【注釈】
 ■イエス様語録
 イエス様語録のこの部分は、実際のイエスの教えに近いと思われる。イエスの言う「裁くな」とは、神の国が現実に到来しつつある中で、その終末において、「神の裁き」が間近に迫っていることが前提になっている。人は誰でも、神の裁きに服さなければならない。その際の唯一の望みは、「善人にも悪人にも憐れみ深い」父なる神の恵みと慈愛によって「罪を赦される」ことである。このような神の「裁き」と「恵み」を前にして、人は人を裁く根拠をいっさい失う。姦淫の女の場合(ヨハネ8章)のように、「裁くあなたも同じことを行なっている」からである。
 しかし同時に、ここでのイエスの「裁くな」は、当時のユダヤ社会の司法制度にも向けられている。当時のユダヤ社会には、貧しい者、合法的か非合法的に虐げられた者、法的に「罪ある者」として社会的に排除され見捨てられた者たちがいた。宗教と司法とが一体であったユダヤ社会では、旧約聖書の律法とこれの解釈から生まれた戒律(ハラカー)によって、蔑まれたり(取税人)、罪に定められたり(遊女・病人)、会堂の指導者によって罰せられる者たち(安息日違反者)が多くいて、こういう人たちがイエスのもとへ来たのである。このため特に、イスラエルの指導者たちに向けられるイエスの批判は厳しい。「自分の目にある丸太に気づかないで、人の目のおが屑をとろうとする者」や「盲目の案内者」とは、まさに彼らのことであり、神の国の到来を認めることができない霊盲の指導者たちを指していたのであろう。
 同時にイエスの言葉は、集まってきた群衆に、特に弟子たちに向かって、同じ警告を発している。イエスの弟子になることは、己に厳しくなると同時に「兄弟」には愛をもって接することで、軽々しく裁いてはならない。主の祈りにあるように、神の国とは、「裁き」に代わって「赦し」が支配する場だからである。また、弟子たちは、イエスの教えをただ聴くだけでなく、どこまでもイエスに従い、師のようになるのを志すよう求められている。しかしこれは、弟子たちだけではなく、「誰でもわたしに従う者」に宛てられた言葉でもある。
 
■ルカ6章
 ルカはこの「裁き」の部分を「憐れみ深くなりなさい」とある箇所に続けている。だからルカは、内容的にイエス様語録の順に従っている。ルカはこのように、「憐れみ深くなれ」というイエスの教えをそのまま「人を裁くな」へと続けて、無条件で人を赦し、さらに人に寛大で親切にせよという教えで一貫している。ただ、イエスの語ったように、終末に向けて神の絶対的な慈愛と憐れみを受ける姿勢が、ここでも根底には生きている。
 ただしルカでは、終末的な切迫感よりも、むしろ今の時での人間同士のあり方として理解されていて、キリストの御霊を宿すところに生まれる自然な愛の結果としての自発的な行為が語られる。したがって、秤のたとえも、公正を求める警告ではなく、人々に寛大で親切にすることで、実人生において神からも人からも大きな報いが与えられるとあり、裁きや不正(秤の譬え)を禁じるというより、積極的な善い行為を勧めている。これは「人にしてもらいたいと思うことを人にもしなさい」(6章31節)という黄金律へも通じるのであろう。ルカには、社会制度や司法に向けられた批判は感じられない。ただし、神からの憐れみと慈愛に基づいて裁きを否定することは、以後の社会制度や司法制度に影響して、歴史を通じて人間のより寛大な裁きを導く大きな指針となってきているのを見落としてはならないだろう。
 続く「盲人」と「おが屑」の譬えでは、キリストの御霊に照らされた霊的な光と闇のイメージが背景にある。「盲人」の譬えは偽教師のことで、「おが屑」の譬えには、教会の指導者たちへの警告がこめられている。ルカは教会の中で、指導者と指導される人たちとの間に溝が生じ、特に霊的な問題において、指導者たちの側に行き過ぎや無理解が生じているのを洞察していたのではないか。
 
■マタイ7章
 言葉遣いから見ると、ルカよりもマタイのほうがイエス様語録に近い。ただしマタイは、イエス様語録やルカとは異なり、ルカの39節をマタイ15章14節へ、ルカの40節をマタイ10章24〜25節へ移している。だが、その場合でも、語句を変更してはいない。マタイでは、この段落の直前にある「思い煩うな」という教えと「裁き」とは結びつかない。むしろここの「裁くな」を5章20節の「人を裁く」ファリサイ派との比較へとつなぐほうが分かりやすい。ファリサイ派は、裁判を司ることが多かったからであろう。だから、ここでマタイは、裁きを社会的な意味で司法と関連付けていると解釈することができるかもしれない。
 しかしマタイは、どちらかと言えば、教会の中でのキリスト者同士の人間関係を重視している。だから、「裁くな」とありながら、続く7章2節では、(おそらく教会において)裁く場合は、正しい判断をするように警告しているのであろう。自分の目に丸太があるのに兄弟の目にあるおが屑をどうして取り除くことができるだろうか(4節)、とあるが、5節では相手を矯正することを否定してはいない。憐れみ深くあることが教会の基本であることに変わりはないけれども、自分を省みてなおその上で、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことも必要だと考えられている。
 「犬」と「真珠」のふたつの譬えは、マタイだけである。これは本来ユダヤ人の諺で、異教徒に聖なるものを与えても無意味どころか、逆に彼らを怒らせるという意味であった。この意味から判断すると、この譬えは、ユダヤ人キリスト教徒の間では、福音を異教徒に伝えることの愚かさを意味していたのかもしれない。しかしマタイはここで、そのような意味でこの譬えを用いているのではなく、教会の中で、教えや忠告に頑なに従わない者は、最後には彼を交わりから断つことも必要だという意味で用いているのであろう(マタイ18章15〜17節)。この譬えと教会との関係については、『12使徒への教訓』(100年〜150年?)でも、「主の名をもって洗礼を授けられた人たち以外は、誰もあなたがたの聖餐から食べたり飲んだりしてはならない。主がこの点についても、『聖なるものを犬に与えるな』と述べておられるか
らである」とある。
なお、ルカでは弟子と師のことが、マタイではイエスを悪霊呼ばわりする者たちとの関連で語られているのが注目される(マタイ10章24〜25節)。イエスを「悪霊の頭」と呼んだのであれば、その弟子は、さらにひどい迫害を受けるだろうという意味である。ここには、師であるキリストの苦難に与ることが弟子としての最高の到達点であることが示されている。
 
■マルコ4章
 
マルコは、神の言葉を聞くことについて種蒔きの譬えを語り、続いて燭台の灯火の譬えがあり、「聞く耳のある者は聞きなさい」と結んでから、「自分が量る秤で量り与えられる」を続けている。だからマルコでは、この箇所は御言葉を聴くことに関連していて、直接「裁くこと」には結びつかない。しかし「裁く・判断する・批判する」ことが、御言葉を聴くことに限定されていると解釈すれば、マタイやルカとつながるであろう。マルコの解釈は、このように「裁く」ことの意味を「判断する」「洞察する」という意味へと広げてくれる。「秤」の譬は諺であるが、マタイはこれを他人を裁く者への報いとして用い、ルカは気前よく他人に与える者への報酬として用い、マルコはイエスの言葉を聴く者への勧めとして用いていることになる。
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