79章 受け容れる者への報い
マタイ10章40〜42節/マルコ9章41節/ルカ10章16節/ヨハネ13章20節
 
                    【聖句】
 
イエス様語録
だれでもあなたたちを受け入れる者は、
 わたしを受け入れている。
だれでもわたしを受け入れる者は、
 わたしを遣わした方を受け入れている。
 
マタイ10章
40あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、
わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。
41預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、
正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。
42はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。
マタイ11章
イエスは、十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された。
 
マルコ9章
41はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
 
ルカ10章
16あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。
 
ヨハネ13章
20はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
 
【注釈】
  
【講話】
■小さな者の伝道
 今回で、伝道についてのイエス様の一連の教えが終わります。今回のマタイの言葉は、カトリック教会では、ローマ教皇(法王)が、イエス様から授かった使徒の権威を継承するとして、法王とこれを頭とする教会の権威と結びつけられました。しかしここのイエス様のお言葉は、教会の権威を教えるためのものではありません。そうではなくて、ここで言われている「小さな者」とは、イエス様の弟子たちのことなのです。だから、「小さな者」は、福音を伝える人たちのことなのです。同時にそれを助ける人たちもまた「小さな者」たちです。ごく普通の人たちです。この原点に立ち返って、もう一度、福音を伝えること、伝道すること、イエス様の証しを立てることを見ていかなければなりません。
■まず受けることから
 イエス様は、「受けるよりも、与えるほうが幸いである」(使徒20章36節)と言われました。これがお金のことならよく分かりますが、イエス様を伝える場合には、これに少し付け加えなければならないことがあります。福音を伝えるとは、イエス様の御霊を伝えることです。この場合、与えるためには、先ず自分が受けていなければなりません。だから、与えることができる人は、受けている人なのです。多く受ければ受けるほど、多く与えることができます。受けない者が与えようとすれば、それは、自分にないものを与えようとすることですから、できません。自分になくても、人に「命令する」ことならできます。けれども、与えるのは「命令する」ことではありません。
 ほんとうに主様から与えられている人は、自分に与えられているものをなんとかして人と分かち合いたい、こういう気持ちが自然と湧いてきます。自分に与えられているナザレのイエス様の御臨在です、これを皆様方に証しして分かち合いたい。こう思うのです。人はだれでも、自分に与えられている以上のことは、できません。だから先ずイエス様から「受けて」ください。伝道は、イエス様から「受ける」ことから始まるのです。集会に集うこと、祈ること、これが「あなたの」伝道の始まりです。クリスチャンはだれでも、伝道者になるのです。伝道者で「ある」のではなく、「なる」のです。
 だから、多く与えることができる人は多く与えられた人なのです。このことをイエス様は、裏返しにしてこう言われました。「多く与えられた者には、多く求められる」(ルカ12章48節)。その人の使命がそれだけ重いからです。ペトロとヨハネが、美しの門の前に座っていた足の萎えた人に向かって、「金銀はわたしにはない。しかし、わたしたちにあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストのみ名によって立って歩きなさい」と言いました(使徒3章6節)。わたしに与えられているものは、ペトロのような霊能にとうてい及びませんが、それでも、質的には同じ霊性です。だから、とにかく、自分に与えられているものを分かち合う。それだけです。伝道とは、それ以上でもそれ以下でもないのです。
■イエス様の伝道
 前にも言いましたが、人のほんとうの値打ちは、その人が、何をしているかではない。どんな立派なことをしたかでもない。その人がどんな人で「ある」のか。その人の在り方が問われているのです。あなたが福音を証しする場合に、その相手が、どんな人で、何をしているのか、その人の地位や名誉や業績など、いろいろあるでしょう。でも、イエス様の御前に問われているのは、そのようなことではないのです。その人の有り様が問われているのです。「あなたもイエス様を受け入れて、御霊の霊性に歩む者になりなさい。そうすれば、今のあなたの地位も名誉も、今のあなたの業績も、全く違ったものに見えるでしょう。」このように伝えるのが、イエス様を伝えることなのです。
 あなたが人にイエス様を証ししたいと思うなら、それは、あなたではなく、御霊があなたにそうさせているのです。御霊がその人を愛しておられるからです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15章16節)とあるとおりです。だから、あなたがその人にしてあげることは、イエス様が、してあげることなのです。それは、「あなたが」しているのではないのですから、あなたのほうは、逆に「イエス様に」してあげているのと同じなのです。たとえ「水一杯でも」与える人は、イエス様に与えているのです。
 人にイエス様を伝えるためには、先ずその人のために祈ることです。兄弟たち姉妹たちのために祈ること、その祈りを通じて、御霊が兄弟姉妹の一人一人に働いてくださること、これがわたしたちの祈りです。わたしたちの祈りを受け入れる人は、わたしたちを受け入れる人です。わたしたちを受け入れる人は、イエス様を受け入れる人です。祈りを通じて働いてくださる方はイエス様ご自身の御霊ですからね。
 しかし、伝えられた相手は、イエス様がなさることをなんにも知らないかもしれません。あなたの一言、あなたがする小さなことの裏に、どんなに大きなことが隠されているのか、そんなことは相手の人には理解できないかもしれません。イエス様がサマリアの女に出会われた時に「水をください」とおっしゃいましたね。その女は、始めは、自分に「水をください」と言った人が、どんな人なのか全く気がつきませんでした。どんなに大きな救いが、彼女を待っているのか思いもしなかったのです。でも話をしているうちに、自分がどんな人に出会っているのかが、だんだん分かってきました。とうとう「この人はメシアだ」と気がついたのです(ヨハネ4章29節)。
 与える者も小さな者です。受ける者も小さな者です。与える者を通して働くのはイエス様です。受ける者を通して働くのもイエス様です。だから、与える者も受ける者も、ただ、主様の御栄光を賛美する。それだけです。どうぞ、このことを忘れないでください。
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