52章 隠れたこと
マタイ6章1節〜6節/同16節〜18節
          
マタイ6章
1
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
2だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き 鳴 らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
3施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
4あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
5「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

同6章
16「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
17あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。
18それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。
そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

   【注釈】

【講話】

■三つの善行
 今日はクリスチャンの行ない、善行です、これについてお話したいと思います。マタイは、施しと祈りと断食とをあげていますが、実はこの三つは、ユダヤ教において大事なお勤めとされていました。マタイの教会ではユダヤ人のキリスト教徒が多かったから、そういうユダヤ教の伝統を受け継いでいたと思われます。「善行」と訳されている言葉の原語は「義」ですが、これは実に奥の深い言葉で、「正義」という意味以外に「憐れみ」「恵み」「施し」という意味にもなります。だからパウロが「神様の義」という時には、神様の「恵み」、「憐れみ」という意味に近いです。神様の正義というのは、貧しい人や苦しんでいる人への救いとなって現われますからね。だからここで「善い行ない」とあるのは、施しや祈りや断食だけではなく、神様を信じる人が行なうあらゆることに当てはまります。マタイはその代表的な例としてこの三つのあげているわけです。
■施し
  第一の「施し」から入りたいと思います。この「施し」と訳されている言葉の原語は「憐れみ」です。私たちも個人でカンボジアの難民とかへ国連のユニセフを通じて寄付をしたりします。コイノニア会では、長い間、フィリピンの貧しい子供に教育を受けさせる里親をやってきました。
 しかし現代では、チャリティー・ショーと言って、いろいろな慈善事業が行なわれています。有名な歌手たちや音楽家が集まったり、タレントさんが集まって慈善の募金をしたりしています。日本国内だけではなく、国際的に組織的にそういう慈善事業が行われていて何百万何千万というお金が集められて、いろいろな方面に使われています。宗教団体やいろんな団体が、それぞれに慈善事業や寄付を集めていますね。もちろんこれには、それを通じて自分たちの組織や集団を一般の人々に知らせるという宣伝活動の意味もあります。大勢の人を集めてコンサートをやれば、けた違いに多くの献金が集められる。このように組織化することによって効率よく多額の献金が集まり、たくさんの人たちに施しを行うことができる。これはこれでいいことなんでしょう。大事なことなんでしょう。
  しかしです。そういう組織的で効率的なことをやるためには、隠れていてはだめです。テレビやマスメディアを通してがんがんやる。PRが大事です。目立つこと、人前に立つことです。しかし、逆に集まってくる人たちから見ると、自分は、何千人、何万人の中のひとりです。献金も1000円とか500円とか100円とかで、全体の金額から見れば大海の一滴です。そこには、人がやらなくても自分はやるという自分だけの意志や心情は働きません。効率よく大規模なことをやるには、組織化すればいい。そうすれば大きな事ができる。組織はマスです。しかし、組織化されるほうは、ますます小さくなります。組織が大きくなればなるほど、ひとりひとりは小さくなります。マスの反対がミニです。大衆と個人、この差がますます広がります。政治活動、経済活動、宗教活動、どれも大衆運動として組織化すれば大きな力になります。しかし、大衆化すればするほど、個人の存在と意味が失われます。特に宗教がそうです。みんなと一緒にやればやるほど、自分が信じているという一番大切なものが失われていきます。
 イエス様の御霊にある「霊的」とは人格的ということです。人格的とは個性的ということです。たとえ個人は小さくても、集会はミニでも、それなりに意味がある。自分自身の存在それ自体が、神様から与えられた御霊の宿りにあって意味を宿す。これが大事です。現代では、そういう大事なことが「隠されて」います。だから、ほんとうに善い行ないも隠されている。ほんとうの意味で、善いことをしようと思うなら、隠れてやるほうがいいのです。それが、神様のみ前で行なうという意味です。
 もうひとつ「報い」ということで、お話ししたいことがあります。それは、施しをすれば「天国で報われる」とあるところです。この御言葉ですと、お金を含めて、善い行ないはこの世では報われない。天国へ入ってから初めて報われるという意味に解釈されます。善いことをしても、神様は「この世では」報いてくださらない。この解釈は、ほんとうなのでしょうか? 旧約ではそうではないです。神様に従うものは、この世で幸いを得ます。どちらが正しいのでしょうね? こんなことを神学的に議論してもあまり意味がありません。これは、神様を信じて、やってみなければ分かりません。わたしたちの経験では、神様のために行なう労苦もそのために捧げたお金も、この世で報われます。これは理屈ではない。私たちの確かな経験です。どうぞみなさんやってみてください。では、将来お金に困らないように神様のために投資しよう。そういうことではないんです。祈ったことが、祈ったとおりに聴かれるとは限りません。いや、聴かれないかもしれない。祈りの結果がなんにもでないかもしれない。ではその祈りは無駄だったのか? それがそうではないんです。驚くべき仕方で、自分でも気がつかなかったような仕方で、ちゃんと祈りの結果が現われる。神様に捧げたお金がちゃんと戻ってくるとは限らない。ところが、驚くべき方法で、神様はちゃんと報いてくださるのです。隠れたところにおられる神様は、隠れたところで報いてくださる。こう読んでもいいです。
■祈り
 「偽善的」というのは「人に見せるため」ということです。「人に見せるため」というのは、その行為が制度化され、慣習化していることを意味します。つまり人間のためにやっていることですから、そこでは神様は、はっきり言ってあまり重要ではない。この夏、町内会の会長として、地蔵盆をやりました。瑞天という近くの寺のお坊さんに来ていただいて、町内の人の見ている前で、お地蔵さんの前でお経をあげてお詣りしてもらいました。お経の意味はよく分からないけれども、「堀池町町内安全」と「堀池町地蔵菩薩」だけは、ちゃんとみんなに聞こえるように繰り返して唱えてくれました。町内の人たちにちゃんと聴かせるようにお祈りしなければならない。これは当然です。だから、これは「人に聴かせるための」お祈りです。そうでなければ、集まった人たちは承知しませんからね。つまり、お地蔵さんはどうでもいいのです。また、お地蔵さんを信仰している人もほとんどいません。その証拠に、お地蔵さんにお詣りしたい人はどうぞ自由にしてくださいと呼びかけられても、ほとんど自発的にお詣りする人がいませんでした。ここでは、人が人に向いてみんなに見えるようにすることだけが大事な行事なのです。だから、お地蔵さんは言わばその「道具立て」にすぎません。そこには「信仰」は要らないのです。地蔵盆は町内の行事としての親睦の意味はありますが、霊的には全く空疎です。
 だからこれは、宗教的制度や慣習であって、神様のみ前での霊的な中味のある信仰ではありません。言うまでもないことですが、私はこれらの文化的な行事を決して霊的な意味での礼拝の対象にはしません。この意味でなら、キリスト教の行事でも同じことです。これが人間の宗教文化です。だから、人間の文化として守っているのです。お祭りも同じです。日本人のこのような過去の宗教文化です、これはこれで大事にしなければなりません。けれどもこれは「文化」です。「文化」は神様ではありません。神様は宗教的な行事をも含めてそういう文化を「創り出す」お方です。創り出すお方は創られた文化ではありません。そこに現在も活きて働かれる神様のご臨在を感じることはもはやできません。私たちは、そういう日本人の過去の霊性を受け継ぎながら、主様の御霊によって、新しい日本人の霊性を生み出し創り出していくように導かれているんです。特に今、このコイノニア会のひとりひとりに神様が求めておられるのがこのことです。御霊があなたがたを導こうとしておられるのは、そういう方向なのです。宗教ではない福音です。慣習ではない霊性です。人に見せるためではない。イエス様の導きに従うことです。そうすれば、イエス様は、必ず私たち日本人に、すばらしい未来を切り開く霊性をお与えくださいます。
 ここでもうひとつ注意してほしいことがあります。祈りは神と語るためです。しかし集会でみんなを代表して祈る「わたし」の祈りもあることです。主の祈りは「天にいますわたしたちの父」に祈ります。「わたしたち」だから全員で唱えなければならない。しかしです。集会の中で、だれかひとりが、みんなを代表して主の祈りを捧げてもいっこうにかまいません。実は詩編の祈りで、「わたし」とあるのは、そういう意味なんです。自分と同じ人たち、あるいは自分と一緒にいるすべての人たち(これは場所的にだけでなく霊的精神的にもともに交わりを持つ人たちのことです)、そういう人たちを全部代表して「わたし」と言うのです。でも、その場合でも、神様に向かって祈ることに変わりはありません。だから、「人に聴かせるため」ではない。それぞれが、それぞれに、イエス様の御霊にあって、神様に向かって語る。祈る。ところがそれが、不思議にひとつになってくる。一致してくる。これが「交わり」です。コイノニアです。多様の中の一致、一致の中の多様です。
■断食
 イエス様の在世当時には、弟子たちは断食しませんでした。わたしは断食をしません。若いときには2〜3日断食したことがありますが、近頃はほとんどしません。でも、断食することに反対しているのではありませんから、間違えないでください。でも、今年の6月でしたか、横浜の深谷集会に行くときに、初めてのことなので私も緊張しました。深谷さんが片耳の聴力を失うという大きな苦しみの中にありましたので、そのことのためにも祈らなければならない。こう思うと自然と朝と昼を抜いて断食して午後の集会に臨みました。ご自宅について「水をください」と言いますと、どうやら断食していることが深谷さんに見抜かれてしまったようです。やっぱり「見苦しかった」のですかね。頬を擦って赤くしておけばよかった。こういうふうに、朝を抜いて祈る。あるいはお昼を抜いて祈ることを時々やります。しかし、これはルールとしてではなく、その時その時に、主様の御霊に導かれるままにやるのが、一番大事なんです。
■隠れたところ
 目に見える神様は信じる必要がないのです。見えないからこそ、御霊にあって信じるのです。隠れたところにおられる神様は、隠れたところをご覧になるのです。その隠れたところこそが、「信仰」だからです。信仰とは人の目には見えないもの、神様にだけ見えるものです。神様はそこを観ていてくださる。だから人の信仰をとやかく言わないほうがいいです。あなたにはその人の隠れたところを観ることができないからです。その隠れたところこそ、十字架なのです。十字架というと、何かすごいことのように思うかもしれません。でも、ほんとうの十字架というのは、そんなにすごいことでもないし、目立つことでもないのです。
 皆さんは、入試問題というのを作ったことがないと思います。受験生で、入試を受けながら、この問題をどうやって作ったんだろうと考える人はいませんね。先生方でも、今年の入試の問題は良かったとか、成績が良かったとか悪かったとか、そういうことばかり話します。でも、入試問題を作るときに一番辛いことはなんだと思いますか? それは問題ミスです。小さなミスです。受験生や普通の人がどうでもいいと思うようなところでも、きっちりと調べて間違いがないかどうかチェックします。単語の発音ひとつ、冠詞のひとつもおろそかにできません。人目には重要でないところに間違いがないかどうかを調べるのが一番大事なんです。でもこの一番辛いことは結果には表われません。ミスはなんにもなくて当然です。何かあったら大変ですからね。だから、今年はミスがなかったなんてほめてくれる人は一人もいません。一番辛いところは人目には現われないのです。
 皆さんも人に福音を伝える者になってください。でも、人は、雑誌を出したり、出版したり、人目につくところはちゃんと見てくれます。それは評価されたら嬉しいですよ。しかし、実はそんなところにほんとうの苦しさがあるのではない。ほんとうの辛さは人の目からは隠れているのです。小さな事、どうでもいいようなことに、実は苦労があるんです。これが十字架です。隠れたところです。そこを神様はちゃんとご覧になる。
 イエス様は、真っ直ぐにエルサレムへ向かって十字架の道を歩まれました。けれども誰ひとりイエス様のなさろうとしていることには気づきませんでした。弟子たちも気づかなかった。十字架にかかられてお亡くなりになる最後の最後まで、誰ひとりイエス様のなさることの意味を理解できませんでした。イエス様がなんのためにそんなことをされるのか、誰にも分からなかったからです。でも、十字架の後で復活されて、聖霊に導かれて初めて、イエス様の十字架の意味が弟子たちにも分かってきた。それも、だんだん分かってきたのです。だから、十字架は最後の最後まで、誰にも目に留まりません。成功、成功と言いますが、クリスチャンにとって「成功」とは、最後まで十字架を担うことです。これがクリスチャンの「成功」です。
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