【注釈】
■イエス様語録
 イエス様語録のこの部分は、「わたしは地上に火を投じるために来た。火がすでに燃えていたならとどんなに願っていることか!」(ルカ12章49節)と組み合わされて、一つのまとまりをなしていました〔マックQ〕。このまとまりには「イエスの言葉が忠実に保存されている」と見ることができます〔デイヴィス『マタイ福音書』〕。ただし、この部分の復元はルカではなく、マタイに準拠しています(「人をその父に」から「子をその父に」へはルカによります)。もしルカのほうを重視するなら、上記のイエス様語録の4行目に「一つ家に五人いるなら、三人は二人と、二人は三人と対立する」が加わることになりますが、これはほんらいイエス様語録に含まれていたかどうか、確かではありません〔HermeneiaQ〕。また、結びとして「その家の者が人の敵となる」(マタイ10章36節)を加えるイエス様語録版もあります〔マックQ〕。なお、今回のイエス様語録は、内容的に見れば、次回に「自分の命を」で扱うイエス様語録(マタイ16章37節/ルカ14章26節)とも重なりますが、後者のほうは、イエス様語録では別個のグループを形成していました。
 今回と次回のイエス様語録は、イエスの伝えた神の国が、「終末的な」迫りをもって語られたことを証しするもので、イエスの言葉の背後には、ミカ書7章6節「息子は父を侮り、娘は母に、嫁はしゅとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ」があります。ミカは、捕囚期以前の南ユダ王国の預言者で、北イスラエル王国の預言者ホセアと同じ頃に預言活動をしました。彼は、北イスラエル王国の滅亡を預言しましたが、その預言は、捕囚期に入ってから、北と南の両王国の滅亡に際して現実に起こった出来事を踏まえて編集し直されています。だから、ミカ書で語られる家族内の対立は、このように、国は滅びるという厳しい「終末的な」状況から出ています。
 イエスの言葉はこのミカ預言に根ざしています。しかし、当時のユダヤ教でも、最初期の教会でも、ミカのこの預言はそれほど注目されてはいなかったようです。それだけに、イエスがここでミカ書を「引用?」しているのが注目されます。ここにはイエス自身の家族での体験も反映しているのでしょう(マルコ6章4節/マタイ10章25節後半)。わたしは、イエスが、40年後に迫るユダヤの滅亡をすでに洞察していた思っていますから、なんらかの「終末的な」啓示を受けていたと考えています。
 イエスの伝えた神の国は、よほど強い終末的な臨在をもって人々に迫ったのでしょうか、人々の中には、神の国が、イエスによって現在すでに実現したと信じる「過度に楽観的な」神の国到来を夢見る人たちが現われたようです。イエスは、こういう誤解を避けるために、独特の鋭い言い方で、現実の世界とイエスの伝えている神の国との「落差」を印象づけたのです。なぜなら、神の国はイエスと共に「始まった」ばかりで、まだ現実に「到来した」のではないからです。むしろ、御国の開始と共に、この世の現実と御国との乖離(かいり)がいっそうあからさまになり、それだけ緊張が強まる傾向さえあったのです。
 だから、人が御国を信じてイエスを告白した場合に、たとえ自分の家族や親族から非難や怒りを受けても、決して驚いてはならない、それは起こるべくして起こったのだから、というのがこのイエス様語録の忠告です。ただし、当然、家族も父なる神のみ手の下にありますから(マタイ10章29~30節/マタイ19章29節)、イエス様語録は、すべてのことを神のみ手に委ねて、なにをどう言うかは、その時の御霊の導きに任せるように励ましているのです。なお、信仰がその人の肉親に及ぼす影響については、先の章「イエス様に従う」(マタイ8章18~22節/ルカ9章57~62節)の【講話】をお読みください。
【平和ではなく】原文は「平和を投げ込む」というヘブライ語的な強い表現です。「平和」についてのここでの否定的な言葉は、マタイ5章9節の「平和をもたらす人」への祝福と鋭い対照をなしています。言うまでもなく、肯定と否定と、どちらかの側面だけを見ては、イエスの言葉の表裏を見失うことになります。史的イエス像の一つとして、イエスは、当時のローマ帝国の権力に反抗して、武力による革命を志す人たち、たとえば、この頃からすでに台頭し始めていたゼロータイ(熱心党)などの人たちに与(くみ)していたという説があります。しかし、このような「革命家イエス」という見方は支持できません〔デイヴィス『マタイ福音書』〕〔ルツ『EKK新約聖書註解・マタイによる福音書』〕。
【剣】「剣」は「火」と共に終末の裁きを意味します(イザヤ66章16節/ヨハネ黙示録6章4節)。しかし、ここでの「剣」は、「裁き」よりも、争いと迫害、その結果としての殉教を指すのでしょう。大きな艱難の時には、家族が互いに「剣を向け合う」場合があることは、エゼキエル書38章21節にもでています。なお、後の教会が用いた「御霊の剣」(エフェソ6章17節)という霊的に内面化された意味は、ここにはまだありません。
 
■マタイ10章
[34]【平和ではなく】ミカの預言とイエスの預言とを受けて、マタイはここで、つい10年ほど前のエルサレム滅亡(紀元70年)の出来事をも重ねていると思われます。なお「地上に」とあるのは、イエスの口から出た場合には「イスラエルの民に」の意味ですが、マタイでは、より広い意味で「この世に」と同じです。
[35]終末時に生じる家族の悲劇はマルコ福音書13章12節にも見られます。なお、ミカ書とイエスとの間の期間に書かれた『第一エノク書』/『エチオピア語エノク書』にも、裁きと懲罰の天使が降る時には、「人はその兄弟も、その息子も、その父も、その母も見分けがつかなくなる」(56章7節)とあります。
[36]ここもミカ書からの引用ですが、ルカ福音書のほうではこれが抜けています。ほんらいイエス様語録にこの節がなかったのなら、あるいはマタイが、ミカから引用してここに加えたのかもしれません。マタイの引用は七十人訳のミカ書の言い方とも全く異なっていますので、彼は直接ヘブライ語原典を念頭に置いているのかもしれません。家族が内部で割れることについては、マタイ福音書10章25節後半をも参照してください。世間の非難が家族内にも分裂を引き起こすのです。
 
■ルカ12章
 ルカは、この箇所をイエスの一行がエルサレムへ向かう途中の出来事としています。11~12章で一連のイエスの教えが語られますが、この箇所は、その直前の12章49~50節で語られる「火」とイエスが受ける「(火の)バプテスマ」を受けて、この謎のような言葉の意味を説明するためです。しかしここでは、ルカよりもマタイのほうがイエス様語録の原型に近いと言えます。両者の違いは、「わたしは来た」(マタイ)に対して「わたしは来臨した」(ルカ)、「あなたたちは~と想像する」(マタイ)に対して「あなたたちは~と見なす」(ルカ)、「平和を投げ入れる」(マタイ)に対して「平和を与える」(ルカ)、「剣」(マタイ)に対して「分裂」(ルカ)、「人をその父に対して」(マタイ)は「父は子に向かって」(ルカ)などです。ルカは、マタイにはない「子は父に向かって」と「母は娘に」と「しゅうとめは嫁に」を加えています。またルカは、マタイの結び「自分の家族の者が敵となる」を省いているのかもしれません。これらの違いは、ルカの書き換えにもよりますが、マタイとルカとでは、この部分のイエス様語録の資料が異なっているとも思われます。
[51]【分裂】ルカ福音書2章34~35節に、幼子イエスが「反対を受けるしるし」であって、このために母マリアの心が「剣で刺し貫かれる」とあるのは、ここでの「分裂」と対応しているのかもしれません。
[52]【今から後】ルカは、旧約の時代を洗礼者ヨハネの時までとしていて(ルカ16章16節)、この時期と、イエスが到来して地上にいた期間と、復活以後の教会の時代とを救済史的な視野から区別しています。ここでの「今から後」も、このような視点に立って、イエスの到来とともに新しい御国の時代が来臨したことを指しているのです。ただし、「今から」が、特にイエスの十字架の時を指すと見ることもできましょう(ルカ22章36節参照)。
[53]【対立して分かれる】52節と同じ原語ですが、52節では完了形受動分詞で未来を表わし、「分断された状態になるであろう」とありますが、ここでは未来形で、「今から後に」起こるであろうことを預言しています。
 
■『トマス福音書』(16)
 マタイとルカの場合は、息子と父との対立と並んで娘と母、嫁としゅうとめとの対立が語られています。ところが『トマス福音書』では、父と息子との対立だけが取りあげられています。『トマス福音書』とイエス様語録との関係は、よく分かっていませんが、両方に共通する伝承があったと考えられます。だとすれば、『トマス福音書』(16)は、イエス様語録と共通する伝承から、女性に関する部分を省いて、父と子という男性の対立だけを示していると考えられます。これは、家族内での対立を示すよりも、イエスを信じることによって、父なる神とイエスの信仰者である人間との対立を示そうとしたからだと見る説があります〔『トマス福音書』(2)〕。こういう見方は、最後の4節に表わされていて、「単独で立つ」とあるのは、神から自立した人間のことを示そうとしていると見るのです。だから4節は『トマス福音書』の作者による付加部分です。
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