53章 主の祈り
マタイ6章7〜15節/ルカ11章1〜4節/マルコ11章25〜26節
【聖句】
イエス様語録
祈るときには、こう言いなさい。
「父よ、御名が崇められますように。
御国が来ますように。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
わたしたちを誘惑に遭わせないでください。」

マルコ 11章
25また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。
26もし赦さないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちをお赦しにならない。

ルカ 11章
1イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
2そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
『父よ、御名が崇められますように。
御国が来ますように。
3わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
4わたしたちの罪を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。
わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

マタイ6章
7また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
8彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
9だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。
10御国が来ますように。
御心が行われますように、
天におけるように地の上にも。
11わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
12たしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
13わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』
14もし人の過ち〔人々のもろもろの過ち〕を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
15しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

【注釈】

【講話】

 注釈でいろいろ書きましたから、これ以上に付け足すことはありません。イエス様が、わざわざ「くどくどと祈るな」と言われて簡単な主の祈りを教えてくださったのに、それをまたくどくど言うのはおかしいです。だから、大事な点だけを語ります。
 まずこの祈りは、ひとりひとりが日常の生活の中で祈るものです。「わたしたち」とあるから、みんなで祈るものだと思うかもしれません。でも、ひとりひとりが、自分の中で祈らなければみんなの祈りは湧いてきません。祈りは御霊にあって「与えられる」ものです。あなた自身に与えられるのだから、あなた自身の個人的な生活に密着したところで湧いてくる祈りです。イエス様の御霊にお委ねする、そこから祈りが湧いてきます。だから、ひとりひとりが、「自分自身の祈りに出会う」まで、真剣に祈ってください。そこから、あなたの主様にある真の生き方が始まるのです。それは、あなたしか歩むことのできない主から与えられた道です。人まねではない。天下一品の創造的な道です。祈りとは「創造の始まり」なのです。では主様からの祈りを順番に見ていきます。
「父よ」とあるのは、まずイエス様の父のことです。同時に、イエス様を信じるわたしたちの父でもあります。この父なる神は、創世記の神ですから、天地を造られた神のことです。創造の神は、今日も働いておられます。だから、わたしたちの命を今日も活かしておられる「父の神」であるのを忘れないでください。わたしたちの命は、この父が御子によって遣わされる御霊から来ます。万物を生み出し、万象を成り立たせておられる主様の父こそ、遠くにおられるようで最も近いお方なのです。三位一体の神は、あなたとあなたの先祖とあなたの国の過去も現在も未来もすべてよくご存じです。「うるわしき朝も 静かなる夜も 食べ物着物を くださる神様」です。だから安心してイエス様の父に呼びかけてください。
「み名が崇められますように」聖書の神様は、「名前を呼ぶ」ことで顕われる方です。神殿などの場所にはこだわりません。だから神様のみ名は畏れ多いです。「み名を崇める」とは、自分の人生において生じる事柄が、自分の業ではなく、神様のみ業(わざ)だとはっきり認めることです。わたしたちは、「み名を崇める」祈りをともすれば神様をまだ知らない人たちにみ名を伝えて崇めさせることだと考えたりそう教えられたりします。まだイエス様の父である神様を知らない人たちに、イエス様のみ名を伝えなさいとね。しかしです。そうする前に、まず自分がみ名を崇める存在になることです。主様を信じる者が心から神様を崇めるなら、自然と人々は神様を崇めるようになります。なぜなら、み名を知らない人たちの間で、神様のみ名が崇められるためには、まずもって、み名を知っている人たちの間で、神の御名が崇められなければなりません。「そのことを見て」、み名を知らない人たちも神様を崇めるようになるからです。「崇める」とは「聖なるものとする」ことです。「聖なるものする」ことの反対は「汚れたものにする」ことです。だから、み名を知る者は、み名を汚さないようにすることが大事です。だから、わたしたちは、「自分の業」「自分の名前」を出すのではなく、イエス様のみ名、イエス様の御業が、自分を通して顕われること、このことをまず祈るのです。
  現在クリスチャンと言われる人たち、キリスト教の国だといわれる国々、そこでみ名が汚されていてはなんにもなりません。イエス様を信じていない人たちから見ても、なるほどと納得できる生き方やものの見方、そういうものを身につけないと、「み名」は、わたしたちの間でも、またこれを外から見ている人たちの間でも、逆に「汚されて」しまいます。だから、「み名を崇めさせてください」というこの祈りは、現代では、キリスト教の人にもそうでない人にも、同じように求められているのです。なぜなら、どちらの人たちの宗教も、主様のみ名を崇める立場から見れば、単なる人間の「宗教文化的な」営みにすぎないからです。互いに相対的な意味で競い合う単なる慣習的な営みに過ぎなくなっています。この認識に立って、み名を崇めるためには、まず「み名を呼ぶ」ことから始めてください。朝起きたときと夜寝るときに、イエス様のみ名を心から呼ぶ。これをやってください。呼び求める人は、誰でも必ず救われます(ローマ人への手紙9章13節)。
「み国が来ますように」み国は現在すでに御霊にあって皆さんひとりひとりのところへ来ています。すでに来ているからこそ求めるのです。不思議です。み国がすでに来ているからこそ、その中を歩む。これがみ国を「来たらせる」ただひとつの道です。でも、あなたは、いったい「どんな」み国を待ち望みますか? 「クリスチャン」と呼ばれる人たちだけが救われて、ほかの人たちは全員滅びる。そういうみ国を待ち望みますか? それとも、宗教や民族の違いを乗り越えて、世界中の人が平和に暮らせる、人ひとりひとりが、人間としての誇りと喜びを感じる、そんなみ国が来ることを待ち望みますか? み国が来るか来ないかよりも、どんなみ国を求めるのかを考えてください。「み国は」あなた自身の祈りと信仰にかかっています。おおざっぱな言い方をすれば、旧約聖書は、イスラエルの国造りの叙事物語です。新約聖書は、全世界に広がる御国の建国物語です。神の御国とは、神ご自身が働かれて、わたしたち人間を新たに創造し、わたしたちの世界を再創造することであり、これは建国の叙事物語なのです。主の祈りの結びに来る「御国と御力と御栄光は、とこしえに汝のものなればなり」は、この建国の祈りを的確に言い表わしています。
「御心がおこなわれますように」まず私を通じて主の御心が行なわれるように求めることです。どんな祈りも最後はここに行き着きます。神ご自身が、今この地上にみ心を行なうべく働いておられます。だからわたしたちは、「行なう」前に、まず、「御心を知る」ことが大事です。そこから祈りが始まるからです。わたしたちが祈るのは、わたしたちが与えられた現実の中で、み心を活きるためです。
「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」これはイエス様独特の祈りです。み国と御心を求めるなら、「必要なもの」は必ず与えられます(マタイ6章33節)。霊的に必要なものと、同時に身体的に必要なものと、両方が「必要な糧」なのです。でも、「わたしたち」とは誰を指すのでしょう? イエス様の時代と同じように、「今日の食べ物」がない人たちが、世界中にあふれています。この人たちは「わたしたち」に入らないのでしょうか?
「わたしたちの罪を赦してください」人は自分にされたとおりに人にもするものです(ルカ6章31節)。だから「人の罪を赦す」ことは自分の罪が赦されて初めてできることです。自分の罪が赦されるためには、自分の罪を「知って認める」必要があります。自分の罪に気づかせてくれるのが御霊の働きです。御霊は、隠れた罪を露わにし、露わにされた罪を赦すのです。わたしたちが、霊的にどんなに深い闇の世に生かされているのかを悟ること、これによって、「わたしたちの罪」とは、人間の力ではどうにもできないほどに重く大きいことを悟るのです。だから、自分の罪を恐れないで、自分で罪をなくそうとしないで、主様の十字架のみ前に、御霊の導きを祈りつつ、己を主のみ手に委ねてください。
「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」活きるとは主様の御霊の導きに歩むことです。歩むとは「先へ進む」ことです。それは旅と同じで、先へ進むと必ず未知の問題に出合います。「道」は「未知」です。「未知」とは、何が「善い」か「悪い」かが、分かりにくいことです。「誘惑」はそこから生じるのです。しかし主様は、わたしたちの「先を見て」おられます。神様の導きを「摂理(せつり)」と言います。英語で言えば、「プロヴィデンス・Providence」です。これは「プロ(先を)ヴィデオ(見る)」することです。だから主様を信頼して歩んでください。そこから、あなた以外には誰も創り出すことのできなかった道が創り出されてきます。
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