」ことは、その敵が民族共同体の場合には、モーセ律法を否定することになります。民族共同体の場合と個人の場合とを同一視できないとして、ここでイエスが語るのは個人的な敵の場合に限定しようとする解釈もあります。しかし、イエスイエス様語録では、「迫害する」も「1ミリオン歩かせる者」もローマの軍隊によるユダヤ人への圧迫や労役を反映していると考えられます。ユダヤ戦争でのローマの兵士たちの弾圧や異邦人によるユダヤ人への迫害が、キリスト教徒へも及んだことがあって、マタイでは、このような出来事が背景にあるのでしょう。したがってここでの「敵」とか「悪人」も個人的な意味だけではなく、「神の敵」「神に逆らう悪人」「神に対して罪を犯す者」の意味を含むと考えるのが正しいでしょう。
【迫害する者】特にユダヤ戦争当時のローマ軍によるユダヤ人(キリスト教徒を含む)への圧政が反映していると思われます。「ために祈る」とあるのは、迫害する相手の罪が赦されるように、その結果として相手が罪を犯さないようになるために神に祈ること(主の祈り)です。
[45]【天の父の子となるため】なぜ敵を愛さなければならないのか? このことへの根拠付けは古来いろいろ行われてきました。ここでは、その理由が、「天の父の子となる」こと、すなわち「神の子となる」ためだと明言されています。「神のみ国」のメンバーになること、これがマタイの愛敵の根拠です。なお「神の子とためである」という訳は、目的よりも結果として「きっと神の子のようになる」という読みもできます。5章48節では「完全な者に<なりなさい>」と命令形で訳してありますが、ここも原語では「完全なものになるでしょう」と未来形です。ちなみにルカ6章35節では、マタイの「神の子となるために」ではなく「いと高き方の子となるでしょう」と未来形になっています。「なるでしょう」は将来そうなるだろうという意味よりも、むしろ必ずそう「なる」という意味です。
【太陽を昇らせ】ここでは、被造物に働く自然の「法」と人間の「法」とが一体になっていることに注意しなければなりません。自然の法と人間の倫理・道徳とをひとつにとらえる見方は、知恵文学でよく見られる様式で、イエスやユダヤ教に限ったことではありません。しかし、特にイエスにあっては、人間と自然(被造物全体)がひとつの命でつながっている印象を受けます。なお「義人」と「不義の人」はマタイの追加で、「義・不義」は、律法を遵守するユダヤ教の根幹をなす大事な問題です。マタイの教会のように、ユダヤ人キリスト教徒が多数を占める教会や宗団では、「義人」と「不義の人」との区別を超える父の神の愛を説くことは、律法の否定にもつながり、ユダヤ教からの完全な分離を意味することになります。
[46]【徴税人】ローマの手先となって民から税金を取る同じユダヤ人のことです。一般的には、この時代の徴税は、税額全体の請負制であったために、多く取ればその分、徴税人自身の収入が増えることになりました。したがって、不当に税を取り立てる場合が絶えず、徴税人は憎しみの対象とされ、しばしば「罪人」と同じ意味に用いられます。なおマタイ福音書によれば、使徒のひとりであるマタイは徴税人であったいう伝承があります。
[48]【完全な者】旧約ではエノク、ノア、ヨブが「完全な者」と言われています。犠牲の動物で「完全」とは傷がないことです。旧約での「完全」は、すべてが含まれている「十全」のことではなく、むしろ心に偽りがなく、主に全託して従う人のことです。また「完全であれ」というイエスの教えは、レビ記(19の2)にある「聖なる者になれ」という教えと通じる主旨であり、旧約では、モーセの律法を完全に守ることによって「完全」が達成されると見なされました。律法を「完全に」守ることについては、ルカ18章18節以下に、「富める者」とイエスとの出会いの話があります。イエスイエス様語録とルカでは「慈悲深い」がイエスの言葉であって、マタイはそれを「完全」に言い換えています。ただし、ここで言うマタイの「完全」には「主に委ねきって真っ直ぐに歩む」という旧約的な意味に加えて、善人と悪人、味方と敵とを区別せずに、すべてを包含する愛のあり方を指している点に注意しなければなりません。すなわり「完全」には「あらゆるものを包含する」というヘレニズム的な「十全」の考え方が含まれています。イエスの教えは、この意味で、神の愛の及ぶ範囲を一挙に拡大したとも言えます。しかし、これは単に「人間愛」を拡大したものではなく、人間を超えた神からの賜としての「霊愛」なのです。

■ルカ福音書
 マタイ福音書に対してルカ福音書では、イエスイエス様語録に出てくる用語を、「迫害する」→「悪口を言う」、「徴税人」→「罪人」、「挨拶する」→「よくしてくれる人」、「天の父」→「いと高き方」のようにパレスチナの状況からギリシアやローマのヘレニズム的な人たちに分かりやすい表現へと変えています。特に(6)の後半部分を「恩知らずにも悪人にも」と縮めて言い換えています。しかしルカは黄金律をそのままイエス様語録と同じように保持しており、また結びの「憐れみ深い」もそのまま採り入れています。このイエス様語録で分かるように、非暴力の教えも無償の施しや愛の教えも黄金律も、本来は愛敵の教えとつながっていました。マタイはここから非暴力の教えなどを取り出して再構成したのです。ルカのほうも用語にかなりの変更をおこなっていますが、全体の構成はほぼイエス様語録のまま受け継いでいます。マタイでは、愛敵の項目でひとまず教えが区切られていますが、ルカでは、この愛敵の教えを根源に据えて、愛敵の次に37節から「人を裁くな」が続き、さらに「与えなさい」(39節)と積極的な教えへと移行しています。こうして6章の27節〜39節が、全体としてひとつのまとまりを見せていて、その構成はイエス様語録とほぼ同じです。「頬を打つ者」「上着を取る者」もマタイとは異なって、イエス様語録にある通りに残されています。ルカは、マタイのパレスチナ的な状況での用語をギリシアやローマのヘレニズム的な状況に置き換えています。だからマタイでは「迫害する」というように、支配者と被支配者の関係を反映する用語が用いられているのに対し、ルカでは「悪口を言う」「侮辱する」などの一般的な人間関係へと置き換えられています。また「貸してやる」「人によくしてやる」などのように、人に対して積極的に親切にするように勧められているのも、ルカでは、比較的裕福で身分の高い人たちが教会に多かったことを反映しているのでしょう。

ルカ6章
[27]【あなたがた】27〜28節は「あなたがた」を意味する「ヒューマース」で各行が押韻していて、美しい詩の形を取っています。「あなたがたは/に/を」は、全体を貫く鍵語です。これはイスラエル共同体や異邦人から区別されたイエスの民の特徴を言い表わすためです。
[28]【悪口を言う】とは「呪う」ことです。したがってここでは「呪い」と「祝福」とが対照されています。相手が呪う時にその相手を祝福せよと言う意味です。「呪い」や「祝福」は、その言葉それ自体に力あって、相手に働くと信じられていました。ただしルカでは、より一般的な「悪口を言う」という意味をも含めています。ローマ人への手紙12章14節を参照。
【侮辱する】とは相手を馬鹿にして偉そうに威張ることです。「祈る」とあるのは、ただ黙って耐えることではなく、相手の非人格的な態度に対して、相手が(そして自分自身が)人格的、霊的な存在であると示すことです。具体的な例としてはルカ23章34節のイエスの祈りを参照。
[29]【上着を奪い取る】マタイでは、訴訟の場合ですから、まず下着から先に取ることになっています(上着は、寝るときにも必要とされましたから、ユダヤでは、これを取ることが禁じられていました)。しかしルカでは、おそらく路上で、おいはぎに奪われる場合を指しているので、上着を先に奪うのでしょう。
[31]ここはいわゆる「黄金律」(The Golden Rule)と呼ばれる教えです。黄金律は、人間相互の愛について語るものですから、イエスの愛敵の教えと合致しないと思われるかもしれません。マタイでは「隣人を愛し」で始まり「敵を愛する」ことへと拡大されていますから、愛敵は、隣人への愛の拡大として理解されています。またマタイでは、黄金律が、7章12節に表われて、そこでは罪人である人間の愛の行為が、父の神から出る人への愛と比較対照されます。ルカでは、ヘレニズム世界で一般に受け入れられている黄金律が、愛敵の教え全体の中心に置かれます。しかしこの人間相互の愛、36節に来る神からの慈愛へとつながることによって、黄金律が、神の御霊による愛にあって初めて成就するのです。
[34]【どんな恵みがあろうか】ここで言う「恵み」は神からの恵みと言うよりは「報い」に近い意味です。ギリシアでは、人に親切にする行為は、2倍になってその人に返って来るという言い伝えがありました。
[35]【何もあてにしないで】新共同訳では「返してもらうことをあてにしない」と訳してあります。しかし原語は「決して絶望しないで」です。すなわち、「金を返してもらうこと」よりは、どこまでも「その人を信じていく」という意味にもなります。
【恩を知らない者】とは「感謝しない人」、すなわち感謝することを知らない人のことです。
【情け深い】36節には「憐れみ深い」となっています。どちらも同じような意味でしょうが、ギリシア語訳のもととなるヘブライ語の違いから出ていますのかもしれません。「憐れみ深い」のほうは、新約聖書の言う神の「恩寵」に近いでしょう。
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