54章 天に宝を積む
マタイ6章19〜21節と24節/ルカ12章33〜34節と16章13節
【聖句】
マタイ6
19「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。
20富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。
21あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
同章

24「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。
あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」


ルカ
33「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。
34あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」
同16
13「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、
一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

【注釈】   

【講話】

旧約からイエス様へ
 日本には「清貧」という言葉があるように、わたしたちは貧しいことを清らかな生活と結びつけて考えることができます。また、仏教で言う「乞食(こつじき)」は、一般に言う「乞食」のことではなく、仏の道を知るために、家々を巡り歩いて、施されるものだけを食べる修行のことです。だから、ここでイエス様の言われていることは、わたしたちにとっては、特に新しいことでも不思議なことでもありません。昔から言われ、また行なわれてきたことです。家も家族もすべてを捨てて仏の道に入ることを「出家」と言い、そうはせずに普通の生活をしながら仏の道を歩むことを「在家」と言います。これも昔から言い習わされてきたことです。
 旧約聖書では、富を所有することそれ自体はむしろ神からの祝福であって、決して悪いことではありませんでした。ただし、利子を取ってお金を貸すことは禁じられています(出エジプト22章24節)。利子についてのこの考え方は、イスラム教でも共通しているようです。キリスト教でも中世では、利子を取ることが禁じられていました。シェイクスピアの『ヴェニスの商人』にでてくるシャイロックは、利子を取ってお金を貸すからという理由でキリスト教徒のアントニオから蔑まれます。しかしシェイクスピアは、シャイロックをただの悪者に仕立てているのではありません。実はこの芝居でシェイクスピアは、アントニオのような貿易商人が、シャイロックのような金融業者に脅かされる時代が来ていることを鋭く見抜いているのです。
 話が少しそれますが、利子に基づく金融資本がなければ、現在の資本主義は成り立ちません。イギリスでも、アメリカでも、そして日本でも、かつては物作りによって富を蓄えました。ところが、物作りで栄えた国は、必ずと言っていいほど金融に頼るようになります。そうなるとその国は堕落し始めて、やがて衰退します。生活のために物を作り、「物を」売り買いするのではない。お金をもうけるために、「お金それ自体を」売り買いするようになるからです。資本主義経済の行き着く先にはこのような金融資本の支配が待ち受けています。
 イエス様の時代のユダヤでは、必ずしも富を所有することが悪いことではなかった。また貧しいことが神様からの祝福であるという考え方は薄かったようです。それだけに、イエス様の御言葉が聞く人々に強く響いたことでしょう。だからイエス様の教えは、伝統的な富に対する見方を「心の富」へと内面化して語っておられると言えます。これからの経済に対する主様からの鋭い警告と受け止めるべきです。
■金持ちの若者の話
 この箇所を理解する上で参考になるのは、マルコ福音書10章17〜27節に出てくる金持ちの若者の話があります。彼はイエス様のところへ来て、永遠の命を得るためにはなにをしたらよいですか? と尋ねます。するとイエス様は、神様の律法を守れと言われます。若者は「律法は皆守っています」と答えます。イエス様は言われます。「では持ち物を全部売り払って貧しい人に施しなさい。そして私に従いなさい。」すると若者は、悲しそうな顔をして立ち去っていった。これを見てイエス様は、「金持ちが神の国に入るのは、なんと難しいことか。ラクダが針の穴を通るほうが易しい」と言われたので、弟子たちが驚いたとあります。今までのイスラエルの人たちの考え方とは、全く違っていたからです。弟子たちは、「では、いったい誰が神の国へ入ることができるのだろうか?」といぶかったのです。しかし、イエス様は弟子たちをじっとご覧になって、「人にはそれはできないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」と言われました。
 この話にはとても深い意味がこめられています。若者は、イスラエルの律法を持ち出して、イエス様に問いかけました。するとイエス様は、律法に対して律法で答えられた。「すべての持ち物を売り払いなさい」とね。これはとても厳しいです。パウロの言うとおりに、律法で生きるのなら、どこまでも律法を妥協せずに守り通さなければなりません。「あなたたちの義が、学者やファリサイ派の人たちに優っていなければならない。」とあるとおりです。
 イエス様のこの教えを文字通りに実行した人たちが、キリスト教の歴史には幾人もいます。アッシジの聖フランシスや前世紀のマザー・テレサがそうです。わたしたちの身近なところでは、小諸の川口愛子先生、通称「ママさん」がそうでした。修道院に入る人もこれを実行しました。いわゆる出家です。でもこれは命令や強制ではできません。川口先生が言っておられました。「この道はとても厳しいから、普通の人には歩むことができないのです」とね。だからわたしたちがだれでも、アッシジのフランシスやマザー・テレサやママさんのようになることができるわけではありません。
 ではいったい、誰が神様の御国へ入れるのだろうか? 弟子たちが疑問に思ったのは当然です。イエス様は言われたね。「人間にはできないけれども、神様にはできるんだよ」と。そうです。わたしたちは、自分にできないことをやる必要はないのです。わたしたちは律法の中を歩んでいるのではなく、イエス様の赦しの中を、イエス様の十字架の福音の中を歩んでいるのです。ですから、イエス様の赦しの中で、それぞれに与えられたところに従って、歩んでいきます。けれども、主様の御霊の導きの中を歩んでいくうちに、わたしたちの心の中にある様々な欲望が、お金に対する執着や見栄や名誉心や傲慢な思いが、ひとつひとつと取り除かれて、だんだんと「心の中が貧しくなる」。「心の貧しい人は幸いだ」とイエス様が言われたような状態に導かれていく。イエス様の御霊はこのように、外面的なことではなく、内面的な心の有り様を、律法によって外側から強制するのではなく、その人の心の有り様に従って、一歩一歩と達成していきなさい。こう言われたのです。その行き着く先は、無の心です。財産も主様に委ねる。自分の持ち物を主様に委ねる。そういうところへ行き着くのです。ただひとつのこと、神様の御国と神様の導きを求めなさい。そうすれば、ほかのものは全部与えられるから。イエス様がおっしゃったのは、そういう意味です。
■アナニアとサフィラのこと
 もうひとつ、今回の箇所で参考になるのは、使徒言行録5章のアナニアとサフィラの話があります。聖霊に満たされた原初キリスト教会では、多くの人が自分の持ち物を売り払って集会に寄付しました。財産を共同で分け合って生活するためです。ところが、アナニアとサフィラという夫婦は、自分の地所を売ったのだけれども、全部を捧げるのはなんだか惜しくなった。そこで、半分かそのくらいのお金をとっておいて、その残りのお金をさもこれで全部の代金であるかのような顔をして使徒たちの前に置いたのです。つまり、人前に見せるために、自分たちの善行を見せびらかすために、そういうことをしたのです。ところが、ペトロにそれを見破られた。「あなたはサタンに心を奪われて、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。あなたは人を欺いたのではない。神を欺いたのだ」とね。売りたくないと思えば、売らなくてもよかったではないか。売ってからでも、残しておきたいと思えば、正直にそう言えばいいではないか。どうして偽りをするのかとね。するとアナニアは倒れて息が絶えてしまった。
 そうなんです。自分の心に正直になること。心に偽りを持たないこと。神様に対して偽らないことが一番大事なんです。財産を捧げることはいいことです。でもそれは、その人が「心から望んで」神様のみ前にすることですよね。つまりその人が、自由な心でそれをすることが求められているのです。これは心の内面的なことです。ですから、自由な心でするためには、そのようなことを「しない自由」がなければなりません。財産を寄付したくなければ、そうしなくてもいい。あるがままの心でいいのです。神様に捧げる自由は、これをしなくてもいい自由と裏表になっているのです。大事なことは、自分自身の心に偽らないこと。これです。神様のみ前にほんとうに心から願うことをする。これが一番大事だということを、この話は教えてくれます。
■心の「富」とは
  このように見てきますと、「神様と富とに兼ね仕えることはできない」という意味が、だいぶ分かってきます。つまり、お金に対する「心の有り様」「心の持ちよう」だということが分かってきます。そうしますとね。皆さん、これはお金のことだけではないでしょう。お金ではないけれども、例えば知識を求める心もそうです。どん欲に知識を求めて、それを誇り見せびらかすのか? それともその知識を神様に捧げるのか? ひとはこのどちらかの道をとらなければなりません。あるいは名誉、あるいは社会的な地位、あるいはそのほかの欲望、お金に限らず、わたしたちが心の中で求めているものはなんであれ、今回の教えが当てはまることが分かります。
 「愛」だってそうです。一口に愛と言っても、いろいろな愛があります。人の幸せを奪う「愛」もあります。これを「愛」と呼ぶならです。そんな愛と神様と両方に仕えることはできません。知識と言ってもいろいろあります。人を殺す知識もあるし、人を奴隷状態に陥れてこれを支配する知識もあります。そういう知識と神様とに兼ね仕えることはできません。人にはそれぞれ欲望がありますが、その欲望を主に捧げることが求められているのです。だから、ここで「富」というのは、内面的に見るならば、お金のことだけではなく、いろんなものが含まれます。名誉も富、知識も富、地位も富、そのほかいろいろあります。これらをひとつひとつ主様に捧げていく。これが、主様の御霊に導かれて歩むということです。神様の御国を求めるということです。これは一生かかって、その人の歩みの中で、達成していくことなんです。お金は手段です。目標ではありません。知識も手段。持ち物も、地位も手段。ありとあらゆるものは、神様のために用いられるときにほんとうに活きてくるのです。だから御霊にあって、何ものにもとらわれない。執着しない。すると心が自由になるよ。心がのびのびとしてくるよ。無の心だね。イエス様のみ前に御霊にあって歩む心だね。だからパウロが言っています。「私は富に対しても貧に対しても、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ている」とね。これが御霊にある歩みの知恵なのです。
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