【注釈】
■イエス様語録

 イエス様語録で用いられている言葉やイメージそれ自体は、旧約聖書やユダヤ教の中でよく用いられている言葉やたとえです。特にイエス様語録では、箴言などに代表される「知恵の言葉」のスタイルが強く出ています。ですから、これらの言葉や比喩は、必ずしもイエス様独自のものではありません。しかし、イエス様によって語られると、それらの比喩や言葉が、全く違った意味を帯びてくるのです。「求めなさい」も「探しなさい」も「門をたたきなさい」も現在形で、普段に絶えず祈り求めることを意味しています。これに対する答えでは、「与えられる」と「見いだす」は現在形ですが、「開かれる」は未来形です。ただし内容的には先の現在形と同じで、「開かれている」という意味に解釈することもできます。だから、未来形を特に終末的に解釈する必要はないでしょう。三つの求めは連続していて、まず求め、探し、最後にたどり着いて戸をたたくという解釈もあります。今回の箇所では、マタイもルカもイエス様語録とほとんど一致しています。しかしこのイエス様語録からの引用が置かれている文脈は、マタイとルカとではかなり異なっています。

【石を与える】パレスチナのパンは形が石に似ているから。
【蛇を与える】ガリラヤ湖では、水蛇が魚と一緒に漁師の網にかかることが多かったようです。
【善い贈り物】原語は「人の喜ぶ善い贈り物」の意味です。これを伝統的なユダヤ教の解釈にしたがって、敬虔な信仰者が神から授与される「霊的な賜」の意味に限定して解釈することもできます。「良い物」〔新共同訳〕という訳はこの意味でしょうか。しかし、このように狭く限定する必要はありません。ここで「善い贈り物」とあるのは、イエスが父なる神の慈愛に向ける絶対的な信頼を言い表わすものです。

■ルカ11章
 ルカでは11章の始めに主の祈りが来て、続いて真夜中でも遠慮せずに求める友人の譬えが来て、その後にこの段落が続くから、内容的によくつながっています。ルカのほうが、ほんらいのイエス様語録の順序に近いと思われます。

■マタイ7章
  一方、マタイでは、「思い煩わない」ことが来て、次に「裁かない」ことが来てからこの箇所が来ますから、内容的に連続しません。しかしマタイでも、山上の教えの終わりのほうにこれが置かれているのは、主の祈りを中心にして、それまでの教え全体を行なうことができるよう願い求めることを勧めていると考えられます。なお、マタイの「パンと石」とのたとえは、ルカにはなく(ルカにも「パンと石」の譬えが来る写本がありますが、これは後の挿入です)、代わりに「卵」と「サソリ」のたとえが来ています。どちらがイエス様語録に近いかは判断できません。なお、ルカの終わりに来る「聖霊の賜」は、彼の編集です。父なる神は、人間に災いや恐怖をもたらす方ではなく、わたしたちの益になる「善い」ものを与えようとしてくださるという意味から、さらに進んで、そのうちでも聖霊こそが、最高のものであるとルカは言うのです。ここからさらに発展して、トマス福音書やパピルスのような言葉が生じたのかもしれません。

[9]【石を与える】原文は「石を手渡す人がいるだろうか」。

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