58章 求めなさい
マタイ7章7〜11節/ルカ11章9〜13節
(ヨハネ14章13〜14節/トマス2/オクシリコン・パピルス654の1)
【聖句】
イエス様語録
わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。
探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、
自分の子供には善い贈り物を与えることを知っている。
まして、あなたがたの天の父は、求める者に善い贈り物をくださるにちがいない。
マタイ7章
7「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
8だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
9あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
10魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
11このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
ルカ11章
9そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
10だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
11あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
12また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
13このように、あなたがたは悪い者でありながら、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
ヨハネ14章
13わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
14わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。
トマス福音書(2)
イエスは言った。「求める者には見いだすまで、求めることを止めさせてはならない。人は見いだす時、心穏やかならぬであろう。人は心穏やかならぬ時、驚嘆し、そして万物を支配するであろう。」
オクシリコン・パピルス654(1)
イエスは言う。「求める者は、見いだすまで止めてはならない。そして彼が見いだす時には、驚くであろう。また驚いてから支配するであろう。そして支配してから休息するであろう。」
わたしたちはともすれば「困った時の神頼み」で、最後にイエス様のところへ祈り求めに来る傾向があります。普段にイエス様に祈ることをしていれば、いざという時も自然にイエス様に祈るのですが、普段に祈りの生活をしていないと、自分でいろいろ思案したり、悩んだりしたあげくに、やっとイエス様のところへ来るということをやります。これでは「遅すぎる神頼み」になりかねません。イエス様に祈り求めると言いましたが、これはキリスト教徒のことであって、イエス様を知らない人たちやほかの宗教を信じている人たちの祈りを天の神様は聴かれないのかと言えば、そんなことはありません。「だれでも」とあるのは、宗教にも区別されないすべての人のことだと思います。ラテン語で「民の声は神の声」という言葉がありますが、神様は、太古の昔から人間の悲しみや叫びをずっと聞き続けてこられています。神様は、絶えず人間の新しい悲しみや人間が作り出す苦しみの声を聞いておられる。だから、わたしは、神様からの啓示は時代によって進歩すると信じています。
■イエス様と出会ってから
ところで皆さんの中には、ひとたび教会で洗礼を受けたら、そこで救いは完成した。後はただ教会の言うとおりに生活していればそれで天国への道は保証されている。こう信じている人がいるかもしれません。こういう教えは、必ずしもカトリック教会だけではありません。カトリックでは、ローマ法王が地上のイエス様であって、教会とその聖堂は、地上の天国であるとする伝統があります。でもプロテスタントの牧師さんでもこれに近い考え方をしている人たちがいます。この場合は、イエス様を信じて洗礼を受けて、教会の礼拝に出ることが、始まりではなく「救いの完成」になるのです。だから、イエス様を「求めて」、信仰が「与えられた」ら、それ以上「探す」必要はない。まして「門をたたく」必要もないわけです。しかし、洗礼は結婚式です。式を挙げたから、結婚生活は完成したのではない。そこからほんとうの生活が始まるのです。
だから、わたしたちは「救い」をそのようには理解しません。イエス様のもとに来て、イエス様と出会ってからほんとうの自分の歩みが始まるのです。「求める」とは何を求めるのでしょうか? 先ずそこから出発します。「求める」とは自分の歩む道を求めるのです。近頃の大学では、「自分探し」がはやっています。わたしの勤めていた大学でも、1年生には「自己探求」の講座があります。しかし大学で自己探求をやってもなかなかほんとうの「自分」には出会えません。イエス様という人格的な神様のみ言(ことば)に出会って初めて、ほんとうの自分に行き着く道筋が見えてくるのです。こんなすばらしいイエス様がおられるのに、どうして今の若い人たちは、イエス様に関心を向けないで、いろいろほかのところで「自分探し」をやっているのでしょうか? わたしには残念でなりません。
■積み重ねる祈り
イエス様に求めるなら、きっと与えられます。祈りは積み重ねが可能なのです。毎日短時間ずつ祈るだけでも、毎日やればそれが積み重なっていくのです。人間の罪も積み重なるが、祈りも積み重なる。だから、罪の道と祈りの道とでは、時が経つほどその隔たりが大きくなります。イエス様に祈り求めますと、祈りそのものが少しずつ変えられていく。純化していくのです。始めは、健康のことだとか、家族の悩みだとか、職場の悩みだとか、いろいろなことで、「善い贈り物」を求めます。しかし、それがだんだん、祈りそのものとなってきて、自分のうちで御霊ご自身が祈るようになってきます。そうなるともう自分の祈りではない。御霊ご自身の祈りです。この祈りは必ず聴かれます。イエス様に求めるものはきっと与えられます。聖霊ご自身が与えられます。与えられたらどうすればいいのでしょうか? そこから「探す」ことが始まるのです。与えられたら探す必要がない。皆さんはそう思うかもしれません。ところがそうではないんです。人は与えられて初めて、真剣に探し始める。救われて初めて、ほんとうの意味で救いを求め始めるのです。神様の国を見て初めて、神様の国へ入ろうと努力し始めるのです。だから救いは門です。道です。ほんとうの自分に出会って初めて、ほんとうの自分、イエス様にある自分を求め始める。探し始めるのです。
ところが実際にやってみれば分かりますが、イエス様にある自分の道を求め、探し始めて、やっとそれらしいものが見つかっても、それが解決ではありません。その道をほんとうに実現する、あるいは成就するには、現実の様々な壁を打破しなければなりません。だから「門をたたく」祈りが必要になります。ガンガンとたたいてもいいけれども、それでは疲れてしまうから、ゆっくりとたたくのです。しかし繰り返したたく。すると開かれるんです。普段にたゆみなく求め続けることが大事です。神様から自分に与えられた仕事を全うするためには、場合によっては、挫折もあり、困難もあります。うまくいかない時には、どうしてなのかを考えます。信仰に理性が大切なのはこういう時です。こうして、絶えず祈り求めて、新たな自分の道を求める人、こういう人でなければ、異なる宗教、異なる信仰の人たちと仲良くやっていくことはできません。だからわたしは、皆さんにこういう信仰の持ち主になってほしいです。
■自分の祈りを見いだす
イエス様にあって自分の道を尋ね求めることは、「人まね」ではできません。「学ぶ」ことはまねることから始まりますが、指導する側は、自分のまねばかりをさせてはいけません。自分のやるとおりに弟子にやらせようとする先生がいます。あるいは自分のやるとおりにやらないと気が済まない友達がいます。こういう指導者、こういう友人には気を付けなさいよ。人はそれぞれ環境も違えば才能も違う。彼にあるものはあなたになく、あなたにあるものは彼にないのです。だから、あなたが彼/彼女のまねだけをやっていては、絶対にそれ以上に出ることはできない。なぜなら、彼/彼女のやり方は、その人に最もふさわしく、「その人の」才能を最も発揮できるやり方だからです。それがその人を活かす道だからです。だから、そのやり方に従っている間は、あなたの才能、あなたの個性は、絶対に相手以上に出ることはない。大学の教授が、弟子を自分以上にさせない方法がこれです。こういう教授が、大学にいっぱいいますよ。だから、昔から、立派な禅宗の師は弟子になんにも教えない。弟子は黙って師のやり方を見ている。そして自分で「会得」するのです。これがほんとうの意味で「学ぶ」ことなんです。
■祈りの歩みがもたらすもの
C・S・ルーイスという今は故人となったキリスト教の作家がいます。この人は英文学者ですが、キリスト教に関する著作や講演、それに児童文学もあります。ナルニア国物語というシリーズも彼の作品です。この人は、英国の国教会、聖交会のことです、これの信者となって、一生英国の国教会の会員でした。ある時友人が彼に、どうしてあなたはいろいろ宗派があるのに、イギリスの国教会を選んだのか? と尋ねました。すると彼は、イギリスには何百年もかかって作られた「信仰の地図」があるのだから、この地図に従って歩めば、道に迷うことがないからだよ。こう答えたそうです。イギリスには、何百年もかかってどこにどんな路があるのか、細かい地図ができている。だから、信仰の道がいろいろあるけれども、せっかく地図があるのだから、これに従うのが一番確かだ。そういう意味です。
ところが皆さん、日本には、喜ぶべきか悲しむべきか、キリスト教のそんな地図はまだない。どういうわけか日本のクリスチャンは、明治以来外国の方ばかり向いてきました。現在でもそうです。外国の偉い先生の書いたものは有り難がって読むけれども、日本人の書いたものはあまり大事にしない。やれブルトマンだ、やれバルトだ、やれモルトマンだ、やれオーラル・ロバートだ、やれビリー・グラハムだ、やれキャサリン・クールマンだ、やれベニー・ヒンだと、わたしが戦後初めてキリスト教に接した頃から現在まで、ほとんど変わっていません。
いいですか皆さん、どんな立派なイギリスやアメリカやドイツの地図でも、それが詳しく立派であっても、それで日本の国を旅行できますか? 人間の霊性の普遍的な地図としては、外国の地図でも意味があります。しかし、仏教や異なる宗教との関わり合いでは、外国の地図はダメです。日本の宗教地図という視点からなら、アメリカやドイツの先生よりも、むしろ親鸞や法然や蓮如の書いたもののほうがずっと参考になる。アメリカのような広大な大陸を走る高速道路をそのまま日本に持ち込んだらどうなりますか? あの美しい淡路島が、明石海峡の橋を結ぶ立派な高速道路で真っ二つに裂かれています。あんなものを作るぐらいなら、なぜそれだけの費用で、従来の淡路島の道路を立派に完備しなかったのですか? そうすれば、美しい景色も淡路島の自然も保護された上に、島の人にずっと便利な道路ができていたのです。地元のバス会社の人がそう言っていました。
日本には、21世紀のキリスト教の地図はまだありません。だから、これから地図を作らなければなりません。どうやったら作れるのか。伊能忠敬は、日本中を歩いて、自分の足で確かめながら実測して日本の詳細な地図を作りました。地図は頭で考えて作るものではない。地図は自分で歩いて確かめて作るものです。それ以外のものは信用してはいけない。間違った地図は逆に危険ですからね。ましてわたしたちのほしい、キリストの御霊にある「霊の地図」は、まだ日本にはないのです。ではどうすればよいのか? それぞれが、自分の目で見て、実際に自分が体験したことをごまかさずにありのままに語り伝えることです。幸い、わたしたちの交わりには、数は少なくてもいろんな人たちがいます。そのひとりひとりが貴重な存在です。少ない人数が、中を向いて輪になっても、お互いの顔ばかりが目に入って周囲の様子は分からない。お互いが向き合うのも大事ですが、それだけではだめです。幸いわたしたちの交わりでは、全員がそれぞれ異なる職業についています。実社会の中で生活している。だから、全員が外を向いて輪になって、自分に見えることをきちんと伝えることができれば、360度の地図が作れるのです。人間には目がふたつしかないから、ふたつの方向を同時に向くことはできません。だから、そのふたつの目で、自分の目に入るところだけをきっちりと伝える。このことが大事です。
互いに、他人の見たことを自分の見たことと比較して批判しても始まらないのです。なぜなら、見ている方角が異なるからです。霊的な世界では、全く同じ景色がふたつあるなどということはありません。全部違います。だから、それぞれが協力して、自分の体験をきちんと語り伝えるのです。ひとりひとりの体験範囲は小さくても、いろんな人がそれぞれに体験したことが集まるなら、そこから次第に日本のキリスト教の霊的な地図ができてきます。これ以外に日本の地図を作る方法はないのです。イエス様の父なる神に祈って、御霊に照らされて、自分の有り様をしっかりと見つめ、それから自分の生活範囲で生じることを判断して語り合う。これが大事なんです。又聞きではなく、自分の頭で考えたことではなく、ほんとうに自分に何が起こったのか、また起こっているのか、これをごまかさずにしっかりと見る目を養ってください。そこからしか、あなた自身の道は開かれません。
福音は世界を経巡っています。現在の日本は、世界に類を見ない独特の文化を発達させました。わたしは先に『これからの日本とキリスト教』で、21世紀の新しいキリスト教が生まれるとすれば、それはアジアからであり、そのアジアの中でも、日本の果たす役割がいかに大きいかを語りました。ここにおいでの皆さんひとりひとりは、その意味で、神様の目から見るとものすごく大事なひとりひとりなんです。どうか、この自覚を持って、イエス様の前に自分の路を探し求めて歩んでください。