【注釈】(1)
■福音書が伝える出来事
 今回のイエス様語録は、ほとんどがマタイ福音書からの復元ですが、ルカ福音書7章20~21節を除くなら、マタイとルカとはほぼ一致しています。ただし、マタイ福音書では「聞いたり見たり<する>ことをヨハネに伝えなさい」と現在形になっていますが、ルカ福音書では「見たり聞いたり<した>ことを」と過去形(意味は現在完了)で、しかも「見る」と「聞く」の順序が逆になっています。これはルカの編集でしょうか。
 洗礼者ヨハネは、ヨルダン川の東岸で、かつてイスラエルの民が荒れ野にいた時代を思わせる身なりで、終末の到来と神の裁きが近いことをイスラエルのあらゆる階層の人たちに告げていました。彼は、集まってくる人たちに悔い改めの洗礼を授けましたが、イエスも彼から洗礼を受け、同時に神から聖霊の洗礼(バプテスマ)を与えられました。イエスはその後、ヨルダン川の西岸からエリコにおよぶ地域で、サタンによる試練を受けた後で伝道を開始します。こういうわけで、イエスの伝道活動の初期の頃は、彼は洗礼者ヨハネを継承する者だと思われていたようです。特に洗礼者ヨハネが領主ヘロデ・アンティパスに捕らえられてからは、イエスの活動は、いっそう目をひくようになっていました。
 イエスはいったい洗礼者の「後継者/後輩」なのか? それとも、洗礼者のほうが、イエスの「先駆け/前触れ」なのか? この疑問が、両者の弟子たちや人々の間に広がっていたのは確かなようです。この問題は、イエスが復活した後に成立した最初期のキリスト教会の頃まで尾を引いて、洗礼者ヨハネの弟子たちとイエスを信じる人たちとの間には、相互に競合する関係が続いていたと見られています。洗礼者ヨハネの弟子たちの中からも、イエスを信じる者たちが少なくなかったからです(使徒19章1~5節)。このような事情から、キリスト教会は、両者の関係を明らかにするために、イエスを洗礼者ヨハネよりも優った者として描くようになった。一般にこのように考えられています。
 こういう「教会による意図的な編集」を前提にした学説から見るならば、ここで語られている話も、実際の出来事ではなく、イエス以後の教会が、イエスの優位を明確にするために「編集し直した」、あるいは極端な見方によれば「創り出した」ことになります。聖書学者たちには、客観的で合理的な説明を求めるあまり、福音書が証言している内容に懐疑的な目を向けて、これを「批判的」にとらえる傾向があります。こういう聖書解釈の姿勢を「非信憑(ひしんぴょう)性の原理」と呼ぶことができましょう。この非信憑性の原理は、福音書を始め、聖書で語られている内容や福音書記者の証言には、作者(あるいは編集者)による意図的な作為(さくい)が隠されているとして、その内容や証言の信憑性を疑うところから出ています。
 今回の箇所は、語られていることへの信憑性/非信憑性、あるいはその出来事の真正性を論じる場合の一つのモデルとされています〔ルツ『マタイ福音書』(2)219頁〕。ここで交わされている問いと答えが真正の出来事であることを疑う理由は、まず洗礼者ヨハネのほうにあります。彼は、差し迫った終末を人々に激しく警告する預言者でした。彼の目には、やがて来臨するであろう「来るべき方」がメシアとして現われて、「火をもって」人々に裁きを降す様相が映っていたと思われます。当時の通念では、「メシア」は人間であり、しかもイエスが行なっていたようなしるしや奇跡は、メシアと結びつくものではありませんでした。このような洗礼者が、自分の想い描くメシアのイメージとはほど遠い「人間としての」イエスに、しかもかつて自分が洗礼を授けた人に、「あなたは来たるべき方かどうか?」などという質問をするだろうか? というのがその疑問です。
 さらにもう一つの疑問は、ここで語られていることが、イエス自身によって神の国が<すでに到来している>かのような印象を与えることです。人間であるイエスが、神の国を到来させることはありえないから、これもイエスの復活以後になって、教会が創り出した話に違いないと見るのです。イエス自身が、やがて「人の子」が訪れて、その人の子と共に御国が到来すると信じていたのなら、イエス自身によって御国が到来することはありえないはずだ。こう考えるのです。
 こういう否定的な見方は、客観的で合理的に見えますけれども、このような客観性や合理性は、ここで語られている出来事が「作り話」であると決めつける根拠にはなりません。そもそも、ほんとうかどうかが、はっきりしている場合には、「信憑性」は問題になりません。「見れば分かる」ことなら、信憑性も非信憑性も問題にならないからです。これが問題になるのは、「真実が分からない」場合です。だから、多少の編集が加えられているからという理由でその出来事の真正性を否定しても、これによって真正で「ない」ことが立証されたわけではありません。学問的に正しい姿勢で臨むのなら、確かな根拠が見いだせない限り、「真偽のほどが分からない」と言うべきです。事実、すぐれた学者や実証的な探求に基づく学説は、ここの出来事に真正性を認めています〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)244~45頁〕。良心的な研究者たちは、編集を認めつつも、なおこの記事が真正の出来事に基づくと見るか、この点では「確かなことは分からない」として、真偽を保留する姿勢を採っています。問われているのは、語られている聖書の出来事の真正性ではありません。これを問う学者の霊的な洞察力、あるいは研究者自身の聖霊体験など、研究者の「霊性それ自体」のほうが、逆に問われているのです。
 実は、今述べた懐疑的な見方それ自体が、ここで語られている出来事の特徴を理解する大事なヒントを与えてくれます。洗礼者ヨハネが、はたしてこのような質問をイエスに向けてするだろうか? こう疑わせるほど、イエスの伝道活動は、洗礼者や当時の人々が期待していたメシア像からかけ離れていたこと、イエス様語録と共観福音書は、まさに「このこと」を証ししていることになります。洗礼者ヨハネから見れば、イエスの伝道活動は、彼の「後を継ぐ」どころか、洗礼者が思い描いていた「来るべき預言者」としてのメシア像とは全く違ったものに映っていたのです。実際、イエスと洗礼者ヨハネとは、正反対とも言える印象を当時の人たちに与えたようです。この出来事に続いて、イエスが洗礼者ヨハネについて語った箇所からもこの点が読み取れます(マタイ11章18節)。
 先の信憑性を疑う論理は、ここで語られている出来事について、さらに大事なことを教えてくれます。イエスは、洗礼者が考えていたような「メシア」ではありませんでした。当時の通念として、メシアは人間であり、彼には奇跡やしるしは必ずしも期待されていませんでした。ところがイエスは、様々な癒しや奇跡などの「しるし」によって、神の国が彼を通して「すでに臨在している」こと、だから福音を受けた人々は、神の御国に現実に入ることができる、こういう期待を人々に抱かせたのです。言うまでもなく、神の御国が、完全な姿で「すでに地上に実現している」のでないことは、御国を「宣べ伝えなければならない」ことそれ自体が示しています。しかし、イエスの人格的な霊性を通して、御国が「すでに始まっている」ことが、癒しや不思議によって人々に証しされていたことを今回の記事は語っているのです。
 このように、共観福音書の記事を通して見るイエスの出来事は、イエスの言葉とその業(わざ)とが、当時の預言者や一般に期待されていた「メシア」像とは、全く違う印象を与えたことを示しています。イエスの言葉や業が、当時のユダヤ教の通念からかけ離れたものであったこと、彼が伝える神の国が「すでに始まっている」という強い迫りを人々に与えたこと、この二つの動向は、最近のイエス研究において、多くの学者たちによって認められています〔サンダーズ『史的イエス像』〕〔エアマン『黙示的預言者イエス』〕〔ローマ法王ベネディクト16世『ナザレのイエス』〕。わたしたちは、ここで語られている出来事の信憑性を認めることができます。イエスはおそらく、神の国が「すでに始まっている」ことをその弟子たちにも告げていて(ルカ10章23~24節)、これを洗礼者ヨハネの弟子たちが聞いて、獄中のヨハネに知らせた。このために、彼は弟子を遣わして、イエスに尋ねさせたと思われます。
 このように見てくると、学者の非信憑性の原理は、これを裏返しにすると、現実の出来事に対する大事な特徴を逆に示してくれるのが分かります。非信憑性の原理の視点を裏返しにして、逆に出来事の霊性を洞察する方法を「信憑性の原理」と呼びましょう。この原理は、聖書の証言が「信憑性を持つ」ことをまず前提とする姿勢から出ています。そこには、聖書が語る出来事<について>、これを外から客観的に見るのではなく、先ず、聖書が証ししている内容をば、それ自体を言い表わす言葉に即して読み取る努力をすることです。書かれてある内容を読み取ることと、その内容それ自体を自分なりの見方で客観化して批評したり批判したりすることは全く別のことだからです。学問的な方法ではまだアクセスできない領域、すなわち、「イエスの霊性」を探るためには、こういう「信憑性の原理」がとても重要だと思います。誤解のないように付け加えますが、「霊性」を洞察することは、出来事を「主観的に」な視点から見ることだけを意味するのではありません。それゆえに「霊的な見方」とは「客観性に乏しい」見方のことではありません。聖書がここで、「あなたが見たり聞いたりしていること」(マタイ11章4節)と言うのは、決して主観的で客観性に欠ける出来事のことではありません。マタイは、明らかに「客観性をもつ出来事」として述べているのです。それでもなお、あえてこれを否定的に見る、というのが「非信憑性の原理」です。だから、これに対する「信憑性の原理」とは、判断の根拠が否定的とは「言えない」場合には、「著者の言葉」をそのまま信頼する方法を選ぶことです。客観的歴史的に判断する限り、否定と肯定のどちらの側にも、決定的な確証がないのですから。
 わたしがここで言いたいことは、すでにルカが、その福音書の序文で語っていることにすぎません(ルカ1章1~4節)。彼はこう言っています。「わたしたちの間で、すでに成就している出来事」は、「これを最初から目撃して」その霊的な出来事を「忠実に伝承しようと奉仕した人たち」によってわたしたちに伝えられたものです。それは「確実な言/事として」わたしたちに「伝承されているのです」。これがわたしの言う「信憑性の原理」です。
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