74章 弟子は師に見習う
マタイ10章17〜25節/ルカ6章39〜40節
 
【聖句】
■イエス様語録
盲人が盲人の道案内をすることができようか。
二人とも穴に落ち込みはしないか。
弟子は師にまさるものではなく、
僕はその主人にまさるものではない。
弟子は自分の師のようになれば、
それで十分である。
 
■マタイ10章
16「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。
17人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。
18また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。
19引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。
20実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。
21兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。
22また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
23一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。
24弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。
25弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」
 
■ルカ6章
39イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。」
40弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。
                                              【注釈】
【講話】
■師はただお一人
 現代では、聖書や信仰に関する本がいくらでも手に入ります。また、インターネットを通じて、いろいろな宗派や教団の教えや知識を手に入れることができます。だから、直接特定の先生につかなくても、独りで聖書を学んだり信仰生活を営むことができます。けれども、現在のように信仰者一人一人が、書物やインターネットを通じて聖書の知識を得たり、信仰を学ぶことができなかった時代では、ある特定の「師」の下に入門してその弟子となり、師から学ぶことが、信仰と知識を学ぶほとんど唯一の道でした。だからこのような時代には、まずどの師につくのか、師を選ぶことから始めなければならなかったのです。これと思う師を見いだしたら、その人の弟子にしてくださるように頼み込んで、いったん入門したら、最後までその師に従い抜く覚悟と努力が必要だったのです。
 ところが現代では、あまりに多くの本がありすぎてどれを読めばいいのか分からなくなるほどです。それに次々と大規模な集会や伝道集会が開かれて、国の内外から多くの指導者たちが来て彼らの説教を聞くことができます。あまりいろいろありすぎて、どれが自分にふさわしいのか迷うほどです。昔は、学ぶ機会が少なかったから、一人の師について学びました。今では、指導する人たちが多すぎるから、なにをどう学ぶのがいいのかを指導してくれる一人の師が、昔とは逆の意味で必要な時代になっています。
 けれども、今回の箇所では、本当の意味で「師」と呼ぶことができるお方は、イエス様ただお一人であるとはっきり語られています。わたしたちは、主イエス様を師として、この師に付き従うように求められているのです。では、イエス様の言われる「師」とは、いったいどのような師でしょうか? ヨハネ福音書13章1〜17節に、この師の模範がでています。イエス様は、最後の晩餐の席で、十二弟子たち一人一人の足を洗われたのです。これが、イエス様自(みずか)らわたしたちに与えてくださった洗足の模範です。「このように師が弟子に仕えたのだから、あなたがたも、互いに謙虚になって兄弟に仕え、愛し合いなさい」(ヨハネ13章12〜15節)、こう言われました。これが、わたしたちが見習うべき理想の師の姿です。イエス様が弟子たちを愛したように互いに仕え愛することが、弟子が師に見習うことなのです。
 ところが今回のルカ福音書(6章39節)には、今あげたのとちょうど反対の例がでています。盲人が盲人を道案内するこのたとえは、イエス様の模範とちょうど逆で、反面教師です。この人たちは「人を裁くこと」「他人を罪人だと決めつけること」(同6章37節)を好む人たちです。このたとえは、おごり高ぶる権力者たちや自分を高くし人を見下す宗教的な指導者たちへの鋭い批判です。権力者が人々を支配し、先生が弟子たちを見下すのは世の常ですから、こういう霊的に盲目な指導者のたとえは決して過去のことではありません。洗足が教えるイエス様の謙虚さに見習うのではなく、人よりも己をすぐれていると思いこむ人たち、盲人を案内する盲人が現在でもいるのです。謙虚と傲慢、イエス様は、正反対のふたつの例を通して、弟子が師に見習うように教えておられるのです。
■創造と迫害
 イエス様が教えてくださった「師の模範」は、わたしたち一人一人の内に、イエス様の御霊を宿すことによって初めて達成されます(ヨハネ14章20〜21節)。イエス様に見習うとは、たとえ教団にせよ国家にせよ、イエス様以外のものには見習わないことです。主の御霊に導かれる人は、自分の内に御霊が人格的に宿ることを忘れてはならないのです。伝道するとはイエス様に従うことです。イエス様に従うとは、イエス様の御霊の導きに従うことです。御霊の導きに従うとどうなるか? そこには新たな創造の事態が生じるのです。創造が生じるとどうなるのか? 世の権力者たちや宗教的な権威の座にいる者たちに恐れを抱かせるのです。
 御霊が創造するのは、今の世の中を修正したり改善したりすることで、言わば表面を化粧し直すことではありません。そうではなく、今の世の中にあって、全く新しい「時代」(アイオーン)が形成されていくことです。しかも、このような御霊に導かれる歩みこそが、今の世の中を「改善していく」最も確かでしかも正しい方向なのです。パウロは奴隷制度に反対しませんでした。しかし「キリストの御前にもはや奴隷も自由人もない」と教えた彼の福音は、奴隷制廃止へ道を開く力となったのです。
  しかし、創造を嫌う人たちは、自分たちの特権や既得の利権や支配的な立場に固執しようとする人たちです。
「狼の中に羊を遣わす」とイエス様が言われていますが、狼とはこういう権力者や宗教的な指導者たちのことです。だから、イエス様に従う者には、蛇のように賢くなり、鳩のように素直になることが求められるのです。このような迫害や困難に克つことは、人の努力や意志でできるものではありません。ただ、主イエスと共に歩み、主と共にある時にのみ実現する事態だからです。鳩のように素直にイエス様に従うことによって、人の思惑や力を超えた御霊の知恵が働くのです。その時その場に働く御霊のお導きに自分を委ねること、これが空の鳥であり野の花であり、イエス様が天の父への信頼に生きた霊性です。
■師に見習う
  不思議なことに、マタイは、イエス様が当時の宗教的指導者たちから迫害されたことをわたしたちイエス様の弟子たちが迫害を受ける際の「慰めの根拠」としています(マタイ10章28〜31節)。わたしたちは、弟子が師と同様に迫害を受けると聞くと、「慰め」ではなく「恐れ」を抱くのではないでしょうか? ここに、弟子派遣と迫害との関係を理解する大事な鍵が潜んでいます。
 師に見習って福音を伝える仕事は、聖霊のお働き以外の何ものでもありません。福音とは、わたしたち一人一人を通して働いていてくださるイエス様の御霊の働きにほかなりません。パウロは、イエス・キリストという目標/到着点を目指して、競技する選手のように走りなさいと勧めています(フィリピ3章12〜14節)。競技する人が見ているのは他の人たちではなく、自分の前にある目標です。だからこれは、自分自身との競技です。自分の意志の強さとモチベーションがそこに要求されてくることになります。しかしこれはまだ人間のレベルです。信仰者には、さらにその先があります。自己と格闘する/競技するとは、自己との闘いそれ自体をも忘れて、無心になり、神の御霊の働きに己を委ねることだからです。だから、このレベルでは、自己との闘いは、自己との闘いさえも忘れること、自己と闘わないことなのです。一切を父のみ手にお委ねするのです。弟子はその師のようになれば、それで十分です。
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