【注釈】
■イエス様語録
 ここのイエス様語録も主にマタイからの復元です。マタイの「受け入れる」に対してルカは「聴く/耳を傾ける」です。しかしもっと大きな相違は、後半で、マタイは「受け入れる者」という肯定的な姿勢を語るのに対して、ルカは「退ける/拒否する」という否定的な態度を表わしていることです。マタイのほうは、終始肯定的な姿勢に対して報いが与えられると語るのに対して、ルカは、前半では肯定的な姿勢、後半では否定的な態度を対照させて、イエスと弟子たちの言葉を聞き入れるか、拒むか、どちらかの選択を迫る言い方になっています。
 可能性としては、マタイの代わりにルカのほうをイエス様語録として採用することもありえますが、イエス様語録のどの版もマタイのほうを採っています。その理由は、ヨハネ福音書20章13節が、マタイ福音書と同じ構成になっているからです。ヨハネがマタイから採り入れたとは考えられませんから、これはマタイとヨハネに共通するイエス様語録からでていると考えられます。もしもルカのほうがイエス様語録からであったとすれば、マタイは、イエス様語録の文書化以前の口伝伝承を受け継いで、これを編集したことになりますが。
 今回のイエス様語録も、神の国を宣べ伝えるために弟子たちを派遣した際のイエスの言葉にさかのぼるとみることができます。ここでは、派遣するイエスとされる弟子たちとは一心同体です。イエスが村々、町々を巡ったように、弟子たちも巡回伝道を行なったのです。しかも、弟子たちは、当時としては考えられないような無防備で無一物な状態で伝道しました。それだけにいっそう人々が彼らを「受け入れる」かどうかが、切実な問題となったのです。イエスとその弟子たちのこのような無謀とも思われる伝道活動の背後には、差し迫る終末的な神の国の到来への信仰があったからでしょう。「報い」とは、この場合に、終末の時に受ける神からの報いを指すと考えられます。
 このイエス様語録は、イエスの弟子たちと彼らのやり方を受け継いだ原初の巡回伝道者たちについて語っているように見えますが、実はそれ以上に、彼らを迎え入れる諸集会の人たち、一般の人たちのほうにも目を向けているのを見逃してはなりません。伝道とは、伝道に直接携わる者だけができる仕事ではなく、彼らを支える一般の人たちでも、主の前には立派にできる伝道の仕事であることをこのイエス様語録は教えてくれるのです。
 
■マタイ10章
 マタイはここで、イエスの伝道に関する一連の教えを締めくくっています。したがって、ここは、内容的に10章5~15節に対応しています。特に10章32節と同じ構成になっているのに注意してください。マタイは、40節ではイエス様語録を採り、41節では、マタイだけの特殊資料の伝承を用い、42節ではマルコ福音書を踏まえてこれに編集を加えています。マタイ福音書では、弟子たちを受け入れる者は「わたし」(イエス)を受け入れるとあり、これに続いて預言者と義人を受け入れる者と、「小さな者」に水一杯でも与える者とは、必ずその報いを受けるとあります。この部分でマタイは、イエスの復活以後に、生前のイエスに倣って巡回伝道をしていた伝道者たちのことをも念頭に置いているのでしょう。「小さな者」とは、イエスが、遣わした弟子たちを呼ぶ時の言い方でした。だから、イエス様語録もマタイも、イエス復活以後に、諸集会を巡り歩いた伝道者たちと彼らへの奉仕をもここに重ねているのが分かります。
 この点については、マタイのこの部分と並行するマルコ9章41節に「キリストの弟子」とあることが注目されます。「キリストの」とあるのはイエスの復活以後に「イエス・キリスト」と呼ばれたからです。なおパウロも、ここのイエス様語録を知っていたと見えて、彼は第一テサロニケ4章8節で、「だから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、ご自分の聖霊をあなたがたに与えてくださる神を拒むのである」と、今回のイエス様語録と同じ構成で述べています。これで見ると、パウロの知っていたイエス様語録は、ルカのほうに近いように思われますが、ここで、パウロは、使徒としての自分の権威の背後に神とキリストを置いているのです。このように、イエスの復活以後の教会では、イエスのこの言葉は、神とキリストと御霊の権威をその背後に帯びるようになりました(マタイ28章16~20節)。迫害を初め、様々な困難を伴う伝道者たちを物心両面で支え、援助することが、イエスの生前だけでなく、初期の教会にとってきわめて大事な奉仕であることをマタイは教えようとしているのです。
[40]【わたしを受け入れる】伝道する弟子たちに与える人々の奉仕は、父なる神とイエスに対する奉仕です。なぜなら、先に見たように、伝道それ自体が、そもそも人間が己の意図や欲から行なうべきものではなく、それは神から出た、神自身の働きにほかならないからです。弟子たちとイエスと父なる神とが一つにとらえられているのです。
[41]【預言者として】原文は「預言者の名のゆえに」です。この言い方も、また「報いを受ける」も、マタイの編集と考えられています。ここでは、「預言者」と「義人」とが並んでいますが、洗礼者ヨハネもイエスも「預言者」であり「義人」でもあると見なされました。だから、「預言者」と「義人」は、イエスが遣わした弟子たちをも指しています。しかし、共観福音書では、地上でイエスと共にいた弟子たちのことだけではなく、イエスの復活後に諸集会を巡り歩いた巡回伝道者たちも預言活動や癒しを行ないましたから、彼らも預言者と見なされました。ただし、これらの巡回伝道者たちとは別に、「義人」と呼ばれる人たちがいたのではないかという説もあります。しかし、おそらくマタイは、そのような区別をせず、洗礼者ヨハネやイエス、彼らの弟子たちと同様に、以後の教会の伝道者たちも「イエスの弟子たち」と見なしているのでしょう。
【預言者と同じ報い】預言者/義人を支え奉仕することは、とりもなおさず、預言者/義人と同じ業に参与していることを意味するのです。彼らへの奉仕は、終末でのイエスの再臨の時に必ず報われる、というのがここでのマタイの意味でしょう。ただし、預言者に奉仕することによって、預言者から教えを受ける「報い」もある、という意味も含まれるのでしょうか? また、「預言者」や「義人」に奉仕することによって、この地上においても、すでにその「報い」を受けることができるという意味も排除できないでしょう。
[42]この節は、前二つの節に比べると構成が乱れています。マタイはここで、イエス様語録ではなくマルコ9章41節を踏まえて、これに編集を加えているからです。マタイは、マルコの「なぜなら」(訳文にはありません) を省き、マルコの「あなたがたがキリストに属する者の一人であるという名(理由)のゆえに」を「(わたしの)弟子の名のゆえに」と言い換え、マルコの「あなたがたの一人に」の代わりに「この小さな者の一人に」と言い換え、マルコの「水」を「冷たい水」としています。マタイは、その人のためにわざわざ井戸から汲んだばかりの「冷たい」水のことを考えているのでしょうか。
【小さな者の一人】ほんらいユダヤ教では、子供たちだけでなく、社会的に弱い者たちや未熟な者たち、さらには貧しくても敬虔な人たちのことを「小さな者」と呼んでいました。イエスも神の国の民を「小さな者たち」と呼んだのでしょう(ゼカリヤ13章7節とこれを引用したマルコ14章27節を参照)。しかし、ここでは、「小さな者」は特に「イエスの弟子」を指しています。また、イエスに倣(なら)う以後の教会に仕える伝道者たちも「小さな者」なのです。
 ただし、ここのイエスの言葉は、イエスの弟子や諸集会への伝道者の有り様だけでなく、彼らを受け入れる諸集会の内外の「一般の人たち」にも向けられているのです。だから「小さな者」は、彼らに奉仕する普通の人たちをも含んでいます。ここでは、教えや預言を与える人と受ける人との区別が取り除かれて、全員が対等に主の福音に与る者たちと見なされているのです。
【報いを受ける】上に述べたことは、「その報いから漏れることは絶対にない」とあることにも表われています。旅の者に水を与えることは、パレスチナでは当然のこととされていましたから、その行為が「報われる」とは、考えられなかったでしょう。ここで言われているのは、報いに値しないほどのわずかな援助でも、驚くほど大きな報いへとつながることです。ここでも、おそらく終末での報いのことが言われているのでしょう(マタイ25章31~40節を参照)。福音の世界では、受ける者と与える者とが、共に「小さな者」であり、奉仕する者とされる者とが同じ恵みと評価を受けるのです。その恵みと評価と報いは、神から来るものですから、人が判断すべきではなく、また、業の大小にも無関係なところで、神から与えられる報酬なのです。
 
マタイ11章
[1]指図を与える」の原語は「命令する/制定する」で、マタイではここだけです。原文の直訳は、「指示を与え終えるという出来事が済んでから」で、これまでのイエスの教えをまとめると同時に、次に話をつなぐマタイの言い方です(7章28節/13章53節/19章1節など)。「そこから立ち去る」も、ある出来事を終えて、次の出来事へと移ることで、旅するイエスの伝道の姿を描き出しています(12章9節/15章29節)。「御国の福音を宣べ伝える」と「教える」と「病を癒やす」は、マタイがイエスの伝道活動を伝える三つの言い方ですが(4章23節/19章35節)、マタイは特に「教える」ことを重視しています。ここには、「癒やし」がでてきませんが、ここは弟子たちへの伝道の指示だったからでしょう。
 マタイがここで描いている「伝道」と、これに携わる「弟子たち」、これに与る「教会」の特徴は、復活し昇天したキリストとの交わりにある教会と言うよりも、どこまでも「地上のイエス」に見習い、イエスの「生活の有り様」をモデルにして、これに「従う」姿です。弟子たちは、イエスとその父から、福音の教えとこのための力(病の癒しなど)を委託されています。伝道は困難/苦難を伴いますが、これらの「困難」は、教会が、この世離れした超越的な存在ではなく、この世のまっただ中に現実に生きて働いている「しるし」であり、このことの証しなのです。
 このような伝道は、人間の力が消えて、ただイエスの父なる神の導きと助けにのみ依存すること、このことが、伝道者の無防備で無一物な姿によって証しされているのです。だから、伝道は完全に「神の業」なのです。伝道の鍵は「イエスの弟子」になることです。この呼びかけは、直接的あるいは間接的に伝道に携わる者の違いには関わりなく、教会を含むすべての人に開かれています。なぜなら、伝道は、神の国、すなわち神の支配が現実する中で行なわれることであり、御国はこれを求める者すべてに常に開かれているからです。
 
■マルコ9章
 マルコ福音書では、「受け入れる」「受け入れない」というイエスの言葉が、一人の子供と結びつけられて語られていますから(マルコ9章37節)、伝道と関係する今回の箇所では省きました。この後に続いて、マルコは「逆らわない者は味方である」というイエスの言葉とここの9章41節を置いています。
[41]【キリストの弟子だという理由で】原文を直訳すれば、「キリストに属する者であるという名によって」で、その人が「キリストのみ名を帯びているという理由で」という意味です。ここでは、マルコが珍しく「キリスト」という言い方をしているのが注目されています(新共同訳では、原語の「キリスト」が、この41節以外はすべて「メシア」と訳されています)。このために、この節は直接イエスからでた言葉ではないという説や、ほんらいは「わたしの名」あるいは「人の子の名」であったのが、後から入れ替えられたという説があります。イエスが自分のことを「メシア」と呼んだかどうかはここで立ち入りません(ここ以外では、12章35節と13章21節に「キリスト」がでてきます)。マルコがここで「キリスト」を用いたのは、一つには8章29節で、ペトロがイエスを「キリスト」と告白したからでしょう。マルコはここで、イエス復活以後の教会の人たちが、「キリスト」の名のゆえに行なう行為を指しているのです。「キリストの名のゆえに与える」とは、水を与えられる「小さな者」が、「キリスト自身である」という意味を帯びています。しかしマルコは、マタイとは異なり、この節を特に伝道と結びつけてはいません。
 
■ルカ10章
[16]ルカもマルコと同様に、「受け入れる者」を子供についてのイエスの言葉としています。さらにルカは72人の派遣記事に続いて、イエスを拒んだコラジンやベトサイダへの裁きの言葉に続いて、この10章16節をその結びとしています。王名を帯びた使者のメッセージを拒否することは、王を拒否することであり、その使者に逆らうことは王に対する反逆を意味します。しがたって、マタイに比べると、この節は、肯定的な言い方があるにもかかわらず、厳しい否定的な意味を帯びています。
 ルカのここ16節とマタイの10章40節との違いが大きいので、二人とイエス様語録との関係が問題になりますが、イエス様語録自体が、文書化される以前の口伝の段階で、様々に変形していて、二人の間の違いは、イエス様語録へいたる口伝伝承の違いからだと考えられます。ただし、マタイの「受け入れる」がイエス様語録からであるのに対して、ルカの「聞き入れる」は、彼の編集であろうと推定されます(アラム語の原語には「聞き入れる/受け入れる」の両方の意味があります)。なお、「聞き入れる」と対照される「拒む」というギリシア語の原語には、「無効にする/廃止する」と「退ける/拒否する」の意味があります。
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