72章 収穫と働き手
マルコ6章6節/同34節/マタイ9章35〜38節/
ルカ8章1節/同10章2節

【聖句】
マルコ6章
6そして、人々の不信仰に驚かれた。それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。
 
同章 
34イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
 
マタイ9章
35イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。
36また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
37そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。
38だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
 
ルカ8章
1すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。
 
同10章
2そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

【注釈】

 
 
【講話】
■収穫について
 今回と次回は、イエス様が、弟子たちを「神の国の福音を伝える」ためにお遣わしになるところです。「御国の福音」を「宣べ伝える」ことは、同時にこれを「教える」ことですが、これについてはすでにお話ししました。また、福音が病の癒しと結びついていることもすでに幾度か見てきました。そこで今回は、聖句にある「収穫」と「働き人」についてお話しします。ルカは「神の国を宣べ伝え福音しながら」と面白い言い方をしています。福音とは「神の国」のことであり、その神の国は、イエス様の霊性を通じて地上に啓示されたのですから、「神の国を伝える」ことと「福音する」こととは同じです。「神の国を宣べ伝える」という言い方は、共観福音書にでてくるのですが、現在では、通常「福音を宣べ伝える」と言うようです。
 イエス様は、「収穫は多いが、働き人が少ない」と言われました。ここで「収穫」というのは「刈り入れ」のことです。イエス様の言われる「収穫」は、イエス様を自分の内に宿す者となること、イエス様の霊性を受け継ぎ、そのイエス様の霊性を生きる者になることです。では、神様は、そこから何を「刈り入れる」のでしょうか? このことを考えてみたいのです。
 「収穫」とは、実を結んだ穀物を刈り入れることです。「実を結ぶ」というのは、パウロがガラテヤ人への手紙で言う「御霊の実を結ぶ」ことでしょう(5章16〜26節)。実を結ぶためには、イエス様をその人の内に宿すこと、言い換えると、イエス様と共に歩むことが必要です。イエス様と共に歩む人は、イエス様の心とその想いを知るようになります。こういう人は、巧まずして自然に、御霊にある知性(霊知)と御霊にある個性(霊性)と御霊にある寛容な愛(霊愛)と御霊にある不思議(霊能)とを具える人になります。霊知、霊性、霊愛、霊能、この四つを具えた人格として、「個人」になること、これが霊的に成長することです。こういう霊的な個性のある人こそ、この世にあって御霊の働きを現実させ、そうすることで終末に備えて実を結ぶのです。
 ちょっと待ってください、何か大事なことを忘れていませんか? 個人、個人と言いますが、教会のほうはどうなのですか? 教会を大きくすること、教会に奉仕すること、教会の徳を高めること、これを忘れてはいませんか? こういう声が、どこからか聞こえてきそうです。でも、「教会」という名前の人はどこにもいません。教会のメンバーが増えて、教会堂が大きくなるのはいいことですが、はたしてそれが「実を結ぶ」ことなのでしょうか? 教会も国家も、そこにいるのは一人一人の人間、個人です。その一人一人が、個人として実を結ばなければ、どこで実を結ぶのでしょう? 刈り入れ前の黄金の稲穂の波を見ても、一本一本の稲穂が実を結ぶのであって、それ以外どこにも実はついていないのです。
 だから、農家の方々は、一つ一つの稲が、多くの実を結ぶように田んぼの手入れをします。一つ一つが実らないと、いくら田んぼが大きくても、収穫は、どこにも産まれないからです。広い水田や大きな畑は、あるに越したことはないのですが、働き人に求められるのは、数や規模を大きくすることだけではないはずです。大事なのは、どれだけ実を結ぶ個性ある人が育つか? どれだけほんとうに善い実を結ぶ霊性が成長するか? これが働き人にとって、最も大切なことなのです。
 ここで言う「収穫」は、「神のための収穫」"his harvest" ですから、「人間のための収穫」ではありません。だから、イエス様は、収穫の主である父なる神に願い求めなさいと言われました。一人一人を霊的に成長させてくださるのは、神だからです。御霊の実を結ばせてくださるのは、父なる神と御子と聖霊の三位一体のお働きによって初めて可能なのです。人の力や努力ではないのです。「実を結ぶ」ことは命の営みであり、それは新たな命を創造することだからです。
■働き人
 イエス様が言われる「働き人」とは、どういう人たちのことでしょう。現在では、世界中に20億とも言われるほどのクリスチャンがいます。また、神父さんや牧師さんや宣教師さんたちが世界中にいます。それなのにクリスチャンの数がまだ足りないのでしょうか? 聖職者をもっと増やさなければならないのでしょうか? 
 ヨハネ福音書4章に、「蒔く者と刈る者とが共に喜ぶためである」とありますから、御言葉の種を蒔く人とこれを刈り取る人とがいて、しかも彼らは時代的に隔たっています。だから「収穫」は今すぐ起こることではありません。「収穫する」は終末の時を指していると考えられます。どんなに数が多くても、ほんとうに実を結んでいるかどうかは、終末の時に問われるのです。現在でも多くの教団があります。でも、その中で一人一人が大切に育っているでしょうか? 教派の数も多いです。でもその中で一人一人が、霊的に成長しているでしょうか? これが終末の時に問われるのです。知識が豊かになるのはいいことです。でも、それが、一人一人の霊的な成長にほんとうに役に立っているでしょうか? わたしたち一人一人を抜きにして、教会が全体として動く、あるいは教派全体で動く、たとえ「聖霊運動」と呼ばれていても、こういう動き方は危険だと思うのです。収穫はいろいろな方面で沢山あります。でも、個人の霊的な成長をほんとうに育ててくれる働き人は、そんなに多くはないのです。
 聖書を学ぶことも祈ることも福音を聴くことも大事です。癒しを始め、様々な霊能の賜も貴重です。でもこれらが、はたして最後の刈り入れの収穫になるのでしょうか。癒しの体験がすばらしくても、問題は、はたしてそれが「実を結ぶ」かどうかなのです。異言も大切です。でも、それが「実を結ぶ」ことにつながるかどうかが問題なのです。知識も大切です。でもそれは、どのようにすれば「実を結ぶ」でしょう。求められているのは、パウロの言う「御霊の実」(ガラテヤ5章16〜26節)なのです。
 イエス様は、「飼う者のいない羊の群れ」のような群衆をご覧になって、深く憐れまれたとあります。イエス様の時代のイスラエルの民には、生活に関わる経済問題や政治・社会の深刻な問題がありました。しかし、それ以上に、人びとは精神的に疲れはてていました。霊的に無気力になっていたのです。人びとに希望と力を与え、霊的に導くことのできる指導者がいなかったからです。ほんとうの意味で、霊的な神の御言葉を語ってくれる人がいないのです。でもこの状態は、経済的に豊かになった日本でも変わりません。わたしたちの周囲には、精神的な病に悩む人たちが大勢います。精神的な病は、霊的なレベルで生じるのです。人びとの外側は富んでいても、内側が病んでいるのです。
 マルコ福音書では、「羊飼いのいない」状態が、5000人へのパンの奇跡の始めで語られています。ここには、聖餐のイメージが含まれていますが、この奇跡は、イエス様が、食べる物がなくて弱り切っている群衆を「深く憐れんで」パンと魚を与えてくださった、と解釈されることが多いようです。ここは、イエス様を通して顕わされた神の慈愛の働きですから、これはこれで正しいです。ところがここの5000人は、「男たちだけ」だとあります。しかも彼らは、組み分けされて坐らされます。「牧者のいない羊の群れ」は、旧約では指揮官のいない軍隊の意味で用いられていますから、ここでも、軍隊ではないけれども、福音の証しに携わる人たちが、イエス様から必要なものを与えられることを意味する、という解釈があります。この解釈だと、5000人へのパンの奇跡と牧者を必要とする状態と伝道と収穫とがつながってきます。
 現在の教会には、はたして牧者として先頭に立って歩むイエス様のお姿が見えているでしょうか? 教会は、教派や教団や派閥に分かれていて、全体として見れば、牧者のいない羊の群れのように散り散りになっているのではないでしょうか? イエス・キリストの教会として、共通のヴィジョン、共通の主を仰いでいると言えるでしょうか? カトリックから無教会まで、聖書研究会から霊能的な集会まで、メガ教会からミクロの集いまで、いろいろな有り様の集会があり、いろいろな伝道の方法がありますが、これはいいことです。でも、その「目的が」バラバラでは困るのです。導く一人の牧者が見失われてはならないのです。キリストの教会だけでなく、全世界が終末へ向かって歩んでいるからです。「終末」とは、英語で”The End”(終わり/目標)のことです。多様の中の一致”Unity in diversity. ”と言いますが、なんのための福音なのか? なんのための教会なのか? これをはっきりと見定めることが、少なくとも今の日本のキリスト教では、とても重要なのです。

戻る