【注釈】
■イエス様語録
イエス様語録は、たとえが、3行と2行と3行の形式で構成されています。比喩を2行あるいは3行で並列するのは詩編や箴言など、ヘブライの伝統的なスタイルです。ただしここでは、初めの5行がまとまりをなしていて、3行目の「木はその結ぶ実によって分かる」は、先の2行のしめくくりとなり、これを次の2行につなぐ働きをしています。これは比喩ですから、その内容は読む人によって様々に解釈することが可能です。また比喩は、時代が変わっても、その時々の意味内容を読み込むことを可能にします。しかし、イエス様語録の比喩の本来の具体的な内容はほとんど知ることができません。「良い」と「悪い」がはっきりと区別されていますが、本来これを聴く人たちには、語られていることが具体的に何を指しているのかすぐに分かっただろうと推定されます。しかし、今となっては、それが何かを判断するのは難しいです。なお「悪い木」とあるのは「腐った木」のことです。ですからそこになる実は「食べられない」「役立たない」という意味です。ここでもイエス様語録は、ルカに基づいていますが、「あざみ」とあるのはルカからでなくマタイのほうから採用されています。
イエス様語録は、新約聖書よりも早い時期で、キリスト教の初期の40年代から50年代の人たちによって編集されました。この頃は、イエス様の伝道スタイルに従って、霊能の預言者たちや教師たちが巡回しながら、教えたり祈ったり病の癒しを行なったりしていました。彼らの中には「偽者」もいたようで、そのことは後の『12使徒の教訓』(100年〜150年)にも記されています。例えば、巡回の霊能者が、2日目まで泊まるのは認められるが3日いるならそれは偽教師である、次の所までのパンを求めるのはよいが金銭を求めるのは偽者である、その教えを実行しない者は偽教師であるなどとあります。奉仕を要求したり、お金を出させたり、語る言葉を実行しないなどは、現代の「偽教師」や「偽宗団」にもそのままあてはまりそうです。
■マタイ
マタイは、イエス様語録をマタイの教会の状況に応じて編集し直して、善と悪の木の実のたとえを偽預言者に対する警告にあてはめています。したがって7章15節と19節はマタイが加えたものです。「偽預言者」というのは旧約ではヤハウェの霊によらずほかの神々の霊によって語る者のことです(申命記18章20節)。エリヤはカルメル山でバアルの偽預言者たちに闘いを挑みました(列王記上18章)。なお7章19節は洗礼者ヨハネの言葉を反映しています。
また1世紀の終わり頃には、律法からの自由を説いたパウロ的な福音が誤解されて、律法そのものを無視したり、これを否定することによって放縦で乱れた生活をする指導者たちやクリスチャンたちが現われました。こういう「卑俗化したパウロ主義」の傾向に対して、マタイはここで戒めているのだと思います。マタイが善と悪の木の実のたとえに続けて、終末の日に、イエス様によって「不法者」だと斥けられる者たちのことを述べているのもこのためでしょう。
ところで、イエス様語録の最後の3行は、偽預言者との関連で内容的にそぐわないと思ったのでしょうか、マタイはこれをはずして、この3行をマタイ12章33節以下で用いています。ここでは、善と悪の木は「人の語る言葉」のたとえに用いられています。言葉は霊ですから、「木」はその人の霊であり、「実」はその人の語る言葉です。その語る言葉でそれぞれの人の霊性を見分けることができるという意味です。しかし、この「言葉」に関するたとえは、イエス様に敵対するファリサイ派たちとの論争に続いて出てきます。しかもそれが「聖霊に敵対する言葉を出す者」への「赦されない罪」という深刻な問題と関係してきます。ここでは、「人の子に敵対して言葉を語る者は、赦されるであろう。しかし、聖霊に敵対して言葉を語る者は、この世でも、また来るべき世でも赦されないであろう。」〔岩波訳〕とあります。この問題は、後にベルゼブル論争の箇所でとりあげますので、これに立ち入るのはここでは控えます。
マタイはこの言葉に続いて12章で、「もしも木が善いと仮定するのなら、その実もまた善いとしなければならない。もしも木が腐っていると仮定するのなら、その実も役立たない(食べられない)としなければならない。だから、木はその実によって判断されなければならない。」と言うのです。ここで「木が善いのなら、その実も善いとしなさい」というのは、とりようによっては、木が善いか悪いかを判断することによって、その実も善いか悪いかがわかる、という意味にも解釈できます。これは、「実を見れば木がわかる」というのとちょうど正反対の意味になります。通常このたとえは、「実によってその木を判断する」と解釈されますが、マタイのここのところは、「木によってその実を判断する」という意味にもなります。物事は、その両面から見なければならないのです。
さらに「善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる」とあります。この36〜37節はマタイの付加です。人はその言葉によって判断され、かつ裁かれるというのです。ここで「つまらない言葉」とあるのは「怠惰な言葉」とも訳すことができます(英語のidle)。これは「実際に働かない」「実行力がない」「役に立たない」という意味です。つまり言うだけで「実行を伴わない」言葉のことです。「責任を問われる」とあるのは法廷で「弁明する」「申し開きをする」という意味ですから、人はその言ったとおりに行なうかどうか、あるいはその言ったとおりになるかどうか、これが偽預言者や教師だけでなく、神が人を判断する大事な基準になるのです。
このようにマタイでは、木のたとえが、偽預言者と真の預言者を見分けるために用いられています。ですから、マタイは教会の預言者や教師たちのことを念頭に置いているのが分かります。また、このたとえがおかれている前後の内容から判断して、マタイは偽の教師を「不法を行なう者」として、その行為や生活において神の教えに従っているかどうかに注目しています。山上の教えの締めくくりとして、旧約の律法に代わる「キリストの教え」を基準にして本物と偽物とを見分けるように勧めていると言えます。
■ルカ6章
ルカの場合には、「善い人」(6章45節)とあるように、教会の指導者や偽預言者のような特定の人たちのことではなく、人間一般について木とその実のたとえが用いられています。「善い実」と「良い実」も、「悪い木」と「腐った木」もそれぞれ同じと見ていいでしょう。また、その善悪の判断においても、マタイのように「キリストの律法」を基準にするよりも、ルカでは、その結ぶ実が「キリストの御霊」から出ているかどうかが、問われています。だからルカのほうは、パウロ的な福音理解に基づいていると言えましょう。
ルカでは、「それぞれの木は」(44節)とあるように、ひとりひとりについて、善悪を見分けるように求めています。ただしここでは、「木」が一本ずつ生えているのではなく、2本あるいはそれ以上が並んでいる状態を思わせますから、それらのそれぞれを注意して見分けるよう求められているのです。
マタイでは「茨とぶどう」と「あざみといちじく」の二組の対照が並んでいますが、ルカでは「茨といちじく」と「野ばらとぶどう」の組み合わせになっています。マタイの場合は、旧約の伝統に従って、偽札と本物のように、互いに似ていてしかも違うものが対照されています。マタイの「茨とぶどう」にはイザヤ書5章2節が反映しています。しかし、ルカでは、「茨といちじく」のように互いに性質の全く異なる物が対照的に用いられています。44節の「野ばら」〔新共同訳〕の原語は、一般にトゲのある灌木類を指すので、ここはむしろ「藪からぶどうの房を」〔岩波訳〕と異なる性質のものとして訳すほうがいいと思います。
ルカ6章45節は、「善人は善い心の宝庫から善いものを出し、悪人は悪い(倉)から悪いものを出す。」と訳すことができます。「宝庫」とは神殿や宮殿の宝物殿のことで、ルカはキリストに宿る「神の宝物」のことを考えているのでしょう(コロサイ2章3節)。イエス・キリストが宿る心は、キリストの宝庫から貴い知恵と愛の言葉を取り出すという意味です。「倉」は人の心を指しています。トマス福音書(45)にも「悪い人は心の中の邪悪な倉から悪い物を取り出す」とあります。「心に溢れるから言葉に出る」は、その人の奥に潜む深い思いは、「思いがけなく」口に出るという意味です。人の心の奥底は、はかり知ることができません。しかし、心の深いところに宿る想いは、「ふとした」言葉に出てくるものです。