【注釈】
■イエス様語録
 イエス様語録では、今回の部分も大きなまとまりの一部を構成していて、まとまり全体の配列と内容はルカ12章4~12節とほぼ共通です。今回の部分は、そのまとまりの終わりになります。なお、マタイ福音書のほうは、イエス様語録のまとまり全体を三つに分けて、マタイ10章19~20節と同26~33節と12章31~31節に置いています〔マックQ93~94頁〕〔D・ツェーラーによるQ資料注解137~38頁〕。
 イエス様語録では、このまとまり全体は、とりわけ権力者たちからの迫害に曝された信仰者たちへの忠告と励まし/慰めです。信仰者は、迫害する人間と彼らから保護してくださる神の働きの狭間に置かれています。「会堂へ」とあるのは裁判/法廷の場を指し、場合によっては死刑が予想されます。今回の部分は、このような状況の下に置かれた信仰者への聖霊の働きを語るもので、これがまとまり全体の終結部になります。
 今回のイエス様語録の前半はマタイ10章19節とルカ12章11節からで、後半はマタイ10章19~20節とマルコ13章11節とルカ12章12節から採ったものです〔ヘルメネイアQ312~17頁〕。前半では、ルカの「連行する/連れて行く」とマタイの「裁判官や役人に引き渡す」の違い、マタイの「言うべき」とルカの「弁明すべき」の違いがあります。「心配するな/思い煩うな」は両方に共通します。
 後半では、マルコの「聖霊」(ト・プネウマ・ト・ハギオン)(the Spirit the Holy) とルカの「聖霊」(the Holy Spirit)とマタイの「あなたがたの父の霊」(the Spirit of your Father)の違いが注目されます。なお後半では、マルコ=マタイ福音書の「言うべきことを聖霊があなたがたに<語る>」とルカ福音書の「言うべきことを聖霊があなたがたに<教える>」の違いもあります。
 今回のイエス様語録は主としてルカ福音書からの復元です。ルカ福音書では、これの前に、誰でも人々の前でイエスを告白する者は、人の子(イエス)によって天使たちの前でその人の名が告げられるとあり、さらに、聖霊を冒涜する者は赦されないという厳しい警告が続き、その後で、「何をどう言おうかと心配するな」が続き、「聖霊が導く/教える」が来ます。
■マルコ13章
[11]マルコ13章は、全体が「小黙示録」と呼ばれていて、イエスの終末についての教説がまとめられています。この部分についての資料分析の仕方には諸説がありますが、わたしには、口伝と文書資料を含めて、13章全体を4種類ほどの資料に分けて、それらをマルコが、エルサレムが陥落した70年前後に、それまでのユダヤ戦争(66~70年)と、その時のユダヤ人キリスト教徒たちの体験を基にして編集したという説が最も適切だと思われます〔コリンズ『マルコ福音書』594~95頁と(注)14〕。
 マルコ福音書では「聖霊」に関する箇所が全部で4箇所しかなく(1章8節/3章29節/12章36節/13章11節)、特に今回の13章11節は聖霊と弟子たちとの関係について述べた唯一の箇所です。イエスを信じる者が聖霊によって導かれることは、とりわけヨハネ福音書のパラクレートス(ヨハネ14章26節/15章26~27節/16章8~13節)に通じていると指摘されていますから〔フランス『マルコ福音書』518頁〕、聖霊に関する今回の箇所が、四福音書全体に共通する箇所であることが注目されます。
【連れて行かれる】逮捕され連行されるだけでなく、拘禁され裁判にかけられることをも含みます。イエスの頃と最初期のユダヤ人キリスト教徒たちは、貧しく身分の低い者たちが多かったから、裁判の席で「何をどう言うべきか」戸惑う場合が多かったのです。
【取り越し苦労】この新共同訳は塚本訳から。「前もって心配する」〔フランシスコ会訳聖書〕。
【聖霊】マルコ13章9節の迫害と同12節以下での肉親同士の裏切り(と殺し合い)の間に挟まれて、10~11節では、福音が証しされること、しかもそれが人の力ではなく神からの聖霊の助けと導きによってなされることが告げられています。「聖」と「霊」の両方に冠詞が付いているのは、四福音書全体で4回(マルコ3章29節/同13章11節/ルカ3章22節/ヨハネ14章26節)ですが、使徒言行録には1章16節以下13回もでてきます。
■マタイ10章
 マタイ10章19~21節は、ほぼマルコ13章11節と共通する文言を含んでいます。すでに見たように、今回の箇所は、イエス様語録と共観福音書とヨハネ福音書に共通する伝承から出ていると考えられます。マタイ福音書の「引き渡す」「語るべき」「与えられる」「その時」などは、マルコの13章11節とも共通していますから、今回のマタイ福音書は、イエス様語録ともマルコ福音書ともルカ福音書とも共通しながら、それらのどれとも少しずつ違っています。マルコ福音書のもとの資料(原マルコ福音書が存在したと想定されます)からマタイへ伝わったとも考えられますが、イエス様語録と四福音書との関係は複雑ですから、関係が流動的であったことをうかがわせています〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)184頁〕。
[19]【心配するな】原語「メリムノー」(心配する/思い煩う)はルカ12章11節の「なにをどう弁明しようかと<心配するな>」と並行しています。ただし、マタイ10章20節の「語る/陳述する」はルカ12章12節では「弁明する」です。マタイ福音書の「心配するな」は特別の意味を持っていて、この言い方はマタイ6章25~34節を想わせます。イエスを信じる者たちへの「日ごとの糧(かて)」から、弟子たちへの伝道の心構えまで、さらには今回の場合のように迫害や困難に際しても、一切を天の父に委ねて「その時」を生きる心構えが根底にあります。
【言うべきこと】「なにをどう」とあるので、語る内容だけでなくその言葉と話し方も含まれます。このような生き方あるいは語り方は、旧約時代の伝統につながるもので(エレミヤ1章6~7節/詩編119篇41~46節)、特にモーセに語られた言葉、「さあ、行くがよい。わたし(主なる神)があなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」(出エジプト4章12節)にさかのぼるのでしょう。新約では、この信仰は、エフェソ6章19節に表われています。ただし、エフェソ人への手紙では、艱難の場合よりも福音を語る説教を想定しています。このためか、後の教会では、今回の箇所を教会での説教の語り方とそのための準備と結びつけて解釈するようになりました〔ルツ『EKK新約聖書註解・マタイによる福音書』〕。今回の19~20節は、特に困難な状況に置かれた場合を想定していますから、この意味で、終末的な状況とも重なります。ただし「終末」は、必ずしも将来を指すのではなく、ここでのマタイたちのように、現在において遭遇する具体的な出来事においてこそ「終末的な」御霊の働きが顕われるのです。こういう困難な状況に置かれた時、御霊に導かれる人は、自己努力による抵抗や解決を図るのではなく、空の鳥のように天の父にその身を委ねるよう求められるのです。
[20]【語るのは】ここに限らず、福音書では、通常遣うギリシア語の「言う」(レゴー)ではなく「語る」(ラレオー)が用いられる傾向があります。これは、特に舌で語ることを意識しているからでしょう。少なくとも今回の場合には、御霊がその人を通じて「語る」ことですから、これは異言や預言の霊的な体験に通じる状態を思わせます。また「あなたがたの中で(聖霊が)」〔新共同訳〕とあるのもこのような聖霊の働きを裏付けるものです。ここを「あなたがたを通じて」と解釈することもできますが、聖霊の働きを知る上では新共同訳のほうが適切でしょう。このように「霊に導かれて語る」のは、預言者たちの霊性につながるもので(イザヤ42章1節)、ここではその霊性が、イエスからその弟子たちへ受け継がれ、それが復活以後の教会にもそのまま伝えられて(使徒4章8節/同5章32節/第一コリント12章3節)マタイたちの教会へ及んでいるのです。
【父の霊】マタイ福音書で聖霊がイエスの弟子たちに働くことを述べているのはここだけです。特にここでの「あなたがたにあって語る父の霊」は、ヨハネ福音書の「わたし(イエス)について証しするために父が遣わす真理の霊」(ヨハネ15章26節/同14章26節も参照)と共通していて、マタイ福音書とヨハネ福音書のつながりを想わせる興味深いところです。「ここのわれわれのロギオン〔神からの言葉〕はヨハネの助け主(パラクレートス)思想にいたる前段階を意味している」と指摘されています〔ルツ『EKK新約聖書註解・マタイによる福音書』〕。ただし、マタイ福音書とヨハネ福音書の間に<直接の>関わりを推定することができませんので、ここの言い方も、原初キリスト教会から両者へ受け継がれたのでしょう。マタイの「父の霊」は、特にモーセに与えられた主の言葉をイエスの父の言葉と重ねているのかもしれません。マルコ13章11節とルカ12章12節は、ここのマタイとの並行箇所で「聖霊」を用いていますが、マタイは、「聖霊の臨在」をイエスの弟子たちに宿る「イエスとその父の臨在」(18章19~20節)として表わす傾向があります。
■ルカ12章11~12節
〔マルコ福音書とイエス様語録の「聖霊」伝承〕
 今回のルカ福音書とイエス様語録の関係では、ルカはほぼイエス様語録を採り入れています。マルコ=マタイ福音書に比べると、ルカ福音書では「連行する」「会堂や役人、権力者」「弁明する」「あなたがたに<教える>」など、用語が違っています。なお、ルカ21章14~15節は内容的に今回の箇所と共通するところがあり、そこでは「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような口(言葉)と知恵をあなたがたに授ける」とあって、聖霊の導きが「知恵」と結びついています。
 今回のルカ福音書では、イエス様語録とルカ福音書に共通する「聖霊」"the Holy Spirit" が注目されます。マルコ13章11節の前段階の伝承が、ルカ福音書の今回の箇所と並行していた?とも考えられますから、マルコ福音書も「聖霊」になっています(ただし "the Spirit the Holy"ですから多少異なります)。マタイ福音書ではこれが「父の霊」です。マタイの「父の霊」は、マタイ独自の神学に基づくマルコ福音書からの編修でしょう。しかし、ルカ福音書の「聖霊」は、イエス様語録とマルコ福音書の伝承のどちらからでしょうか? ここで、イエス様語録への伝承とマルコ福音書への伝承のどちらがより早い段階なのかが問題になります。
 今回の部分に先立つルカ12章10節は、マルコ3章28~29節と並行しています。両方を比べますと、マルコ福音書のほうではイエスの言葉が「アーメン、わたしは言う」で始まり、「人の子ら(複数)の罪は赦される」となっていますから、イエスが「人の子ら」から悪口を言われることになります。ところがイエス様語録=ルカ福音書では、「人の子(単数)の悪口を言う者は」となっていますから、こちらは「人の子」であるイエスのほうが悪口を言われることになります。この比較から判断すると、「アーメン」で始める言い方や「人の子ら」のように「人の子」を人間の意味で用いる言い方など(マタイはここを「<人々が>犯す罪」としています)、マルコ福音書のほうがイエス様語録より早い段階の伝承を伝えているとも考えられます。だとすれば、ほんらいここは、もともと「人の子たちが」とあったのが、復活以後の教会で「人の子」となり、それがイエスを指すことへ転じたのでしょうか?
〔ルカ福音書の「人の子」と聖霊〕
 ルカ12章8~10節は「人の子」で結ばれ、同10~12節は「聖霊」で結ばれています。同10節をマルコ福音書と比較すると、マルコ3章28~29節では、イエスの周囲の人々が、それぞれの人間的な判断からイエスの悪口を言うのは赦される。しかし、イエスを通じて働く聖霊が、その人たちの内面に働いてそれぞれを照らし、その結果一人一人の罪が暴かれた場合に、それでもなお頑なに神の霊の働きを拒み続けるならば、その人には救い(罪の赦し)は与えられないという意味になります。
 これに対してルカ12章10節のほうでは、「人の子イエス」に、すなわち「人間としての」イエスに対して悪口を言うのは赦されるが、人間イエスを遣わされた神のみ心が聖霊の働きによってその人に啓示された場合に、それでも聖霊による啓示を拒み続けるならば、赦されない冒涜になるという意味になります。人でもあり神でもあるナザレのイエスの霊性を洞察しながら、なおイエスを通じて働く御霊を拒み続けるなら、その人には赦しがないのです。マルコ福音書とイエス様語録=ルカ福音書では、「人の子」が、イエスの周囲の人々のことと、イエス自身のことのように、それぞれ別個の意味で用いられています。しかし、結果的に見れば、「人の子たち」による「人の子」への批判は赦されるが、聖霊に対する冒涜は赦されないという意味では、相互に共通すると言えましょう。この言葉がイエスにさかのぼるとすれば、このような意味だったと考えられます〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)184頁〕。
 ただし、ルカが12章10節で「人の子」と言うのは<地上における人間イエス>のことであり、これに対して、「聖霊」のほうは<復活以後のイエス・キリストの御霊>の働きを指しているという解釈があります。だとすれば、地上においてのイエスの人間性に対する非難は赦されるが、<復活のイエス・キリストの御霊>を拒み続ける者は赦されないという意味になりましょう。ただしこの解釈に対しては、ルカ福音書では、復活以後の教会の「人の子」と地上での「人の子イエス」は本質的に区別されておらず、したがって、ルカ12章の「人の子」も「地上のイエス」のことに限定できないという反論があります。だとすれば、「地上の人間イエス」と「復活したキリスト」の区別はルカ福音書では意味を失うことになります。
 ルカ福音書で言う「人の子」に高挙のキリストが重ねられているのはその通りです。しかし、ルカ福音書が地上のイエスと復活以後のキリストを区別して<いない>という解釈は適切でありません。イエス在世当時の「人の子」の用法も、あるいは逆に教会が用いた終末的な「人の子」も、どちらかを一般化してルカ福音書と使徒言行録に一律に適用するのは正しくないからです。「人の子」が、地上のイエスの周辺の人たちを指すことと、イエス自身を指すことは、イエスの頃のパレスチナの「人の子」の用法から見て矛盾するものではありません。この用語は、ほんらい「人間」を指す用語でありながら、同時に共同体の代表者である個人としての「わたし」を指すこともできたからです。また、天上におけるメシア的な「人の子」という黙示的な意味もありました。ルカ福音書の「人の子」は、これらの意味が、聖霊との関係においては、<段階的に区別されながらも継承的に>用いられているのです。
 したがってルカの場合は、聖霊についても、ナザレのイエスによる聖霊の働きを伝えるルカ福音書と、弟子たちへの聖霊降臨に始まる宣教を伝える使徒言行録という二部作の構成になります。この構成から判断して、ルカが聖霊の働きを時期的に区分しているのは明らかです。だから、ルカ12章10~12節の「聖霊への冒涜」と「聖霊の導き」の場合も、イエス在世当時と続く弟子たちの時代のどちらか一方だけの視点から解釈するのは適切でありません。
 ルカ12章10節の聖霊の働きについて、地上のイエスに対する冒涜は赦されるが、復活のキリストから降る聖霊に対する冒涜は赦されないという解釈を先に紹介しましたが、ルカ福音書の真意からすれば、「地上のイエス」と「復活のキリストからの聖霊」をこのように区別するのは適切な解釈とは言えないのです。イエス様語録から分かるように、ルカ12章10節の「赦されない罪/冒涜」は、<地上の人の子>イエスを通じて働く<聖霊>に対しても同じだからです。しかも、続く同12節では、聖霊は、窮地に立たされたイエスの弟子たちを支え助けて、彼らの「口を通して」語ってくださるのです。これがルカ福音書ほんらいの聖霊の働きだと考えられます。このように、イエスによる十二弟子の派遣が、イエスの聖霊によってエクレシア(教会)の伝道へ継承され、エクレシアの伝道が、世界の諸民族(「異邦人」の意味)への証しとなり、その伝道が終末へ結びつくのです。このように、ルカ福音書と使徒言行録の作者は、歴史的な諸状況に対応する段階を意識しながらも、そこに「継承的な一貫性」 "successive coherence"を見ていると言えます。
*この問題については、さらに後の「聖霊を冒涜する罪」の章の注釈をも参照してください。
■ルカ12章注釈
[11]~[12]【会堂や役人】イエス様語録では「会堂」とあって、ユダヤ教の指導者たちによる尋問や裁判を意識していますが(使徒4章8節)、ルカはこれに「役人と権力者」を加えて、ユダヤ以外のギリシア・ローマの支配者や総督たちをも指しています(使徒25~26章)。ルカは、マタイの「言う/語る」に対して、法廷で自分の立場を弁護する意味で「弁明する」を用いています。なお「<どのようにして、何を>弁明する」では「どのようにして、何を」がルカ福音書とマタイ福音書に共通しているのが興味深いです。
【~する時】原語「ホタン」(if when...)は「~する時がいつでも」で、これが現在形の動詞と結びついていますから、イエスの頃の時だけでなく、それ以後の時代でも繰り返し起こりえることを指します。この言葉がイエスにさかのぼるとしても、ルカ福音書が書かれた頃には、すでにネロ皇帝による迫害が起こっていました(64~65年)。また、ルカ福音書が出たすぐ後に、ドミティアヌス帝によるキリスト教徒の迫害が生じることになります(95年頃)。ただしどちらの場合も散発的な迫害で大規模で組織的なものではありませんでしたが。さらに70年以後では、新たなユダヤ教の再興を目指すファリサイ派によるユダヤ人キリスト教徒への異端審問と会堂からの破門、場合によっては処刑を含む迫害が行なわれました〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)187頁〕。
【心配するな】マタイ福音書の場合と同じに、ルカ福音書でもこの「心配するな」は、後の12章22節以下の「思い悩むな」へ通じています。
【聖霊が教える】「聖霊」がでてくるのは、マタイ福音書で6回ほど、マルコ福音書で4回ほどですが、ルカ福音書では10回です。ルカ福音書では聖霊が「降る」(1章35節/3章22節)、聖霊に「満たされる」(1章41節/同67節)、聖霊が「上に留まる」(2章25節)、聖霊から「示される」(2章28節)、聖霊を「与える/授与する」(3章16節/11章12節)、聖霊を「冒涜する」(12章10節)がありますが、聖霊があなたたちに「教える/教え導く」はここだけです。これに類似した言い方では使徒言行録1章2節に「聖霊が指図する/指示する/命じる」があります。通常は聖霊がその人を通して「語る」と言います。「(聖霊が)教える」には、教えられる人自身の意図や意志も含まれることになりましょう。ここで言うのは「教え導く」ことですから、聖霊がその人に全人格的に働いて、その人の意志と知性をも「教え導く」のです。このように人格的に聖霊が働くのはヨハネ福音書に通じていると言えましょう(14章26節/第一ヨハネ2章27節参照)。ただし今回は、「(迫害/裁判の時に)言うべきことを」とあるので、聖霊が、人の想いを超えて「その時」に応じて働くことをも含みます(使徒7章55~56節/同18章9~10節/同23章6節)。なお、聖霊によって与えられる「言うべきこと」については、ここの並行箇所に「口(言葉)と知恵」(ルカ21章15節)とありますから、様々な状況に対応する「神の知恵から来る言葉」のことです。ルカは、ユダヤ人だけでなく異邦世界の人たちに向けられる福音伝道をも意識しているのでしょう。
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