68章 嵐を鎮める
マルコ4章35~41節/マタイ8章23~27節/ルカ8章22~25節
【聖句】
マルコ4章
35その日の夕方になって、イエスは「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
36そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
37激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
38しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
39イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
40イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
41弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

マタイ8章
23イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。
24そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。
25弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。
26イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。
27人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。

ルカ8章
22ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたので、船出した。
23渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。
24弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。
25イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。

【注釈】

【講話】

■この出来事はほんとうか?
  一般的に言えば、文献批評は、従来奇跡について否定的な見方をしてきましたから、次のように言われてきました。
(1)教会が創り出した超自然的なイエス様像を描いている。
(2)奇跡は、人間の宗教や神学から出た幻想にすぎないから、実際の出来事ではない。
(3)イエス様が現実に癒しを行なったことから、このような奇跡物語が後になって創り出された。
(4)イエス様の霊能やテレパシーを信じた人たちが、このような幻想的な話を創出した。
 これらの見解に対して次のように反論する注解書の著者たちもいます。このような奇跡は、イエス様以後になってからイエス様の出来事として作られたと言うが、癒しを含めて超自然的な現象や出来事は、全世界で語られていて、キリスト教においても、イエス様以後の教会の歴史においても、数多くの奇跡的な出来事が現実に起こったと伝えられている。過去においてだけでなく、奇跡は現在でも起こっていて、奇跡を信じる人たちが現に大勢存在している。この注釈者たちは、こう述べてから、福音書の奇跡が、後になって作られたとか、歴史的な出来事ではないとする根拠はどこにもない。人間の哲学的あるいは宗教的傾向がどうであれ、イエス様によって起こった奇跡的な出来事を人びとが目撃したことを否定する根拠はない。こう結論しています。
 嵐を鎮めたことについてもう少し詳しく言えば、次のようになります。イエス様の復活以後(ポスト・イースター)にできた伝承ですが、このポスト・イースター資料説には二つの場合があります。
(1)イエス様の復活の後で、顕現物語として教会によって創出されたという説。
(2)今度は逆にイエス様以前の旧約聖書の記事が、復活信仰以後に、イエス様の事績に付け加えられたという説。この二つの場合です。一方はイエス様以後、一方はイエス様以前の伝承が、両方とも<イエス様以後に>創出された。こう考えるのです。しかしながらです。

(1)の場合は、イエス様の生前の伝承に復活以後に顕現伝承が重ねられたと見ることもできます。この場合に大事なのは、伝承の流動性と変容です。生きた伝承は、伝えられることで保持されますが、同時に伝達者たちによって、その時に応じて変容し続けるのです。イエス様の顕現伝承と重なる資料が、イエス様以後であると判断する根拠がないのはこの理由からです。
(2)の場合、旧約聖書の伝承は、イエス様以後だけでなく、イエス様と同時代の人たちもこれを信じていることを忘れてはなりません。もっと大事なことは、イエス様ご自身が、まさにこの旧約聖書の伝承を生きておられたことです。

 奇跡が現在でも起こっていることをはっきりと認めているのは、一流の神学者としてとても勇気の要ることだと思います。例えば、癒しの問題一つを取り上げても、これがほんとうに起こったかどうかを正確に医学的に検証しようとする人たちが、わたしの知る限り、現在の日本にはいないのです。癒しを行なっている人たちもこれを否定する医者たちも、誰もそれが事実かどうかを検証しようとしない。昔、柘植不比等という伝道者がいて、彼は癒しを行ないました。その時には、京都に佐伯さんという医者がいて、柘植さんと一緒に、ほんとうに癒されたのかどうかを医学的にチェックしていったそうです。こういうことを現在行なっている医者も伝道者もいません。
■旧約聖書を信じた人たち
  ここでの嵐の奇跡のように、自然の力を支配した人の話は、ギリシア・ローマ、あるいは東洋の神話や伝説も含めて広い神話的な背景を持っています。旧約聖書でも、水を分けたりせき止めたりする奇跡が語られています。この出来事は現実に起こったことではなくて、後からイエス様の復活を信じた教会がこしらえたものだという見方が生じるのは、このような神話や伝説が、イエス様像に後から加えられたと考えるからです。共観福音書の記者たちも、文献批評の学者たちによってずいぶん見くびられたものです。しかし学問的な姿勢で真実を見つめるなら、このような否定的な見方には根拠がないことが分かります。なぜなら、今述べたように、事の真偽は、学問的に否定もできなければ、肯定もできないからです。伝承がイエス様の生前以後に創出されたと見る人は、当然その出来事の信憑性を否定します。けれども、ほんとうにイエス様の復活後に創出されたのか? この疑問に答えるだけの確証はありません。反対に、肯定する人たちも、ナザレのイエス様が現実にこれらのことを行なったのか? こう聞かれると確かなことは言わないのです。「言わない」のではない「言えない」のです。文献的な批評は、これに答えを出すことはできないからです。これが文献批評の限界です。
 では、出来事がほんとうだと学問的になぜ言えないのでしょうか? それらの出来事が日常の常識に反している、と言うこともあるでしょう。しかし、先に述べたように、今この時代でも、常識に反することがいくらでも起こっています。それよりも、福音書の記者たちが、旧約聖書の信仰を受け継いで、旧約聖書で語られている出来事を信じていましたから、旧約聖書で語られていることをイエス様の出来事に「あてはめて」語っていると考えるのです。このことが、出来事が本当だとは言えない最も大きな理由なのです。その旧約聖書の背後には、先に述べたとおり、古代エジプトやバビロニア、あるいはギリシア・ローマの神話や伝承があります。
 現在分かっている範囲では、人類が猿から別れたのはおよそ400万年前だとされています。どんなに遅くとも、15万年前頃から、人類は道具を使うだけでなく、死者を葬り、これに花を供えるという宗教心を抱くようになりました。この宗教心は、古代の宗教の霊性を形成して、霊的な「知恵/智慧」として、現代にまで受け継がれてきています。ですから、人類の宗教や神話や伝承全体が、わたしたちが今手にしている聖書の背後にあると言ってもいいのです。イスラエルの宗教を通して、人類は「契約」とこれを守る「正義」と「言葉による見えない神」を知るようになりました。さらに、亡国と捕囚の体験を通して、イスラエルは、神が、国家や王権や武力による力を超える存在であることを知ったのです。捕囚以後のイスラエルの宗教は、律法と祭儀と民族的な選民思想に基づくものでした。
 こういう旧約聖書の記事を信じている人たちの証言が、はたして真実かどうか? こういう問題に突き当たるのです。福音書の記者たちだけではなく、イエス様と同時代の人たち、なによりも、イエス様ご自身が、旧約聖書を信じておられました。 旧約聖書が語り伝える出来事が、これを信じた人たちにほんとうに現実するのでしょうか? いったい過去に語られた言葉が、後の時代でも本当に働いて、過去の出来事が再現するものでしょうか? さあ、これは、現代の学問的なレベルでは解決できない問題です。例えばユングという心理学者は、過去からの神話や伝承でも、現実に働く力となって現在によみがえることがあることを証明しようとしました。人間が見る幻や夢には、自分個人を超えたものが現われることがあるからです。だから聖書の御言葉は、現実に今もなお働くのか? 御言葉へのこの信仰です、これが鍵です。
 新約時代になりますと、人類は、イエス様の到来によって、神様というのは、律法や祭儀や選民思想ではなく、全世界に共通する霊的な働きを与える方であることを学んだのです。現在では、神から与えられる霊性は、教会や宗団のような組織によるのではなく、個人の人格に基づく霊性と他の宗教への寛容という霊的な知性を具えたものでなければならない。こういう信仰へ脱皮することが求められています。
 新約聖書には、イエス様が手を置かれて悪霊に苦しむものを癒されたと聖書にあります。だから聖書に書いてあるとおりに、イエス様のみ名によって病人や悪霊に苦しむ人たちに手を置いて祈ると、「聖書の御言葉が働いて」病人が癒される。もしもこういう事が現在でも本当に起こるのなら、旧約聖書を信じた人たちの行なったこと、新約聖書を信じている人たちが現在行なっていること、これらの出来事の意味が大事な意義を帯びてきます。現在行なわれている「神癒伝道」、病気癒しの伝道です、これが持つ大事な意味がここにあります。

■御言葉の働き
  くどいと思われるのを覚悟の上で今お話ししていることをもう一度まとめてみましょう。
(1)文献批評では、この物語は、顕現物語であるから、イエス様の復活以後の教会が、これを創出したのであって、したがって実際の出来事ではないと見るのです。
(2)しかし、この記事は、「後の教会の創出」ではなく、この出来事はナザレのイエス様にさかのぼる伝承や資料から伝えられたのであって、これに顕現物語が重ねられていると理解されるようになってきました。しがたって、出来事が「イエス様に直接関わる資料」として信憑性がないという見方は否定されることになります。
(3)では資料として見た場合に、ここで語られる出来事は真正なのか? という問題になってきますが、歴史的にあるいは学問的には、現在の段階では、これ以上、出来事の信憑性を肯定することも否定することもできません。歴史的あるいは文献批評的な方法の限度と限界がここにあります。
(4)この出来事の真正性を問う場合に、もうひとつ問題があります。それは旧約聖書には、モーセやヨシュアやエリヤが、海の水を分けたり、川の水をせき止めたりした記事がでていることです。さらに詩編には、主なる神ヤハウェが、自然を支配し、その御言葉をもって自然を「叱る」とあります。共観福音書の記者たちは、こういう旧約聖書の言葉や預言を信じてイエス様の出来事を書いています。
(5)さらにこれを広げると、ギリシア・ローマの神話にも、古代バビロニアやエジプト、さらにアジアにも、カミや神々が自然を支配する神話や伝説が数多くあります。実は旧約聖書は、このようなギリシア・ローマの神話やオリエントの神話、インドのヒンズー神話や仏教神話、これらに比べると「最も新しい」のです。だから、旧約聖書には、古代オリエントの神話が、また新約聖書には、ギリシア・ローマの神話が影響を及ぼしていると考えられます。例えば水がぶどう酒に変わる話は、ギリシアのディオニューソス神話にもあり、日本の養老乃瀧伝説にもあります。処女懐胎は、古代エジプトやバビロニアにもあり、この場合、イチジクの実がそのモチーフになります。このように、世界的な神話とこれに影響された旧約聖書、これらが新約聖書の出来事を語る記事の背後にあるのです。
(6)こうなると出来事の信憑性や真正性は、歴史学の問題を超えて、神話学や宗教あるいは心霊現象の領域に属する問題になります。
(7)最後に問われるのは、聖書の御言葉は、現在もなお働くのか? という問題です。福音書で語られている癒しや悪霊追放が、現代でも信仰を通して働いて、現実に癒しや悪霊追放が起こるのか? という問題です。例えば昔わたしが通訳をしたオズボーンさんが、マルコ福音書2章の中風の人の癒しの記事を引用して語りますと、これを信じた人たちが、現実に中風から癒される。こういう出来事をどのように理解するのか? という問題です。
  こういう問題について、実際に神癒を見聞きした人たちの反応はいろいろです。
(A)そもそもその出来事は嘘である。実際は癒しが起こってはいない。こう「信じる」人たちがいます。彼らは、事実を見ようともしないし、見ても信じないでしょう。
(B)あるいは、起こったことは認めるけれども、それは聖書の言葉とは関係がない。なぜなら、過去に語られた言葉が、現在にも働くことなどありえない。こう「考える」人たちもいるでしょう。こういう人たちは、聖書が今もなお働く神の御言葉であることを「信じない」のです。あるいはそこに神の働きを「見る」ことができません。なぜなら「見ようとも」しないからです。
(C)これに対して、聖書の言葉は今もなお働く神の御言葉であるから、これを聞いて信じる人には、聖書の時代と同じ出来事が実現する。こう考え、こう信じる人たちがいます。
■この方は誰なのか?
  答えは常に新たな問いを呼びます。歴史学も文献批評もひとつの前提に立っています。それは、ナザレのイエス様は、歴史的なひとりの「人間」である、という前提です。この「当然の前提」に問いを投げかけているのが今回の聖書の記事なのです。「イエス様はいったい誰なのか?」これが今日の聖書の箇所の問いかけなのです。
 ナザレのイエス様に顕現する聖霊の働きを歴史的にあるいは学問的に解明し理解することは、現在の科学的、学問的なレベルではできません。例えば、このわたしが、どういう人間であり、どういう生き方をしたかをつぶさに調べて書き残しても、それは、わたしというひとりの「人間」の生き方を外面的に、あるいはその内面性を考察して、語り伝えることにはなるでしょう。しかし、このわたしを歴史的に文献的に時代背景的にいくら論じても、これによって、私の内に働いてくださるナザレのイエス様の御霊の働きを伝えることができますか? できないですよ。自分のことを言っているのだから、間違いありません。どんなにわたしを分析しても、ちょうどわたしの肉体を解剖してもその精神は見えてこないように、御霊の霊性は絶対に見えないのです。私市元宏という目の前の人間からはこぼれ落ちてしまう、そういう働きが御霊の御臨在です。人間、すなわち「肉」から「霊」は見えません。
  畏れ多いことを言わせていただくなら、もしもわたしが、皆さんと一緒に船に乗っていて、大嵐に出逢った時に、波風に「鎮まれ」と言ったら突然穏やかになった。皆さんはびっくりすると思うのです。たとえイエス様のみ名によって行なったとしても驚くと思います。ただ驚くだけでなく、「いったいこの人はどういう人だろう?」と気味が悪くなる。怖くなると思うのです。この場合、イエス・キリストのみ名が怖いのではないのです。復活のイエス様が行なったというのなら、皆さんはクリスチャンだから、「ああ、すばらしい!」こう言うだろうと思うのです。やっぱり神様は働いておられるとむしろ賛美し、感謝すると思うのです。でも、目の前の人間がこれを行なったら、「その人」を恐れて、気味が悪いと思うでしょうね。同じことが聖書で起こっているのです。弟子たちはイエス様を「怖がった」。こう聖書にあります。復活したキリストだから怖がったのではないのです。ナザレのイエスという「人間が」行なったから怖がったのです。これが、ここでの嵐の記事が証ししていることです。
  マルコは、弟子たちが怖くなったと書いています。わたしたちは、現代の学者たちの奇跡についての説明を聞いても驚きません。人間に理解できるように、いろいろ合理的に説明しますから、逆になるほどと納得します。だから弟子たちとわたしたちとは違っていますね。聖書はここで、わたしたちに向かって、何かもっと違ったことを伝えているのではないでしょうか? わたしたちが「驚くこと」を伝えているのではないでしょうか? もしもこれがほんとうなら「怖い」、あるいは「畏れ多い」、なにかそのような出来事を聖書は伝えているのではないでしょうか? そんな非科学的なことはありえないとわたしたちは思いこんでいますが、それはわたしたちが勝手に「非科学的だ」と思いこんでいるからにすぎないからではないでしょうか? ルカは、今回の記事の終わりに人びとに畏敬の念をもって言わせていますね。「不思議だ。驚いた!」と。これは英語の「ワンダフル」(不思議/すばらしい)に通じますよ。この世で起こることは「不思議だ、不思議だ、不思議だ。もうひとつ不思議」〔シェイクスピアの『大嵐』〕ですから。
 福音書の記者たちだけではありません。イエス様ご自身が聖書を信じておられました。先ほど言いましたように、イエス様の霊性は、旧約聖書に証しされて顕わされた霊性だからです。「聖書は実現しなければならない/必ず実現する」とイエス様は言われ、その通り行動され、その通りに成就しました。この方に接して、弟子たちは互いに「この人はいったい、だれだろう?」と言い合ったのです。彼らはイエス様を通じて行なわれる出来事を見て「恐れた/畏れた」のです。これがわたしの言う「十字架にかかり復活されたナザレのイエス様に働く霊性」の意味です。
 先に「メシアの秘密」ということをお話ししましたね。今回の所でも、弟子たちは、「まだ信仰がないのか?」とイエス様に叱られます。イエス様の内に創造の神ご自身が働いておられる。このイエス様の霊性を洞察する、あるいは霊察する。これが弟子たちにはできませんでした。イエス様の内に働く聖霊のお働きが、弟子たちを始め人間に「認知される」のは十字架と復活以後のことだからです。その時に初めて、弟子たちは、自分たちが誰に仕えていたのか、これが示されたのです。「いったい、この方はどなたなのだろう?」これが今回のキーワードです。
■比喩的な意味
   この話は、イエス様が嵐を鎮めたという自然現象を支配する出来事です。この上に立って、この出来事の比喩(隠喩)的な意味を探ることができます。海が創世記の初めの混沌を象徴するとか、この嵐は「人生の嵐」だとか、場合によっては、イエス様の伝道を妨げようとする「悪霊の働き」だとか、いろいろ比喩的な解釈が成り立ちます。しかし何よりも先に、先ずこの出来事が実際にあったこと、これが大事なんです。比喩的な解釈をわたしは決して否定しません。それどころか、御霊の働きは、こういうさまざまな「霊的な意味」を含んでいます。イエス様の御霊の働きは、本質的に霊的な意味をも帯びていますから。
 イエス様の一行が乗った船は10人くらいが適当ですから、わたしたちコイノニア会の交わりが入るくらいの大きさです。わたしたち一人一人もまた、自分の肉体という船に乗って、人生の波の上を漕いでいるわけです。わたしたちは「信仰の少ない人」です。でも、信仰が「少ない」人とは、少なくとも信仰を「求めている」人たちです。主様はこういう人たちをここで語られているように必ず救ってくださいます。
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