78章 御国と家族
マタイ10章34〜36節/ルカ12章51〜53節
【聖句】
■イエス様語録
わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。
平和をたらすためではなく、剣である。
わたしは対立させるために来た
息子をその父に、娘をその母に、
嫁をそのしゅうとめに。
 
■マタイ10章
34わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
35わたしは敵対させるために来たからである。
人をその父に、
娘を母に、
嫁をしゅうとめに。
36自分の家族の者が敵となる。」
 
■ルカ12章
51「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。
52今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
53父は子と、子は父と、
母は娘と、娘は母と、
しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、
対立して分かれる。」
■『トマス福音書』(16)
1イエスが言った。「ひょっとすると人々は、わたしが平和をこの世に投げかけるために来た、と思っているかもしれない。
2彼らは、わたしがこの地上に諸々の軋轢、火、剣、争いを投げかけるために来たことを知らない。
3というのは、一家に五人いるであろうが、三人は二人と、二人は三人と、父は子と、子は父と衝突し、
4そして、彼らは単独で立つであろうからである。」

                      【注釈】
 
【講話】
■家族の分裂
 わたしは、DVDなどを借りてきて、よく映画を見るのですが、ナチスの時代を描いた映画では、若者が、ナチスに対するレジスタンス(抵抗運動)に加わろうとしますと家族の者たちがこれに反対する場面がでてきます。これは当然です。もしもそのことが発覚したら、家族全員の命が危なくなりますから。17世紀に、イギリスでピューリタン革命が起こって、国中が王党派と議会派とに割れました。この時にも、父は王党派、息子は議会派という家族内での対立が起こっています。つい最近見た映画では、「母(かあ)べえ」がありますが、これは戦時中、軍部の戦争に反対したあるドイツ文学者の家族の物語です。父がこのために投獄されましたが、その妻は、最後まで夫の信念を支え続けたという体験を娘の視点から描いたものです。
 世の中が厳しい状況になりますと、このように家族への試練が起こり、また家族の分裂が起こるのです。こういう「この世の」力は、目に見える姿でも働きますが、目に見えない闇の力としても働くのです。イエス様の時代でも同じです。イエス様の頃のガリラヤは、町や村が、会堂とその指導者たちを中心にまとまった共同体をつくっていました。だから、それぞれの家族の自由だとか、家族内の個人の自由は、厳しく制限されていたのです。弟子たちが福音を伝える時には、真っ先に、その村その町で、自分たちを受け入れてくれそうな家を探しました。その家が受け入れてくれたならば、その家のある村や町の人たちが受け入れてくれたのと同じだったからでしょう。だから、家にいることが許されなくなった時には、その家に対してではなく、その村全体、あるいは町全体に対して、「足の塵を払い落とす」仕草をして、その共同体との関係を絶ったのです。
■二つの見方
 今回の箇所もいろいろと「誤解」される場合があります。かつてアメリカで、ヴェトナム戦争の時に、「わたしが来たのは剣を投じるためである」というイエス様のお言葉を引用した志願兵募集のポスターが貼られていたと聞いたことがあります。あるいは、イエス様は、当時盛んになり始めていた反ローマ帝国への抵抗運動に与して、ローマ帝国に支配されていたイスラエルに革命を起こそうとした。こういう「革命家」としての史的イエス像があります。
 クロッサンという学者も、社会の仕組みや国家の権力が家族や家庭に力を及ぼすと考えて、イエス様がお伝えになった御国というのは、こういう国家的な権力や暴力に対抗するための力であったと見ています〔ジョン・ドミニク・クロッサン著/太田修司訳『イエス:あるユダヤ人貧農の革命的生涯』新教出版社(1998年)107頁〕。おそらく、こういうクロッサンの見方の反対側には、イエス様の教えた御国とは、この世のものではなく、人の心の中にだけ存在するものである、という見方があります。信仰とは、人が心の中で信じるものだから、政治や経済や社会の働きとは別次元の無関係なものだと言うのです。こういう解釈は、19世紀以降になって一般化しました。いったい、どちらが正しいのでしょうね?
■福音の原点
 今お話しした二つの見方のどちらが正しいのか? という問題に入る前に、もう一度、福音の原点について考えてみましょう。そもそも福音とは何か? ということです。わたしに言わせると、「これありて福音あり。これなくば福音なし」という、その最も大事な福音の本質です。この根源に立ち返って、そこから見てほしいのです。わたしの言う福音とは、ナザレのイエス様の御霊の御臨在です。
 ここにおられる皆さんは、ナザレのイエス様を信じています。だから皆さん一人一人には、ナザレのイエス様の御霊が宿っておられます。イエス様の御霊は、こういう人たちの交わりの中に臨在してくださいます。これがコイノニアの交わりの最も大切なところです。ここが原点です。わたしたちの集会には、これ以外になんにもありません。「これありて福音あり。これなくば福音なし」です。これ以外に、あってもいいが、なくてもいいものは、ここには一切ありません。
 では、ここでわたしたちは今何をしているのか? なんにもしていないです。ただ集まって、座って、お言葉を語り、聴き、賛美をして祈る。それだけです。でもこれは、わたしたちが自分でやっているようであって、実は「わたしたちが」やることではない。イエス様の御霊がわたしたちに働いてなさっておられるのです。イエス様にあって神様から与えられた聖霊のお働きによるのです。言わばわたしたちは、今、イエス様を信じて「いる」という状態にあります。この状態の中から、賛美がおこって来る。祈りが湧いて来る。お言葉が語られ、これを聴くという御業が行なわれるのです。
 だから、わたしたちの側からすれば、福音とは、イエス様に「ある」状態のことで、自分で行動することではないのです。事と行動は、神様がしてくださるのです。主様の御霊がわたしたちを通して行なってくださるのです。これがわたしの言う福音の最も大事な原点です。だから、わたしたちのほうから、主様の御霊に向かって、「ああせよ。こうせよ」と命令することはできません。御霊がわたしたちにお働きになって、言うべきこと、なすべきことを行なわせてくださるのです。 
 わたしたちに問われているのは、はたしてほんとうに主様の御霊に「ある」かどうかです。これは状態であって、そこから何をするのかは、自分で勝手に決めることではないのです。だからイエス様は言われました。「わたしはぶどうの樹。あなたがたは枝である」と。「あなたがたがわたしにつながっておれば、実を結ぶことができる」と。イエス様につながって「いる」のです。「わたしがあなたがたにおり、あなたがたがわたしにいる」 です。これが福音の最も大事なところです。実はそこから自然に生(な)るのです。「なにをするか」"What you do."ではなく、「どうであるか」"What you are." です。だからこれは、過去でもなければ、未来でもない、現在です。
■御霊にある自由
 御霊には、様々なお働きがあります。政治的にも、社会的にも、経済的にも、宗教的にも、倫理的にも、霊能的にも働いてくださいます。大事なのは、根源の霊性です。わたしが、「霊能より霊性」と言うのはこの意味です。そこから全部出てくるのです。わたしの知っているある人は、教育の場で、日の丸・君が代に反対する立場から、社会的、政治的な運動をしています。またある人は、投資顧問(fund-manager)として、金融の仕事に携わっています。ある人は、家族の問題を祈りによって担っています。ある人は、職場の仕事のことで悩みながら、これを解決しようと祈っています。人それぞれの御霊にある状態をどのような方向へ働かせるのかは、神様がなさることです。神様は、人を十把一絡げで扱うことをなさいません。一人一人に応じて働いてくださいます。
 だから、人間が、自分は賢いと思いこんで、こうでなければならないなどと理論立ててはいけません。それは神様の御霊がなさることです。人によって違うのです。その違いを自分の理論によって否定すると、そのような行為は、人と自分との「違い」ではなく、人に対する自分の「間違い」になります。人と「違う」のはいいことですが、人に対して「間違う」のは困ります。神様のお働きを人間が決めてはいけません。
 「心の貧しい人」とイエス様が言われるのは、困窮した貧農の人たちのことだ。だから、イエス様は、こういう貧しい人たちの味方をしたと考える。その通りです。でも、同じイエス様が、エリコでは、町一番の金持ちで、あまり評判のよくない税金取りのザアカイに、「あなたのところへ泊まるよ」と言われた。なんだ、イエス様は、貧しい人の味方だと思ったら、金持ちの味方なのか。こう思った人たちがきっといたと思いますよ。
 投資顧問をしている人がわたしに言いました。自分はこんなことをして、お金儲けの手助けをしているけれども、これは罪悪ではないのだろうか? そう思うことがあると。わたしは言いました。そんなことはないです。大事なことは、あなたが何をしているかではない。あなたがどう「ある」のか、これが一番大事なんだと。
■創造する神
 イエス様のこういう御霊の働きが、ユダヤ教の律法に縛られた当時の村や町の人たちに、どんな影響を与えたのか?これは想像できます。自分の内に宿る御霊の導くままに従ったら、当然、町や村の掟に背く場合もあるでしょう。そんな霊的な自由は、ガリラヤの町や村ではとうてい認められないでしょうから、息子や娘が親と対立するのは避けられないでしょう。家族の内に分裂が生じるのは当然です。イエス様はこのことを予測されて、今にきっと「家族に分裂が起こるだろうと」と言われたのです。
 しかしです。もしも神様が、その家族を割ったのなら、割れた家族は神様が必ず癒やしてくださいます。神様は創造の神ですから、創造はまず「分ける」ことから始まります(創世記1章)。けれども、「分ける」のは、最後に「結ぶ」ためです。たとえ、この世の仕組みや世の中に働く権力のために家族が割れたとしても、これを癒やすのは神様のお働きしかないです。仕事がないから収入がない。どうしようもない状態に陥って、それでもイエス様に祈っていた。今の事態はなんにも変わらないけれども、祈っていたら心は平安です。こうメールしてきた人がいます。そうです。このような状態にあると、そのうちに、フルタイムの仕事が与えられました。こういうことです。
 それだけではなく、たとえこの世の力によって裂かれた家族でも、父の神は、イエス様の御霊にある創造的な働きによって、全く新しい状態で癒やしてくださいます。だから、もしも、今回のお言葉にあるように、イエス様のみ名によって裂かれた家族なら、その創造的なお働きによって、裂かれた家族は癒やされます。エジプトに奴隷として売られたあのヨセフのようにね。ヨセフはイスラエルの家族から引き離されたけれども、そのことが幸いして、イスラエルの家族がエジプトへ行って、全員が再会できましたね。だから、どう「ある」かを祈ってください。どう「する」かは神様が決めてくださいます。「アーメン、アーメン、エゴー・エイミ」(わたしはある)"I am." です。"am" の続きは神様に決めていただくのです。
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