69章 ガダラの悪霊憑き
マルコ5章1~20節/マタイ8章28~34節/ルカ8章26~39節

【聖句】
マルコ5章
1一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
2イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。
3この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。
4これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。
5彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。
6イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、
7大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」
8イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。
9そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。
10そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。
11ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。
12汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。
13イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。
14豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。
15彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。
16成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。
17そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。
18イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。
19イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」
20その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。

 
マタイ8章
 28イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。
29突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」
30はるかかなたで多くの豚の群れがえさをあさっていた。
31そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。
32イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。
33豚飼いたちは逃げ出し、町に行って、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。
34すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。

ルカ8章
26一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
27イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。
28イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」
29イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。
30イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。
31そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。
32ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。
33悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。
34この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。
35そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。
36成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。
37そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。
38悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。
39「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。

【注釈】
【講話】
個人と社会の悪霊
 悪霊追放については、もう何度もでてきましたから、詳しい説明はしません。今回の箇所が、四福音書の中で最も有名な悪霊追放の出来事です。「悪霊」という言葉は、なにやらおどろおどろしく聞こえますけれども、わたしはこの言葉を軽々しく使わないようにしています。「疑心暗鬼を生む」と言いますから、あまり悪霊にこだわると、逆に妙な事になるからです。
  人間の心は、情や嫉妬やにくしみなど、いろんな情念に動かされますが、人の情念それ自体のうちに、自然を逸脱する傾向が秘められているのを知る必要があります。親子関係、兄弟姉妹関係、友人関係、これらはどれも大事ですが、それでさえも、自然な情愛だというので、どこまでもこれにのめり込んでしまいますと、そこに、異常で不自然な状態が現われるという矛盾が潜んでいます。これが「自然」の怖さです。人間の情念や欲望は、これが高じてくると、それが異常な事態へと発展していって、「悪霊」と言われる現象へと引きずり込まれることがあるのです。
 特に現在のような「オタク」化が進んでいる世の中では、ちょっとしたことがきっかけで、孤独に追い込まれて、自分の世界に閉じこもって、妄想をふくらませ続けていくうちに、いつの間にか、あらぬ方向へ突っ走ってしまって、最後には人殺し、それも親殺し子殺しという、恐ろしい結果を招くことになります。まさに悪霊的としか言いようのない事態です。
 都市化現象に伴う心の内面的な働きから来る悪霊は、言わば個人的に働く場合です。同時に、世界的に見ますと、例えばエチオピアの飢餓状態、あるいはスーダンのダールフール地方の虐殺や難民、タンザニアのエイズの蔓延など、これらは社会的、経済的、政治的、軍事的に創り出された危機的な状態です。こういう状況のもとでも、これに伴う悪霊的な出来事が起こります。今回の悪霊は「レギオン」と言いますが、これはローマ軍団を暗示する言い方です。ユダヤの人たちにとって、ローマ軍団は悪霊軍団に見えたでしょうね。殺戮と奴隷確保と暴虐が当然のこととされた古代では、戦争それ自体が悪霊現象に近いです。こういう事態を「直す」とか「改良する」とか「向上させる」とか、言うのは易しいですが、そんなに簡単にできるものではありません。イエス様のように、一声かければ悪霊が追放されるというすごい事態がここに描かれていますが、ここには、個人を超えた社会的、あるいは宇宙的な視野の霊界が入り込んでいます。個人でも社会でも、人間的な自信過剰に陥って、うっかりこういう悪霊状態に手を出すと、とんでもないことになる可能性があります。
人格的な出会い
 この間、嵐の波風を鎮めたことが、奇跡か奇跡でないかが問題になりました。今回の箇所も、この悪霊追放が、奇跡か奇跡でないかが問題になります。しかし、前回の嵐の海では、イエス様の父からの御霊が、自然をコントロールする力として働いていますが、これに対して今回の箇所で大事なのは、イエス様との出会い、それも人格的な関わりを持つ出会いのことです。悪霊に憑かれていても、なおその人に具わる人格とイエス様の人格とが出会う。この出会いが今回の大事なところです。イエス様の悪霊追放は、ただの悪霊追放ではないのです。そこには、人格としてのイエス様との出会いがあるからです。イエス様の御霊に接する時に、今まで自分の知らなかった自分が、全く新しい自分が、見えてきます。現じてくるのです。ではその人は、その出会いでパット治るのか。そうではありません。主様の御霊によって新しく創り出された自分の姿を、ヤコブ書のことばを使うなら「鏡のように映して見ていく」のです(ヤコブ1章23節)。一歩一歩と、古い自分が脱ぎ捨てられて、新たな自分が発見されつつ、徐々に自己の人格的霊性が形成されていく、これが御霊の働きです。御霊の働きは、常に現在の働きでありながら、未来へと向かわせるのです。そこいは希望が生まれます。信仰と希望は裏表です。イエス様の愛が、こういうわたしたちの信仰と希望を支えてくださるのです。
■出来事の構成 

 だから、物語の展開が、8節の御言葉を境にして、はっきりと対照的な様相を見せ始めます。前半ではイエス様は「船から出られる」。後半ではイエス様は「船に乗りこまれる」。前半では男は人里離れた墓場に住んでいます。後半では身内と共に住むのです。彼は裸でいたのに、今は服を着ています。歩き回っていたのが、今はイエス様の前に座っています。悪霊は山、すなわち高いところにいたのに、今は豚とともに海の深いところへ落ちていくのです。先には狂っていたのに、今は正気です。イエス様とのかかわりを拒否したのに、今は一緒に行きたいと願います。彼は、死の領域から命の領域へ移されたのです。これがここで語られている人間の「人格的な転換」です。イエス様の人格に接した人の大事なこのコンタクトポイント、接点です。死から命へと切り替わる、悪霊から聖霊へと切り替わる、自殺から十字架の死へと切り替わる、呪いが祝福へと切り替わるのです。「悔い改める」というのはこういうことです。マルコの構成とその描写はすごいね。
至高の御霊
 ある姉妹が、夏期集会に来る時に、嵯峨野線に乗っていて、集会のために何かメモを書いていたそうです。すると、通路を隔てた反対側の座席に座っていた女の人が、突然彼女をにらみつけて、「あんたはわたしの悪口を書いているんでしょう!」と言ったそうです。このことを彼女から聞いた時に、わたしはこう答えました。彼女があなたを憎んだのではない。彼女のうちに働く霊が、あなたに働く聖霊を憎んだのです。先ずこのことをはっきりさせてくださいよ。であるのならば、あなたの内に働くみ霊は、絶対に、いいですか、絶対に、その悪しき霊に負けることがないのです。このガダラの出来事と同じです。イエス・キリストの霊は、いと高き神の霊です。神の御子の霊は、あらゆる力に打ち勝つ力を持っていますから、心配要りませんよ。こう言ったのです。
 こういう事態はもはや言葉の問題ではありません。文献批評の問題ではどうになりません。生きて働く聖霊による出来事が、起こるか起こらないかという問題です。だからもう、自分なんかにとらわれないで、イエス様の御霊の働くままです。十字架の知恵と力に頼りつつ、今日もたどらんイエスのみ跡です。次回は、死に打ち勝つイエス様の力、これは復活の力へつながりますが、これが証しされます。
                
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