【注釈】
■イエス様語録
イエス様語録(Q)としては、マタイ6章19〜21節と24節を一応そのままあげることができます。ただし、マタイの19〜20節と21節と24節とは、本来はそれぞれ別の伝承から出たもので、19〜20節と21節はまとめられていますが〔ヘルメネイアQ328-33〕、24節のほうは別の項目になります〔ヘルメネイアQ462-63〕。イエス様語録のテキストとして、マタイ福音書よりもルカ福音書のほうを重視する説もありますが、おそらくルカ福音書のほうがマタイ福音書の用語を言い換えたのでしょう。マタイとルカでは、用語や言い回しがかなり異なっていて、マタイの6章19節に当たる部分がルカにはありません(ただしルカ12章21節参照)。「宝」はマタイ6章20節では複数ですが(ただし21節の「宝」は単数)、ルカでは単数です。「天に」とあるのは、マタイでは単数ですがルカでは複数の「諸天に」となっていますから、ルカのほうが宇宙的(ヘレニズム的)だと言えましょう。マタイの21節の「あなたの宝・・・あなたの心」は、ルカでは「あなたたちの宝・・・あなたたちの心」です。一方で、マタイの6章24節は、ルカ16章13節と完全に一致しています。ただ、ルカの「召使い」に当たる語は、マタイにはありません。ルカは、マタイの直接的な訴えかけよりも、「召使い」という譬えの形で表現しているのです。
■マタイ
マタイ福音書では、主の祈りに続いて、「断食」と「天に宝を積む」ことが来て、「目は体のともし火」とあるのを間に挟んで「神か富か」の教えが来ます。これに25〜34節の「思い煩うな」を加えると、御国を求める者の心構えが説かれているのが分かります。「金持ちの青年」とイエスとの出逢い(マタイ19章16〜22節)にあるように、施しは、断食と並んで、ユダヤ教の大事な勤めでした。しかし、ユダヤ教には、富の所有それ自体を否定する伝統はありません。「神か富か」というイエスの教えは、旧約のこの伝統に照らすと、富の所有それ自体を否定するものではなく、ここでも人の心の有り様へ内面化されることにで、富を所有する「欲望」への鋭い警告として語られていると言えましょう。なお、イエス様語録の諸集会時代からマタイの教会の頃まで、金銭を持たずに諸集会を巡回した霊能の伝道者たちがいたことも(マタイ10章9〜10節参照)、ここでの富所有への警告の背後にあると思われます。
マタイ6章
[19]【虫が食ったり、さび付いたり】「虫」とあるのは衣蛾の幼虫のことで、衣服を食べます(イザヤ書51章8節)。また「さび付いたり」とあるのはラテン語ウルガタ訳から。原語は、長持ちなどをぼろぼろにする木食い虫を指すこともあり、同時に鉄を「食べる」錆を意味することもあったようです。衣服は、特に女性の富と宝の象徴であり、木箱や長持ちは貴重品を入れるもの、あるいはそこに入れてある財宝を指しています。
[20]【忍び込んで】壁などを掘り抜いたり地下の貯蔵庫へ穴を掘って侵入すること。
【一方に親しんで・・・】一方に心を向けて世話をするが、他方はなおざりにすること。富を所有するかどうかではなく、富に心が奪われることです。
【富】原語(マモナ)はアラム語で「富・所有物」の意味。ここでは「愛する」「憎む」「仕える」という表現と結んで、マモナが偶像神として擬人化され諺的な表現となっています。ここから「お金の神」を意味する「マモン」(英語のmammon)という語が出ました。「神に仕えることはできない。マモンに仕えるのなら」が直訳です。
[24]この節はほんらいこれだけで独立した伝承で、イエス様語録=マタイ6章24節=ルカ16章13節となります。マタイ福音書とルカ福音書のテキストはほぼ完全に一致していますから、文書としてのイエス様語録から出ていると考えられます。イエス様語録の諸項目との配置関係もはっきりしませんから、イエス様語録の中でどの部分に置かれていたのかを推定するのは難しいようです。
【仕える】主人と奴隷の関係が比喩として用いられています。ヘレニズムの時代、奴隷が二つの家に同時に「仕える」ことは、社会的にも不可能で、道義的に許されません。
【富】「富」(原語「マモーナース」)は、ここでは「主人」として擬人化されていますから、単なる財産ではなく「マモン神」として偶像化されています。この場合、富に「仕える」ことは偶像礼拝にほかなりません。
■ルカ12章
ルカは12章では、地上に富を積んで天のことを忘れた愚かな金持ちの話を出し、これに続いて生活の思い煩いによって神の国がおろそかにならないようにというイエスの言葉が来て、「ただ御国のためだけに働けばよい。ただ持ち物を売って施しなさい」〔塚本訳〕と語られます。これに続いて「天に宝を積む」勧めが続きます。この連続関係から見ると、神の国はすでに与えられているこよになります(12章32節で「御国をくださる」とあるのは、すでにそれが完了していることを示唆します)。ここでは終末的な意味は後退して、むしろ人の死後に与えられる天からの報い、あるいは死によっても朽ちることがない宝を求めるように勧められているのです(ルカ18章の金持ちの役人の話を参照)。また御国の共同体における「施し」については、使徒言行録5章1〜10節にあるアナニアとサフィラの話が重要な示唆を与えてくれます。
[33]【擦り切れることのない財布】この句はマタイにはありません。またルカは「尽きることのない(富)」という形容詞を加えています。
【施しなさい】マタイのほうは「宝を積むな」と禁止命令になっているのに対して、ルカでは「売り払って施しなさい」とより積極的な善行を勧めています。マタイとルカとでは、語る相手の人たちが異なるからです。
【食い荒らさない】原語は「滅びる」「消滅する」。旧約では人間の「死」を意味するときに用いられます。
[34]この節の内容は、新約聖書だけでなく、ヘレニズムの世界でも一般的に言われていたことです。「あなたの心があるところに、あなたの宝もある」という言い方もありました。
■ルカ16章
ルカ16章では、まず「不正な富」を活用して「友人」をつくった賢明な番頭の話が出てきます。続いて「この世」の人の賢さを見習って、不正な富を用いてでも「天に友人(神)をつくっておく」〔塚本訳〕という勧めがきます。続いて、小事を大事にするように語られ、「(この世のこと)に忠実でなかったなら、だれが、あなた達のもの(天のもの)をあなた達に与えようか」〔塚本訳〕と語られます。これらの勧めは、「地上のこと」を軽んじるな、「この世で行なうこと」は、たとえ小さな事でも大事にせよ、という意味です。ところが、最後に13節で、人は「二人の主人に仕えることはできない」とあります。「この世のことは皆準備のためであるから、これに心を奪われてはならない」〔塚本訳〕という意味ですが、続いて「神と富とに兼ね仕えることができない」という警告がきます。ルカ福音書ではこのように、不正な富を活用した管理人の話を受けて、「不正な富」でもこれを活用すること、この世の小事を大事にすること、しかも富に心を奪われてはならないと、これら三つが重ね合わされているのです。