【注釈】
■マルコ6章6節と34節
 マルコ6章6節の後半「イエスは付近の村を巡り歩いて」は、続く弟子たちの派遣への導入になります。伝道の際の心得がイエスによって語られると(6章7〜13節)、続いて、洗礼者ヨハネの殉教とイエスの二つの奇跡(5000人への供食と水上歩行)が来ます。6章34節は、その5000人への供食の導入になります。だから6章6節が弟子たちを派遣する前に、34節がパンの奇跡の始めに置かれているのです。
 マタイは、マルコ福音書のこれら二つの節を組み合わせて、イエスが弟子たちに与える伝道の心構えの導入にしています。マルコ福音書で「収穫と働き手」と「飼い主のいない羊の群れ」という異なる主題を導入する二つの節が、マタイ福音書では、こうして一つに結びつけられているのです。
 
マルコ6章
[6]【お教えになった】マルコ福音書では、「教えた」が、イエスのそれぞれの出来事の始めに繰り返されます(マルコ1章21節/2章13節/4章1節)。マルコの言う「教える」は、イエスの言葉による語りやたとえの解き明かしを含みますが、それだけでなく、イエスの癒しの業や悪霊追放、イエスによる奇跡など、すべてが「教える」に含まれています。わたしたちは、とかくイエスの言葉による「教え」(倫理的な教訓とかたとえ話)と病の癒しと悪霊追放と奇跡とを、それぞれ区分する傾向がありますが、マルコに限らずマタイでも同様に、イエスの「教え」には、そのような区別が意識されていません。なぜなら、イエスの福音は、イエスの霊性がもたらす啓示の出来事であり、「出来事」として、言葉による教えも癒しや奇跡的な体験もすべてが、イエスの「教え」に含まれるからです。イエスの周囲に集まる町々村々の人たちは、このようなイエスの「教え」を見たり聞いたり体験したりすることによって、神の国の福音を体験して「知る」ことができたのです。この「教え」が、弟子たちの派遣の冒頭で語られるのは、それが、イエスの在世中の出来事だけでなく、それ以後もイエスを信じる弟子たちによって、イエスと同じ業、同じ言葉として、その「教え」が継続されていくことを意味しています。
[34]【飼い主のいない羊のような】「牧者のいない羊たち/羊の群れ」というこの言い方は、旧約聖書(七十人訳)に3度でてきます。
(1)モーセは、世を去るときに、イスラエルの民を「牧者のいない羊の群れにしないでください」と神に祈ります(民数記27章17節)。
(2)北イスラエル王国の王アハブが、戦を始めようとしていたときに、預言者ミカヤは、北王国の民が「牧者のいない羊の群のように」散り散りの状態にあると王に警告します(歴代誌下18章16節)。
(3)イスラエルがアッシリアに滅ぼされそうになった時に、女英雄のユディトが、敵将の陣営に出向いて、「あなたが、わたしの合図で出陣するなら、イスラエルの民は、牧者のいない羊たちのようにあなたに従います」と偽りを述べて敵将を欺きます(ユディト11章19節)。
 詩編23篇にあるように、イスラエルの主なる神は、羊を導く牧者の表象で語られてきました。この牧者像が、ユダヤ教では、「牧者/羊飼い」としてのメシアの到来を待ち望む信仰となります(エレミヤ3章15節/エゼキエル34章23〜24節)。イエス自身も、おそらくこのようなメシア像を抱いていたと思われます。これが新約聖書に受け継がれて、イエスは「永遠の契約の血による羊の大牧者」(ヘブライ13章20節)になります。
 6章34節で、イエスは、これら「牧者のいない羊の群れ」を観て「深く憐れんだ」とありますから、ここにはイエスを通して父の慈愛が表わされています。ただし、上の例で見ると、特に(2)と(3)の場合は、戦いの場において「牧者のいない」状態が語られているのが分かります。これと関連して、6章のパンの奇跡で、5000人の「男たち」が、それぞれ組ごとに編成されたとあるのは、霊的な意味で闘うための備えではないかという解釈があります。だとすれば、「牧者のいない羊たち」からは、全体を統率して導く指揮官がいないままに、散り散りになって敵(この世の悪の支配者)に打ち負かされそうな民の状態を思い描くこともできましょう。
 このように、マタイとマルコとでは、同じ「牧者のいない羊たち」のたとえが、「違った」用い方をされていますが、注意して読むと、一見異なる派遣とパンの奇跡とが、深いところでつながっているのが見えてきます。この場合のように、同じ言い方が「違った」箇所にでてくる時には、たまたま福音書記者がその伝承を「勝手に」置き換えて編集したと考えるのは危険です。伝承にはそれなりの理由と歴史がありますから、どちらにも共通の言い方が用いられている場合には、そこで語られている事柄それ自体の間にも、何らかのつながりがあると観ることも、テキストの正しい解釈の上で忘れてはならないのです。 
 
■マタイ9章35〜38節について
 マタイのこの部分は、4章23〜25節と対応していて、どちらの部分も、それぞれに、先立つイエスの活動(4章12〜22節/8〜9章)のまとめになっています。4章26節には、イエスによる山上の説話(5〜7章)が続いており、9章39節には、宣教のための説話(10章)が続いています。ただし、「宣教」の視点から観れば、4章23〜25節の前に宣教への召命が置かれているのに対して、9章35〜38節では、その後に宣教への指示が語られています。
 マタイの9章35〜38節のもとの資料としては、マルコの6章6節と同34節が考えられます。ところが、マタイの9章37〜38節は、ルカの10章2節と全くと言っていいほど同じです。マタイはマルコからその資料を得て、ルカはマタイから引用していると考えれば、一応筋は通るのですが、実際はそれほど簡単ではありません。マタイとルカとは、互いに相手の福音書を知らないという説と、ルカはマタイ福音書を踏まえていると見る説とがあり、少数ですが、逆にマタイのほうがルカを参照しているという説もあります(ルカ福音書はマタイ福音書よりも先に書かれたと見るから〔ヘンゲル〕)。マタイ福音書とルカ福音書とが、相互に独立しているとすれば、その両者の間にはイエス様語録が介在していたことになります。この場合のイエス様語録としては、「彼(イエス)は弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい』」〔The Critical Edition of Q〕が想定されます。
 
マタイ9章
[35]【町や村を残らず】原文は「すべての町々と村々」です。「すべて」とあるのは、これでガリラヤ全体を表わすからです。マタイはおそらく、ガリラヤだけでなく、イスラエル全体をも視野に入れていると思われます(10章11節参照)。
【御国の福音】この言い方は4章23節と同じです。どちらの場合も、マタイでは、諸会堂で「教え」、御国の福音を「宣べ伝える」とあって、「教える」と「宣べ伝える」が「御国の福音」に関連して用いられています。マタイは、特に「教える」ことを重視しているようです(5章2節)。ただし、「教える」と「宣べ伝える」とを厳密に区別しているわけではありません。「御国の福音」という言い方はイザヤ書52章7節から来ていると考えられます。イザヤ書の「良い知らせ」「王となる」〔新共同訳〕は、七十人訳のギリシア語では、それぞれ「エゥアンゲリゾマイ=福音する」「バシレウオー=王として支配する(すなわち神の支配する御国)」となっています。
 「福音」という用語は、マルコ福音書に8回、ルカ福音書にも8回でてきます。ただし、「御国の福音」はマタイだけです(4章23節/9章35節/24章14節)。マタイはこのように「福音」を「御国」と深く結びつけているのが分かります。マルコは、「イエス・キリストの福音」(1章1節)、「神の福音」(1章14節)という言い方をします。
【ありとあらゆる病気や患いを】病の癒しが宣教活動と結びついているのも4章24節と同様です。これはマタイに限りません。おそらくマタイは、マルコ福音書1章34節を踏まえているのでしょう。
[36]【群衆が】この36節は、マルコ福音書6章34節を踏まえていると考えられます。マタイはここでマルコの「大勢の群衆」から「大勢の」を省いていますが、4章25節には「大勢の群衆」とあり、5章1節では、これを「群衆」としていますから、ここ9章36節の「群衆」もこれの続きでしょう。
【飼い主のいない羊】この句もマルコ福音書6章34節を受けています。マタイはここで、特に民数記27章17節のモーセの祈りを念頭に置いていると思われます。モーセも羊飼いであり(出エジプト3章1節)、ユダヤ教では、メシアは「モーセのような牧者」として待望されていました。メシアが「牧者」であるというこの見方が、マタイにも反映しています。同時にマタイは、「飼い主のいない」という言い方に、イエスの当時のユダヤ教の指導者たち(と同時にマタイの時代のユダヤ教ファリサイ派の指導者たち)への批判をもこめているのでしょう。
【弱り果て】「弱り果て」も「打ちひしがれて」もマタイだけの表現です。「弱り果てる」は、悩み苦しめられること、「打ちひしがれる」の原意は「投げ出される」で、地面に倒れ伏して起き上がれない状態です。人びとは、圧政や経済的な搾取だけでなく、精神的に気力を失っていたのです。このように疲弊している民のことをイエスは「イスラエルの家の失われた羊たち」と呼んでいます(マタイ10章6節)。
【深く憐れみ】腸がちぎれる想いに駆られること。このギリシア語のヘブライ語の原語は「内蔵/腸」を意味していて、内蔵/腸には人間の憐れみ悲しみなどの深い感情が宿るとされていました。日本語の「断腸の想い」は深い悲しみを表わしますが、これに慈悲の心を加えるとここでの意味に近いでしょう。この言い方はイエスに働く霊性の特長を表わす言葉ですが、マタイはこれをマルコから採ったのでしょうか。
[37]37〜38節は、イエス様語録にも『トマス福音書』(73)にもありますから、イエスにさかのぼる言葉だと考えられます。
【収穫は多い】「収穫」あるいは「刈り入れ」は、旧約とユダヤ教では、終末の裁きと結びつく言い方です(イザヤ27章12節/ミカ4章12〜13節/ヨエル4章13節)。ここでのイエスの言葉も「神の国」の到来が差し迫った状況を背景にして語られています。終末は、「裁き」と「救い」の二面性を有していますが、ここは「裁き」ではなく、イエスの伝える御国へ人びとを招き入れることによる「神の救い」が、「収穫」として語られているのです(この点でマタイ福音書13章24〜30節とは異なっています)。したがって、「収穫」は、将来起こる出来事と言うよりも、すでに現在において着々と成就しつつあると見ることができましょう。なおヨハネ福音書では、「刈り入れ」が、ユダヤ教以外の人たち(サマリア人)へも及ぶことが示されています(ヨハネ4章35節)。
【働き手を】イエスは「言われた」〔新共同訳〕と過去形に訳されていますが、ここの原語は現在形で「イエスは言う」です。おそらくマタイは、イエスによって開始された「収穫」が、マタイたちの教会の現在の「弟子たち」にも受け継がれていることを指しているのでしょう。だから、「働き手」とは、かつてのイエスの弟子たちだけでなく、以後の教会における「福音のための働き人たち」をも視野に入れているのです。
[38]【収穫の主に】「主」とあるのは、イエスの父なる神を指しますが、おそらくマタイの教会の人たちは、ここの「主」に「主イエス」を重ねていたでしょう。神は農場の持ち主であり、世界は彼の畑です。収穫は主なる神の仕事であって人間の業ではありません。だから主に願って、働き人を送り出してもらわなければならないのです。このための切実な祈りが求められるのは、情勢が急を要するからです。目の前に救いを必要とする人たちが大勢いるからです。「養ってくれる牧者のいない民」と「収穫」という、マルコでは異なった主題が、ここでは一つに結びついています。
 
■ルカ8章
 ルカ福音書では、イエスは、4章43〜44節からガリラヤの町や村を巡り始めます。その上で、この8章1節から、イエスは改めて、ガリラヤでの最終の伝道巡りを始めます。この巡回は9章50節で終わり、9章51節から、エルサレムへの旅が始まるのです。この8章1節は、マルコ福音書の6章6節と内容的に通じていますが、マルコは、村々の巡回を十二弟子たちの伝道派遣の冒頭においています。ルカ福音書でも9章1〜6節で、同様に、十二弟子たちがイエスによって派遣され「村から村へ」巡ります。ところが、ここ8章での巡回は、十二弟子たちと共に女性のグループがイエスと一緒にいる点で、マルコやマタイとは異なっています。ルカは、弟子たちが福音を語り、女性たちはイエスと弟子たちの伝道に奉仕する一行の姿を描いているのです。女性たちを含むこの記事は、ルカに伝えられた古い伝承に基づくものでしょう。
[1]【すぐその後】原文は「出来事を順序立てる」という意味です。ルカは、イエスの出来事をルカ独特の仕方で「順序立てて」語っています。
神の国を宣べ伝え】原文は、「神の国を宣べ伝え福音しながら」です。共観福音書では、「神の国」(マルコ4章11節)は「天の国」(マタイ5章3節)あるいは「御国」(同6章10節)あるいは「(イエスの)父の国」(同13章43節)などとも呼ばれます。「天の国」はマタイだけですが、マタイは「神の国」(同6章33節)とも言いますから、この二つは同じ意味です。新約聖書の「国/王国」のもととなるヘブライ語と七十人訳のギリシア語は「王の支配」を意味します。だから「王国」は、神の「支配する力/働き」のことであって、「領地/領域/国土」のことではありません。新約聖書では特に神の「救いの」働きを指しています。共観福音書が伝える「神の国」は、わたしたちの世界に「近づいて/始まって」いますが(マルコ1章15節)、まだ「完成/成就」してはいません(マタイ24章14節)。なぜなら神の国は、すでに来て再び来る「人の子」(ルカ21章27節)、すなわちイエス・キリストと深く結びついているからです(ルカ19章38節)。
 神の国を「宣べ伝える」という言い方がされますが、ここルカ福音書8章1節では、「神の国を宣べ伝え福音しながら」という独特の言い方になっています。「福音する」ことそれ自体が「神の国を宣べ伝える」と同じことを意味するからでしょう(使徒8章12節)。神の国は、ナザレのイエスの霊性を通して働く神の御霊の働きですから、病の癒しや「奇跡/しるし/不思議」などを伴います。このような霊的な出来事が、言語化されて語られるときには、比喩のかたちをとりますから、神の国は、たとえ話しや比喩として、マタイ福音書の12〜13章とルカ福音書の14章7節〜16章にまとめて語られています。
町や村を】原文は「町々から村々へ」ですが、「町から町へ、村から村へ」の意味です。これらはガリラヤの町や村を指すのでしょう。「巡った」〔新共同訳〕という訳はマルコの用語で、ルカの動詞は「旅をして町や村を通る」です。
10章2節
 「収穫と働き人」は、マタイ福音書では、十二弟子の選びとこれに続く伝道派遣の前に置かれていますが、ルカは、これを72人の弟子たちの派遣の前に置いています。72人の派遣記事はルカだけです。おそらくここには、ルカの教会の弟子たちも重ねられているのでしょう。なお、ここのイエスの言葉は、イエス様語録から来ていると考えられます。イエスの「収穫」と「派遣」への言葉をマルコとマタイとルカとで比較しますと、成立の過程はともかく結果から判断するなら、マタイが、マルコの十二弟子派遣と5000人への供食、ルカのガリラヤ巡回と72人の派遣、これらを一つにまとめて編集しているのが分かります。それだけマタイの記事が、重厚な内容を帯びてくることになりましょう。

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