【注釈】
■ユダヤ教
 主の祈りの源流はユダヤ教の次のようなアラム語でのカディシュの祈りにあります。

  このユダヤ教のカディシュの祈りには、「神の御名が聖別されること」「神が全世界の創造主であること」「神の支配〔国〕が日々の生活に及ぶこと」「来るべき神の国の到来を待ち望むこと」が祈られていて、イスラエル民族全体の救済史的な祈りと終末的な祈りがはっきりと明示されています。このことは、イエスによる「主の祈り」が、後のキリスト教会によってどのように解釈されたか、その過程と照らし合わせるために確認しておくべき大事な点です。

■イエス様語録
 イエス様語録の主の祈りは、始めの2行「御国が来ますように」までがルカからで、後の部分はマタイからです。この祈りは、イエスによるアラム語の祈りを最も忠実に伝えています(「アバ」という独特の始まりや「負債」を「罪」の意味で用いていることや「1日の・来るべき日」という特別の言い回しなどはアラム語から)。これが原初のキリスト教会で用いられた最も古い形であろうと言われています。祈りの前半は、ユダヤ教の祈りを継承しています。しかしイエスは、会堂で唱えられていたユダヤ教の祈りの後に「今日の糧」と「罪の赦し」と「悪の誘惑からの救い」とを加えました。この三つは、イエスの祈りが、貧しい人たちに向けられていたことをはっきりと伝えています。日ごとの糧が与えられること。他人からの危害や不正を赦し、そうすることで霊的な平安が保たれること。日常生活に働く悪い霊力とその誘惑に陥らないこと。さらに暴虐な王や支配者による過酷な苦しみから免れること(「悪」は、霊的な存在であるだけでなく、「悪い者」の意味でもあり悪魔的な支配者をも意味します)。そして、これらが成就するために、自分たちを日々生かしてくださる創造主なる神が地上を支配してくださること。イエスが教えた祈りの本質は、この単純で切実で深い現実に根ざしているのです。だからこの祈りには民族的な祈願も救済史的な意味合いも終末的な色彩もあまり感じられません(「今日」という言葉に終末性が含まれてはいますが)。
 ルカには、主の祈りの前に、ひとりの弟子が、洗礼者ヨハネの宗団が行なっているように「わたしたちにも」祈りを教えてくださいとイエスに頼んだとあります。このことから、イエスは、自分ひとりで祈ってはいたけれども、弟子たちには、どのように祈るべきかを特に教えていなかったことがわかります。祈りとは、そもそも人に教えられたり、外から強制されたりする性質のものではなく、心に自ずから湧いてくることを誰よりもイエスはよく知っていたのでしょう。ところが、洗礼者ヨハネの宗団には、すでに決められた祈りの形式が存在していたようです。ただしこれも、洗礼者ヨハネ自身が制定したものではなく、洗礼者ヨハネの殉教以後の宗団の中で形成されたものでしょう。洗礼者ヨハネ宗団は、70年のエルサレム滅亡の時期までは(あるいはそれ以後も)宗団としての活動を続けていました。
  だから、イエスは、ここで祈りの「形式を制定した」のではありません。このことを始めにしっかりと確認しておくことが大事です。祈りは、自然に聖霊によってその人に「与えられる」。それでも、どう祈ってよいのか分からないことがあるから、そういう時の助けとして主の祈りが与えられているのです。この祈りは、各人それぞれが、おかれた現実の生活の中で、自分の生き方に対応するために「自由に」祈るための補助手段として与えられていることを忘れてはなりません。だから、イエスの周囲の人たちは、この祈りを唱えるのに続けて、それぞれが自分自身に関わる切実な祈りを神に向けて語ったと思われます。それ以後の霊的な意義付けや教義的な解釈は、この本来の祈りの性格を離れてはならないのです。主の祈りは、イエスの信仰がどのようなものであったかを、その最も的確で簡潔な姿で伝えてくれているのですから。

■マルコとマタイ
 マルコは、祈りについて述べた後にこの節を置いています。主の祈りの最も中心的な主題を「罪の赦し」という一事にまとめていて、おそらくこの言葉はイエスにさかのぼるでしょう。25節に続く26節は、マタイ6章15節とほぼ同じで、おそらくここはマタイから逆にマルコのこの部分に付加されたと思われます。マタイは、主の祈りの後に6章14〜15節を加えて、祈りの大事なポイントを押さえると同時に、「人間の側の行為」が祈りにおいていかに大切かを教えています。ここには、マタイの教会の倫理性がよく表われていると言えましょう。

■ルカ
 全体としてマタイよりもルカのほうがもとの形を保持しています。ルカでは、主の祈りがエルサレムへの旅の途中におかれていますが、こちらのほうが史実に近いでしょう。しかしルカは、主の祈りのすぐ後で聖霊を祈り求めるように勧めていて、主の祈りを信者の内に働く聖霊の宿りに結びつけている点が注目されます(ルカ10章21節以下/17章21節参照)。したがって、ルカでは神の国への祈りがより内面化され、その意味で個人的で現在的な意味合いが強いと言えます。しかし聖霊の臨在それ自体には、常に終末的な意義が含まれていることを見落としてはならないでしょう。
 イエス様語録とマタイでは、糧を「与える」とある動詞が、定過去形(アオリスト)で、その時限りの動作を表わしていますが、ルカはこれを現在形に変えて、「与える」により継続的な意味を付しています。また問題とされる「今日の?糧」という言葉を「日ごとの・日々の」“each day”として“daily bread”の意味であることを明示しています。アラム語から由来したこの言葉は、ギリシア世界の人には分かりづらかったからです。
 またヘブライ語では、金銭的な意味合いの「負債」が「罪」と並んで「負債と罪」という言い方がされていたから、ユダヤ人は両方の意味で「負債」を理解することができました(日本語訳では「負い目」とあって「負債」が同時に「罪」の意味をも表わすように工夫してあります)。しかしこれではギリシア人には、金銭的な「負債」のことだと誤解されるために、ルカは「負債」を「罪」と言い換えています。ところがルカでは、この節の後半で「自分に負い目ある者を皆赦しますから」とあって、前の「罪を犯す人」と後の「負い目のある人・負債者」とがちぐはぐになっているのです。ここを「わたしたちが・・・罪を赦す」という言い方に変えると、逆にユダヤ人キリスト教徒には理解できなかったからかもしれません。罪を赦すのは神だけですから。だからルカは「負債者」というもとの言葉を「負い目のある人」のように言い方を変えて残しているのです。またルカは「赦しましたから」という完了形を「赦します」という現在形に変えてより日常的な意味合いを出しています。「失われた息子」のたとえ話にあるように、ルカは父子の人間的な愛を神の愛に重ねています。ルカは、イエスの言う「父」を自分たちを「生んでくださった(beget)」方として認識していたのでしょうか。また、ルカ福音書では、「祈り」と「罪の赦し」とが「救い」と結んで特に重視されていることを付け加えておきます。

■マタイ6章
  マタイの場合は、前回見たように祈りの教えと断食の教えとの間に主の祈りが挿入されていて、これはマタイによる編集です。マタイでは、「あなたのみ名」「あなたの御国」「あなたの御心」と「あなた」が並んでいて、その次からは「わたしたち」が出てくる構成を取っています。前半は父の神についての祈りで、後半は地上のわたしたちに関する祈りです。マタイの祈りが現在わたしたちが唱える祈りに最も近いので、これの節ごとに注釈を加えることにします。
[7]【くどくどと述べるな】現代では、主の祈りは、真実に心から祈られるよりも、くどくどと解説されることの方が多い!「異邦人」を引き合いに出しているのは、マタイの教会ではユダヤ人キリスト教徒が多かったからです。
[8]【願う前から】7章7〜11節を参照。わたしたちは「救われて初めて救いを求め」「祈りが聞かれて初めて祈り始める」のです。
[9]【天におられるわたしたちの父よ】「天におられる」はマタイによる付加でしょう。イエスが唱えた原型にはアラム語の「アッバ(父よ)」とだけあって、ここにイエスと父の神との深い霊的な交わりがこめられています。旧約で「父」は、家長としての肉親の父以外に、先祖(複数で)、保護者(詩編68篇6節)、祭司(士師記18章19節)など多様な意味に用いられました。しかし旧約では、神について「父」が用いられる場合は比較的希です。だが、「先祖の神」(出エジプト記3章15節)という場合に、そこには「正統性」が意味されていて、これはマタイの「父」の用法との関係で大事な点でしょう。
 旧約で神は、「造り主」として「父」と呼ばれています(イザヤ書45章9〜11節)。このために、旧約の神は、人間的な父子関係によらない「契約の神」であり、「選びの神」であることが強調されてきました(申命記7章6〜7節)。いわゆる「養子縁組の神」です。こういう旧約の神は、民族や国家など、人間的な血縁や民族性を超えた神としての特質を具えていると言えましょう。新約では、旧約の神のこの特質が継承され、さらに発展しているというのが従来の見方です。旧約時代に神を「父」と呼ぶのをためらったとすれば、おそらくこういう旧約の神の特質がその背後にあるからでしょう。
 そうであればこそ、イエスがその祈りの冒頭で「父よ」と呼びかけたことの意味は大きいと言えます。ここで注意しなければならないのは、旧約で神が「造る」というのは、いわゆる「無から有を呼び出す」というギリシア哲学で言う存在論的な意味での「創造」ではなく、「生む」こと、場合によっては生殖を伴って「命を生み出すこと」を指していることです(創世記4章1節/民数記11章12節)。ちなみにローマ人への手紙4章で、アブラハムが「無から有を呼び出す」神への信仰によって、「多くの民の父」と呼ばれたとパウロが言うときにも、生殖によって「命を生み(造り)出す」ことを指しています(ロマ4章19節)。「生む」と「造る」の両方が神の業について表われるのが箴言8章22節です。またこの「父」としての主は「贖い主」でもあります(イザヤ書63章16節)。イエスの「アッバ」にはこのような「父の神」への呼びかけが反映していると思われます。この意味で、ルカにおける「父の神」のように、神と人間とのより自然な父子関係が注目されてよいと思うのです。
 マタイはここで、「天におられる」旧約の「父なる神」の伝統を受け継ぐことで、イエスの「父の神」を旧約の「父の神」へしっかりとつないでいます。彼は同時に、イエス・キリストの民が、先に述べたように、父としての神の「正統性」をも継承していることを意識しているのです。マタイが「天におられる」を加えたとすれば、それはユダヤ人キリスト教徒の視点から、人間の家族としての父という血縁関係ではないことを示すためであって、地上の人間に対する神の超越性を特に強調するためではありません。
【御名が崇められる】原文は「御名が聖別される(聖なるものとされる)ように」。聖書の神は、その御名を呼ぶことによって、特定の国土とそこに存在する神殿に左右されず、その時その場に顕現し臨在する神です(創世記12章8節)。だから「御名を呼ぶ」ことは神の現臨そのものを意味します。「聖なるものとする」のは、神がこれをすることであるが(エゼキエル書36章22〜23節)、しかしまた人間の側にもかかわることです(出エジプト記20章7節)。
  マタイの教会での祈りからすれば、ここで「御名が崇められる」とあるのは、イエス・キリストの父の神が「異邦人」の間に宣べ伝えられることによって、異教の神々を信じている人々が、主の「御名を崇める」ようになること、またそうすることで人々が主に従うように祈ることを意味しているのでしょう。しかしながら、「聖なるものとする」ことの反対は「汚すこと」です。だから、エゼキエル書36章にあるように、主の御名が、ほかならぬ「主の民」と呼ばれている人たちの間で「汚されている」という現実にもマタイは目を向けているのです。だから人間の側にとっては、御名を「聖なるものとする」ことは御名を「汚さない」こととほとんど同じです。神を知らない民(ギリシアやローマ人)の間で主の御名が崇められるためには、まず主の民(ユダヤ人)の間で御名が汚されてはなりません。この二つは表裏をなしているからです。マタイは、ユダヤ教の民と異邦人との両方を意識しているのです。だから、「天におられる父の御名を聖なるものとする」祈りは、ユダヤ人も異邦人も、そのどちらの「神」も「神々」も、言わば人間の宗教的で文化的な営みとして相対化することにほかならないのです。だから「聖なるものとする」とは、キリスト教を含むあらゆる宗教的な営みを超える存在を指し示すことであり、それは真の意味での普遍性と公正な唯一のお方を意味するものです。このような霊的な視野を新たに切り開くことこそ、ここでマタイが言う「御名が崇められる」ための祈りの方向なのです。この意味において、「御名を汚さない」ことが、宗団や制度としての教会のみならず、主の御霊を宿すひとりひとりにとって大事な祈りとなります。
[10]【御国が来ますように】「御国」は、マタイでは「天の国・天国」であり、ルカでは「神の国」となります。「国」の原語は「王の支配する場・王国(kingdom)」を意味しますが、ここには終末へ向けて神の支配の到来を待ち望む姿勢をうかがうことができます。「御国の到来」は現在なのか終末なのか? という従来の議論に加えて、御国はいったいどのような姿で来るのか? という問題にも注意が向けられなければならないでしょう。キリスト教徒は、イエスの御国の建国に生きる人たちのことです。そこには、宗教観の対立、特にキリスト教の「異教」に対する姿勢への問いかけが含まれてくるからです。「王国」という言葉には、権力や権威の匂いがつきまといます。しかし、「異教徒」や「異教」を滅ぼすことを「王国」の実現だと考えているキリスト教徒が、人類の平和と御国の到来とを重ね合わせてまじめに祈ることができるでしょうか? 神学的な議論は尽きませんが、人間の文化的な営みとしての諸宗教の間に和解と理解とが生まれて初めて、人間の平和という「神の国」が実現するのではないでしょうか? イエスの民ひとりひとりが、この地上でイエスの御霊にあって活きる、その祈りと歩みの中で初めて、御国が現臨し現実するよりほかに道がないことだけは確かです。
【御心が行なわれますように】主の御心を祈り求めること、これがすべての祈りの帰結です(マタイ6章33節参照)。この10節の後半で、「天におけるように地の上でも」とあるところはマタイの付加です。この句は語法的には、「御名が崇められる」にも「御国の到来」にも「御心が行なわれる」にもこれをかけて読むことができます。「御心」の祈りは、御国の到来への祈りと並行していますから、「御心」と「御国」のどちらも「地の上でも」行なわれるように祈ることが求められているのです。「天で行なわれているように」は、あの世とこの世とを区別しているのではありません。「天で行なわれているからこそ」それは地でも行なわれざるを得ないのです。御国の力と起源は、これを「創造する」父の神から来る。この祈り自体が、イエスの御霊にあって天から降るのです。ルカが聖霊を求めることをこの祈りに結びつけているのは、まさにこの意味なのです。主の祈りは、主イエスにあるひとりひとりが、イエスの御霊の宿りを通して、この地上にあって現実させるものであり、またそのように仕向け、働きかけるのが主の祈りなのです。こうすることによって初めて、人と神とが、現在と終末とが、ひとつになるのですから。
[11]【必要な糧を今日与えてください】この祈りはユダヤ教にはあまり例がありません。それだけにイエスの特徴を帯びています。「必要な」の原語「エピウーシオン」は「日ごとの」「きょうの」「明日の」とも訳されています。問題はこの原語が、ギリシア語には例がないことです。おそらくこの語はアラム語からの造語でしょう。ところがそのアラム語の意味もはっきりしません。「ウーシア」を「生存」ととらえるなら、「生存に必要な」の意味になります。中世のカトリック教会では、このギリシア語を「エピ(上から)+ウーシア(実体)」と語源的にとらえて、わたしたちの「実体を超えて/実体とひとつになる(パン)」と解釈し、主の祈りを聖餐の前に唱えていました。「エピウーシオス」を「今日のため」と解することもできますが、これだと「今日」が二度来ることになります。この語を「エピウーサ」(来る日の/明日の)から出たと解すれば、「明日の糧」となり、こういう例はユダヤ教にも出てきます。この解釈をさらに進めて「明日の」を「未来の」とすれば、「終末に天から降るパン」という霊的な意味にも解釈できましょう。しかし、この解釈だと「今日与えて」とあるのとうまく合いません。
 これらの解釈は、どれも神学的、教義的な視点からは、それなりの意味があるのでしょうが、最初に述べたとおり、主の祈りの原点に立ち返って見るなら、ユダヤ暦に従うと一日は夕方の6時から始まり次の夕の6時で終わります。夕べに祈るにしても朝祈るにしても、貧しい人には「次の」食物が与えられるという保証はないのです。貧しい人にとって1日は長いのです。「今日一日の間、これからの食事を与えてください」という祈りは、そういう状況を反映していると見ることができます。ちなみにイエスが弟子たちを遣わすときにも食物を携帯させませんでっした。一回ごとの食事は、その都度主によって備えられるからです。荒れ野で与えられたマナも、明日の保証はありません(出エジプト記16章19節)。しかし、ルカの場合はすでに状況が異なっていました。だから彼は、彼の読者に分かるように、この原語を「日ごとの糧」と言い換えたのです。
  けれども、「日ごとの糧」の原義が、現在ではもう古くなったとはたして言えるのでしょうか? いったい「わたしたちに」とは誰のことでしょうか? キリスト教宗団や教会のことだけでしょうか? ひとりひとりが「わたしたちに」と祈るときに、そこには、現在の世界で飢えで苦しんでいる無数の人たちは入ってこないのでしょうか? こういうことが改めて問われてくるのを想います。ただし、そういうこの語の原義が、ここでの「糧(パン)」を聖餐や終末の隠喩として解釈するのを妨げるものでないのは言うまでもありません。
[12]【負い目を赦してください】「負い目」とある原語は、本来借金の「負債」のことです。他人に悪を行なった場合に、少なくとも被害者から見れば、加害者は「負い目ある者」と見なされました。このような「負い目」は個人関係より社会的に「法に対する負い目」へと転じることにもなります。したがって、悪を行なった者は賠償しなければならなくなります。こうなると、神や神々との関係においての「罪」が、社会的な意味を帯びてくることになります。
 旧約聖書では「悪を行なうこと」が「負債」と見なされる例は希です。ところが、新約の時代に近い頃のユダヤ教では、人間の罪を神と神の律法への「負債・負い目」と見なす例が出てきます。神と人間との関係を法律的あるいは取引の契約的な負債関係で見るようになったからでしょう。このような過程で、アラム語での「負債」は、「罰」や「義務・義理」を伴う「神への罪」と結びつけられるようになったのです。イエスは、当時のガリラヤの庶民のこういう考え方を採り入れて、神に対する「罪」を「負債」として語ったようです(マタイ18章23節以下)。神に対して果たさなければならない「義務・義理」という意味では、マタイ23章16節やルカ17章10節に、またパウロではローマ人への手紙4章4節にその例があります。このようにして、旧約の「神への罪」が「負債」と結びつけられて、アラム語の「負債」の独特の意味となったと思われます。
 古代世界では、「負い目」はこれに相当する加害者側からの償いの行為によって帳消しにされました。しかし旧約では、神に対する罪は、これに対応する犠牲を神殿に捧げることで赦されたのです。しかしイエスは、人間の側からの行為も神殿での犠牲も、神への罪を償うことができるとは考えませんでした。その代わりに、イエスは神への罪の赦しを人間が「他人の罪を赦す」という独特の行為によって初めて成就されることを教えたのです。12節は、続く15節で示されているとおりに、その後半に強調がおかれています(5章23〜24節参照)。このような例はギリシア世界にも旧約にもありません。
  しかし、どのようにして人が自分への加害者を「赦す」ことができるのでしょうか? 自分が神に「赦される」ことによってです。だが、「赦される」根拠は、自分が罪人であることを「認める」ところにあります。だから、己の罪の認識→神からの赦し→人への赦し→神からの赦し→己の罪の認識という不思議な循環がこの祈りの中で生じてくるのが分かります。こうしてこの祈りはイエスの十字架による贖いへと人を導くのです。だから、己の罪を認めない者は、神を知らないことになります(第一ヨハネ1章10節)。ただし、この祈りでは、人はいかなる意味においても、「他人の不正を大目に見たこと」を理由にして、神に自分の負い目を帳消しにするように要請することはできないのです!
[13]【試みに合わせないで】「試み」と訳されている語は「誘惑」とも訳され、また「試練」とも訳されます。「試練」は神から、「誘惑」は悪魔から、と言われます。「誘惑」の最初の例は、楽園での蛇による人間への誘惑です。ここで人は自分が「神と等しくなる」ことを夢見て、その結果神に背き、いわゆる人類の堕罪が生じることになります。この物語には、誘惑が神からではなく、「蛇」(その正体は必ずしも明らかでない)という悪の働きから来ていること、誘惑の目的は神に背くこと、すなわち「不信仰から生じる不従順」にあることがはっきりと示されています。誘惑が何によって、どういう目的で生じるのかを知る上で、堕罪物語は根源的な意味を持つと言えます。注意しなければならないのは、堕罪が天地創造と深く関わっていることです。神は天地創造を「善い」と認めました。しかし「蛇」はこれを「善い」とは認めなかったのです。「創造」をめぐる善悪の価値基準が、創造と堕罪の物語の背後に存在しているのが分かります。すなわち創造行為それ自体には、常に善悪の判断がつきまとい、これをめぐって「誘惑」が発生するのです。これが「誘惑/試練」の根本的な問題点と言えましょう。
 旧約には、神がイスラエルの民(出エジプト16章4節)なり個人(例えばアブラハム)なりを「試す」(テストする)例が出ています。言わば神が人を「従順へと導く」ために訓練するのでっす。しかしこの場合でも、神の愛と配慮が人に注がれているのは確かで、この意味で、これは神が悪へ「誘惑」することではありません。主の祈りでは、神に向かって願うのだから、ここでは「テスト」しないでくださいという意味だという説もありますが、愚かな見解と言うべきです。ではなぜ神は人間に対する悪魔の誘惑を許すのでしょうか? この問いは、ヨブへの試練以来続いている難問です。悪魔が誘惑するのであれば、悪魔に止めてくれと頼むべきで、神に祈るのは無駄だという愚かな意見もありますが、私たちが神に祈るのは、「試み」に引き込まれないことだけでなく、これにうち勝つ力を与えられるためなのです。
 「あなたがたを襲った試練(試み)で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(第一コリント10章13節)。ここでパウロの言う「試練・試み」が、神から来る「試練」なのか、サタンから来る「誘惑」なのかは、必ずしも明確ではありません。この疑問に対しては、「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。」(ヤコブ1章13〜14節 )という説明が役立つでしょう。
  新約での「試み」の代表的なものが、イエスに対する荒れ野での「誘惑」です。ここでイエスは、「御霊に導かれて」試みへと向かいます。だが福音書は、「試み」自体はサタンからのものであると述べているのです(マルコ1章12節)。ここでの試みの内容については繰り返しませんが、その目的が「神の意志に背かせる」ことにあることだけははっきりしています。この意味で、ここでの試みは、十字架を前にしてのゲッセマネでの祈りに通じていると言えましょう(マルコ14章36節)。ゲッセマネでもイエスは「アッバ、父よ」と呼びかけているのも主の祈りと通じているのかもしれません。
 主の祈り全体を終末的観点から解釈して、ここでの「試み」も終末に先立って襲う大いなる苦難のことだと解する説があります。主の祈りが終末的な意味を帯びているという見方に異論はありません。しかし、先に述べたとおり、私たちはイエスの祈りをその原点に立ち返って見直す必要があります。そうすれば、ここで言う「試み」は単純に悪への誘い、すなわち「誘惑」の意味だと理解するのが妥当でしょう。これこそ人類の堕罪の最初の原因であり、イエス自身が受けた悪魔による誘惑の本質でもあったからです。
  13節後半の「悪い者から救ってください」は、マタイの付加です。ここで「悪い者」と訳されている語は、男性名詞として「悪魔」の意味ですが、この語を中性名詞として「悪から」と訳してある版もあります。だが「悪」か「悪魔」か「サタン」かの区別にあまりとらわれないほうがいいでしょう。「悪」の背後には「悪魔」の影があり、それは聖書では「サタン」という名で呼ばれているという理解で十分だと思います。それよりも、世に誘惑の種類は無数にあるが、その最も根源に潜むもの、それはなにかを考えるほうが大事です。
  アダムとエヴァへの誘惑に立ち返るなら、それは「神のようになろう」とする誘惑です。「自分を神とする」こと、この誘惑は、イエスの受けた誘惑そのものにほかなりません。人は多かれ少なかれ、自分を神の上におき、自分の判断で神を見る、あるいは神を自己の利益のために利用する、こういう誘惑に絶えずさらされるのです。神よりも自分を賢いとするこの自己欺瞞とうぬぼれ、これこそが「十字架の罪の赦し」を愚かと思わせ、イエスの贖いを受け入れることを拒む「人間の知恵」であり、「神の知恵」に対抗しようとする人間の賢(さか)しらであって、蛇が人に勧めて食べさせようとした「知恵の実」にほかならないのです。だからわたしたちは、この蛇の誘惑に陥らないように常に祈らなければなりません。主の十字架の赦しのもとを歩み続けなければなりません。己の力により頼まず、主の御霊にあって歩まなければなりません。これを一言で言えば、「与えられた信仰を最後まで貫くこと」です。「初信を忘るべからず」です。主がわたしたちに与えた祈りの行き着くところは、この一事に尽きます。

■聖書以後
 『12使徒の教訓』(ディダケー)は、1875年にニコメディアの主教によって発見されました。これはギリシア語の写本で、全部で16章からなり、初期の教会の教えを知る貴重な文書です。この文書が書かれた時代は70年頃〜200年頃までと諸説があります。このことは、この文書が、多くの編集を経ていると見られるからです。「監督」や「執事」への言及があるから、初代教会の制度が整い始める100年〜150年頃でしょうか。この文書には、主の祈りがほぼそのまま用いられています。ただし、その終わりに「力と栄光とは永遠にあなたのものだからです」と現在教会で唱えられる主の祈りの結びに近い形がでているのです。この結びは、本来信者が主の祈りを唱える折りに、自分の自由な祈りを加えていたのを教会が統一する目的で付加されたのでしょう。この部分に「父と子と聖霊のひとりの主よ」を付したものが、『賛美歌21』の頌栄27番にあります。三位一体の主の祈りは、先にも指摘したように、中世のカトリック教会では、聖餐の前に唱えることがありました。しかし、宗教改革以後のプロテスタントの教会では、礼拝の最後に全員で唱えることが多いようです。

■現行の主の祈り
 
「天にまします我らの父よ、
願わくはみ名を崇めさせたまへ。
み国を来たらせたまへ。
みこころの天になる如く地にもなさせたまへ。
我らの日用の糧を今日も与えたまへ。
我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく我らの罪をも赦したまへ。
我らを試みにあはせず、悪より救い出したまへ。
国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり。アーメン」
               〔日本基督教団式文から〕
■『賛美歌21』62番から
  (先唱者)           (全員)
  天にいますわたしたちの父、  私たちの主よ、
  み名があがめられますように、 私たちの主よ。
  み国が来ますように、     私たちの主よ、
  あなたの国が来ますように、  私たちの主よ。
  みこころが天と同じく、    私たちの主よ、
   地でも行われますように、   私たちの主よ。
  今日のパンを今日この日に、  私たちの主よ、
   私たちにあたえてください、  私たちの主よ。
  罪をゆるしてください、    私たちの主よ、
  私たちもゆるしあいます、   私たちの主よ。
  試みにあわせないで、     私たちの主よ、
   悪から救い出してください、  私たちの主よ。
  国も力も栄えも、       私たちの主よ、
  限りなくあなたのものです。  アーメン。
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