【注釈】
■マタイ6章
 1節を前置きとして、マタイは以下に「施し」と「祈り」と「断食」という三つの「善い行ない」をあげています。どれも「偽善者たちは・・・のようにする、しかしあなたがたは・・・」とあって、「父が報いてくださる」で締めくくられています。これらは当時のユダヤ教で3大義務として「善行」の代表的な例とされていました。マタイの教会は、ユダヤ人キリスト教徒が多かったから、これらのユダヤ教の善行の伝統が受け継がれていたのでしょう。ただし、5章20節に「あなたがたの行ないは、聖書学者やファリサイ派以上のものでなければならない」とあるように、ここでも従来のユダヤ教の制度化した「善行」を偽善と見なして、それを超える基準が与えられています。

 1節はマタイの編集による加筆ですが、これに続く三つの善行の記事は、マタイの教会に伝えられていた伝承に基づいています。これらの言葉がイエス様にさかのぼる可能性を否定できません。なおマタイは、祈りの教えと断食の教えとの間に、主の祈りを挿入しました。1節では「あなたがたの」と複数になっていますが、それ以降の例では「あなた」と「あなたがた」のように、単数と複数が混じっていますが、おそらく単数のほうが伝承通りでしょう。
[1]【善行】原語は「義」。この語は、聖書全体を通じてきわめて重要な用語ですが、基本的には人間を超えた神に具わる「正義」すなわち「神の義」を意味します(創世記15章6節)。しかし「ヤハウェの義」はしばしば貧しい者や苦しむ者への救いとなり恵みとなって表われますから、この語が「憐れみ」あるいは「恵み」と訳される場合も多くあります(詩編103篇6節/イザヤ56章1節)。だから、「善行」は、これら三つの行為に限らず、神を信じるものが行なうあらゆる「善い行ない」を意味していると理解できます。また神の霊に導かれた人間が行なう具体的な恵みの行為として「施し・慈善」と訳す場合もあり(シラ書3章30節/18章18節/40章14節)、ここでも「施し」という実際的な業をも指しています。「恩着せがましい人間の施しには、誰も目を輝かさない」(シラ18の18)とあるように、旧約でも人に見せびらかす偽善的な施しに対する戒めが語られていました。だから、ここでのイエス様の教えは、特に旧約の教えと対立するものでもこれを否定するものでもありません。しかし神殿制度が完成し、ユダヤ教が制度化するにしたがって、本来の信仰的な行為が制度化し外面化したものとなりました。こういう宗教的な行為を再び本来の霊的な行為へと甦らせようとするのがイエス様の教えのねらいなのです。
【見てもらおうとして】原語の「セアオマイ」(観る・眺める)という語からでた「セアトリゾー」は、舞台にかけることです。英語の”theater”(劇場)の語源。宗教行為の劇場化を示唆しています。
【天の父のもとで】この訳だとこの地上ではなく「天の父の神のところへ行った時に(初めて報いを受ける)」という意味になります。ここでの「報い」も「この世ではなく、天において」神から与えられると解釈することができます。しかし、ここを「天におられるあなたがたの父から(報いを受ける)」〔岩波訳〕〔口語訳、〕と訳すこともできます。この訳し方だと、神からの「報い」が地上と天国とのどちらをも含むことになります。
[2]【施しをする】原語は「憐れみ・慈善を行なう」。現在の「チャリティ」(博愛・慈愛)の行為のことです。なお「会堂や」とあるのはユダヤ教の会堂で行なわれた慈善金集めのことです。多額の慈善を行なう者が賞賛され、会堂ではラビの傍らに坐る栄誉を与えられたりすることがありました。
【ラッパを吹き鳴らして】実際にこのようなことが行なわれたのではなく、「自分の前でラッパを吹く」という諺があって、自分を見せびらかす自己顕示欲の強い行為のことを指していたと思われます。 
【すでに受けている】「すでに」は原文にはありません。ただし、「(報いを)受けている」と訳されている動詞は、当時のヘレニズム世界で、「すでに受領済み」という領収書の決まり文句でした。だから、それ以上の「支払い」はないことになります。訳文はこのような意味をも込めて「すでに」を入れているのかもしれません。。
[3]【右の手のすることを】これは「誰にもわからないように密かに」という意味のたとえです。ただし、施しを相手に知られずに行なうことはできないから、隠れて行なうことそれ自体にこだわるのではなく、シラ書の言葉にあるように、自分の行為を見せつける気持ちでなく、無心になって施しをせよという意味です。この言葉は禅の境地をみごとに言い表わしていると鈴木大拙が言っているのを読んだ記憶があります。
[4]【隠れたこと】「隠れたところ」と訳すほうが適切でしょう。この句は今回の部分全体のキー・ワードであす(4節、6節、18節)。「隠れたことを(見て)」「隠れたところを(見ておられる)」〔岩波訳〕「隠れた行ないを」〔フランシスコ会訳〕「隠れたところまで見抜いて」〔ルツ〕などの訳があります。また「隠れたところ」を「報いてくださる」にかけて、「天の父は、隠れたところで行なう善行に隠れたところで報いてくださる」と読むこともできまっす。ここでも6節でも「隠れたところにおられる神は、隠れたところを見る」ということでっす。
[5]【祈るときにも】ユダヤ教では、例えば朝と午後と夕べの三回のように、決められた時祷があり、その時が来れば、場所を問わずに祈るお勤めがありました。また男は立って祈ることが多かったようです(マルコ11章25節/テモテ第一2章8節)。しかし、祈りの場合も制度化された結果、広場の角など「人前で」祈ることが指導者によって日常的に行なわれていました。神殿を中心とする宗教制度によって「人に認められる」ために慣習化したこういう祈りに対して、イエス様は厳しい批判を向けています(マタイ21章13節)。ただし、ここでの祈りをそのような勤行(ごんぎょう)の祈りではなく、不特定の時の祈りと理解しても問題はないでしょう。どんな場合でも祈りは神に向かってするもので、人に聞かせるためではないからです。なお祈りの心がけについては、ルカ18章(9節以下)に、真実な祈りとそうでない祈りとが見事に対照されて描かれています。イエス様自身はしばしば密かに祈っていまっした(マルコ6章46節など)。
[6]【奥まった自分の部屋】本来は「鍵のかかった倉庫」のこと。日本流に言えば「倉の中で錠をかけて」ということ。転じて「奥にある鍵のかかる私室」の意味になりました。

同じ6章

[16]【断食をするとき】旧約には、干ばつのような天災の時とか、個人的な苦境に陥った場合や罪を悔い改める際に、衣服を裂いたり、頭に灰を被るなどして断食する例がでています(列王記上21章27節など)。特にユダヤ暦7月10日の大贖罪の日には律法によって断食が命じられていました(レビ16章29節の「苦行」は断食を含む)。贖罪と断食とのこの結びつきは、後の新約での断食理解にも影響を与えていると思われます。使徒教父文書の『ディダケー』によれば、ユダヤ教では月曜と木曜に断食が行なわれていました。
 ところで、ファリサイ派や洗礼者ヨハネの宗団では、断食が守られていたのに対して、イエス様の弟子たちの間ではそれが行なわれなかったことが福音書にでています(マルコ2章18〜20節他)。イエス様はその理由を「花婿が一緒にいる」結婚式の喜びの時と「花婿が取り去られる時」、すなわち葬儀の時(マタイの9章15節の「悲しむ」はこの意味)とを対照させて、イエス様とともにいて喜び祝う時には断食は要らないと答えています。だからイエス様が在世当時には、弟子たちは断食をしなかったと考えられます(マタイ11章19節)。しかし、イエス様復活以後のユダヤ人キリスト教徒の間では、イエス様の十字架の死を悼んで金曜に断食が行なわれていたようです。マルコ2章20節の「その日には断食をする」というのは、このことを指しているのでしょう。それ以後のユダヤ人キリスト教徒の間でも、イエス様が「もはや地上からいなくなる」時と呼応するように断食が復活してきて、ユダヤ人キリスト教徒が多くいたマタイの教会では、断食が行なわれていたと思われます。花婿が奪われる「その日々〔複数〕には」(マタイ9章15節)断食するというマタイの叙述はそのことを前提にしている。『ディダケー』によれば、キリスト教徒たちは水曜と金曜に断食していたようです。イエス様の本来の教えからは、後退したことになるでしょう。
 こういうわけで、新約になってからも断食は何か厳しい状況や大事な時には行なわれました(マタイ4章2節/使徒14章23節)。だからマタイは、キリスト教徒の断食を否定してはいません。ただ、断食は「神に向かって」行なうものであることを特に強調しているのです。断食によって贖罪が成就するのではない、イエス様の十字架の贖いによって贖罪はすでに成就しているのです。この認識から始まる断食でなければならないということでしょう。だからマタイは、制度的な断食であれ個人の場合であれ、断食を「人に見せるために」行なうことを偽善的として戒めている。たびたび断食することが聖者の証しとされることがあったからです(ルカ2章37節)。
[17]【頭に油を】後代のキリスト教会で、この言葉が、「聖霊の油を注がれること」と解釈される場合がありました。
戻る