【注釈】
■イエス様語録
ルカのほうがイエス様語録(Q文書)に近いようです。しかし、マタイと一致するところもあります(マタイの27節、31節)。もっともイエス様語録は、本来マタイとルカとの照合から生まれたものですから、どちらの用語が本来のものであったかを確定するのは難しく、推定の域を出ない場合が多いのです。ただし、この部分でのイエス様語録は、ふた種類の版に分かれて、マタイとルカとにそれぞれ別個に受け継がれたと思われます。マタイの34節とルカの32節とは、ふたりの手元に渡る以前に、それぞれのイエス様語録にすでに加えられていたようです。このイエス様語録は、イエス様の言葉にさかのぼると見られ、ルカで言えば22~24節と27~31節が特にそうです。
【だから】原語は「それだから」。イエス様語録では、この部分は、本来はルカ12章4~12節にあるイエス様の教えに続いていたと思われます。そこでは、神が雀や私たちの髪の毛一筋までも知っているから「恐れるな」とあり、たとえ官憲に連れて行かれて尋問されても心配するな、「その時に聖霊が言うべきことを与えてくださるから」とあって、これに続いて、今回の箇所の「それだから、言っておく」というイエス様の言葉が続いていたのです。このことは今回の箇所を理解する上で重要な示唆を与えてくれます。
【命】原語は「魂」とも訳すことが出来ますが、ここでは広い意味での「命」のこと。「命」が食べ物よりも大切なのは言うまでもありません。しかしここでは、身体もこれを支える命そのものも、創造者である神から与えられているのだから、そのような創造者が、命を守る食べ物、体を守る着物を与えないことがあろうか、という意味です。
【烏】烏は旧約では不浄な生き物で(申命記14章14節)、どん欲な鳥とされていました。そんな烏でさえも神は養ってくださるのなら、人間はなおのことではないか、というのがここでの意味です。なお「烏」がそのすぐ後では「鳥」と言い換えられていて、より一般化しています。
【寿命】原語は「大人に成長する」ことで、「年齢」と「身の丈」の両方の意味があります。一般には、年齢を延ばすほうがより切に求められるから、こちらの意味に訳されることが多いです。ただし「人間には不可能なこと」という意味では「身の丈をのばす」のほうが適切かもしれません。
【野の花】原語のギリシア語は、七十人訳では「百合」(特に白百合)の意味です。だが白百合はパレスチナでは珍しく、パレスチナでは「野の花」は、百合以外の花をも意味していたので特定することができません。「炉に投げ入れられる」とあるから、燃料となる草花(例えば「あざみ」の類)のことではないかと言われています。この「花」が後で「草」と言い替えられているから、人々からは尊ばれないけれども美しく装われた花のことでしょう。
【働きもせず】ここでは「紡ぐ」ことと並んで、一般的に女性の仕事を指しています。イエス様の聴衆の中には女性も多数含まれていたのかもしれません。
【ソロモン】ダビデの後を継いだダビデ王朝の最盛期の王で、イスラエルが最も繁栄した時期です。ソロモン王の知恵と富は、「ソロモンの栄華」として諺になっていました。
【信仰の薄い者たちよ】原語は一語で、ヘブライ語にはこれにあたる用語がありません。このギリシア語は、イエス様語録の形成過程で生まれたのでしょうか。
【異邦人】具体的にはギリシア・ローマの人のことですが、ここではむしろ、神を知らない者として、一般的に「自然の」状態にあるすべての人間を意味しています。
【切に求める】原語は「どん欲に求める」「飽くことなく追求する」こと。イエス様の時代には、ローマの土地政策によって、社会全体が、大土地所有者と貧民とに分解する傾向にありました。ここでは、そのようなどん欲に対する警告が含まれているのかもしれません。
■ルカ12章
ルカでは、12章1節から12節まで、イエス様は弟子たちに語っています。しかし、13節で突然に群衆からの質問で中断され、22節で再び「イエスは弟子たちに言われた」とあって、弟子たちに戻って語ります。だからイエス様語録のこの部分も、本来はルカの12節につながっていたと思われます。ルカでは、財産分与の質問が間に挟まったために、12章全体の主題が、「命(生活)と持ち物」にあるという印象を与えていますが、本来ここは、「恐れない」ことと「思い煩わない」ことが、主題であったのでしょう。ルカでは、12章の始めに「恐れるな」という教えがあり、これに続いて地上に財産を蓄えて己の魂を省みない愚かな金持ちの話が語られ、その後に「思い悩むな」と今回の部分が置かれています。だから、12章全体としては、聖霊の導きに全託して恐れないことと、この世の生活の蓄えに心を奪われて自分の魂のことを忘れる愚かさを警告して、「思い悩むな」という教えが続いているのです。また、マタイとルカどちらにも「野の花(百合?)」と「草」とが併用されていますが、これは具体的な表象からより一般化した表現へと移っているからです。
[24]【考えてみなさい】マタイの「見なさい」とは異なる語で、「観察して学びとる」こと。イエス様は、神を信じて自然を観る時には、そこに神の恵みと慈愛とを読みとることができることを繰り返し語っています。
【価値がある】原語は「まさっている」「上である」。
[26]この節はマタイにはありません。ルカが分かりやすくするために加えたのです。
[28]【草】先の「烏」と同様に、人に尊ばれず燃料にされるものという意味。この「草」には、人間のはかなさが投影されているとも言えます。神はそのようなものでも心にかけてくださるのです。
【信仰の薄い者たちよ】この語はルカではここだけです。マタイではここと8章26節、14章31節、16章8節に出てきます。ただし、ここ以外はすべてイエス様の超自然的で奇跡的な業と共に用いられていますから、それだけに、自然な状態での神の業への「信仰」についてこの言葉が用いられているのが注目されます。
【思い悩むな】新共同訳ではマタイと同じ訳語を用いていますが、ルカの原語はマタイと異なり、「追い求めるな」です。
[30]マタイでは「心配する」とありますが、ルカは、マタイのように「心配する」ことよりも、むしろこの世の富や財産をどん欲に追求することに対して警告しています。
[31]【神の国】「神の」はマタイに従った?加筆で、ルカほんらいの原文に「神の」はないと思われます。イエス様語録と同じ「御国」です。
[32]【恐れるな】ルカ12章7節に出てきた言葉が、ここで繰り返されています。御国は取るに足りない小さな群れにもすでに与えられていることを強調しているのです。「小さな群れ」とは、イエス様が復活された直後の信者たちの置かれた状態を指しているのです。この節は、復活直後の最初期のイエス宗団に聖霊によって与えられた語りかけが伝えられているのかもしれません。
■マタイ6章
マタイは、知恵文学のスタイルを用いてここを構成していて、「空の鳥」や「野の花」のように旧約聖書の伝統的な言い方を用いています。また「<天の>父」や「神の国<と神の義>を」のように彼独自の追加を行っています。これは、マタイのこの段落が、主の祈りとの関連で読むことが意図されているからです。主の祈りを生きる人が、現実にどのような心構えで生活するのかをマタイはここで描き出していると言えましょう。
[26]【空の鳥】マタイは旧約によく出てくる慣用的な表現を用いています。イエス様語録とルカでは「烏」で、おそらくこれが本来の用語です。
【天の父】原語は「天におられる父」で、これはマタイの付加で、この言い方は、主の祈りに基づいています。食べ物や着物が不必要だという意味ではなく、必要であるからこそ万物の創造者である(「天におられる」の意味)神は、これを与えてくださるという意味です。
【よく見なさい】自然を洞察しなさい、という意味。ルカの用語とは異なっています。
[31]【思い悩むな】新約でここだけに用いられています。「やきもきするな」「あくせくするな」ということ。
[33]【まず神の国と神の義を】「まず」も「神の義」もマタイの追加です。具体的には主の祈りを中心とする山上の教えのことですが、特に「御国を来たらせる」という終末的な祈りが意識されているのでしょう。だが、「神の義」が付け加えられているのは、その終末的な生き方が、現在において、施しや祈りという具体的な「義」の行為によって現実されなければならないという意味です。
[34]【明日】原語は「未来」という意味にもなります。「今日」と「明日」という「時」の対照に注意。自然のはかなさと、同時にすべての自然の生命が神のみ手にある「とき」に握られていることを思わせてくれます。「一日の心配事は、その日だけでたくさんである」は、この言葉が本来は極貧の人たちに向けられていたことを示唆するのでしょうか。その一日が神の手に握られている「時」の中で生きる者には、「思い煩うな」という鍵語は、この34節のような生き方に言い尽くされています。御国は終末に訪れるのですが、同時にこの御国は、これに「向かって」父の御心に生きる者の今日という現在においてのみこの世に現実するのです。