61章 狭い門
マタイ7章13〜14節/ルカ13章23〜24節

【聖句】
イエス様語録
狭い戸口から入りなさい。入ろうとする人は多いが、(そこを通って)入れる人は少ない。

マタイ7章13〜14節
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

ルカ 13章23〜24節
すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」

ヨハネ10章9節
わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。

【注釈】
   

【講話】

■広くて狭い理由
 黄金律のことは、「敵を愛する」のところで話しましたから、今日は省略して、「狭い門」についてお話しします。キリスト教は国際的な宗教です。どんな人種の人であろうと、どんな身分の人であろうとイエス様を信心するのにいささかも妨げになりません。日本の神様なら、通貨の円と同じで、一歩日本から出るともう通用しません。この点、キリスト教は国際的です。誰でも入れるのですからものすごく間口が広い。ところが、現在この国ではクリスチャンは日本人の人口全体の1%にも満たないほどで、ごくわずかです。誰でも入れるし、お金も要らない。ところが日本ではクリスチャンはごくわずかです。広い戸口が実は狭いんです。神様のなさることは不思議です。イエス様の罪の赦しは人間なら誰にでも与えられる。こんな広い間口はないと思うのですが、実際はそこに入る人がきわめて少ないのです。
 この理由として、ひとつには、イエス様の福音は、移動するんです。民から民へと伝わり、伝えられることによって、常に新たな地域へと移っていく。だから、キリスト教は翻訳の宗教です。地域が新たになるだけではない。霊的にも常に新たな領域を開拓していきます。イスラム教は中世からあまり変わっていませんけれども、キリスト教は常に新しい領域へと挑戦していきます。その結果、新しいぶどう酒は新しい革袋に入れられて、新たに伝えられる地域へもたらされます。だから初めは当然これを信じる人が少ないのです。
  確かに神様の備えてくださる救いは広いです。誰にでも開かれています。ところがそこへ来る人はごくわずかです。広いのに狭い。不思議です。誰にでも開かれているのに、わずかな人しか来ない。教会の門も広いです。でもそこを入る人は少ないです。イギリスはキリスト教国と言われていますが、その割に教会へ来る人は少ないです。では教会へ来ればいいかと言えば、そうではないんです。教会で洗礼を受けてクリスチャンになったらそれでお終い。こういう人が結構多いです。そこからがまた狭い道です。自分で求めて歩かなければなりませんから。こうして、最後まで歩む人が、だんだんと少なくなっていくのです。でも少ないからだめなのではないんです。その少ない人こそが、次の大きな扉を開いて、たくさんの人に救いを与える源になるのです。
 このようにして、神様に「招かれる」、そして「召し出される」、それから「選ばれる」のです。その結果、少数の人たちが「残る」のです。いわゆる「残りの者」です。普通「残り物」は要らないと言われます。ところがこの少数の人たちが大事なんです。新しい世界観、新しい価値観、新しい文化が創り出されていくのは、これらの少数の人たちからだからです。カルデヤのウル文化から出ていったアブラハムの一族、バビロンの捕囚から戻った「残りの者たち」、旧約時代から新約の時代を切り開いた12使徒やパウロのようなユダヤ人キリスト教徒たち、宗教改革を始めた人たち、大西洋をわたってアメリカに新しい世界を築いたピューリタンたち、みんな「わずかな」人数の人たちです。わずかなパンと魚でも、イエス様の手に握られますとね、大きな意味を持つのです。
■門を見いだす
  マタイやルカやヨハネを総合しますと、門はイエス様です。わたしたちはこのイエス様を通ってイエス様を歩んでイエス様の居られるところへたどり着く。だからこれは神殿の門、御国の門です。そこを通ってたどり着いた時にルカにあるように扉が閉じられていたら入れません。どうして閉じられるかと言えば、イエス様の教えを実行しなかったからです。いろんな集会に出て、いろんな恵みを見て、ああよかった! ああ、すばらしかった! こう言って喜ぶ人が大勢います。でもその後で、神様の恵みの風が過ぎ去ってしまうと後にはなんにも残らない。「道」は歩くためのものです。考えるためでも、見るためでもありません。自分自身の内に神様の御言葉を宿して、小さくても自分の内に御霊の泉を抱き続ける。こういう人が育たないとだめなんです。大きな集会はいいです。でもタダノお祭り騒ぎではなんにもならなりません。ところが、みんなが食べて満腹した後で、そこらにパンくずが散らばっています。たとえパンくずでも、「残りもの」を粗末にしてはいけません。大事な大事なパンくずです。わたしもそのパンくずのひとつです。
 マタイは「狭い門」から「入る」者ではなく、その門を「見いだす」者が少ないと言っているのに注意してください。入れるか入れないかではない。見いだすか見いださないかです。一粒の大きな真珠が畑に隠されています。畑はあなた自身です。あなたという人格は天下一品、ほかにかけがえがないです。そこに大きな真珠が隠されている。皆さんは、こんな自分がと思うかもしれません。でもそんな土の器にも真珠が埋もれているんです。イエス様に招かれてその門をくぐると、ひとりひとりに道が見えてきます。その道は細いです。「あなたひとり」しか通れない道ですからね。みんなと一緒にやるのは楽ですが、ひとりだけの道は狭いです。それぞれに、自分に与えられた道を歩んでいくのです。だから。どうか、まず「自分の道」を見いだしてください。見いだしたなら、その道を徹底して歩んでください。いい加減なことはやらないで、徹底的に貫いてください。そのために思い切って自分をイエス様に献げてください。もうどうなってもいいんだ。主様にお委ねするんだとね。細くても、たとえひとりでも、多くの人たちと一緒でなくても、どうか、その道を「見えない方を見ているように忍び通して」歩んでください。門は開かれます。道も通れます。「求めよ、さらば与えられん」です。「探せよ、さらば見いださん」です。自分を神様に捧げきった人、そういう人になってください。そうすれば神様は、あなたを通して大きなことをなさいます。何か分からないけれども、あなたが思いもかけなかった事態が起こります。
■十字架の道
  門が狭いのはそれが十字架の門だからです。イエス様の前に頭を下げて「自分ではどうにもなりません。イエス様どうぞよろしくお願いします」と言って自分を明け渡してお委ねする。イエス様の十字架の救いに与るにはこれしかありません。単純なことなんです。子供でもできます。誰でもその気になればいつでもできます。こんなに広い門はないです。ところがこれが難しい。プライドやいろんなものが邪魔をしてなかなかくぐれない。神様の広い門は実は狭いのです。特に富や知識や名誉やいろんなプライドが詰まっている人には「ラクダが針の穴を通るより難しい」。門を通っても御国へ通じる道は狭い。自分の罪をひとつひとつ取り除いていく。わたしなんかまだまだだめです。でも、狭くて窮屈かと思うとそうでもない。案外どころか、ものすごく広々としています。でもやはり「頭が高い」と頭を打ちます。天は高いけれども、天へいたる道は見えないガラスの天井が上に張ってあって、これが結構低いのです。少し頭が高くなるとゴツンと当たる。
 イエス様の道は十字架の道です。十字架の道と言うと、皆さんは、十字架を「背負う」ことだと考えます。でもわたしの言うのは十字架を「受ける・戴く」ほうです。これもまた狭いんです。先ずイエス様の十字架の贖いによる罪の赦しを「受け入れ」ます。自分は今のままで、なんにも悪いところがないから十字架など要らない。こう思っている人は受け入れません。十字架を受け入れるためには「頭を低く」しなければなりません。集会へ「行ってあげよう」とか、イエス様を「信じてあげよう」とか、聖書を「研究してやろう」とかね。こういう「頭が高い」のはだめなんです。「どうぞお願いします」と頭を低く下げればいいのにそれができない。だから、誰にでもできるのに、やる人が少ないのです。
  十字架の恵みを受けて、御復活のイエス様の御霊を体験する。これもすばらしいです。ところが、信じられないかもしれませんが、それでもイエス様の恵みを忘れてしまう人がいるのです。いつの間にか忘れて、「ああ、あれは昔のことだ」なんて言うのです。イエス様の御霊にある歩みを始めますとね、それがだんだんと人の重荷を背負う道へとつながっていきます。人の重荷を負うのはごめんだと逃げてしまえば、そこでお終い。教会へ通って賛美歌を歌っていろいろいい話を聞いても、結局最後のところで扉が閉じられて入れなくなってしまう。だから、招かれたら、たとえ十字架の道でも、思い切ってその道を歩むことです。そうすると、その十字架をイエス様が背負ってくださる。ああ、これは自分ではないんだ。イエス様なんだ。こういうことが分かってくるんです。「受けるより与える方が幸いだ」と言われたイエス様の御言葉の意味が分かってきます。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」とね。皆さんひとりひとり、かけがえのない大事な日本人です。どうか自分を大事にして、イエス様に献げて歩んでください。祈ります。
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