【注釈】
■イエス様語録
イエス様語録のこの部分は、これだけで独立しています。復元はマタイからのものがほとんどです。ルカからのものは、マタイの「父」に対してルカの「自分自身の父」、マタイの「愛する」に対してルカの「憎まない」などです。また、マタイの「わたしにふさわしくない」に対してルカの「(弟子)でありえない/になることができない」では、マタイの「ふさわしくない」のほうを選ぶこともできましょう〔ヘルメネイアQ〕。参考までに英訳をあげると、「わたしの弟子になる」は、「わたしに学ぶ」"learn from me"と「わたしの宗団に属する」"belong to my school"とに訳されており、「(命を)守る"protect"者は、これを失い、これを失う者は、これを保つ"preserve"」と、原語が二通りに訳してあります。
今回も前回に続いて、イエスは厳しい言葉を語りますが、これらの言葉の背後にある歴史的な状況については、すでに述べたので控えます。ただし、前回の場合とは異なって、今回のイエスの言葉は、最初期の頃から教会で注目されていて、このためか、イエス様語録のここの箇所は、マタイ福音書とルカ福音書でそれぞれ2度ずつ重複して語られています。なお、ほんらいならマルコ福音書8章34~35節もここに含めるべきでしょうが、今回の部分は、同じ福音書で重複(ダブレット)して出て来ますから、マルコ福音書のほうは後の「自分の命の代価」で扱います。またイエス様語録の終わりの2行は、ヨハネ福音書にも『トマス福音書』にも受け継がれていて、以後の教会に大きな影響を与えました。
【憎まない】イエス様語録への復元としては、ルカの「憎まない」とマタイの「愛する」の両方が考えられます。しかし「憎まない」という否定の言い方のほうが、ヘブライ的で、イエスの元の言葉に近いでしょう。マタイも「憎む」をそのまま肯定的に使うことはしていません。先の注釈で述べたように、ヘブライ語では、者/物それ自体を「愛する」「憎む」という言い方よりも、常に何かと比較して「~より愛する」あるいは「~より愛することが少ない/愛さない」「~より憎むことをしない/愛する」のように比較において憎愛が語られる場合が多いのです。ここでも、イエスとの比較において「父や母を憎まない」こと、すなわち父母よりもイエスのほうをあえて選ぼうとは「しない」こと、これがここでの「憎まない」の意味です。マタイが「愛する」と言うのも、父母よりもイエスのほうを優先的に選ぶことを「しない」ことを裏から言っているのです。
【自分の十字架を】十字架を「担う」とある原語は「受け取る/手にする」ことで、あえて自分からその十字架を担ぐことです。このように、自ら進んで、あえて自分の「十字架を担う」という言い方は、キリスト教以前には、ユダヤでも、ヘレニズム世界でもほとんどでてきません。
十字架刑は、ローマ帝国時代には、ローマへの反逆者を含む罪人への最も一般的な死刑の方法でした。処刑される者は、「自分の」十字架を処刑場まで担いでいくのが習わしでしたから、「十字架を担う」は、犯罪者が受ける厳しい処刑を表わす一般的な言い方でもあったのです。したがって、十字架刑は、必ずしも政治的な反逆者や軍事的な反乱の指導者に限られたわけではありません。イエスの言葉も、当時のこのような一般的な言い方を背景にしています。この言葉は、以後の教会に大きな影響を与えましたが、大別すると、以下のように解釈されています。
(1)十字架刑は、反逆者などに対するローマ帝国の処刑の方法でしたから、「十字架を担う」という言い方は、特にユダヤでは、あえてローマに反抗して十字架刑に処せられることも辞さないという政治・社会的な革命への意思を表わしていました。だから、イエスはここで、十字架の処刑をも恐れず、ローマの権力に立ち向かうように弟子たちを励ましているという解釈があります。これが、いわゆる「革命家」イエス像です。このようなイエス像は、はたして正しいでしょうか?
まず確認しておかなければならないことは、イエスがローマに対する反逆罪で十字架刑に処せられたという事実です。イエスは、ローマ皇帝に反逆する「ユダヤ人の王」として処刑されました。この点についてのヨハネ福音書(ヨハネ19章21節)の記述は、歴史的に正しいと考えられます。イエスの神の国運動が、ユダヤ民族主義を根とするローマ帝国への抵抗を意図しているという認識は、イエスの真の意図とはかかわりなく、ユダヤの指導者たちとローマの総督とにある程度共有されていたと見ることができます。
次に、イエスの周りに集まった民衆もまた、イエスが「ローマの権力からイスラエルを解放して」くれることを期待していたと思われます。少なくとも、イエスをこのために遣わされた神からの預言者あるいはメシアだと信じた人たちが少なからずいたと思われます(ヨハネ6章15節/マタイ20章20~24節)。特にイエスの生まれ育ったガリラヤは、紀元前63年以降、ローマ軍による虐殺と奴隷化を経験しており、続いて、ローマと結んだヘロデ大王によっても(前40年以降)、ガリラヤの人たちの抵抗運動に厳しい弾圧が加えられました。このような強権的な支配の下でも、紀元6~40年頃は、比較的平穏で、イエスが伝道を始めた頃はちょうどこの時期に当たります。とは言え、経済的な搾取は、ガリラヤの人たちに依然として強い反抗心を抱かせ続けていました。
ではイエス自身は、ローマに反抗する「革命」を志していたのでしょうか? イエスが、ローマ帝国の支配と束縛からイスラエルが解放されることを願ったことを「否定する」根拠はありません〔デイヴィッド・フルッサー、池田裕他訳『ユダヤ人イエス』教文館(1998年)〕。また、イエスは、自分がエルサレムで十字刑に処せられることをはっきりと見抜いていました(マルコ8章31節)。それだけでなく、イエスの告知を拒否したエルサレムに滅亡の時が訪れることをも予知していたと考えられます(マタイ24章1~2節/マルコ13章1~2節/ルカ13章33~35節)。ただし、このような事実は、イエスの霊性を知るための「傍証」にはなりますが、イエス自身の真意を洞察するための「根拠」にはならないことに注意しなければなりません。
イエスが社会革命的な意図を抱いていたと考える人は、イエスは「ここ地上に神の国を樹立するという壮大なヴィジョンを抱いており」、このために「公然たる抵抗と密かな抵抗、秘密裡の抵抗とあからさまな抵抗との境界で」食事や癒しなどの実践活動を行なっていたと言うのです〔ジョン・D・クロッサン著、太田修訳『イエス:あるユダヤ人貧農の革命的生涯』新教出版社(1998年)172~73頁〕。はたしてイエスは、当時の革命家たち、すなわち、武力による戦いをも辞さない抵抗運動の人たちと志を同じくし、このために「十字架を負う」覚悟を弟子たちに説いたのでしょうか? ヨハネ福音書18章33~38節は、イエスの「神の国」が、こういう革命志向とは全く異なる霊性に基づいていたと証言しています。イエスはピラトに向かい、自分の伝える神の国が「この世から出たものではない」ことをはっきりと証ししているからです。ヨハネ福音書は、イエスの活動がローマ帝国に抵抗する意図から出たものではないことを立証するために書かれている、という見方がありますが、これは誤りです。なぜなら、ヨハネ福音書は、比較的忠実に史実を伝えており、その描き方は決して親ローマ的とは言えないからです。
ただしわたしたちは、共観福音書もヨハネ福音書も、ほんらいは「史実」を伝えるために書かれたものではないことを知っておかなければなりません。そうではなく、神の子としてのイエスの内に働く聖霊の働きを、言い換えるとナザレのイエスの霊性それ自体を証しするために書かれているのです。歴史的状況は、霊性を知るための傍証にはなりますが、霊性を判断するための根拠にはなりません。なぜなら、歴史的検証は、客観的な事実を確定するためのものであって、必ずしも、その事実に潜む霊性それ自体を識別するための確定した方法ではないからです。客観的事実は、霊性を判断するための大事な指標であり、これによって、聖書的霊性を深く洞察することができます。しかし、イエスの内に働いていた御霊の働きを知るための最終的な根拠は、霊性それ自体を伝えようとしている新約聖書によるほかはありません。この場合でも、イエスの伝道が、直接であれ、間接であれ、権力に対する抵抗運動であったと判断するのには、「そうでないこと」を証しする聖書の箇所が多すぎます〔デイヴィス『マタイ福音書』219頁〕。しかし、イエス革命家像には、わたしたちが見過ごしてはならない大事な点が含まれています。それは、イエスが伝えようとしていた出来事が、「この地上で人々に起こる」出来事であるという視点です。言い換えると、イエスは、それが未来であれ死後であれ、今のこの世から切り離された「あの世」を目指していたのでは「ない」こと、このことをこの説は教えてくれます。この点がとても大事な意味を持つことを後で説明したいと思います。
(2)イエスはここで、「実際に」十字架を担うことを指すだけでなく、十字架を担う「覚悟」が、弟子たちにも必要だと告げているという解釈があります。共観福音書には、イエスが、受難の始まる「以前に」、弟子たちに十字架について語る箇所が全部で7回でてきます。ただし、相互に並行箇所と重複部分とがありますから、これらを整理して見ると、マタイ10章38節と同16章24節=ルカ9章23節と同14章27節=マルコ8章34節となります。これで見ると、5箇所の記述が同じ出来事を指すことになります。しかし、このほかにマタイ20章19節と同23章34節がありますから、マタイによれば、イエスは、前もって、自分が十字架にかけられることを3度弟子たちに告げていたことになります。
これらの聖書の証言によれば、イエスは十字架以前に、すでに自分が十字架の苦難を受けることを予想していて、それでもあえて弟子たちに、自分に従うように求めていたことになります。この場合に大事な点は、この時点では、弟子たちから見れば、十字架それ自体は、イエスに「従う」ための目的で「ない」ことです。なぜなら、「十字架を担う」は、イエスが十字架にいたるその途上にあっては、まだひとつの予測であり、イエスは、「たとえ自分が十字架刑に処せられる」結果が予測されても、それでもなお自分に従うよう求めていると理解されるからです。だから、この段階では、「十字架を担う」とは、イエスの弟子となることに伴う困難を意味するにすぎないのです。少なくとも、十字架への「途上にある」弟子たちにとっては、師の言葉はこのように受けとめられたことでしょう。なぜなら、彼らにとっては、イエスに「従う」ことが目的であって、イエスがすでに見通している十字架の受難それ自体は、彼ら自身の目的では「ない」からです。弟子たちと、彼らの周辺のイエスの信者たちにとっては、十字架が予測されている「にもかかわらず」イエスはメシアなのであって、イエスが、十字架刑に「処せられるから」メシアなのではないのです。この意味で、弟子たちは、例えば熱心党とは違って、殺されてもローマの権力に闘争を挑む革命的英雄を志すイエスを期待していたのではありません。
ただし、イエスのほうでは、すでに自分の身内で対立が起こっており、その上、エルサレムでの殉教が彼を待ち受けていることが視野に入っていたと思われます。このような「十字架の影」の下で、イエスは、家族の問題と十字架と命を捨てることとを語ったと考えられます。十字架への「途上で」語られたこの言葉は、このように見ると、これを聞く弟子たちの側とこれを語るイエスの側とでは、違った意味で響いたことは間違いありません。注意してほしいのは、ここで語られる「十字架」は、文字通りの意味で殉教を予測すると同時に、結果がたとえそうはならなくても、弟子たる者はそれだけの苦難を背負う覚悟が要るという比喩的な意味をも帯びていることです〔ノゥランド『マタイ福音書』〕。この段階での「十字架」は、字義どおりと比喩的な意味との両方にまたがる二重性を帯びていること、このことを知ってほしいのです。
だから、弟子たちがイエスに「従う」というこの言葉は、イエスにひたすら「信従する」ことと、イエスと共に「十字架を目指す」こと、この二つの間の緊張した関係で理解することができます。「従う」こととその結果として生じる十字架とのこの緊張を最も鋭く感知しているのは、マルコ福音書の8章34節です。弟子たちはこれをどう受けとめたのでしょうか? はたしてイエスは、どのような意図でこれを弟子たちに語ったのでしょうか? 「十字架」は困難の象徴なのか? 殉教のための目標なのか? こういう問題がここに浮上してきます。なお、この問題は、これに続く「自分の命を失う/見いだす」ことの解釈へとつながるので注意してください。
(3)イエス様語録のここの言葉は、イエスの十字架と復活「以後に」、教会によって創出されたという見方があります〔ハグナー『マタイ福音書』〕。この解釈に立つなら、イエスがここで「十字架を背負って従え」と言うのは、十字架の殉教を目的とせよという意味にほかならないことになります。なお、イエスが実際に用いた言葉は、「十字架」ではなく、「わたしの軛を担う」あるいはこれに近い言い方ではなかったか、それが、イエスの十字架と復活の後になって、教会によって「わたしの十字架を担う」へと言い換えられたのではないか、と見る説もあります〔デイヴィス『マタイ福音書』222頁(iii)〕。いずれにせよ、この解釈に立てば、「十字架を担う」というイエスの言葉の意図は、従った結果として十字架の殉教にいたることではなく、十字架を目指して「従う」ように告げていることになります。したがって、「従う」ことに対して「十字架」が、その「結果」ではなく「目標」になるのです。言うまでもなく、このような受けとめ方は、イエスの十字架と復活の後になってからしか出てきません。
十字架それ自体を目標と見なすこの解釈は、福音書の記者たちによってではなく、パウロによって受け継がれました。パウロは、復活のキリストの御霊にあって、「キリストと共に十字架される」(ガラテヤ2章19節)ことを彼の福音の要(かなめ)ととらえたからです。だからパウロにおいては、キリストを信じる者はだれでも、キリストにあって「死ぬ」ことを求められるのです。言うまでもなく、この解釈もまた、十字架を比喩的に理解しています。このように、十字架と復活以後の教会では、十字架は、殉教を指すと同時に、「困難」を表わす比喩と「死」の隠喩との二つの比喩的な意味で受け取られてきました。
以上のように、「十字架を担う」というイエスの言葉については、(1)~(3)の三つの解釈があります。さらに「十字架」には、おそらく、以後の教会において、次のような意義づけが加えられましたが、どちらもユダヤ人キリスト教徒からでたものと思われます。
(i)ヘブライ語のアルファベットの最後の「タウ」が、ギリシア語ではXまたはTで表わされたことから、この文字が十字架を象徴するとされ、十字架には、エゼキエル書9章4~6節にでてくる「ヤハウェに選ばれた者たちのしるし」の意味も加わわりました。
(ii)この言い方は、イサクがアブラハムに従って、自分を犠牲にする薪を「背負った」とあるところ(創世記22章)にちなんでいると理解されました。
以上述べたことから判断すると、「十字架を担ってイエスに従う」ことは、これがイエスの口から語られた段階では、殉教の死を選ぶことではなく、(2)で述べたように、自分をイエスに委ねて「従い抜くこと」を意味していたと考えられます。しかし、イエスにあっては、このような比喩的な意味での「十字架」は、同時に字義どおり死を意味する「十字架」へと通じていたのです。
【自分の命を】ここのイエス様語録の終わりの2行には、「自分の命を見いだす者は、それを見失い、わたしのために自分の命を見失う者は、それを見いだす」とあります。ここで「命」と訳したギリシア語の原語「プシュケー」には、「身体の生命」「(身体と区別された)霊魂」「真の命」という三通りの意味が含まれています。
(A)「身体の生命」は、ヘブライ語「ネフェシュ」(息/命)から来ている訳語で、伝統的なイスラエルの人間観に基づくものです。ただし、イスラエルでは、人間の身体的な「ネフェシュ」(命)は、神の「ルアハ」(息/霊)によって与えられていますから、神の創造の働きと深く関係しています。
(B)「霊魂の命」は、捕囚以後に、ユダヤ人が、ギリシア思想の影響を受けてヘレニズム化するにつれて生じた見方です。人間は、身体とそこに宿る霊魂との二つから成り立っているという人間観に基づいて、たとえ肉体は滅んでも、その人間の霊魂は滅びることがなく、いつまでも生きていると考えられたのです。この「霊魂不滅」の思想には、たとえ肉体は汚れていても霊魂は浄いという肉体と霊魂とを分離する考え方が潜んでいます。
(C)「真の命」は、イエスを始め新約聖書で用いられている意味です。神によって創造され、神から来る命は、たとえ肉体が滅びても、その人が「神と共にいる」限り、失われることがないという信仰から来ています。この信仰/思想は、人間には、身体と心とそこに働く霊を含めて、「ひとつの命」しかないという考え方に基づいていますから、たとえ人の身体が滅んでも、「命」とその「かたち」としての「からだ」は失われることがないというのです。新約聖書で、人の肉体が滅んでも、「霊のからだ」が神から与えられるという信仰は、このような思想から来ています。
以上をまとめると、「命」には「肉体の命」と「霊魂不滅の命」と「身体の生死を一貫する命」の三通りがあります。そこで、「命」についてのこれらの見方をその直前の「十字架を担う」と結びつけて見ると、そこに三通りの解釈が見えてきます。
(1)イエスが、もしも権力と闘う革命家であったとすれば、「見失うことによって得られる命」とは、(A)「肉体の命」か(C)「生死を一貫する命」のどちらかの場合しか考えられません。(B)の霊魂不滅の人間観は、ギリシア思想の影響を受けたユダヤの黙示思想の場合に見られますが〔TDNT(9)「プシュケー」〕、イエスは、このような生命観を持っていませんでした。
(A)の意味で語られたのであれば、「見失うことによって見いだす」その人の身体の命は、<現実には>失われることがありません。イエスのために死ぬ覚悟で闘うことによって、逆にその命が「保たれる」ことになるからです。イエス様語録の英訳にある「守る」"protect"と「保つ」"preserve"という訳語は、あるいはこの意味を含むのかもしれません。これは日本の剣法で言う「必死の剣」と通じる考え方で、死ぬ覚悟で相手に立ち向かうなら、かえって相手を倒して自分が生きるという極意のことです。
(C)の意味で語られたのであれば、その人の地上での身体と命は失われます。この場合、イエスの当時の思想に照らすと、二通りの意味に理解できます。
(イ)一つは、神のため、正義のために闘った殉教者は、たとえその肉体が殺されても、神は必ずその人の肉体をもその命共々に、再び「この地上に」よみがえらせてくださるという思想です。だから、彼の命もその身体も失われることがないどころか、神はそのような義人には、以前にも勝る豊かな祝福を与えてくださるという思想です。このように、人が地上で生きていたのと同じように再び生き返ることを「よみがえりの思想」と呼ぶことにします。
(ロ)もう一つは、この思想から発達したより高次な啓示に基づくものです。たとえ地上での肉体が失われても、義人と悪人とが神によって裁かれる終末の日には、義人の命とその身体は、失われることがなく復活するという信仰です。この場合、終末に与えられる「命」と「からだ」は、以前の肉体とその生物的生命と同じではありません。神によって創造された新しい「命」と「からだ」だからです。これを「復活の思想」と呼ぶことにします。
イエスの言葉は、「よみがえりの思想」ではなく、「復活の思想」に基づいていると考えられます。ここで注意しなければならないのは、この「復活」は、地上の身体的な「命」とは別個に、霊的な「命」が存在するというふた種類の「命」のことを指すのではないことです(もしも二つが別個であれば「霊魂不滅」に近くなります)。そうではなく、イエスがここで述べていることをそのまま読むならば、「人が現世においても来世においても抱くひとつの命」のことを指すと考えられます〔ノゥランド『マタイ福音書』〕。「真の命」というのは、「従って、自然的〔身体的〕生と宗教的〔霊的〕生とを、簡単に分離するわけにはゆかない。地上の自然的生命をも含めてほんとうの生命は、自己を捧げることにおいてはじめて見いだされるのである。躍起になって命を保持しようと望む人こそまさに、幸福を与える真の命の可能性を見失うのであり、創造者〔なる神〕が意図された命は、ただ捧げることにおいてのみ見いだされるものである」〔シュヴァイツァー『マルコ福音書』〕。ここまで来て初めて、ここで語られているイエスの言葉の「ほんとうの命」の謎/秘義が見えてきます。
だから、ここで語られている「真の命」とは、修練や修行によって、肉体の欲望から離れた生き方をするといういわゆる「禁欲主義」の哲学(例えばギリシアのストア派の哲学)に基づく生き方のことではありません。また、「からだを殺して霊魂を生かす」という霊肉分離/霊魂不滅の思想でもありません。
(2)イエスの言う「十字架」が、革命を意図したものではなく、イエスの伝える神の国に生き、これを伝えるために迫害や困難に耐えて、このために死ぬ覚悟もしなければならないという意味であれば、イエスの言う「命」の意味は、(1)で述べた内容と変わりません。「必死の剣による命」か「復活の命」かのどちらかです。しかも、上に述べたように、この「復活の命」は、「生死を一貫する命」ですから、肉体の生死にかかわりなく、深いところではつながっています。おそらくイエス様語録の人たちは、「十字架を担う」ことと関連づけて「自分の命を」についてイエスが語った言葉をこの意味に理解したと思われます。また、これが、イエスが実際に語ったことの真意でしょう。
(3)「十字架を担う」と「自分の命」が、イエスの復活以後に教会によって形成された言葉であるのならば、「十字架を担う」とは、イエスがすでに行なった出来事を指しています。だからここには「身体的な命」が入り込む余地はありません。イエスの言葉は、はっきりとイエスがすでに担った十字架を指しますから、これは「殉教を目指す」ことを意味します。しかも、初期の教会が、ユダヤの黙示思想の最初期に見られるような「よみがえりの命」を信じていたとは考えられませんから、この場合は、「復活の命」だけを指していることになります。
以上で分かるように、「命」には、「身体の欲望を殺す禁欲主義の命」「必死になることで保たれる身体の命」「よみがえりの命」「復活の命」「霊魂不滅の命」と、全部で5通りの「命」の解釈があります。イエスは、このイエス様語録で、十字架の殉教を覚悟して語っていると考えられますから、「十字架を担うことで見失って見いだす命」と言うのは、「復活の命」を指すと考えるのが自然でしょう
言うまでもなく、この段階で、イエスは、十字架を「覚悟」はしています。しかし、それはまだ起こってはいません。またイエスは、自分の十字架の受難を預言していますが、このこと自体を目的とする意図は読み取れません(マルコ8章31節/同9章31節/同10章33~34節)。まして、弟子たちにそのように教えている形跡はありません。イエスは、十字架を神が定めた避けられない「結果」として覚悟しているのであって、これを「目的」にしているのではないからです(マルコ14章36節)。だとすれば、弟子たちへの教えにおいて、「必死になることで保たれる命」の意味をも、そこにこめられていると考えることができましょう。
では、身体的な命がどうして十字架以後の命へとつながるのでしょうか? 実はここに、イエスの言葉のほんとうの謎と秘義があるのです。地上での身体の命と十字架以後の命とが一貫して「ひとつ」であるということは、死後にもなくなることのない「命」が、生前の身体に、何らかの姿で「すでに」宿っていなければなりません。だから、イエスによれば、「命」には、人の身体に宿りながら、しかも、その身体の死に制限されない、そのような「命」が、地上にいるわたしたちにおいて、神によって創造されつつあることになります。
大事なのは、「自分の(命)」とあることです。わたしたちは、「命」のほうだけではなく、「自分の」のほうにも目をむける必要があります。いったい「自分」とはなんでしょうか? この地上において神から与えられている自分の身体には、さらに死をも超える新たな命が、イエスに従うことで「自分に」創造されて与えられる、なにかそのようなことが、起こって来ること、イエスはこのことを弟子たちとわたしたちに語っているのです。人はイエスに従うことによって、いままで見えなかった「真の自己」を見いだすと言うのです。この思想が表われているのは『トマス福音書』です。
だから、「見失う命を見いだす」というこの逆説は、(1)福音のために殉教して、たとえ身体の命を失っても、その者には永遠の霊的な命が与えられるという意味と、(2)イエスの福音のために自分の身体を投げ出す者は、逆にその身体の命を保つことができるという、このふたつが重ねられていると解釈することができます。しかもこのイエス様語録には、(1)と(2)のどちらをも含むひとつの命という奥深い真理がこめられているのが分かります。だから、「自分の命」とは、真の意味での「自分」を指すと受け取ることもできましょう。イエスの福音に出合うことで与えられる「ほんらいの自分」の姿をどこまでも求めて止まない者は、身体的な命をも超える永遠の霊性を見いだすことをこのイエス様語録の言葉は教えているのです。
この解釈は、そのまま、「父と母を憎む」「息子と娘を憎む」とある箇所にも通じています。言うまでもなく、これは、肉親に対する憎しみのことではなく、「わたしのために」とあるように、イエスと肉親とのどちらかを選ばなければならない場合には、ためらうことなくイエスと福音を選ぶように告げているのです。元来、ヘブライ語の用法では、「あれか、これか」の二者択一の選択は、どちらかを「否定する」ことで、他を採ることではなく、選んだほうを優先させるために「比較する」ことです。イエスのために肉親を「失う」者は肉親を新たに「見いだす」のです(マルコ10章29~31節)。
イエスは、十字架を目前にしつつ、弟子たちに「十字架を担ってわたしに従え」と命じました。これは必ずしも、十字架そのもの、言い換えると殉教を目標とせよと言う意味ではありません。そうではなく、すでにイエスの内に働く霊性それ自体が、十字架の死を帯びている、ということを弟子たちに伝えたかったのです。イエスに従う「十字架」は、復活へつながる一貫した命の働きにほかなりません。だから、「従う」者には、このような命が宿ることを弟子たちに伝えたかったのです。イエスの霊性に宿る命は、イエスがこの世にいる間にすでに始まっていて、その命こそが、人をして永遠の命へいたらしめるべく働くのです。これこそが、真に自己を生かす道であり、ほんとうの自分を見いだす道なのだとイエスは教えているのです。これが、「十字架」にこめられている奥義です。
■マタイ10章
マタイは、10章34~39節を一つのまとまりとしています。その上で、34~36節で、イエスを証しすることが家族の分裂を招くとあり、37~39節では、これを進めて、たとえ家族を「捨てて」でもイエスに従うこと、さらに「自分自身を」捨てでもイエスに従うことを教えるのです。
マタイはここでも、全体をきれいな並列によって構成していて、今回の後半部分も、36~38節は、ともに並んで「わたしにふさわしくない」で結ばれています。39節も、「失う」と「得る」で終わる2行が並行しています。
しかし、資料的に見ると、今回のマタイとルカの段落は簡単ではありません。まずここ38~39節は、同じくマタイ福音書の16章24~25節と重なることです。マタイは、ここ10章ではイエス様語録を用い、16章では、おそらくマルコ福音書を用いている思われます。このように、同じ内容の伝承が、異なる状況において重複して用いられているのです。これは語られている状況が異なれば、意義が変化するからですが、ここでは、この問題に触れません。事情はルカでも同じですが、ルカの場合は、後で述べるように、もっと複雑です。共観福音書では、このように、時々「資料の重複」"doublet" が行なわれています。
今回の箇所も前回同様にイエスの言葉にさかのぼる部分が多いと考えられます。前回の家族の分裂のほうは、最初期の教会で注目されることがあまりなかったようですが、逆に今回のイエスの言葉は、弟子たちに語り伝えられて、十字架以後の教会に大きな影響を与えたと思われます。マタイとルカの資料の重複は、このことを物語るものでしょう。
なおここで、「自分の肉親を捨てる/憎む」ことと「捨てた肉親が何倍にもなって戻る」ことについて触れておきますと、「肉親を捨てる」と「捨てた肉親が何倍にもなって戻る」ことが組み合わされてでてくるのはマルコ10章29~30節だけです。これの並行箇所であるマタイ19章29節とルカ18章29~30節では、肉親を捨てた結果、「その何倍もの報いを受ける」とはありますが、「捨てた肉親が」何倍にもなって戻るとは明言されていません。このようにマタイ福音書とルカ福音書では、肉親を「捨てる」ことが「十字架」と「自己否定/自分の命を捨てる」とに結びつけられています。「肉親を捨てる」ことと「そのこと」に対する報いについては、後に、該当する並行箇所で扱うことにします。
[37]この節はルカ14章26節と比べるとずいぶん違っていて、ルカのほうがイエス様語録に忠実で、マタイはイエス様語録にかなりの変更を加えています。主な変更は、「憎む」→「愛する」と「弟子となることができない」→「ふさわしくない」です。
【愛する】マタイはイエス様語録の「(父母を)憎まない」という言い方を「(父母を)愛する」へと言い換えています。「愛する」の原語は「フィレオー」で、ギリシア語では、肉親や友人への愛情を表わす場合によく用いられます。この語は、「(神を)愛する」(アガパオー)と比較されます。だからここでイエスは、イエスか肉親かのどちらかを選ばなければならない場合には、イエスに従うほうを選びなさいというのです。
【ふさわしくない】これもイエス様語録からのマタイによる言い換えでしょう。「ふさわしい」の原語の意味は「重みがある」「値打ちがある」で、この言葉はここ10章だけで7回でてきます。働く者は報酬を受けるに「ふさわしい」(マタイ10章10節)、イエスの弟子を受け入れるのに「ふわしい」人と家(同11節)、息子と呼ばれるのに「ふさわしくない/資格がない」(ルカ15章19節)などの例があります。特に、最後までイエスに従い抜いた者は、「白い衣」を着るのに「ふさわしい」(ヨハネ黙示録3章4節)とあるのは、内容的に37節の「ふさわしい」に近いでしょうか。なお、主なる神自身が、「あなたこそ、栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方」(ヨハネ黙示録4章11節)であり、さらに子羊であるイエスこそ、神の秘義の巻物を開くのに「ふさわしい方」(同5章9~10節)だと言われています。ルカの言う「十字架を負ってイエスの弟子となる」ことを、マタイはさらに推し進めて、最後までイエスに従い抜いた時に、イエスによって新たな自己へと創造されて(「白い衣を着る」の意味)、神とイエスから栄光を授かるのに「ふさわしい」者にされることを考えているのでしょうか。
[38]【十字架を担って】マタイは、37節の「~する者は」という構文の型に沿うように、この節を言い換えています。これから判断すると、イエス様語録に比べてマタイは、イエスに見習って、「十字架を担う」を字義どおりの意味で受けとめていると思われます。
[39]マタイの「(自分の命を)見いだす者は(それを)滅ぼす」という言い方では、初めの「見いだす者」(アオリスト形分詞)の意味が分かりにくいところがあります。マタイは、ここに「わたしのために」を加えています。これも「イエスのために」殉教することを意識しているのでしょうか(10章28節参照)。そうだとすれば、後の「見いだすだろう」(未来形)は、身体の死後の復活による永遠の命を指すことになります。
■ルカ14章
ルカ福音書の14章7~24節では、イエスは、宴会のたとえを通じて、貧しい者、体の不自由な者たちを初め、その他大勢の人たちを神の国へ招き入れるたとえを語ります。ところが、14章25節からは、一変して、今度はイエスの弟子となるための条件を告げるのです。
14章26節では「家族を憎む」ことと「自分の命を憎む」ことが一つにされていて、同27節では「十字架を負う」ことが、これに組み合わされています。「十字架を担う」ことと「自分の命を失う/得る」ことは、ルカ9章23~24節にもでてきます。ルカ9章23節が同14章27節と重なり、9章24節が17章33節と重なりますから、マタイ福音書の場合と同様にルカ福音書でも、内容的には同じ伝承が重複して用いられています。マルコ福音書の場合は、マルコ8章34~35節に「十字架を担う」ことと「自己否定」とが表われますが、重複されてはいません。ただし、マタイ10章38~39節とマルコ8章34~35節では、「十字架」と「自己否定」とが、ひとつながりになっていますが、ルカ福音書では、「自分の命を」(17章33節)だけが、神の国の終末的到来の中に置かれています。ルカは17章33節だけを別の箇所へ移したのです。
ルカ9章23~24節は、語法的に見てマルコ福音書8章34~35節から出ていると推定されています。しかし、これと重複するルカ14章27節と同17章33節は、イエス様語録から来ていると推定できます。したがって、ルカが参照したイエス様語録とマルコ福音書との関係が問題になりますが、おそらくイエス様語録の伝承のほうがマルコ福音書の伝承よりも以前からのものでしょう。ルカは、マタイに比べると、イエス様語録をそのまま使用することが多いのですが、今回のところでは、逆にマタイのほうがイエス様語録に近いと言えます。それにしても、通常、重複を好まないルカが、14章27節と17章33節を重複させているのは、教会でこれがよほど重視されていたからでしょう。特に17章33節は、四福音書を通じて、なんと6回もでてきます(マタイ10章39節/同16章25節/マルコ8章35節/ルカ9章24節/同17章33節/ヨハネ12章25節)。
[25]ここでのイエスは、弟子たちを伴ってエルサレムへの途上にあります。「大勢の群衆が一緒について来た」とありますが、これらの人々は、ガリラヤからついてきた人たちだけではなく、イエスの一行が行く先々で顕わすしるしや奇跡を見ようと、またその教えを聴こうと集まった人たちです(13章17節)。イエスはここで、「振り向いて」これらの人たちに語りかけますが、それは、これらの大勢の群衆の中から、ほんとうにイエスの弟子となる人たちが出てくるからでしょう。そこで、この節では、これまでとは異なって、イエスの弟子となることが、どのようなことか、その「厳しさ」を告げるのです。イエスを見る人たち、イエスに接する人たち、イエスを囲む人たちは大勢いますが、はたしてその中の何人が、ほんとうのイエスの弟子になるのか、これが問われているのです(13章26~27節)。
[26]【父、母】原文は「自分の父と(自分の)母」です。マタイの「父と母」もルカの「自分の父と(自分の)母」という言い方も、旧約的で、イエス様語録からのものでしょう(申命記33章9節)。ヘブライ語にはギリシア語の「ゴネイス」(両親)という言い方がありません。
【妻と子供】原文は「その妻とその子供たち」です。これはイエス様語録にありませんから、ルカの編集です。マタイは「息子と娘」で、このほうが旧約的な言い方です。
【兄弟、姉妹】原文は「その兄弟たちと姉妹たち」です。これはイエス様語録にもマタイにもありません。ルカの編集ですが、マルコ3章35節の言い方を反映しているのかもしれません。
【憎まない】マタイの「愛する」よりも旧訳的な言い方です。ルカの「憎むことをしない」「わたしの弟子になれない」という言い方は、マタイの「愛する」「ふさわしい」に比べるといっそう厳しい内容になっています。
【弟子】これもマタイにはありません。イエス様語録の段階では、ユダヤ教の「弟子」と「師/ラビ」のような関係は、まだそれほど強く意識されていなかったと思われます。しかし、マタイとルカでは、「師」と「弟子」との師弟関係が、かなりはっきりと意識されています。ちなみに、使徒言行録では、「弟子」は、キリスト信者のことです(使徒6章1節など多数)。
[27]マタイ福音書では、十字架を「取りあげて担ぐ」ですが、ルカ福音書では「担って運ぶ」です。アラム語では、このギリシア語に当たるのが「持ち上げる」です。しかし、マタイとルカとで意味の違いがあるとは思われません。さらにルカ福音書では、「だれでも」とあって、イエスの弟子になる招きが、限られた弟子たちだけではなく、すべての人たちに向かって、呼びかけとして開かれているのに注意してください。なおルカ福音書では、「弟子になることは<できない>」とはっきり否定されています。
ルカ17章
[33]ルカはこの節を終末の時の艱難における心構えとして述べています。マタイ福音書では、自分の命(プシュケー)を「見いだす/得る」ことと「滅ぼす/失う」こととが対照されていますが、ルカ福音書では、命を「安全に保持しようと努める/しきりに求める」ことと「(命を)創り出す/死んだものを生きたものにする」こととが対比されていて、「死ぬ」と「生きる」の対照が、より明確に言い表わされています。ルカ福音書では、人の子が到来する時には、同じ家、同じ寝室にいる者たちが、別々の扱いを受けるのです。
■ヨハネ12章25節
ヨハネ福音書12章25節は、構文としてはマタイ10章39節に近いのですが、自分の命(プシュケー)を「愛する」(フィレオー)あるいは「憎む」とあるのはルカ14章26節とも共通します。だたし、ヨハネが直接マタイあるいはルカを踏まえているとは思えません。ここでは、十字架を目前にしたイエスが、「一粒の麦」のたとえに続いてこれを語っていますから、十字架の受難が、永遠の命への決定的な出来事であることがはっきりと示されています。ただし、ここヨハネ福音書でも、「永遠の命」が、地上における「命」と無関係ではないことが、「この世で自分の命を憎む」とあることから分かります。「このように弟子たちが、主のいる場で生きるなら、すでに彼らがこの世において生きている命のことなのである」〔TDNT(9)〕。「命」が不滅の霊魂を指していないことは、これを「憎む」とあることから明らかです。だから、永遠の命とは、地上での身体的な「生」から切り離された生命のことではなく、人間の身体的な命にあって「すでに」働きつつ、人に永遠の霊性を与える神からの生命のことです。
■『トマス福音書』(55)
『トマス福音書』でも、ここは(101)と重複しています。(101)では、「しかし、わたしの真実の母はわたしに命を与えた」で終わっています。(101)で言う「真実の母」とは、実の母に対して聖霊を指すのでしょう。この(55)でも「非本来的・この世的家庭関係を断ち切って、本来的な自己を具現して生きる者でなければならない」〔荒井『トマス福音書』(2)〕ことを意味しているのです。
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