78章 イエスに従う覚悟
           マタイ10章37〜39節/ルカ14章25〜27節/同17章33節
        ヨハネ12章25節/『トマス福音書』(55)
 
イエス様語録
その父と母を憎まない者は、わたしの弟子になることができない。
また息子と娘を憎まない者は、わたしの弟子になることができない。
自分の十字架を受け取ってわたしの後に従わない者は、わたの弟子になることができない。
自分の命を見いだす者は、それを見失い、
わたしのために自分の命を見失う者は、それを見いだす。 

マタイ10章
37わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
38また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
39自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。
 
ルカ14章
25大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。
26「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。
27自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」
同17章
33自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。
 
ヨハネ12章
25自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
 
『トマス福音書』(55)
イエスが言った、「その父とその母を憎まない者は、わたしの弟子であることができないであろう。わたしのように、その兄弟とその姉妹を憎まない者、その十字架を負わない者は、わたしにふさわしくないであろう。」
                  【注釈】
                  【講話】
■重複について
 前回の箇所は、教会ではあまり注目されなかったと言いました。これに対して、今回取り上げる箇所は、教会の中でよほど注目されたようで、マタイとルカは、それぞれの福音書で、同じ内容の言葉を2度ずつ載せています。マタイ福音書では、10章34〜39節と16章24〜25節です。10章では、「家族よりもイエス様を愛する」ことと「十字架を担う」ことと「自分の命を見失う」自己否定の三つが組み合わされています。ただし16章では、「十字架」と「自己否定」の二つだけです。
 マタイはこのように、家族よりもイエス様に従うこと、十字架を担うこと、自分を捨てることをセットにしています。しかし、他の箇所では、この三つが違った組み合わせですから、興味のある方は注釈のほうをお読みください。また、マタイ福音書では、家族を「愛する」とありますが、ルカ福音書では、家族を「憎まない」とあります。この違いについても注釈を参照してください。
 ルカ福音書では、7章33節に自分の命を失う「自己否定」がでてきて、9章23〜24節では「十字架を担う」ことと「自己否定」が、さらに、14章25〜27節では、「家族を捨てる」ことと「十字架を担う」ことが組み合わされてでてきます。なお今回、マルコ8章34〜38節が抜けていますが、この部分はほかの章で扱います。
 このように内容的に同じ伝承が重複してでているのは、マタイもルカも、イエス様語録の両方から、同じ内容の伝承を採り入れたからだと考えられています。この重複は、それだけ今回のイエス様の教えが、初期の教会の人たちに深い影響を与えたからでしょう。これらのお言葉は、それ以後も、現在に至るまで、イエス様の大事な教えとして受け継がれています。では、ここがどうしてそんなに大切なんでしょう。
■新しい人格の創造
 モーセの十戒に、「あなたの父と母とを敬え」とあります。それなのに、イエス様は、どうして「家族を憎む」とも受け取られるようなことを言われるのだろう。皆さんは、こう思うかもしれません。父母を敬うことは、十戒の後半にあります。後半は、人間と人間との関係についての戒めで、「父母を敬う」ことは、その最初にでてきます。ところが、前半は、偶像を拝むな、主のみ名を尊重せよ、安息日を守れ、のように、人間と主なる神との関係に関する戒めです。まず神様と人間との関係が先にあって、これが正しくないと後半の戒めを正しく守ることができない。このことが分かります。だから、ここでイエス様が言われていることは、家族のことよりも、先ず父なる神との交わりに入りなさいということで、モーセ十戒に沿っているのです。イエス様が言われているのは、両親を「憎みなさい」という意味ではありませんから、間違えないでください(マルコ7章9〜12節を参照)。
 では、自分の肉親を離れる、あるいは捨てること、この世から困難や迫害を受けること、自分自身を捨てること、この三つに共通するのは、なんでしょう? それは、イエス様の御霊にあって、信じる人には「新しい人格的な創造」が起こる、ということです。ただし、「古い自分」を失って、「新しい自分」が与えられるというのは、この世を去ってから、あの世で新しい自分が授与されることではありません。そうではなく、イエス様がここで言われているのは、わたしたち一人一人に与えられている「ひとつの命」のことなのです。だから、命は、この地上で身体的に生きている「今のこの命」のことでもあるのです。イエス様は、「この命」を失った者は「この命」を見いだす、こう言っておられるのです。ここが大事で、しかも、分かりにくいところです。
 イエス様のこの御言葉から判断しますと、人間が、身体的に生きているか死んでいるかは、この新しい命の創造と直接関係がないことになります。なぜなら、イエス様を受け容れているわたしたちには、もうすでに「この世にあって」、新しい命の創造が行なわれつつあり、一人一人に、「イエス様のご人格/お姿」としての御霊が、与えられているからなのです。今の世のこの命を「憎む」のは、あの世で別の命が与えられるからではありません。「今憎む」のは、もっとすばらしい命が「今ある」からです。そうでなければ、自分の命を「憎む」ことなどできませんよ。しかもこの霊的な命は、わたしたちの身体的な生死を超えて永遠に存在していく。イエス様はこう言われているのです。新しく創造されるというのは、こういうことです。すごいことです。
■捨てることは得ること
 創造は、必然的に、古いものの否定を伴います。ただし、先に否定があって、それから創造が生じるのではありません。火事の時みたいに、古い家が燃えてなくなってから新しい家を建てようという意味ではありません。木の葉が秋になると黄色くなって落ちていく、それと同時に、新しい芽から新しい葉が生まれてきますね。命は常に新しく創造するから、これに伴って、古いものは自然と消えていくのです。
 イエス様を信じることと家族との関係については、前回お話ししましたから繰り返しません。先ずイエス様とその父なる神、それから家族です。イエス様との交わりがはっきりして初めて、家族のいろんな悩み事も解決していくのです。だからこそ、イエス様に従う者は、肉親の情愛から霊的に離れなければならないのです。「そこから」、新しい人間関係、家族関係が生まれてくるからです。だからイエス様はこう言われたのです。「アーメン。わたしのため、福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者は、だれであれ、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も、その百倍を受ける。また、後の世では、永遠の命を受ける」(マルコ10章29〜30節)。イエス様に従うことは、肉親を再び新しい姿で取り戻すことになるのです。家族が新たにイエス様に導かれることもあるし、そこまでいかなくても、新しい生き方が、その人を通して家族に理解されるようになります。
 仕事や職場についても同じです。企業や世の中の仕組み、特に権力者たちのものの見方には、「人を人とも思わない」ところがあります。人間を非人格的な物あるいは対象としてしか見ないからです。労働力、選挙の票、税金の納め手、利息を支払う「かも」です。クレジット会社から見れば、あなたもわたしも、何千万という「番号」の一つにすぎません。戦争では人間は攻撃「目標」です。人からその人格を奪うことを「奴隷化」すると言います。最も恐ろしいのは、国家が、その国民をその権力によって奴隷化することです。
 人間を非人格的にしか扱わないこの世の仕組みから、人間を人格として扱うように、社会の仕組みをその内面から変えていく力、それがイエス様の御霊の福音です。わたしに言わせるなら、この世の仕組みを変革する唯一のほんとうの力が、イエス様の御霊の働きです。なぜなら、この御霊だけが、あなたとわたしを神様の御前で人格(ペルソナ)として扱い、かつわたしたちがそうなるように働きかけるからです。
 だから先ずイエス様と父なる神です。イエス様に従うことによって創造される新たな人格的な命が、わたしたちに形成されることによって初めて、ほんとうの意味で、新しい世の中が生まれてくるからです。組織力でも、数の多さでも、政治権力でも、経済政策でも、学識でもないのです。この世の困難にもめげず主様に従う人たち、このような人たちによって、個人の人権や自由が尊重される世の中へと変革されていくのです。イエス様の御霊にあって、この世の仕組みに「とらわれない」ことが、この世をよみがえらせるのです。「だから、先ずなによりも、神の国を求めなさい」とイエス様は言われたのです(マタイ6章33節)。
■十字架の意義
 ここで「十字架を担う」ことについてお話ししましょう。「十字架」とありますから、このお言葉は、十字架の後で、すなわちイエス様が復活された後になって、教会によって作られた言葉である。こう考える人たちがいます。しかし、福音書が幾度も証ししているように、イエス様はこの「十字架」をエルサレムへ上る途上で語られました。だから、十字架の言葉は、イエス様がこの地上に生きておられる間に語られたのです。
 このことが大事なのは、この御言葉がイエス様の生前に語られたのか、復活以後に教会によって形成されたのかによって、お言葉の意味そのものが変わってくるからです。どう変わるかと言いますと、
(1)今回の聖句を初めとして、聖書の証言によれば、イエス様は、弟子たちと共にエルサレムへ上る途上で、すでにご自分が十字架の苦難を受けることを予想していたことになります(マルコ8章31〜36節)。イエス様は、それでもあえて弟子たちに、自分に従うように求めておられるのです。この場合に大事な点は、弟子たちから見れば、十字架それ自体が、イエス様に「従う」ことの目標では「ない」ことです。なぜなら、イエス様の言われる「十字架を担う」は、この段階では、まだひとつの予測ですから、イエス様は、「たとえ自分が十字架刑に処せられる」ことになっても、それでもなお自分に従うよう求めておられることになります。
 だから、この意味での「十字架を担う」とは、イエス様の弟子となることに伴う困難や迫害を指す比喩的な意味なのです。少なくとも、まだ十字架へいたってはいない段階では、弟子たちにとって、師の言葉はこのように受けとめられたことでしょう。なぜなら、彼らにとっては、イエス様に「従う」ことが目的であって、イエス様がすでに見通しておられた十字架の受難それ自体は、彼ら自身の目的では「ない」からです。弟子たちと、彼らの周辺のイエス様の信者たちにとっては、十字架が予測されている「にもかかわらず」イエス様はメシアなのであって、イエス様が、十字架刑に「処せられるから」メシアなのではないのです。
(2)しかしながらもしも、復活の後になって、イエス様が弟子たちに顕われて、十字架を負って従えとこのお言葉を語られたとすれば、「イエス様に従う」とは、イエス様と「同じように十字架される」ために従うことになります。この場合、十字架は、弟子たちの「目的」であって、従った「結果」として、弟子たちが十字架されることではなくなるのです。
 注意してほしいのは、このような見方によれば、十字架される以前のイエス様を含む人間の命と、復活した後の命とは、全く異なる別の命になることです。人は、地上の身体の命を失って初めて、復活の命に達することができるのですから、地上の命と復活後の命とは、種類の異なる二種類の命になるのです。この点は、パウロやパウロ以後の教会の信仰において、大きな問題となります。しかし、イエス様がここで言われていることは、こういうふた種類の命のことではないのです。
(3)いったい、イエス様が復活されたその命とは、イエス様が地上におられた時の命のことでしょうか? それとも、地上の命とは全く異なる別の命へと復活(この場合は「復」活にはなりませんが)されたのでしょうか?
 聖書が証ししている復活のイエス様とは、イエス様が地上におられた時のそのイエス様が、「再び」そのお姿で「復」活されたことです。だから聖書によれば、生前のイエス様の命と復活後のイエス様の命との間に本質的な区別はありません。言い換えると、復活のイエス様こそが、地上におられた時のイエス様の「真のお姿」であるとさえ言えるのです。ちなみに、ヨハネ福音書が繰り返し証ししているのは、「このこと」です。肉体を具え地上に存在しておられた時のお姿、これがイエス様の「おからだ」であり、そこにイエス様の霊性を観ること、あるいは、イエス様の霊性が顕わされていたと「知る/霊知する」こと、これが、福音書がわたしたちに伝えようとしていることなのです。
 だから、イエス様が地上に来臨された時に、すでに復活の「おからだ」を宿して来られたことになりましょう(処女降誕伝承が証しするのはこのことです)。すなわちイエス様は、その伝道活動の結果として、自分でも「予期しなかった復活」に到達したのではなく、復活すべく復活されたのです。わたし自身は、イエス様が「このこと」を自覚されたのは、洗礼者ヨハネによって洗礼を受けて、「聖霊が鳩のように降った」その時であると思っています。
(4)しかし、ここで一つの大きな転換が生じます。先ず事の起こりは、十字架を担うようにと語られたイエス様が、「現実に」十字架刑に処せられたことです(この点は注釈を参照してください)。この段階で、イエス様が語っておられた十字架が、比喩から現実へ転じることになったのです。十字架がほんとうにイエス様の身に実現したことによって、復活以後の教会にとって、イエス様の十字架をどのように受けとめるべきかが、大きな課題となりました。そこには、この十字架の出来事をめぐる、いろいろな解釈があったろうと思われます。それらの解釈の中から、十字架が、イエス様に「従う」ことの目標になるという一つの転換が生じたのです。
 このような転換が、最初期の諸集会のどこで、どのような過程を経て生じたのかを特定することは困難ですが、十字架されることそれ自体が、すなわちイエス様をキリストと信じることだととらえた使徒の一人がパウロです。パウロに代表される復活以後の教会においては、十字架にかかることが、弟子たちが生前のイエスから教えられていた「従う」ことへの結果から、それ自体が、目的へと転じることになっていったと思われます。ガラテヤ人への手紙(2章19節)にある「わたしはキリストと共に十字架された」というパウロの叫びとも言える告白は、このような転換が、ほかならぬ<イエス様の御霊によって>もたらされたことを証ししています。しかし、すぐに分かることですが、ここでパウロが言う「十字架される」は、聖霊によってもたらされる比喩的な事態だと言うことです(パウロはまだ生きていますから)。このような「比喩」は、単なる「たとえ」ではなく、それ以上に深い霊的な事態として生じる出来事を指していますから、これを「隠喩/暗喩」(英語の"metaphor")と言います。イエス様がその生前に教えられた「十字架を担って従う」ことも、比喩的(隠喩的)な意味を帯びていました。パウロが言う「十字架される」ことも同様に、隠喩的にしか言い表わすことができない出来事なのです。イエス様に「従う」ことと、イエス様と共に「十字架される」こととが、このようにして、イエス様の復活以後において、一つにつながるようになったのです。
■十字架の命
 パウロは、このように、イエス様をキリストと信じて、「キリストと共に十字架される」ことこそが、福音の要(かなめ)であると信じたのです。ここで大事なことが二つあります。
(1)この十字架によってキリストから授与されるその「命」とは、決して復活「以後に」与えられた命のことではなくて、イエス様が地上におられた時のまさにその命のことであり、ナザレのイエス様に宿った霊性こそが、パウロが生きる「キリストの御霊にある命」であるということです。だからこそ、パウロが、復活のイエス様に近づくと言う時に、彼の生き様は、「地上のイエス様」のお姿に近くなるのです(フィリピ2章1〜8節)。そこにあるのは、ナザレのイエス様に宿る霊性の命であり、それは、地上を歩まれたイエス様の命であり、復活後にその弟子たちに働く命でもあるのです。そこにあるのは、十字架と復活と聖霊降臨とを一貫する霊的な命です。
(2)だから、パウロにあっては、「十字架される」こととイエス様に「従う」こととが一つなのです。十字架されることがイエス様に従うことであり、イエス様に従うことは、十字架されることによって初めて可能になるからです。このことはまた、わたしたちが、イエス様を信じてこの地上を歩む時に生じることです。これがパウロの言う、「キリストと共に十字架される」ことの意味です。
 結びとして言わせていただくなら、イエス様の人間存在の中に、神の御霊の創造的なお働きが宿っていたこと、この霊性の状態のことをイエス様は「十字架を担う」というお言葉で言い表わされるのです。イエス様が、実際にどのような言葉を用いたかについて疑問を呈する説もありますが、イエス様がどのような言葉で語られたかに関わりなく、言おうとされた内容は、まさにこのことです。イエス様にあって捨てることは、イエス様にあって得るのです。イエス様の中で自分を見失うことで、新しい自分を見いだすのです。「わたし(イエス様)のためにわたし(自分)を見失うものは、わたしを見いだす。」この最後の「わたし」、これが福音がわたしたちに伝えようとしている「わたし」なのです。
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