【注釈】
■マルコ5章
マルコは、湖で突風を鎮める出来事とここでの悪霊追放と続く死人をよみがえらせる出来事によって、自然と悪霊と死を支配するイエスの権威/力を証ししています。悪霊追放は、弟子たちの手によるものをも含めると、マルコ福音書に7回でてきます(1章21節以下/同34節/3章11節/同22節以下/6章7節以下/7章24節/9章14節以下)。これは悪霊追放が、イエスの働きとして、原初キリスト教会においてもいかに重視されていたのかを示すものです。今回語られている悪霊追放の出来事は、新約聖書全体の中でも最も詳しい記事として、その特徴が描き出されています(コイノニア会ホームページの著作欄にある『聖霊に導かれて聖書を読む』第5章「マルコのしたこと」は、この出来事を扱っていますので参照してください)。
[1]【ゲラサ人の地方】異本には「ガダラの人」あるいは「ゲルゲサの人」ともあります。「ゲラサ」はガリラヤ湖から南東に100キロ以上も離れた山地にありますから、ここの記事には不適切です。マルコは、湖の東に広がるゲラサを含むデカポリス地方一帯を「ゲラサの人の地」と考えたのでしょうか(7章31節参照)。これに対してガダラは、湖の東岸の中程にあるエン・ゲブに近い東にあり、その近くの丘の麓が湖の沿岸近くまで伸びていますから、ここで語られる出来事に適しています。ただし、エン・ゲブの少し北に行った沿岸にゲルゲサ(現在のエル・クルスィ)があり、ここには沿岸に迫る崖があります。このため、オリゲネスやエウセビウスなどを含めて、古来、ゲルゲサが、この出来事の場所とされています。いずれにせよ、ガリラヤ湖の東岸地帯は、ユダヤの人たちから見て、異邦人の地であり、追放された人たちや「汚れた」人たちの住む場所と見なされていたようです。
[2]【すぐに】「すぐに」は、マルコが話の始めによく用いる言い方で、悪霊が早足でやって来たという意味ではなく、イエスが船から上がる時と「ほとんど同時に」の意味です。悪霊は、聖霊の働きを「嗅ぎつけた」のでしょうか。
【汚れた霊】これについては、先の「カファルナウムの悪霊追放」の注釈で、マルコ1章23節の「汚れた霊」とルカ4章33節の「汚れた悪霊」の項を参照してください。ただし、今回の箇所の悪霊は、9節に見るように「大勢」いるのが特徴です。マルコは16章9節でも「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラのマリア」(ルカ8章2節も同じ)と述べていますが、今回は、2000匹の豚に入るほどの数がいます。現代でも、オーラル・ロバーツの『第四の人』には、複数の悪霊に憑かれた女性が、強い力を発揮したり、御霊に反抗したりしますが、イエスのみ名によるロバーツの祈りで追い出されたことが語られています。悪霊憑きが、イエスのほうへ「やって来た」とある原語は「出迎える」ことですが(「イエスを迎えた」〔塚本訳〕)、悪霊がイエスを「出迎える」のはおかしいので、これは、イエスの聖霊の働きと強力な悪霊とが敵対して闘う姿を表わしているのでしょう(日本語でも「敵を迎える」と言います)。通常の世界では考えられない人間の力を超えた霊的な戦いがこの世に存在していることをうかがわせています。
【墓場】墓場は古来、汚れた場所と見なされました(イザヤ65章4節)。墓は通常、崖の洞窟や岩場に掘られていました。死体はそこに骨だけになるまで置かれてから、骨を収める小型の蔵骨器に入れて保存されましたが、上層階級の人たちの場合は、遺骸をそのまま長い石棺に入れて保存しました。貧しい人たちの骨は、家族やその一族ごとにまとめて葬られたようです。
[3]【鎖を用いてさえ】悪霊は時には通常の人間以上の力を発揮することが、ロバーツの『第四の人』にもでています。だから、このような悪霊に出逢う場合は、よほどの祈りと御霊の力がない限り、軽々しく近づいては危険です。
[4]【縛っておく】「縛る」という言い方は悪霊や重い病気の場合によく用いられます(ルカ13章16節)。ここでは悪霊が「縛られない」ことを指していますが、これは逆に、その人が、それだけ強く悪霊どもに「縛られている」ことをも意味します。ここで語られる「悪霊」は、通常の意味ではなく、旧約聖書にでてくる悪霊に捧げられた犠牲の山羊を指す「アザゼル」と関係していると思われます(レビ記16章26節)。「荒れ野に追いやられる」「岩の切り立った場所」などが、アザゼルを思わせるからです。だとすると、人間社会の罪を背負わされて悪霊への犠牲にされた人をイエス・キリストが贖い出すという関係が、この出来事から見えてきます。
[5]【自分を打ちたたいて】自分の体を傷つけたり大声で叫ぶのは、その人が、人格的に破壊されているために、自分に対して敵意を抱いているからです。自殺もこれに類しています。自分を超えた悪の力がその人を攻撃していることをうかがわせます。ここでは、人間の人格の育成と破壊をめぐって、キリストと悪霊との闘いが行なわれているのです。
[6]【ひれ伏し】これは言うまでもなく、通常の礼拝の意味ではありません。3章11節にあるように、悪霊はイエスの力を知っていたのです。聖霊の働くところに悪の力が反応することは、霊的なクリスチャンがしばしば体験することです。悪の力はこの場合、イエスの御霊の力に勝てないことを知って、憎しみだけでなく「恐れ」を抱いているのです。
[7]【後生だから】原文は「神にかけてあなたに頼む/命じる」です。これは悪霊を追放する者が用いる言い方ですから不思議です(使徒19章13節を参照)。ここでは逆に追放される悪霊がイエスに願っているからです。相手の名前/称号を呼ぶことは、相手を支配しようとすることを意図しますから、悪霊は、イエスが語るその前に、イエスの機先を制するつもりで、このように言ったのかもしれません。自分よりも強い力を感じたからでしょう。「苦しめる」は、縛って拷問することで、終末の裁きの時の断罪をも思わせます。
【いと高き神の子イエス】マルコ3章11節でも同じような呼びかけがなされていますが、そこでは「いと高き」がありません。ここでは、イエスに対する最高の称号が語られています。マルコ福音書では、イエスが「いと高き神の子」であることは、言わば隠された秘密で、弟子たちを含めて人びとは、イエスの在世中に、このことを覚ることができませんでした。ところがイエスに働いている霊性の本質を見破ったのは、神の働きを最も恐れている、しかも人間からは最も恐れられている悪霊どもだったのです。人間の力を超える霊力が、善悪どちらの側からも人間の人格的な存在に働きかけている様子がここに顕われています。なお「かまないでくれ」の原文は「あなたとわたしとなんの関係があるのか」という意味です(七十人訳から)。
[8]この節は続く節と内容的にうまく合っていません。名前を尋ねてからその悪霊を追い出すほうが、順序として自然だからです。だから、8節を10節の後に置くほうがいいという説もあります。ここはマルコ自身の挿入だと言われるのはこのためです。しかしながら、マルコは大事な意図を秘めて8節をここに置いていると見ることができます。なぜなら、8節は、この物語全体の中で最も重要な位置と内容を含んでいるからです。悪霊追放の物語には、どの場合にも必ず、「悪霊よ、出て行け」という命令がきます。この命令は、その物語の最も決定的な瞬間に発せられます。言うまでもなく、説教者や伝道者が命じるのは、自分の権威や力によるのではありませんから、必ず「イエスのみ名」によらなければなりません。しかし、ここでは、イエスが直接に命令しています。しかもそれは、きわめて緊迫した状況の下で発せられる最小限の「ことば」です。悪霊に有無を言わせずに命じるこのような衝撃は、ここでのマルコの破格のスタイルにはっきりと意識されています。その前後の文脈を無視したスタイルは、まるでマルコが、目の前に悪霊を見ながらこれに命じているとさえ思わせます。この直後、9節で、「私の名は」と「私たちは大勢」のように悪霊が単数から複数へと分裂します。このことは、今までその男と一体になっていた悪霊が、ここでその男の人格から分離して、悪霊それ自体がその姿を顕わし始めたことを示すのです。8節は、この意味で、前後の文脈を破るような衝撃的な効果をだしているのです。
[9]【名はレギオン。大勢だから】神話や伝説などでは、本名を知られると、その知られた相手に支配されると考えられていました。ここで悪霊は、イエスに尋ねられて、本名を口にせざるをえなかったのでしょう。直訳すると「わたし(単数)の名前はレギオン、わたしたちは(複数)大勢だから」となります。ここの単数と複数は、その人の人格を支配している霊力とその霊力が内部で分裂し始めている様子を表わしています。「レギオン」は、通常ローマ軍団の構成単位で、10人10列の100人を最小単位として、6000人規模の軍団です。マルコ福音書が書かれたのはユダヤ戦争の最後の頃なので(70年のエルサレム陥落の直前か?)、ここで、マルコは、ローマ帝国の軍隊を悪霊に見たてているという説もあります(68年にルキウス・アニウスの率いるローマ軍が、ガリラヤ湖の東に逃れたユダヤ武装勢力を追って、ガダラを占拠し、さらに東北のガマラまで侵攻しました)。たとえそうだとしても、これは副次的な「ほのめかし」で、悪霊追放の出来事全体が、ローマ軍との闘いを表わしているという意味ではありません。豚の数が2000匹とあるのは、悪霊の数が「大勢」だと言うことで、必ずしもローマ軍団の数に合わせたわけではありませんが、ユダヤ戦争当時、ローマ軍は「豚」と呼ばれていました。
[10]【この地方から】悪霊は自分の住んでいる特定の地域から追い出されると力を失うのでしょうか(マタイ12章43〜45節参照)。ルカはここで、「底なしの淵へ」(8章31節)と悪霊どもに言わせていますが、このほうが適切だと思われます(ヨハネ黙示録20章1〜3節参照)。イエスの到来によって、終末の事態が、すでにこの現実世界で開始されているのです。
[11]【豚の大群】ユダヤ人にとって、豚が「汚れた」動物に入ることはレビ記11章7節から来ていると思われます。そこに「いのしし」〔新共同訳〕とあるのは豚も含まれます(イザヤ65章4節/マタイ7章6節参照)。2000匹というのは異常な数で、これは食用に飼われていたものです。後で、この地方の人がイエスに立ち去るように願ったのは、イエスの霊的な力を恐れただけでなく、豚を飼うことができなくなると思ったからかもしれません。なお「山」とあるのは、丘陵地帯のことで、丘と丘との間には平地もあります。ここには、汚れた異教の地、汚れた豚、汚れた悪霊というユダヤ人のイメージが反映しています。
[13]【おぼれ死んだ】悪霊は人間を苦しめてその人の人格をも命をも破壊するように働きかけます。その悪霊の力が、そのまま動物へも転移したのです。豚は必ずしも水に溺れる動物ではありませんが、ここでは悪霊の働きを指しています。「崖を降って海へ」とありますが、エン・ゲブ周辺の丘は、切り立った崖ではなく、すそ野がややなだらかに湖のほうへ伸びています。
[14]悪霊追放の後で、癒された人と彼を知る人びとの状態がこのように描かれるのは、共観福音書では珍しいことです。マルコはよほどこの事が印象に残ったのでしょう。ちなみに筆者は、マルコ自身、ここと同じような悪霊追放の現場を見ているだけでなく、彼自身も悪霊追放の体験があるのではと思っています。彼の悪霊追放の描写はそれほど正確だからです。「町や村」とあるのは、その近辺一帯から人びとが集まってきたことを指します。その悪霊憑きは、人びとの間に広く知られていたからでしょう。
[15]【服を着、正気になって】「服を着る」と「正気になる」は、先に「自分の体を石で傷つける」ことと「悪霊に憑かれている」ことと対照されています。「坐っている」も先の「大声でわめき、縛っておくことができないほど暴れた」ことと正反対の状態です。その人ほんらいの人格が取り戻されたのです。けれども、人びとのほうは、この状態を見て、かえってイエスに恐怖を抱く結果になりました。ここでは、ユダヤやガリラヤの場合と違って、イエスがユダヤ人であることも、恐れの原因の一つかもしれません。
[16]目撃した人たち(豚を飼っていた人たち)は、悪霊憑きのことと豚のこととを一部始終を詳しく語ったのです。
[17] 【言い出した】人びとはイエスに出て行くように「願った」のでしょうか? それとも、これ以上この土地にいないほうがいいとイエスに立ち去るように「勧めた」のでしょうか? どちらにせよ、イエスは彼らの言うことを受け容れました。イエスの一行は、宣教のためにここへ来たのですが、思わぬ出来事でガリラヤへ引き返すことになったようです。
[18]【一緒に行きたい】これはイエスの「弟子になりたい」という意味でしょう。
[19]【自分の家に】先の「イエスに従う」のところで見たように、弟子になりたいと「志願する」者、イエスのほうから「召命する」者といろいろな場合があったようですが、ここでは、その人の志願を「許さなかった」のです。これは彼が異邦人だからだという見方もありますが、むしろ、イエスは、彼が自分ほんらいの居場所へ戻ること、すなわち彼の「社会復帰」を意図したからです。イエスはこのように人を社会から「呼び出す」場合と同時に人を社会へと「呼び戻す」場合とがあります。
【主が】ここではイエスのことではなく、天地の造り主である「主なる神」のことです。「イエスは主である」(ローマ10章9節)という信仰は、復活以後のキリスト教会で生まれたものですから、マルコの読者たちは、あるいは「主」が、イエスを指すと理解/誤解したかもしれません。この点の誤解を避けるために、ルカは「神が」と言い換えています。ただし、ガリラヤ湖(あるいはヨルダン川)の東方を「異教の地」と見るのは、ユダヤ人たちの見方であって、現実は必ずしもそうではありませんでした。そこではアラム語も理解され、ユダヤ人たちも住んでいました。なによりも、「神」は、旧約聖書の「主なる神」をも含めて、より一般的な名称で「至高の神」「いと高き神」などと呼ばれたのです。だからパウロも回心以後に、第一にこの地を伝道することを選んだのです(ガラテヤ1章17節)。
[20]【言い広め】これは「宣教する」と同じ原語です。イエスはやむなく引き返しましたが、この人が、イエスの代わりに人びとに「神の業」を伝えたのです。
【デカポリス地方】「方々から来た病人を癒す」の章のマルコ3章8節の注釈「ヨルダン川の向こう側」を参照してください。
■マタイ8章
マタイはここでもマルコの記事を大幅に縮小しています。同時に、マタイは、マルコと異なって、悪霊どものイエスへの願いを話の中心に据えています。イエスのキリストとしての力の意味を表わすためでしょう。一緒に来たはずの弟子たちの姿は、マルコにもマタイにも見えていません。
[28]【二人】マタイは、マルコやルカと違って、悪霊憑きを二人にしています。このような複数人物の登場は、マタイの特徴です(9章27節/20章30節/21章7節/26章60節)。モーセ律法では、証人は必ず二人以上でなければならないとあるからでしょうか(申命記19章15節)。またマタイの悪霊憑きの描き方は、マルコとは異なって、「非常に凶暴」で「その辺りを誰も通れない」とあって、社会への脅威的な存在と見ています。だから、マルコのように、悪霊憑きの状態に読者の関心と同情を誘うことはありません。
[29]【突然】原文は「見よ」でマタイ独特の言い方ですが、この言い方が3回繰り返されています。29節では悪霊憑きがイエスの「正体」を告げます。32節では、悪霊どもが豚に入り込みます。34節では、町の人たちがでてきてイエスに出て行くよう求めます。このように、マタイは、話の要点をこの言葉で区切って読者/聴衆に印象づけるのです。
【神の子】悪霊憑きは、イエスの人間性ではなく、イエスに宿る神の霊性を見抜いているのです。特にここでの「神の子」には、悪霊の働く世界へ入り込んできたイエス・キリストにある「神の聖霊の働き」という霊界的で終末的な意味が込められています。イエスはすでに地上で神の国を「実現している」のですが、同時にその実現がまだ完成してはいないことを意味します。
【まだ、その時ではない】悪霊は「追放」されますが、どこへ行ったのかは告げられません。イエスの到来は、悪霊の敗北の始まりであり、神の国の到来を意味する終末的な出来事を意味します。しかし、最終的な神の裁きは(マタイ25章41節)、まだ悪霊たちに臨んではいないのです。「苦しめる」もここでは、最後の裁きで、厳しく詰問するという法廷的な意味を帯びていますから、「まだその時でないのに」どうして「苦しめるのか」と悪霊どもが逆らっているのです。このために、マルコと違ってマタイでは悪霊どもがイエスに「問いかけて」います。
[30]【はるかかなたで】豚を飼う人たちは、二人の悪霊に近づくことができなかったからでしょう。マタイは、ガダラが湖からかなり離れていることを知っていたのでしょうか。また、豚の群れは、餌を与えられていたのでしょうか、それとも草などを食べていたのでしょうか。
[31]【悪霊ども】マタイは終始「悪霊ども」と複数で描き、しかもマルコとは異なって、語っているのがその人たちではなく、悪霊自身であることをはっきりさせています。マルコは「汚れた霊」という言い方をしていますが、マタイは「霊ども」(これが原語です)と呼んでいます。この「霊ども」が注目されるのは、これが、古代の神々、半神、死者の魂など広い範囲の霊的な存在を指すからです。「霊ども」は、イエスを「神の子」と呼んでいますから、これらの「霊ども」は、イエスが超自然的だけではなく宇宙的な支配権を与えられていることを知っているのかもしれません。なお「もし追い出すのなら・・・・・」という言い方は、悪霊どもがイエスの権威に服従させられることを知っているからです。「やってくれ」は「遣わす」ことですから、霊どもは一つの体から抜け出しても、別の体に入り込む可能性があることをほのめかしているのでしょう。
[32]【行け】原語は「出て行け」です。マタイのイエスは一言だけで命令します(マタイ8章8節参照)。
【水の中で死んだ】「死んだ」のは豚のほうで悪霊どもではありません。悪霊は「水のないところをさまよった」とありますから(マタイ12章43節)、彼らは乾いたところを好むのではなく、水のほうを好むという意味でしょう。「水/海」は、古来、混沌と無秩序を象徴しますから、悪霊は、もとの場所へと戻されたのでしょう(したがって陸地には秩序と平和が回復されます)。
[33]【豚飼いたち】おそらく豚飼いたちは、先ず豚の飼い主にこの出来事を知らせたと思われますが、豚のことよりも悪霊に憑かれた者たちのほうに注目しているようです。
[34]【出て行って】なぜ人びとがイエスに出て行くように願ったのか? マタイはその理由を述べていません(マルコは人びとが「恐れた」と述べています)。また、ここには癒された人たちのことは全く語られません。マタイはイエスだけに集中しているのです。しかし、ここで人びとが「やって来た」のは、初めに悪霊憑きたちが「やって来た」のと対応していると思われますから、イエスの癒しの業は、悪霊どもの敵意で始まり、町の人たちの敵意で終わるのです。
■ルカ8章
マタイはマルコの記事を圧縮していますが、ルカは、マルコの言葉遣いや語りの構成をよりなめらかに書き換えています。ルカは、マルコやマタイほどには、「異教の地」というユダヤ人の見方にこだわっていません。彼は、神の子イエスによる悪魔からの救いの出来事として全体を描いているのです。
[26]マルコの「行った/来た」を「(水路で)旅する」と言い換え、「向こう岸」を「反対側の岸」と変えて、分かりやすくしています。
[27]ルカは、「この町の者」「長い間」を入れて、男が癒された後の記事と内容が合うようにしています。「男」もルカがよく用いる言い方です。「悪霊」は複数ですが、マルコの「汚れた霊にある」“in unclean spirit”をルカは「(悪)霊どもを持っている」“having demons”として、最初から男と霊どもとを分けて見ています。だから「汚れている」と言うよりも「狂っている」の意味に近いでしょう。「衣服を身につけない」も「家に住まない」も後の記事と合致させるためでしょう。
[28]【わめきながらひれ伏し】マルコの「ひれ伏す」は「礼拝する」の意味も含んでいますので、ルカは「平身低頭する」という意味に変えています。ルカの「霊ども」は、最初から完全にイエスに服従しているのです。また、マルコの「大声で叫ぶ」(二重の意味)をルカは「大声で言う」に変えています。「頼むから」は、マルコの「神にかけてあなたに願う/命じる」という言い方から「お願いします」と分かりやすくしています。
[29]「汚れた霊」はマルコのままの単数です。「命じられた」とあるように、マルコの「出て行け」というイエスの直接話法をルカは間接話法に変えています。また、悪霊がその男を「捉える」というマルコにはない言い方をしてから、彼を「荒れ野へ駆り立てる」とあって、汚れた霊が、その男を突き動かしていることを分からせようとしています。ルカは男と霊どもとを区別しているのです。悪霊と荒れ野との関係は、マルコ5章4節を参照してください。ただし、ルカは、その男が暴れる様子を悪霊とイエスとの対話の後に回しています。
[30]【たくさんの悪霊】原文は「たくさんの霊ども」です。ここも、直接悪霊がイエスに答えるのではなく、間接的な表現にとどめています。ルカの「レギオン」(単数)には、ローマ軍の部隊と軍団が隊列を組むと、あたかものひとつのように見えることを思わせます。
[33]マタイもルカもマルコの「2000匹」を省略しています。
[31]【底なしの淵】ユダヤ黙示文学では、この言葉は、悪霊どもや悪人どもの「神の敵」が、終末の断罪を受けるまで待つ場所です。だからここで、悪霊どもは、なんとか罰を逃れたいと懇願しているのです。ルカの記事ではこのように、イエスと悪霊との間の「闘い」ではなく、むしろ悪霊が罰を免れるために「取引」を望んでいるのです。
[34]【この出来事】ルカはこの言葉を34節と35節で繰り返しています。イエスによって実際に起こった出来事であることをはっきりさせるためです。
[36]【救われた次第】マルコの「起こったこと」の代わりに、ルカでは「救われたこと」とあります。「救う」のほんらいの意味は、病気や悪霊や危難から救助することですが、言うまでもなくここでは、イエス・キリストへの信仰によって、その人全体が「救われる」ことをも指しています。しかし、マルコの言う「起こったこと」は、現実の出来事を指していますから、ここでのルカの「救われる」も、将来において終末の救いに与るという意味だけでなく、現在その救いが現実することを意味しています。ルカは救済史的な視点から描くと言われていますが、ここでは、神の救いが現在のことであることをもはっきりさせています(ルカ17章21節/使徒2章47節)。特にこの悪霊追放の出来事それ自体が、神の支配(国)が地上に現実していることを証ししているからでしょう。
[39]【神】マルコの「主」をルカは「神」に変えて、主イエスとの混同を避けるよう配慮しています。