56章 野の花、空の鳥
ルカ12章22〜32節/マタイ6章25〜34節

【聖句】
イエス様語録
だから、言っておく。
自分の命のことで何を食べようかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。
命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。
だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
またなぜ、衣服のことで思い悩むのか。
野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。
働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。
栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。
まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。
だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩むな。
それはみな、異邦人が切に求めているものだ。
あなたがたの父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

ルカ12章
22それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。
23命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。
24烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。
25あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
26こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。
27野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
28今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。
29あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。
30それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。
31ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。
32小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。

マタイ6章
25だから言っておく。自分の命のことで、何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い煩うな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
26空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
27あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
28なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
29しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
30今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
31だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩むな。
32それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
33何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
34だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

【注釈】
【講話】
■時を委ねる
 今回の箇所は、イエス様の教えの中でも、最も美しいところとして知られています。同時にさまざま意味で誤解されている箇所でもあります。欧米の中世では、ここは、職業や仕事を辞めて、修道士になったり聖職者になることが最も優れているという意味に解釈されました。だとすれば、私たちのような普通の生活を営んでいる人には関係がなくなります。また、神様のことさえ考えていれば、この世のことはどうでもいいんだと理解/誤解する人もいます。御言葉に対する霊的な視点を持たないと、こういうおかしなことになります。ここは、神様のことさえ考えていれば、生活のことはどうでもいいという意味ではありません。そうではなく、食べ物・着物は「必要だから」こそ、父なる神様はちゃんと見ていてくださるという意味です。キェルケゴールという人が『野の百合・空の鳥』という小さな本を書いています。少し難しいですが、機会があれば読んでみてください。
 父なる神様が「見ていて」くださるとは、私たちと一緒にイエス様の御霊が働いてくださるという意味です。ルカから判断すると、ここの箇所はもともと、役人があなたを警察や裁判所に連れて行った時に、どう言おうかと心配するな、その時には聖霊様が、何をどう言うかをちゃんと与えてくださるのだから、とあるのに続いていたと思われます。このことは、今回の箇所の意味に大事なヒントを与えてくれます。なぜなら、神様は「その時が来れば」、必ず御霊にあって護ってくださる。導いてくださる。こういう意味だからです。だからここで言う、「心配するな」「思い悩むな」とあるのは、「神様の時」と深いつながりがあります。このことは「今日は」生えていて、「明日は」炉に入れられるとあり、「一日の苦労は、一日で十分である」とあるように、神様の導きが「その時」と結びついているのでも分かりますね。神様が備えてくださる「その時」です。この意味では、「一日の苦労は、一日で十分である」というマタイの結びは、全体の内容を深く分かりやすくまとめています。
 「時」を神様にお委ねする。必要なものは、その「時々に」与えられる。これが大事なんです。信仰とは神様を信じること。神様を信じるとは、神様の与えてくださる「時」を信じることです。その時になれば、神様は必ず備えてくださる、与えてくださるという生き方です。これはけっして、なんにもしないでのんきにしていなさい、という意味ではない。まして、生活のことはどうでもいい、ということではない。神様の時にお委ねすることは、一見なんにしていないようだけれども、実は深いところで祈りが行われているんです。英語の「時間」”hours”は 「時祷」のことで、挿し絵の入った美しい祈祷書のことを”Hours”言うのです。「時は神なり」です。人生は、嬉しい時、悲しい時、さまざまな「とき」で成り立っています。単なる「時間」のことではありませんよ。「神様の時」とは、その人の霊的な知恵と祈りに支えられているんです。
 ある人からメールがあって、お姑さんが病気になった、その看病がうまくできるかどうか心配で仕方がない。どうか祈ってください。こういうメールでした。そこで、「その時が」来れば、イエス様にお委ねしてやればきっとうまくいきますよ。こう返事しました。その人はそのとおりにすると、ちゃんとうまくいってほめられた。ところがうまくいきすぎたのか、今度はお姑さんが同居すると言い出した。さあ、心配で仕方がない。そこで、その時が来れば、神様はちゃんと導いてくれますよ。こう返事をしました。こういうことです。心配の種は尽きません。けれども祈っていて、その時が来れば、神様はちゃんと導いてくださる。これが信仰なんです。私のように長らく職業と伝道と聖書研究を並行してやってきた者には、うまくやれるだろうかと心配していたらきりがない。その時その時を神様にお委ねしてきたから、何とかやってこれたんだと思います。キェルケゴールが言いました。何かが不安なのではない。「不安」が先にあって、それがいつも何かと結びつくのだとね。不安がないと、不安は何か心配の種はないかと「捜す」のです。不安の種はどこにでも転がっているから、不安はいつまでもなくならない。この不安の根を断ち切るのがイエス様の御霊のお働きです。「我祈る故に我有り」です。これこそ主の祈りの心です。 
 私たちは「御国を来たらせてください」と祈りますが、「神様の国」というのは、そのうちにやって来るものでもなければ、あの世で入るところでもない。また、今はダメでも終末にはなんとかなる、というのでもない。神様のお働きとその御支配は、今のこの時に、イエス様の御霊となって私たちの内に働いてくださる。私たちを通して働いてくださる。神様は創造の神です。御霊は創造の御霊です。そのお働きは創造の御業です。創造とは命を創り出すことです。私たちは日々御霊にあって、生きる力を創り出され与えられているんです。それなくしては私たちの体も心も生きていくことができません。そういう神様のお働きのことです。自分の状態がどうであろうとね。そんなことには関係なく、イエス様を通じて与えられる神様の御霊にお委ねする。そういう人は、ひとり残らずだれでも、この御霊の恵みに与ることができます。太陽の光や空気のように絶対無条件です。だからマタイの言う「神様の義」とは、ただの「正しさ」のことではない。「義」は神様の「憐れみ」であり「恵み」でもあるのです。内村鑑三は、こういう生き方を「一日一生」と呼びました。
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