70章 長血の女とヤイロの娘
マルコ5章21〜43節/マタイ9章18〜26節/ルカ8章40〜56節
【聖句】

マルコ5章
21イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
22会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、
23しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」
24そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
25さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。
26多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。
27イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。
28「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。
29すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
30イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
31そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」
32しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。
33女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。
34イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
35イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
36イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。
37そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。
38一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、
39家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
40人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。
41そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。
42少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。
43イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

マタイ9章 
18イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」
19 そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。
20 すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。
21「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。
22イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。
23イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、
24言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。
25群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。
26このうわさはその地方一帯に広まった。

ルカ8章
40イエスが帰ってこられると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。
41そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。
42十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。
43ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。
44この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。
45イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。
46しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。
47女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。
48イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
49イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。
「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」
50イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」
51イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。
52人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」
53人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。
54イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。
55すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。
イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。
56娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。

【注釈】

【講話】
■浄と不浄
 9月6日(2007年)の『朝日新聞』に、「穢れ意識の歴史的研究」と題して、石川県立歴史博物館長の脇田晴子さんが寄稿しておられます。それによると、相撲やお寺などの女人禁制の起源は、ある程度文明が進む中で、死者や出産・生理の出血から病気が伝染すると信じられたために、死者は黒不浄、出血は赤不浄といわれて忌避されたことから生じたとあります。原始時代には、死者も女性も出産も、それぞれの意味で崇拝の対象になっていたのが、文明の形成過程で、このような理由で「穢(けが)れ」と見なされるようになったというのです。それだけでなく、権力者たちは、自分たちが疫病の恐れから逃れるために、死者や出産などに関わる人たちまでも、不浄を扱う者たちとして差別の対象にしていったとあります。現代では、このような汚れがいわれのないことはだれでも知っているにもかかわらず、いまだ慣習的に汚れ意識から脱却できない状態が続いていると脇田さんは指摘しています。
 こういうことをお話しするのは、今回でてくる出血の女性の癒しも、ヤイロの娘の蘇生も、出血と死者にまつわる浄・不浄と関係しているからです。イスラエルの宗教を長らく支配してきた浄・不浄の思想も、あるいは上に述べた日本の汚れ意識と似たような事情の中で生じたのかもしれません。
 12年間出血を煩っていた女性は、「汚れ」と見なされていましたから、人びとの集まりに加わることができませんでした。まして、不浄の女が、男性に「触れる」ことなど許されませんでした。にもかかわらず、この女性は、治りたい一心でイエス様の衣の房に触れたのです。その結果、汚れがたちまちに祝福へと変化して、差別から正常な状態へ復帰することができたのです。
 ヤイロの娘さんの場合でも、父親の願いも空しく、娘さんは亡くなりました。この時点で、娘の遺体に触れることは不浄と見なされますから、当時の掟では許されないことになります。ところがイエス様は、そういう浄・不浄の意識にとらわれることなく、娘の死を嘆く人たちを外へ出して、彼女の手を取ってよみがえらせたのです。不浄から浄へ、死から命へ、大転換が起こったのです。
■世を変革する力

 言うまでもなくこれらの出来事は、出血の女性の信仰とヤイロさんの信仰がもたらした不思議です。一方は社会の掟に縛られず、他方は死に直面して、それでもイエス様への信仰を働かせました。その結果、与えられた祝福です。しかも二人とも、期せずして社会的、宗教的な大きな壁を突き破ったのです。「恐れることはない。ただ信じなさい。」このイエス様の御言葉を頼りにただ信じた。それだけです。自分たちが何か大きなことをやろうと思ったわけではないのです。ところが、その結果、一般の常識を覆すような驚くべき結果が生じたのです。これはすごいことですよ。でも、これらの出来事は、イエス様の霊能を見せつけるためではなく、イエス様の愛からでた御業であること見逃さないでください。
 イエス様への信仰は、このように、世の中を変革する力を秘めています。「世の中を変革する」というのは、大変なことです。自力でやろうとすれば、ミイラ取りがミイラになって、今度は自分が権力の虜にされます。フランス革命の時もそうでした。ロシア革命の時もそうでした。現在の北朝鮮状態など、まさにこの例です。ここの二人は、社会や宗教の変革などというたいそうなことを考えたわけではありません。とにかくイエス様を信じてその信仰を歩んだ。その結果、思いもかけない啓示に出合ったのです。世の中の変革の第一歩は、こういう小さな単純な信仰と、これに対して与えられる神様からの「啓示の変革」から始まるのです。
 浄・不浄の問題は、出血や死体だけでありませんでした。これはユダヤ教の食物規定にもありました。ペトロは、カイサリアの近くのヤッファという町で、それまで汚れと見なされていた動物を食べなさいと告げられる幻を受けます(使徒10章)。その直後に、彼が招かれてカイサリアのコルネリオという異邦人の家に行くと、そこで異邦人に初めて聖霊が降り異言が出ました。これが、イエス様の御霊が異邦人にも働くことが証しされる出発となったのです。このペトロへの啓示のように、歴史的な歩みの中で、イエス様の御霊の働きによって、神からの啓示は変容するのです。イスラエル旅行の時に、厳格なユダヤ教徒たちは、現在でも細かい食物規定を遵守していると聞かされました。ユダヤ教でもイスラム教でも、食物規定はまだ生きているのです。それでも、ユダヤ教では、時代により地域によって、掟に対する意識がずいぶん変化してきました。
 わたしたちはイエス様の御霊を信じて歩んでいます。それぞれが、日々、信仰の歩みを続けています。皆さんは、自分の歩みなんて、たいしたことがないと思っているかもしれません。でもそうではないね。たとえ小さい歩みでも、イエス様の御霊の啓示から来る歩みは大きな意味を帯びているのです。自分の信仰が、この世の中でいったいどんな意味を持つのか? これはわたしたちにはなかなか分からない。でも、神様はご存じです。イエス様はご存じです。ご存じどころか、昨日も今日も、わたしたちと共に歩んでくださる。「恐れるな。ただ信じなさい」と励ましてくださる。たとえ小さな歩みでも、たとえ小さな交わりでも、神様の御手に握られて、イエス様のみ名によって集めらて、御霊の導くままに歩むなら、すごい働きをするのです。この小さなコイノニア会も、今に大きなリバイバルの一つのきっかけとなるかもしれません。
■病気と死からの救い

 今回のところで、ヤイロさんはイエス様に「どうぞ来て娘に手を置いてやってください。そうすれば助かります」(マルコ5章23節)とお願いしています。後ろからイエス様に触れた女性も、イエス様の服に触れただけでも病気が治ると信じました(同28節)。出血の女性の信仰と祈りは、人知れず密かな祈りで、癒しも人知れず起こりました。ところがヤイロさんの場合は、身分もあるのでしょうか、人前で公然とイエス様にお願いして、驚くべき奇跡が生じました。信仰と祈りには、このように「密かな」有り様と「公(おおやけ)」のかたちをとる場合があります。でも、出血の女性の密かな信仰も、結果として公になりましたね。
 どころで、ここで言う「助かる」と「治る」は、どちらも同じギリシア語で「救われる」です。マタイなんかは「救われる」を三度も繰り返しています(マタイ9章21〜22節)。だからイエス様は、その女性に「あなたの信仰が、あなたを<救った>」と言われたのです。またイエス様は、娘が死んだと聞いたときにも、ヤイロさんに「大丈夫。娘さんは助かる」(ルカ8章50節)と言われましたね。この「助かる」も同じ「救われる」です。
 だからこの「救われる」は、まず身体的なレベルで病気が治ることです。でもそれだけではない。「安心して行きなさい」とイエス様が言われたように、身体的だけではなく、精神的にも、さらに言えば、社会的にも、健全な状態に復帰することも「救われる」に入るのです。ヤイロの娘さんの場合は、途中で娘さんが亡くなるというハプニングが起こりました。わたしたちの場合にも時々こういうことがあります。信仰を抱いてイエス様に従おうとすると、とたんに事情が前よりももっと悪くなった、ように見えることがあります。ああ、もうだめだ。こう思ったときに、それでもイエス様は、「娘さんは救われる」と言われるのです。だから、これは「死から救われる」ことです。
 このように、身体的な救い、精神的な救い、死からの救いという様々なレベルでの「救い」が、ここで語られているのが分かります。イエス様の十字架の贖いは、「病(やまい)と罪と死からの救い」と言われるのはこのことでしょう。これを言い換えると、「身体的」「精神的」「宇宙的」な救いと言ってもいいでしょう。「死」から救われるとは、宇宙レベルのことですからね。福音書だけではない。パウロの手紙でも、彼は主として「罪からの救い」を説いていますが、それでも彼の手紙には宇宙的な救いが語られています(ローマ8章18〜21節)。宇宙レベルの救いは、コロサイ人への手紙やエフェソ人への手紙になるともっとはっきりと語られます。また使徒言行録では、パウロもまた多くの癒しを行なっています(使徒19章11〜12節)。
■新しい宇宙

 でもね。皆さんはこう思うかもしれません。病気が治ってもまた病気になる。罪から救われても罪に陥る傾向はなくならない。たとえ死からよみがえっても、その人はやがて必ず死ぬ。こう思うかもしれません。病も罪も死も、厳然たる事実としてすべての人に例外なくやって来ますから。では、イエス様が伝えた「救い」とはいったいなんでしょうね? たとえ罪から救われても、また罪を犯すならなんにもならないではないか? 死からよみがえっても、また死ぬのならなんにもならないではないか? さあ、これが問題です。
 イエス様のなさった救いの御業とは、今のこの世において、神様の御業が働いてくださっていることの「しるし」なのです。祈りによって病気が治るということは、神の御霊が、わたしたちを身体的なレベルで支えていてくださることの「しるし」であり「証し」なのです。ヤイロの娘さんのよみがえりは、たとえわたしたちが死んでも、宇宙レベルでは、決して死んでいるのではない。このことの「しるし」「不思議」「奇跡」なのです。この三つの言葉は同じギリシア語です。神様の御霊は、今現在の世においても働いていて、「しるし/不思議/奇跡」の「セーメイオン」(ギリシア語)を行なっておられるのです。このことをイエス様の御業は証ししているのです。
 だからこれは神による創造の御業です。地上の命がたとえ消え去っても、宇宙的なレベルでの命が、人格的な永遠性を持つ命が働いていることをわたしたちに証しするための霊的な出来事、これが、「しるし」であり「奇跡」なんです。だから奇跡は「霊跡」です。聖霊は、今の「この世/時代」(このアイオーン)において働くことで、新しいアイオーンが、すでに今のこの時代/世において始まっていることを証しするのです。わたしたちが生きているこの時間と空間の世界、これを「今の」時代/世(アイオーン)と言うのですが、この時代の中で、全く新しい時代/世が実は準備されつつあるのです。人類の歴史も宇宙の歴史も、これに向かって動いているのです。わたしたちの身体も精神もその全存在も、全く新しい宇宙へとよみがえる。これが復活です。新天新地の創造です。こういう驚くべき事態が、聖霊によって始められている。「天地は滅んでも、わたしの言葉は滅びることがない」とイエス様が言われたのはこのことです。「イエス・キリストは、昨日の今日もいつまでも変わることがない」とあるのはこれです。
■今の世と新しいアイオーン

 人間は、世界は、宇宙は、日々創造されつつ、動いています。だから、このわたしたちも動いています。なぜなら神様の聖霊は、古いアイオーンから新しいアイオーンへ日々刻々と働いておられるからです。この新しいアイオーンとは、時間と空間のこの世界とは全く別個の、超越した観念的な「別の世界」のことではありません。わたしたちのからだを通し、わたしたちの心を通し、わたしたちの宇宙的な存在を通して、具体的に働いてくださっているのです。このことを、イエス様の御霊はわたしたちに証ししてくださるのです。一人の女、一人の盲人、一人の死者、これを生かし救うことで、こういう聖霊の業が行なわれるのだよ、あなたがたに分かるかねと、福音書は証ししているのです。この前お話ししたように、わたしたち人類に啓示されたイエス様の御業は、現在まだ進行中です。まだ終わっていません。聖霊は今もわたしたちと共に、わたしたちを通じて、人類と宇宙の救いの完成を目指して歩んでおられるのです。
 こんなことはね、人間が人間に向かって話しして、「そうですか、分かりました」と言えることではないのです。神様ご自身が、働いて、語らせて、聞かせて、信じさせて、覚らせて、啓示してくださらなければ、絶対に無理です。福音の御業は、徹頭徹尾、初めから終わりまで、神様の御業です。人間の力で、どうしろ、こうしろ、のレベルの出来事ではないのです。処女降誕から復活まで、福音書で語られるイエス様の出来事が、奇跡としるしと不思議で満たされているのは当然です。ナザレのイエス様の出来事とは、神ご自身が来られて、人間とこの宇宙を新しく創造する働きなんですから。不思議としか言いようがない。これ以外に語りようがないです。
 全てはイエス様の十字架と、そこから発する御霊のお働きによるのです。だから、わたしたちは、じたばたしないほうがいいよ。黙って、イエス様に祈り、イエス様の御霊に導かれるままに「ただ信じて」歩む。それだけです。ほかのことはなんにもしなくてもいいのです。そうすれば、御霊が、不思議な愛の働きを顕わしてくださいます。愛するとは創造することです。神様のなさることを黙って見ていて、そのなさることで自分にできることを、「せよ」と言われるままにやる。ただそれだけです。これが「働く愛」です(ガラテヤ5章6節)。イエス様にお任せしてね、恐れないで、ただ信じて歩む。それだけです。

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