62章 木とその実
マタイ7章15~20節/12章33~35節/ルカ6章43~45節
【聖句】
イエス様語録
悪い実を結ぶ良い木はなく、
善い実を結ぶ悪い木はない。
木はその結ぶ実によって分かる。
茨からいちじくが採れるだろうか。
あざみからぶどうが採れるだろうか。
善い人は良いものを入れた倉から良いものを出し、
悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。
人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。
マタイ7章
15「偽預言者を警戒しなさい。
彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、
その内側は貪欲な狼である。
16あなたがたは、その実で彼らを見分ける。
茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。
17すべて善い木は善い実を結び、
悪い木は悪い実を結ぶ。
18善い木が悪い実を結ぶことはなく、
また、悪い木が善い実を結ぶこともできない。
19善い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
20このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」
同12章
33「木が善ければその実も善いとし、
木が悪ければその実も悪いとしなさい。
木の善し悪しは、その結ぶ実で分かる。
34蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、 どうして善いことが言えようか。
人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。
35善い人は、善いものを入れた倉から善いものを取り出し、
悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。
36言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、
裁きの日には責任を問われる。
37あなたは、自分の言葉によって義とされ、
また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」
ルカ6章
43「悪い実を結ぶ善い木はなく、
また、善い実を結ぶ悪い木はない。
44木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。
茨からいちじくは採れないし、
野ばらからぶどうは集められない。
45善い人は善いものを入れた心の倉から善いものを出し、
悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。
人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」
「木」が人間の霊性を現わすのは、東洋でも西洋でも同じです。また「実」は、旧約聖書では、人の行ないの「結果」を意味していて、新約でもパウロは、この意味で用いています(ガラテヤ6章7~8節)。ただし、新約の場合には、「実」はその人に宿る霊が外に現われる「行ない」や「奇跡の業」を意味することが多いのです。人に宿る霊が聖霊であれば良い実を結び、悪い霊あるいは肉欲からであれば悪い実を結びます(ガラテヤ5章19~24節)。
マタイは、二つの門と二つの道のたとえに続いて、二つの木とその結ぶ実のたとえを出しています。これに続いて、霊の働きを行ないながらもイエス様から「不法を行なう者」とされて御国から閉め出される人たちのことが語られます。マタイは、「偽預言者を警戒しなさい」で始めていますから、ここでの木とその実のたとえは、教会での偽預言者や偽教師のことを指しているのが分かります。いったい「偽預言者」というのは、どういう人たちのことでしょうか? 特にそれが、この後にあるように、イエス様のみ名によって預言をしたり、悪霊を追い出したり、いろいろな奇跡やしるしを行なったりする人たちの中にもそういう偽預言者たちがいるとなると、これを見分けるのはとても難しいです。マタイはイエス様の毒麦のたとえを引いて(マタイ13章24節以下と36節以下)、これを見分けるのがいかに難しいかを語っています。毒麦のたとえでも、偽者は人を「つまずかせる」者であり、「不法を行なう」者たちです。これはサタンが播いた種から生え出たものです。
真実の預言者と偽りの預言者との違いは、エレミヤ書にも描かれています(14章14節以下)。ところがここでは、異教の国バビロンがヤハウェによって滅ぼされると預言したほうが偽預言者であって、逆に南ユダ王国がバビロンに滅ぼされると預言したエレミヤのほうが主の預言者なのです(27章~28章)。一見するとヤハウェの側に立つように見えるほうが偽の預言者ですから、注意を要します。新約で偽預言者と言うのは、主としてキリスト教の教会内で異端の教えを語る者のことです(2ペテロ2章1節/1ヨハネ4章1節)。
ヨハネ福音書には、「良い羊飼い」と「雇い人の羊飼い」のたとえがあって(ヨハネ10章1~16節)、ここには「羊を食い荒らす狼」もでてきます。イエス様こそほんものの「善い羊飼い」なのです。ヨハネのイエス様は御霊のイエス様ですから、イエス様の御霊こそ唯一の真実な導き手になります。このように、イエス様の復活と聖霊降臨以後は、特に1世紀の末頃から、ほんとうのイエス様の御霊と偽の霊とを見分けることが重要になってきましたから、キリストの諸教会は「霊を吟味する」ことで警戒を強めるようになりました(マルコ9章38~40節/マタイ24章9~12節/1ヨハネ2章18~27節/使徒言行録20章29~30節)。特にマタイでは、終末に関連していろいろ間違ったことを預言する者たちに注意せよとあります(マタイ24章21~23節)。
だからそういう偽預言者を作らないように、教団が神学校で訓練して、「ちゃんとした」牧師さんたちを養成すればよいのだと言う人もいますが、では、神学校を出て資格試験を通った人たちが「偽者」でないかどうかはどうすれば分かるのでしょうか? その上に、もしも資格試験を行なうその人たちが「偽者」だったら、いったいどうなるのか? 塚本虎二師はそう言って嘆いています。これでは「盲人が盲人を手引きする」たとえの通りになってしまいます。
■霊を吟味する
それでは、その人に働く霊が、イエス様の御霊から出たものか? それとも「違う霊」から出たものか? さらに困ったことに「悪い霊」から出たものか? これを知る道はわたしたちに与えられているでしょうか。イエス様は、このために、わたしたちひとりひとりに、聖霊の油を注いで(1ヨハネ2章27節)、求める者たちを、必ず正しい道へと導いてくださると聖書にあります。「霊を見分けれる」ことについては、いろいろと雑誌などにも書かれています。また、「霊を見分ける」特別な賜を与えられた人がいるということも聞きます。しかし私はここで、そういう特殊な場合、特殊なことではなくて、イエス様を信じる人なら、だれでも注意して見分けることができるごく一般的な、そして根本的な点を指摘したいと思います。<イエス様のみ名を呼び求める>ことで、イエス様の御霊はわたしたちを「正しい道」へと導いてくださるからです(詩編23篇3節)。その際の指標となるのは以下の3点だと言えましょう。
(1)真理の霊とは、神様がイエス様を通してわたしたちにくださる聖霊のことですから、これは「イエス様という人格」の霊、すなわち「ペルソナ」(英語のperson)の霊です。ですから、わたしたちはイエス様の御霊によって「語りかけられ」また御霊に「語りかける」ことができます。
(2)御子イエス・キリストの御霊ですから、これは「わたしたち自身の」霊ではないことです。ですから真理の御霊をわたしたちは「自分のもの」だと主張することは決してできません。またその働きも自分の働きに帰することはできません。
(3)霊的な信仰生活において最も難しいのは、自分の内に働くイエス様の御霊の導きと自分自身の思いや欲望とをどのようにして見分けることができるのか? ということです。この意味で、この木の実のたとえは、とても重要です。なぜなら、ここで言われているのは、御霊が働くから善い実が成るということではなくて、善い実が成るから、そこに働く霊は善い霊だと教えているからです。だから、自分の内に働く霊が、本当にイエス様から出たものかどうかを知るためには、その霊の結ぶ実を見れば分かるのです。ここで大事なのは、イエス様の御霊が結ぶ「実」は、「愛」であり「喜び」であり「平安」だということです(ガラテヤ5章22節)。この三つがあるところには、キリストの御霊が働いていると考えて間違いありません。「平安」とは御霊にあってわたしたちの罪が赦されることです。「喜び」とは、御霊にあってわたしたちが希望を抱いて創造的な働きに参加できることです。御霊にある喜びは、わたしたちの行為を導く根源なのです。「愛」とは、御霊にあってわたしたちは、人々と交わり(コイノニア)を生み出すことができることです。人と御霊との関係は、創り主と造られる者との関係です。この創造の御霊との交わりが、人と人との交わりを造り出す力となるのです。以上が、わたしたちに与えられた「霊」が、キリストにある真理の霊かどうかを見分ける指針なのです。
■言行一致
マタイは、この木の実のたとえを人の口から出る言葉のたとえとして用いているのです。しかもそれが、「聖霊を冒涜する赦されない罪」と関連してきますので、深刻です。この「赦されない罪」については、今回は説明を控えます。ただ、この罪については、軽々しく口にしたり、ましてや、自己主張の手段として用いてはなりません。
それだからでしょうか。ルカは木の実のたとえの前に、人を自分勝手な秤で裁くなと教えて、特に他人を教えて自分を教えない教師たちに警告を発しています。その後で、ここの木の実のたとえが語られるのです。ルカはこれに続いて、家を建てるたとえを出して、イエス様の教えを「実際に行なう」ように勧めています。マタイもルカも共通して言うのは、人は「自分の言葉に責任を問われる」ことです。言行一致こそ神の道です。逆に言行不一致は偽善者の道です。人は、自分の力で神の道を歩むことはできません。それは人間には不可能だからです。人は神によって、御子イエスの罪の赦しの中にあって初めて、イエス様の御霊の道に歩むことが「許され」ます。だからわたしたちは人を裁かない。己を裁くこともしない。その代わり、たとえしるしや奇跡が現われても、己を誇ることをしない。御栄光を主に帰して、ただ、主イエスの御霊に導かれるままに歩みます(1ヨハネ3章24節)。