57章 裁かない
ルカ6章37~42節/マタイ7章1~5節/マルコ4章24~25節

【聖句】
イエス様語録
あなたがたの父が憐れみ深いように、憐れみ深くなりなさい。
裁くな。あなたがたも裁かれないために。
自分の量る秤で量り与えられる。
盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。
弟子は師にまさるものではない。弟子は師のようになればそれで十分である。
兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えよう。
自分の目に丸太があるではないか。
偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。
そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。

ルカ 6章
37「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。
38与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」
39イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。
二人とも穴に落ち込みはしないか。
40弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。
41あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
42自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

マタイ 7章
1「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
2あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
3あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
4兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
5偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
6神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。
それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」

マルコ 4章
24また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。
あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。
25持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

【注釈】

【講話】

■現代の受け止め方
 イエス様語録とマタイとルカとマルコのそれぞれの特徴については、「注釈」のところを読んでください。17世紀のイギリスで、「裁くな」というイエス様の教えをそのまま受け取って、裁判制度を廃止せよと訴えた人がいます。しかし現代では、ここでの「裁くな」は、裁判制度や社会の法律に関係したこととは区別されています。宗教改革以後には、聖書の教えを社会や制度のことではなく、人間の内面的なこととして受け止める傾向が強くなってきました。ですからここの「裁くな」も、教会でのこと、すなわちキリスト教徒の間でのこととして、そこからさらに一般的な人間同士のつきあい方に関連して解釈されています。「裁く」とあるのは、ルカの言うように「罪に定める」あるいは「罪人」呼ばわりすることです。たとえ、クリスチャンが罪を犯しても、悔い改めるなら、主によって罪を赦された者として、わたしたちは彼を「罪人」としてはならないのです。また、法律は、犯罪を犯した人を裁判にかけて、有罪となれば罰を課します。しかし、刑を終えて刑務所から出てきた人は、もはや犯罪人ではない。その人を「罪人」として扱うことは正しくないのです。でも「前科者」に対する偏見はなかなかなくならない。日本の社会でもありがちなことです。
自分を裁かない
  クリスチャンは、聖書を自分に当てはめて文字通りに読むことは滅多にしないが、他人に対して聖書をあてはめる時だけは文字通りに解釈する。これは確かジョン・スチュアート・ミルというイギリスの社会学者の『自由論』に書いてあったと記憶しています。人間はなぜ人を裁くのか? 実はわたしにもよく分からないのです。でも、分からないながらひとつ言えることがあります。それは、「自分を裁くか裁かないか?」 ということです。今わたしのもとにいろんな人から相談のメールが来ています。これを読むと、聖書を読み、クリスチャンでありながら、精神的に苦しんでいる人がずいぶん多くいます。真面目で素直で、ほんとにいい人たちです。でも自分の手首に傷を付けたり、自殺したいなどと訴えてくるのです。どうもそういう人は、聖書の御言葉を読んでも、祈っても、自分はだめだ、自分はこのままではいけない、というふうに自分を責めることばかりやっています。教会の牧師さんの中にも、信者の罪、日本社会の罪をしきりに糾弾する人たちがいます。これでは、せっかく人間の罪を赦して慰めと力を与えるイエス様の福音も、人を罪に陥れる律法的な働きになってしまいます。自分の目に丸太があるのに、気づかないで、人の目にあるおが屑を取ろうとするのは困ったものです。しかし、そういう牧師さんも、実は心の底では、自分を裁いているのではないか。自分はこれではだめだと、内心分かっているのにそれに気づかないふりをしているから、逆に人を裁く行為に出る。つまり、自分自身を人に投影しているのではないか、こう思えてきます。
  わたしたちは、ともすれば、人と自分とを比較して、自分はこれではだめだとか、もっとああなりたい、こうしたいと思ったりします。わたしなんかもそうですが、プライドの強い人は特にそうです。しかし、御霊のお働きによって、主様の十字架の前に謙虚にされるとね、そんなプライドや名誉はだんだん取り除かれていきます。結果として、自分自身を裁かないようになる。御霊にお委ねして、これに乗っかっているとね、悪いところは御霊がちゃんと示してくださる。だからと言って、あわてて自分で何とか直そうなどと考えてはいけません。病気と同じで、自分でうっかり妙なことをやるとよくなるどころか逆にかえって悪くなります。御霊が示してくださったのなら御霊が直してくださる。こう思って、御霊の働かれるままにしていきます。すると、そのうちに心の中から悪いものが抜けていく。去っていくのです。毎日のお天気みたいに、太陽の輝く日ばかりではない。曇りの時も雨の日も、いろいろあります。せっかく雲がなくなったと思ったら、またどこからともなくやってくる。そんなことの繰り返しです。でもそれでいいんです。そのまま自然に、これが大事なんです。
  イエス様の贖いはもう終わっています。復活されたイエス様の御霊の贖いのみ業は確実に進展しています。世界をお創りになった神様は、人類も地球も宇宙もどんどん変えて新しく創り出されていかれる。その御霊のみ翼に乗せられてね、落っこちそうになっても落ちないで、支えられて歩んでいく。それでいいんです。人はどうしてなんでも自分でやろうとするんでしょうね。詩編の1篇にあるように、イエス様を信じる人は樹なんです。樹ですから動物ではない。だから動かないよ。動き回らないで、じっと立っている。でもその樹は「御霊の流れの畔に」植えられているんです。御霊にある人は簡単に動かないよ。人を裁く人は、自分を相手に投影しているんです。だから、自分を裁かなくなって、あるがままに主様にお任せして、自然になれば、人も裁かなくなります。この「お任せする」というのが、なかなかできない。じっと動かないで、主様を仰ぎ、主様のみ名を唱えて祈る。これができないのです。でも、ここにこそ、自分を裁かない秘訣があります。動かないで、じっとお任せしていると、み霊様のほうから働いてくださる。わたしたちの受けた霊は、わたしたちをお造りになった父なる神様の御霊ですから。常わたしたちに新たに働きかけてくださるのです。創造の御霊です。祈りは霊の呼吸です。信仰は霊の心臓です。呼吸を自分で努力してやろうとしてはいけない。心臓を自分で動かそうとしてはいけません。
■真実を見る
 「裁かない」ことばかり言うと、では、自分や人の悪いことを黙って見過ごしにしていればいいのか? という疑問が湧いてきます。「憐れみなき裁きは冷酷であり、裁きなき憐れみは人を堕落させる」という言葉があります。ただ「憐れみ」と「恵み」にすがるだけで、なんにしない。それでいいんだとのんびりしていると、世の中の悪の力に負けて、いつの間にか霊的なものを失ってしまう。それでは困るんです。わたしは、裁判についてひとつ大事な点があると思っています。それは「真実を明らかにする」ことです。裁判は、人を罪に陥れるためにするのではありません。裁判のほんとうの意義は、真実を明らかにすることです。ほんとうに何が起こったのか? この点を徹底的に追求する。だからこれは、裁判だけでの問題ではありません。自分をごまかさない。ほんとうの姿、ほんとのことをしっかりと見る心です。これが、御霊の大事な働きだと言うこともまた知ってほしいのです。「霊の人は誰からも判断されないけれども、自分はすべてを判断する」(コリント人への第一の手紙2章15節)とパウロは言いましたね。「裁く」と「判断する」と「見極める」は同じ原語なのです。イエス様の御霊に導かれると、自分をごまかすことができなくなります。人の目にはどう映るか知りませんが、自分自身には、自分のほんとうの姿が見えてくるから、どうしようもありません。このように、己についても人についても、世の中のすべてについて、ほんとうの姿が見えてくる。これが大切なんです。
  どうか皆さん誤解しないでください。真実の姿を見ることと、その人を「罪に陥れる」こととは全く別なんです。真実が分かれば、逆に罪から免れることもあります。医者が真実を見抜かないで、適当に気休めを言ってくれても、なんにもならないどころかえって危ないです。ほんとうのことが分からなければ、赦しも理解も育ちません。人間はいろんなことを自分で進んでやりたがります。ところがひとつやらないことがある。それは、自分のことで、真実を追究することです。叩けばほこりの出る身だから、神様のところだけはごめんだと思うかもしれません。でも、人に叩かれるのを恐れて自分を隠すより、神様に叩かれてほこりを出すほうがずっと気持ちがいいですよ。わたしはさきほど、「裁くな」は社会的な制度と関係ないと言いましたが、もしも人間ひとりひとりが、御霊にあって、ごまかさずに自分を見、世の中を見るなら、これは世の中、変わりますよ。そうすれば裁判も変わります。ひとりひとりが変われば、世の中が変わります。
■イエス様との出会い
 でもどうすれば、そういう生き方ができるのか? 答えはイエス様の御霊です。ここで大事なことは、イエス様の御霊とは、「イエス様ご自身」だということです。だから御霊に接するのは、イエス様に接することです。聖霊様は「人格」です。Personです。聖書の神様を「ペルソナ」の神と呼ぶのはこのことです。だからわたしたちは、聖霊様と呼んで礼拝します。「します」と言うより、御霊に導かれますとね、自然と御霊のイエス様を礼拝するようになるんです。そうしようと思わなくても、ぶっ倒されてそうなります。聖霊様は、神様ご自身です。だからわたしたち自身ではない。自分とは、「別のお方」です。だから、御霊は決してわたしたちの一部ではないし、わたしたちが自分のものにして「所有する」こともできない。Personperson、人格同士だからそこに生じるのは「交わり」です。コイノニアです。御霊にある愛です。お遍路さんの言う「同行二人」だね。これが人間の「自由」の根源、「愛」の源、真の民主主義の出発点です。なによりも「あなた」という「個人」の出発点なのです。御霊のイエス様に出逢う時に、人は自分自身に出逢うのです。そこに「あなたの」人生の目標が見えてくる。イエス様に近づき、イエス様の後をたどりながら、イエス様に導かれて、どこまでも歩む。イエス様は道であり、命であり、真理です。弟子はその師のようになれば十分です。そこまで行けなくても、少しでもお近づきになれればいい。そうすれば真実が見えてくる。自分の目にある丸太が見えてくる。そして、丸太が除かれると「はっきり見える」ようになって、人を罪に落とさずに、その人の誤りを正してあげることができるようになります。これは、わたしがたちが、自分でするのではありません。イエス様が、御霊を通して、わたしたちに働いて、そうさせるのです。感謝です。
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