76章 聖霊の助け
マタイ10章19〜20節/マルコ13章11節/ルカ12章10〜12節
 
【聖句】
■イエス様語録
彼らがあなたがたを会堂へ引っ張って行く時、何をどう言おうかと心配するな。
その時には、聖霊が言うべきことをあなたがたに教えてくださる。
■マルコ13章
11引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。
■マタイ10章
19引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。
20実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。
■ルカ12章
11会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。
12言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」
                        【注釈】
【講話】
■人事を尽くす
 政治家が国会で野党からの質問に答弁する時には、「言うべきこと」を前もってその言葉遣いにいたるまで検討するそうです。それをしないと、その場の状勢に支配されて思わぬ「暴言」や「失言」が飛び出るからでしょう。裁判の場合も同様で、通常被告人は、法廷に立つ前に「言うべきこと」を弁護士から指導されます。
 ところが今回の箇所では、裁判の席で「何をどう言うべきか」を前もって考えたり決めようとしないほうがいいと言われるのです。イエス様の頃や原初のキリスト教徒は、法廷や議会での答弁には無縁な人たちです(使徒言行録5章27〜32節参照)。それならなおのこと、前もって準備する必要がありそうですが、ここで言われているのはこれとは全く逆です。
 その理由はおそらく、何を尋ねられるか、何を言われるか、その場に立たされて裁かれる被告人には全く予想がつかないからでしょう。予想できないことをあえて予測して、前もって対策を立てることこそ作戦であり戦略ですが、これにはよほど正確で的確な情報とどんな事態にも対処できる知力が求められます。一部の特権階級や、特殊な立場にいる人たちは、そういう情報を入手して戦略を立てる知識と技術を手に入れることができるでしょう。しかし、イエス様の弟子たちには、またわたしたちにも、そのような隠された情報も対処の仕方も与えられていないのです。
 「人事を尽くして天命を待つ」と言いますから、人は通常、自分の「時」と向き合う前に、あらかじめできるだけ対処の仕方を心得ておくべきです。今回の箇所は、「何一つ備えをするな」という意味ではありません〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)188頁〕。だから、御霊に導かれる生き方にもこの諺があてはまります。
 しかし、実はほかならぬ、極秘情報を入手できる人たち、未来を予測するに足る知識を所有する人たちこそ、将来への予測がいかに困難で、この世の出来事がいかに予測不可能かを知る人たちです。彼らこそ、経済状況、政治情勢、自然環境、まして軍事的な状勢などは、一寸先が闇であることを誰よりもよく知っている人たちです。逆に自分は全知全能の権力と知力の持ち主だとうぬぼれる指導者は、この世で最も恐ろしい闇の支配者に転じるおそれがあります。
 ほんとうは、民を指導し国の舵を取る人たちこそ、このような危急の場合に神の御霊にある導きを祈り求める人、人事を尽くして天命を祈る人であってほしいものです。そういう指導者に恵まれた民は幸せです。そういう神の人を選ぶことのできる民は賢明です。こういう指導者がわたしたちに与えられるよう、神に切に祈り求めるべきです。
 ■御霊の「時」
 そもそも、この世の「闇の力」が働く時には、「その時その場で」実際に何が起こるのか?誰に何を言われるのか?これは誰にも分からないのです。何が起こるか前もって全く知らされないままに、突然に思いもかけない「不意打ち」に襲われることが多いからです。だから「人事を尽くした」その後で、神の御霊の働きを<祈待する>と言うべきでしょう。「人事を尽くした」者こそ人事の限界を知り、できる限りを尽くして初めて、自分にはできないことを悟るからです。
 法廷の場合に限りません。経済的な苦境に遭っても、重病に陥った時にも、何をどう判断すべきか、医者に何をどう言うべきか、あらかじめ決めたり判断するのが難しいのです。こういう場合、「困った時の神頼み」で神に救いを求める。すると不思議に、思いがけない判断や、予測しなかった事態が生じて急場を逃れた。こういう体験談を聞かされることがあります。「火事場の馬鹿力」と言いますが、人はこういう時に、自分でも思いがけない力を発揮するものです。
 今回の場合でも、「連れて行かれる」「立たされる」「裁かれる」という受動形に表われているように、要するに、自分では何もできないし言えない、という受け身の状況に置かれることです。人はこういう絶体絶命の苦境に陥らないと、神の御手に自分を委ねきるところまで行かないのでしょう。しかし、このような苦境で体験する「捨て身の信仰体験」こそが、御霊の働く場であると今回の箇所は語っているのです。何も言えない、何もできない。そういう状況に追い込まれた時に、自分でも驚くべき力と言葉とそれを語る大胆さが「外から」授かるという不思議な体験のことです。こういう状況の下で初めて、聖霊に導かれる歩み、御霊に委ねる人の生き方の根底が顕われて、見えてくるのです。ああ、これなんだと分かるのです。だから、「御霊の時」を歩む人には、「人事を尽くした」その後で、御霊の導きに<いっさいを委ねきる>覚悟が必要です。その時に、御霊にある「平静と勝利と霊福」〔ボヴォン前掲書〕が彼に臨むのです。 
 けれども、神を知らない人の目から見れば、こういう御霊の歩みは、どう見ても「行き当たりばったり」としか見えないでしょう。何の準備も心構えもないままに「その時」を迎えていると思われるでしょう。行き当たりばったりの歩みと、神の御霊に導かれている人の歩みと、この二つの最大の違いは、その「時」にあります。イエス様は7章6節で「あなたたちの時はいつでも備わっているが、わたしの時はまだ来ていない」と言われました。「あなたたちは自分で勝手に自分の時を決めているが、わたしは自分から自分の時を決めているのではない」という意味です。イエス様の歩みには、自分と「時」の間に<神の導き>が介在しているからです。これが「聖霊に導かれる」歩みです。
 今回の箇所も、そのような苦境や艱難が<ない場合>は御霊も<働かない>という意味ではありません。いざという時にこういうことができるためには、普段にこういうことを求める祈りがなければなりません。普段祈らない人が、いざという時に祈ろうとしても無理です。聖霊は人が無力になった時に宿るのです。普段にそのような御霊にある宿りを生活していて初めて、その時その場でその人に臨むのです。無力の自覚こそ、御霊の働く場です。自己放棄こそ御霊の業です。これをパウロは、「わたしはキリストにあって死んだ」と言い、「キリストがわたしにあって生きる」と言うのです。御復活のナザレのイエス様が、その時その人に顕現するのです。語るのはその人でない。イエス様がその人にあって語るのです。その人にイエス様が顕われることを御霊の宿りと言い、その人の全存在がイエス様を語るのです。
■個人とエクレシア
 古代のキリスト教徒は、こういう人格的な霊性がイエス様から与えられることを「イエスの証し」と呼び、イエス様にあって無にされ、自分がもはや「なくなる」こと、これをイエス様を「証しする」(マルトゥロー=殉教する)と呼んだのです。ここまで来ると、聖霊がわたしたちに与える命、すなわち「永遠の命」に触れないわけにはいかなくなります。
 その時その場に臨む聖霊は、その人<だけ>のものではありません。聖霊は、同じイエス様を信じているすべての人に共有されるからです。にもかかわらず、その時その場に臨む聖霊は、紛れもなく一人の<個人>に働きます。個人はエクレシア全体の一人でありながら、エクレシア全体もまた、イエス様の人格として<個人に>宿るのです。イエス様が自分を「人の子」と呼んだ時の意味がこれです。だから個人に宿る永遠の命は、エクレシアの命です。あの世で初めて巡り会う命ではなく、この世にあって<その時その場で>与えられる聖霊の証しこそ、真の意味で<永遠性を宿す命>だからです。それは、父の神の導きにあって創り出され形成されるその人個人に授与される命ですが、同時にそれは、エクレシア全体の命とも連動しています。だからこれは、生物学的な生命と言うよりも人間特有の人格的な命、人格的霊性に宿る命と言うべきでしょう。
■聖霊と迫害
  一人一人が人格的に永遠の霊性を宿すという、このような信仰は、家族や会社や国家よりも「個人」の人格的霊性により大きな価値を与えます。だから、権力者や宗教的な権威や組織に依存する人たちから見れば、警戒すべき脅威ともなるのです。福音に生き、これを伝えようとする人たちに対して迫害が生じる原因がここにあります。聖霊に導かれて福音を語る者は、悪しき霊性の者たちからの反感を避けることができない場合があります。
 中国では、公認教会の指導者たちが、少人数の「家の教会」の指導者たちを逮捕し投獄する手先になっていると聞いたことがあります(2000年頃?)。だとすれば、まさに「羊の皮をかぶる狼」たちです。永遠の霊性が個人に宿るというこの信仰は、不正を行なう為政者や組織、また権威を笠に着る宗教的な指導者たちにとっては許せない信仰であることを覚えておく必要があります。このような迫害は、個人的な恨みや憎しみから生じると言うより、国家的、組織的な迫害の形を採る傾向があります。
 もしも世の人たちが、イエス様に従う人たちを迫害するとすれば、それは、イエス様に従う人たちが、時の政府に反抗するからではありません。宗教的な指導者たちを糾弾するからでもありません。そうではなく、福音を伝えることで生じる霊的な働きが、今までになかった新しい事態を創り出すからです。御霊は創造するからです。愛は創造的に働きます。創造の業は、他を否定したり、破壊したりはしません。けれども創造は、人間性を否定し滅ぼそうとする者たちにとって最大の批判となり脅威ともなりえるのです。創造の業がなされるところ、そこになんらかの批判が伴うのは避けられません。
  御霊が創造するのは、今の世の中を修正したり改善したりすることで、言わば表面を化粧し直すことではありません。そうではなく、今の世の中にあって、全く新しい「時代」(アイオーン)が形成されていくことです。しかも、このような御霊に導かれる歩みこそが、今の世の中を「改善していく」最も確かでしかも正しい方向なのです。パウロは奴隷制度に反対しませんでした。しかし「キリストの御前にもはや奴隷も自由人もない」と教えた彼の福音は、奴隷制廃止へ道を開く力となったのです。有史以来、人類の霊的な進化はこのようにして成し遂げられてきました。
 創造を嫌う人たちは、自分たちの特権や既得の利権や支配的な立場に固執しようとする人たちです。「狼の中に羊を遣わす」とイエス様が言われていますが、狼とはこういう権力者や宗教的な指導者たちのことです。だから、イエス様に従う者には、蛇のように賢くなり、鳩のように素直になることが求められます。このような迫害や困難に克つことは、人の努力や意志でできるものではありません。ただ、主イエスと共に歩み、主と共にある時にのみ実現する事態だからです。鳩のように素直にイエス様に従うことによって、人の思惑や力を超えた御霊の知恵が働くのです。その時その場に働く御霊のお導きに自分を委ねること、これが空の鳥、野の花のように生きることであり、イエス様が天の父への信頼に生きた霊性なのです。
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