【注釈】
■マルコ4章
 ここに語られているのは、これまでの病人の癒しや悪霊追放とは異なって、イエスが自然を支配する出来事です。マルコは、ほかの船も同伴したこと、イエスが船尾で枕をして寝ていたこと、弟子たちのイエスへの切迫したやや荒っぽい語り口、イエスの叱り方、弟子たちの畏怖などを具体的に生き生きと描写しています。この出来事を目撃した証人からの伝承に基づいているからでしょう。さらにマルコは、イエスが弟子たちに「言う」、弟子たちが「連れて行く」、突風が「起こる」、イエスが「目を覚ます、そして言う」などの現在形を用いると同時に、イエスが船に「いた」、波が打ち寄せて「いた」、イエスは船尾に「いた」などの継続的な過去形を加え、さらにイエスが「叱った」、「命じた」、水が「一杯になった」、波が「静まった」、凪に「なった」など、その瞬間の過去を表わす動詞のアオリスト形も交えて描き出しています。
[35]【その日の夕方】4章1節では、イエスは、おそらくカファルナウムの近くの湖の岸で、群衆に囲まれて押されるので船の上から種蒔きのたとえやからし種のたとえを語っています。だからその同じ日の夕方のことです。マルコ2章1節や同3章7~9節を参照。
【向こう岸に】湖の北のカファルナウムからだと、「向こう岸」は、ガリラヤ湖の西のティベリアスかゲネサレト方面、あるいは東の異教に近い地方のどちらかになりますが、ここでは「東のほう」だと考えられています。ここから次の悪霊追放の場へとつながるからでしょう。「向こう岸」という言い方は、次の嵐の場面を考えると、かなり離れた場所を指していると見ていいでしょう。
【弟子たちに】4章10節から判断すると3章14節で選ばれた12弟子のことです。彼らは「ご自分の弟子たち」(4章34節)だからです。
[36]【群衆を後に残し】3章9節/4章1節の状況から判断すると、イエスは群衆を避けたとも考えられますが、群衆を残したのは、むしろ1章38節にあるように「ほかのところにも」福音を伝えるためです。「岸に立っている群衆を解散して」〔塚本訳〕という解釈もあります。
【舟に乗せたまま漕ぎ出した】この句は、4章2節から続いています。「乗せたまま」は、イエスがすでに船にいたことを意味しますが、この句はやや不自然な言い方になっていますので、ここを「(イエスを陸から船へと)連れ込んで」と読む解釈もあります。“They took him into the boat.”「漕ぎ出す」よりも「連れ込む」のほうが原語の動詞の意味に近いからでしょう。塚本訳にあるように、イエスは人びとを解散させてから船に乗ったのでしょうか。
【ほかの舟も】「船」は複数ですから、12弟子以外の弟子たちも同伴したのです。原文は「ほかの船々も彼(イエス)と一緒だった」です。「幾艘かほかの船もついていった」〔塚本訳〕。マルコの語り方は、イエスは先ず群衆から離れ、次いでついてきたほかの弟子たちの姿も消えて、それから嵐に悩む弟子たちとイエスだけを遺し、そしてイエスだけに焦点を絞るのです。
  1986年に、キブツ・ゲノサレのふたりの兄弟が、湖の畔の近くから泥に埋まった木造の船を発見しました。調査の結果、紀元40~120年のもので、イエスの頃にガリラヤで通常用いられているものと同一の型であることが分かりました。船の建造法が120年以降は全く異なる工程に変わったからです。この舟の長さは8.2メートル、幅2.3メートル、高さ1.2メートルで、復元された模型によると、船の船首と船尾の両方が板張りのデッキになっていて、そこで寝たり坐ったりすることができます。真ん中に帆柱が1本あり、二人ずつ両側で漕ぐオール4本が付いています。この船は、二人乗りの漁船ではなく、荷物の運搬や人の交通に用いられていて、作りも精巧でかなり高価だったようです。この大きさですと、10人くらいが適当で、イエスを加えて13人も乗れば、船は一杯になります。この船は現在、そのキブツが経営するゲノサレ・ホテルの近くにある「ガリラヤ人の博物館」に展示されています。
[37]【激しい突風】原文は「風のための激しい突風」です。ガリラヤ湖は比較的幅が狭く、南北にやや長いので、風が吹くと急に波が強くなります。これがガリラヤ湖の「横波」と呼ばれて、湖を東西に渡る場合には、もろに横波を受けて危険な状態になります。特に、北のヘルモン山脈からの風と南の熱い空気とがガリラヤ湖の上でぶつかり合う場合、あるいは西風が山地から吹き下ろすと、風の「吹き下ろし」あるいは「吹き上げ」状態になって、「つむじ風」が生じます。また風が吹き始めて、突然に止むことも多いようです。なお「激しい突風」は、ヨナ書1章4節を思わせますから、ここでイエスを預言者ヨナと比較する見方があります。ただし、嵐の海に沈められるヨナと嵐を鎮めるイエスとでは、正反対で対照的です。イエスは「ヨナにまさる方」なのです(マタイ12章40節/ルカ11章32節を参照)。
【波をかぶって】原文は「高波が船に叩きつけて」。「波が船に打ち込んできて」〔塚本訳〕。
【水浸し】原文は「(船が水で)一杯になる」。13名もの人が乗っていたために、船縁が喫水線に近かったからでしょうか。
[38]【艫の方で】船には船首と船尾の両方が、板張りのデッキになっていたから、その上でややからだを丸めて寝ることができました。
【枕】座布団のようなクッションのこと。なお「眠る」とあるのは、赤子のように「すやすや眠る」ことです。
【先生】原語は「ディダスカレ」です。マタイでは「主よ」とあり、ルカでは「師よ」(エピスタタ)とあって、マルコよりもていねいな言い方になっています。
【かまわないのですか】弟子たちのあわてた様子が、イエスへの呼びかけや、やや乱暴なこの言い方に表われています。弟子たちから見れば、イエスは自分たちのことなどお構いなしに寝ていると思えたのでしょう。マタイとルカは、この言い方を省いています。
【おぼれても】原語は「滅びる」です。「滅んでしまう」〔岩波訳〕。
[39]【起き上がって】原文は「すっかり目を覚ます」ことです。英訳も同様〔REB〕〔NRSV〕。必ずしも「立ち上がった」のではありません。
【風を叱り】旧約聖書には、主なる神が自然の力を支配し(ヨブ38章11節/詩編65篇8~9節/同89篇10節)、また自然に向かって「叱る」場合が出てきます(詩編18篇16節/同104篇7節/イザヤ50章2節など)。ここでは、イエスを通してこの主なる神ご自身が御言葉を発しておられるのです。なおマルコ1章25節にもイエスが悪霊を「叱る」出来事が語られていますから、この嵐の場面でも、波風を悪霊の働きと見なしてこれを叱っているという解釈があります。しかし、この出来事が証しするのは、先の病人の癒しや死人のよみがえりや悪霊追放とは異なって、神ご自身がイエスの言葉を通して自然の力さえ服従させることです。旧約聖書では、ノアの洪水に見られるように(創世記8章1~2節)、海や水が混沌と悪を象徴することが確かにあります(特に詩編107篇22~30節を参照)。しかし、この場合でも、海の波や水それ自体が悪霊的な働きを表わすとは言えません。なお旧約には、モーセやヨシュアやエリヤが、海や川の水を分けたりせき止めたりする記事が出ています(出エジプト14章14~15節/ヨシュア3章10~13節/列王記下2章8節)。マルコのここでの「波風」は、このような旧約の伝統的な解釈を背景にしていますが、これを「悪霊の働き」と見なしているかどうかは疑問があります。弟子たちの最後の言葉から判断すると、むしろ自然の力を支配するという驚きのほうが強いと言えます。
【静まれ】原語は、ちょうど犬のように口轡をはめられて口を閉ざすこと。「くちをつぐめ」〔岩波訳〕/「黙れ。静かにしないか!」〔塚本訳〕。
【風はやみ】原文は風が「疲れる/力が尽きる」こと。波風がやや擬人化されて生き物のように描かれています。
[40]【怖がる】原語は形容詞で「臆病な」「びくついた」の意味。
【まだ信じない】「信仰がまったくないのか。」〔岩波訳〕この出来事の前に、種蒔きのたとえによって、神の国のことが弟子たちに明かされていたはずなのに(4章33~34節)、というイエスの思いがこの言い方に滲んでいるのでしょう。ただし、ここで言われている「信仰」とは、イエスにあって「神御自身が」働いていることを信じる信仰のことです。
 この出来事には、イエス・キリストの復活と顕現が重ねられていると言われています。文献批評では、こういう場合に、ここで語られている伝承や資料がポスト・イースター(イエスの復活信仰以後)に作られたと判断して、これを後の教会の「創出」だとする傾向があります。だからと言って、ここで語られている出来事が資料として信憑性がないと判断するのは歴史学者の文献批評を過信する独断です。最近の聖書学では、文献批評の学問的な限界をわきまえて、次のように判断する聖書学者も出るようになりました。「このような出来事は通常の歴史で扱える物事ではなく、通常の歴史的方法論で近づくことができないのは明白である。にもかかわらず、これらの出来事は起こるのである」〔ジョン・ノーランド『ルカ福音書』 Word Bibilical Commentary シリーズ 〕。こういう学問的な視点に立つ注釈者たちは、例えばジョン・ノーランドだけでなく、W・D・デイヴィスとD・C・アリスンMatthew 8~18. 62~65. International Critical Commentary.〕、フランソワ・ボヴォン〔Luke (1). 270 / 273. Hermeneia. 〕、イエス様の伝記を書いたE・P・サンダース〔The Historical Figure of Jesus. 162 / 165~67.〕なども、奇跡的な出来事をイエス様の生前の出来事と見なすか、少なくともそう見なすことが不可能ではないとする立場をとっています。なぜなら、ボヴォンの言うとおり、学問的には、出来事の真偽を肯定も否定もできないからです。
[41]非常に恐れて出来事の性質が、今までとは異なるある意味で「超自然的な」現象なので、弟子たちは単に畏敬の念を抱いただけでなく、恐れに満たされたのです。「すっかり怯えてしまって」〔塚本訳〕。マルコは一貫して、弟子たちが、イエスの語るたとえとイエスの行なう奇跡とを理解できないことを強く印象づけています。「いったい、この方はどなたなのだろう。」これがこの出来事を通じてマルコが読者に問いかけている最も大事な点です。共観福音書の記者たちは、この問いに対して、「あなたはメシア/キリストです」(マルコ9章20節)、あるいは「神のキリストです」(ルカ9章20節)、とペトロの告白を通して答えているのです。

■マタイ8章
  ここは、マタイ8章18節から続いています。これで分かるように、マタイは、一連の癒しと悪霊追放の記事の間に、弟子となる覚悟とこれに続く嵐の場面をつないで挟み込んでいます。マタイは、嵐の出来事を弟子たちへの試練と見ていますが、同時に、御言葉によって自然の働きをも支配する神ご自身の臨在の証しとしています。マタイの語り方は、マルコに比べると、イエスの言葉が自然を支配することを強調するよりも、むしろこの出来事によって、弟子となる覚悟が試されるほうに重点が置かれているように見えます。この出来事はヨナ書の内容と通じるところがあります。また、後に出てくるイエスが湖の上を歩く記事(マタイ14章22~33節)と共通するところが多いと指摘されています。
 マタイは、ルカと同様に、マルコを踏まえて書いていますが、マルコの記事をかなり縮めていて、動詞の時制もマルコの現在形に比べてアオリスト(過去形)を多く用いています。タイとマルコ/ルカとの大きな違いは、イエスが、嵐を鎮める前に、弟子たちに向かって信仰の欠如を戒めていることです。全体としてマタイは、この出来事を現在のマタイの教会への語りかけとしているのです。
[23]【乗り込まれる】マルコ福音書では、弟子たちがイエスを船で「連れて行く」のですが、マタイ福音書ではイエスが先に船に乗って、弟子たちはこれに従うのです。マルコの動詞の意味がやや曖昧な点を(船に受け容れる?/船に連れ込む?/船で連れて行く?)マタイはイエスが「船に乗り込む」とはっきりさせています。なおマタイは、マルコの「ほかの数艘の船も共に行った」を省いています。さらに、マルコにはない「弟子たち」と「従った」を加えています。
[24]【そのとき】原語は「見よ!」で、マタイがよく用いる言い方です。
【嵐】原語は「大揺れ/地震/海の大荒れ」のこと。マルコの「つむじ風による嵐」とは違う語です。マタイの教会は、迫害という「終末的な大揺れ/大地震」(マタイ24章7節)を感じていたのでしょうか。なお船と荒波のたとえでは、知恵の書14章1節を参照。
【波にのまれそう】ここもマルコの用語とは異なって、原語(現在形)は「(船が波に)覆われる/隠される」です。ギリシアの古典世界では、「船」は「国家」の象徴です。しかしユダヤ教では、船が「イスラエル」を表わすことはありません。キリスト教では、「教会」が「船」にたとえられますが、この象徴はこの出来事から出たのでしょうか。
【眠っておられた】マルコにある「船尾で」「枕をして」が省かれています。宇宙のあらゆる力を支配する主の御力を帯びた「復活のキリスト」と重なる姿です。
[25]【近寄って】マルコにはない動詞です。困難の時に信仰者(弟子たち)が向かうべき姿勢を示唆しています。
【助けてください】原語は「救う/救助する」の命令/祈願形です。マルコとは異なって、弟子たちはイエスに「主よ!」と呼びかけ、「救ってください」と祈り求めます。イエスに「近づいて救いを求める」というこの言い方は、礼拝の場で語られる用語で、マルコのように出来事をそのまま語るよりも、これをマタイの現在の教会の現状に適合させて比喩的に解釈しているのです。だから、マタイ福音書では、「わたしたちは滅びそうです」も、単に「溺れる」こと以上に霊的な意味を帯びています。なおマルコにある「わたしたちのことはかまわないのですか?」が省かれていますが、これが使徒たちの言葉としてふさわしくないと考えたのでしょう。
[26]【信仰の薄い者】この「信仰の薄い者たち/信仰の少ない人たち」の原語は1語で、普通のギリシア語にはない独特の言葉です。なお「叱った」「なぜ怖がるのか」「すっかり凪になった」など、この節はマルコの用語のままです。ただしマルコにあるイエスの呼びかけ、「黙れ。鎮まれ」が省かれています。自然の力を擬人化(あるいは悪霊化)した言い方を避けたのでしょう。マルコ/ルカと違って、ここでは、イエスが嵐を鎮める前に信仰の欠如を戒めています。これはおそらく、困難や試みの渦の中にいる教会の人たちへの励ましと戒めのためでしょう。とすれば、「信仰薄い者たち」は、弟子たちよりも集会の人たちに向けられていると言えそうです。
 マタイの語りは、イエスが船に乗る→弟子たちが従う→嵐が起こる→イエスが眠る→<弟子たちが呼び求める→イエスが答える>→イエスが風を叱る→嵐が治まる→弟子たちが驚く→イエスが船から降りる(8章28節)という構成になっています。これで見ると、弟子たちが求めてイエスが答えるところを中心に、出来事が対称形に配列されているのが分かります。マタイとマルコ/ルカとの違いは、こういう構成上から来ているのかもしれません。
[27]【人びとは】マルコと違って驚くのは弟子たちではなく、「人びと/人間たち」のほうです。この「人びと」は、後で弟子たちからこの出来事を聞いて驚いたのでしょうか? マルコに出ている「ほかの船に乗っていた人たち」が驚いたのでしょうか? それとも、「人間」として神ご自身の御業に恐れを抱いたのでしょうか? マタイがマルコにある「ほかの数隻の船」を省いたのは、12弟子以外の「ほかの弟子たち」や人びとをここで登場させるためかもしれません。
【驚いて】マルコの「ひじょうに恐れて/怯えて」よりも抑えた言い方です。マタイ7章28節には、イエスの話し方を聞いて人びとは「びっくり仰天した」とありますから、この言い方に比べてもここでのマタイの抑えた用語が注意を惹きます。マタイは、自然現象をことさらに「悪霊化」したり、超自然な出来事として強調するのを避けているのかもしれません。
【どういう方】マルコとルカでは、弟子たちが「(いったい)だれなのか?」と驚嘆や恐れ/畏怖を表わしますが、マタイは、「どういう方か?」と教理的に問いかけています。マタイの教会では、このような形で、教理問答が行なわれていたのでしょうか。この問いは、イエスのうちに神ご自身が働いていること、イエスこそ聖書の証しする「神の御子」であるという答えを聴衆/読者から引き出すためでしょう。

■ルカ8章
 マルコは、4章35節から5章43節までに、嵐を鎮める出来事と悪霊追放とヤイロの娘のよみがえりを語っています。ルカもここ8章22節から同56節までで、全く同じ構成で出来事を配置しています。さらにマルコもルカも、これらの出来事の後で、12名の弟子たちの派遣が語られています。ルカがマルコを踏まえて書いていることが分かります。しかし、マルコ福音書では「その日の夕方」と出来事が時間的に持続していますが、ルカ福音書では、「ある日のこと・・・・・」とあって、それまでの出来事とのつながりがありません。このためルカは、船のことも弟子たちのことも新たに設定しなければならなかったのです。またルカは、マタイと同じように、マルコの記事の細部を省いていて、ルカ8章24節の前半はマタイの用語と一致しています。しかし二人のつながりを確認することができませんので、マタイとルカとの共通性は、おそらく共観福音書に先立つ伝承(口伝による?)から来ていると思われます〔フランソワ・ボヴォン〕。 
[22]【ある日のこと】ルカが出来事を新たに始める際の言い方です(ルカ5章17節/同20章1節)。
【弟子たちと】原文は「イエスは船に乗った、弟子たちも一緒に」とあって、マタイと同じように、イエスが先に船に乗り込みます。ルカ8章1~13節では、イエスの一行は12弟子だけでなく、婦人たちもいたはずです。1艘の船ではこれだけの人数を収容できないと思われますから、マルコと同様に、ほかの船も一緒だったのでしょうか。12弟子だけが同伴したという説もあります。
【向こう岸】ルカによればイエスは、7章1節でカファルナウへ戻り、そこから南下してサマリアとガリラヤとの境に近いナインへ行き(7章11節)、さらに町々村々を巡回して来ました(8章1節)。ここで「湖の反対側へ横切ろう」(原文)というのは、おそらくティベリアスかゲノサレトから、湖の東側へ渡ることでしょう。
【船出した】原語は「帆を上げて船出する」。これはルカだけに出ている航海用語です。
[23]【渡って行くうちに】原語は「航海する」の現在分詞。ルカは、この出来事を弟子たちの視点から見ているという解釈があります。不安定な水の上を航海する信仰者の旅を弟子たちの姿に重ねているのでしょうか。
【眠ってしまう】原語は「眠り込む」。マルコやマタイと異なる語です。しかもイエスは嵐が来る以前に眠ってしまいます。この嵐の出来事には、復活以後のイエス・キリストの顕現体験が重ねられていると言われています。とすれば、ここでのイエスの「眠り込み」は、神の安らかさではなく、逆に「神の不在」を意味することになりましょう。イスラエルの神が「目覚める」あるいは「眠る」ことについては詩編35篇23節/44篇23節/59篇5~6節を参照。この段階では、弟子たちから見れば、イエスを通して働かれる神は「存在すれども臨在せず」の状態です。
【水をかぶり】原語は「一杯になる/水浸しになる」ですが、主語は船ではなく「彼ら」です。ルカは、船よりも人間のほうに目を向けています。「突風が湖に」はマルコの注釈を参照。
【危なくなった】原語は危険状態に陥ることですから、ここには「人生の荒波」という比喩的な意味が込められています。
[24]【先生】原語の「エピスタテース」は、ルカだけの用語で、「先生」よりもより広い意味で「先導者/尊師」です。ここで求められているのは「教え/教訓」ではなく、実際の助け/救助なのです。呼びかけが繰り返されているのは、それだけ切迫した事態だからでしょう。
【風と荒波】「荒波」はルカだけです。マルコ福音書に比べるとルカ福音書は、イエスが波風を叱る様子が簡潔に語られていて、自然の力それ自体を擬人化して悪霊的とは見ていません。
[25]【信仰はどこに】英語の直訳では“Where your faith?”です。信仰が「どこへ行った」とも「どこにある」とも言わず、ただ「どこに?/どうなった?」とだけなのは、過去や現在ではなく、より広い意味で未来(終末)に目を向けているからでしょうか(ルカ18章8節を参照)〔フランソワ・ボヴォン〕。マルコに比べると叱責の度合いが少ないようです。
【恐れ驚いて】マルコでは非常に「恐れて怯える」ですが、ルカは「驚きと畏敬の念」を表わしています。「恐れ/畏れ」と「驚き」とが一つになるのは、ルカではここだけです。
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