【狭い門の注釈】
■イエス様語録
今回のイエス様語録については後出の「御国から閉め出される」のイエス様語録の箇所を参照してください。
■マタイ
マタイでは、この「狭い門」のたとえからイエスの教えの終わりの区分に入ります。ここからは、努力する(狭い門と細い道)→良い教師を見極める(木の実のたとえ)→実行する(岩の上の家のたとえ)のように進行します。旧約聖書では、幸いと災い、神の祝福と呪いのふたつが語られており(申命記30章15節)、命の道と死の道が語られていて(エレミヤ21章8節)、「ふたつの道」のたとえは、昔からよく知られていました。ところが「ふたつの門」のたとえは、あまり例がないようです。ある写本にはマタイの14節を「命にいたる道はなん狭く細いことか」とありますが、おそらくこのほうが分かりやすいからでしょう。
イエスイエス様語録とルカ福音書で「戸口」とあるのは都市の城門の扉や神殿の扉のことです。マタイはこれを「門」にしています。だからマタイの「門」は、都市の城門をイメージしていると思われます。滅びと命のふたつの道へつながるのですから、同じ都市にあるふたつの門ではないはずです。天国と地獄のふたつの門であれば、これは道を通って最後に着くはずですから、ここの門は、道を歩いて最後にたどり着く門のことだという解釈さえあります。けれどもヨハネ福音書ではイエスの言葉として「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」(10章9節)とありますから、この門はやはり道に通じている門です。滅びの門は大勢の人が入っていきますが、命の門は、これを「見いだす人」が少ないのです。
「道」のたとえはマタイだけの付加です。門を通って命に通じる道もまた「細い」とあります。「細い」は狭く窮屈だという意味ですが、それだけでなく「苦しい」という意味にもなりますから、「苦難の道」「茨の道」で、これは「十字架の道」です。原文では、広い門から入る者が「多いのだから」となっています。マタイは、信仰に入ってからも、自分の道をたゆまず努力して歩むようにと教えているのです。なお「それを見いだす」の「それを」とは「命にいたる門」のことです。
■ルカ
ルカでは、マタイの「門」が「戸・扉」になっています。ただしルカが言う「戸・扉」は、終末の時に神の国へ入る扉です。だからこれは、広いか狭いかではなく、開かれるか閉じられるかが問題なのです。扉が開かれるのは、「神の御心を実行した」人々にたいしてですから、人は「努力して」この道を歩むように勧められています。この「努力する」の原語は、人間的な努力のことではありません。自分の力を超えた神の御霊の働きによって引っ張り上げられることです。イエスが荒れ野の誘惑へと御霊によって「追い立てられた」、「引き回された」とあるのもこれに通じるでしょう。おそらくルカのここでの「扉」は、エズラ記(ラテン語)7章3〜9節に描かれている「入り口」のイメージから来ているのでしょう。
マタイの「門」とルカの「戸口」では、その置かれている状況が異なりますが、言われていることは共通していて、「少ない人」しか入れないから努力せよと言うことです。マタイとルカのたとえとヨハネの門を総合すると、門とは「イエス」のことになります。その門を通って細い道を歩むとたどり着く先にイエスの御国の扉があります。しかもこの道もまた「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ福音書14章6節)と言われたイエスご自身です。だからここで語られる門と道と扉(戸口)は、イエス・キリストに始まりイエス・キリストにいたるイエス・キリストの道であると言えましょう。