80章 洗礼者からの問いかけ
マタイ11章1〜6節/ルカ7章18〜23節
【聖句】
イエス様語録

 
 ヨハネは、これらすべてのことを聞いて、自分の弟子たちを遣わしてイエスに言った。
「あなたは来るべき方ですか?それとも、ほかの方を待たなければなりませんか?」
イエスは言った。
「行って、見て聞くことをヨハネに告げなさい。
目の見えない人は見え、
 足の不自由な人は歩く。
らい病を患っている人は清くなり、
 耳の聞こえない人は聞こえる。
死者は生き返える。
貧しい人たちは福音を受けている。」
 
マタイ11章
1イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された。
2ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、
3尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
4イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。
5目の見えない人は見え、
 足の不自由な人は歩き、
らい病を患っている人は清くなり、
 耳の聞こえない人は聞こえ、
死者は生き返り、
 貧しい人は福音を告げ知らされている。
6わたしにつまずかない人は幸いである。」
 
ルカ7章
18ヨハネの弟子たちが、これらすべてのことについてヨハネに知らせた。そこで、ヨハネは弟子の中から二人を呼んで、
19主のもとに送り、こう言わせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
20二人はイエスのもとに来て言った。「わたしたちは洗礼者ヨハネからの使いの者ですが、『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』とお尋ねするようにとのことです。」
21そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた。
22それで、二人にこうお答えになった。
「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。
目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、
らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、
死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
23わたしにつまずかない人は幸いである。」

                    【注釈】(1)
                    【注釈】(2)
 
【講話】
■信憑性と非信憑性
 今回と次回とは、洗礼者ヨハネについての話です。洗礼者は、イエス様と違って、しるしや奇跡を何一つしませんでした。けれども彼が注目されるのは、ヨルダン川でイエス様に洗礼を授けたからです。しかし、実際は、洗礼者が授けたのではなく、父なる神が、イエス様に水と聖霊の両方のバプテスマ(洗礼)をお授けになったのです。
 洗礼者とイエス様との違いは、しるしや奇跡だけではありませんでした。その生活のスタイルもずいぶん違っていました。次回に出てきますが、洗礼者は「食べも飲みもしない」とその禁欲ぶりをからかわれたし、イエス様は「大食いで酒飲みだ」とその自由な生き方を笑われました。洗礼者は、禁欲的な生活を守ったので、エッセネ派の出身ではないかと言われていますが、確かなことは分かりません。エッセネ派は、水の沐浴による浄めを大事にしましたが、これと洗礼者ヨハネの洗礼とは、似ているようでずいぶん違っています(洗礼者ヨハネについて知りたい方は、コイノニア会ホームページ→聖書講話→四福音書への補遺→「洗礼者ヨハネについて」を参照してください)。
 洗礼者ヨハネがイエス様に洗礼を授けたことは、この両人の弟子たちの間にも、いろいろな問題を引き起こしたようです。何時の時代でもそうですが、まず、二人は、どちらが上だろうか、下だろうか、という疑問です。洗礼者はイエス様の「先輩」でしょうか? それともイエス様の「先駆け」でしょうか? この疑問は、二人が地上からいなくなった後でも尾を引いていたようです。ちなみに、洗礼者ヨハネを信奉する宗団が、現在でも存続していると聞いています。
 四福音書では、洗礼者ヨハネはイエス様の「先駆け」とされていますから、両者の優劣がはっきりしています(ヨハネ3章29〜30節)。実は今回の箇所もこの問題と関係があります。ただし今回の箇所は、洗礼者がイエス様に人を遣わして質問していますから、直接に両者の優劣が採り上げられているわけではありません。ただし、この箇所も、福音書のほかの箇所と同じように、二人の優劣をはっきりさせるために書かれている。こういう見方をする学説があるのです。この見方からすれば、この記事は、後からキリスト教の教会によって「作り替えられて」いる、あるいは、もっと極端な場合には、全くの作り話だということにもなりかねません。歴史学などでは、書かれてある文書をそのまま鵜呑みにすることはしません。必ず、その文書の裏を読み取ろうとします。日本の歴史でも同じで、日中戦争の頃の南京事件の記事や写真が疑われていますね。書かれていることをそのまま信用しないのです。
 今回のところを読みますと、洗礼者ヨハネは、イエス様に「つまずいた」ようにも見受けられます。どうもイエス様のされていることが納得ゆかない。こう洗礼者は思ったようです。イエス様がなさっておられた働きと彼が思い描いていた予想とがあまりにもかけ離れていたからです。だから、洗礼者はイエス様に質問したのです。イエス様が、洗礼者にはとても考えられないようなことをしているからです。ところが、自分が水で洗礼を授けた者に向かって、先輩であるはずの洗礼者がわざわざこんな質問をするだろうか? 懐疑的な学説はこういう疑問を抱くのです。
 けれども、こういう疑いの原因となっているのは、イエス様のなさっていたことが、洗礼者ヨハネを初めとして、当時の人たちの一般的な通念からそれほどかけ離れていたからにほかなりません。福音書のここの記事がわたしたちに伝えようとしているのは、まさにそういう「通常では考えられない」ことなのです。だから、これこそイエス様が行なっておられた「本当の出来事」を伝えている。最近ではこう結論する学者たちが少なくありません。わたし自身も、従来の「懐疑的な」見解に懐疑的です。多少の編集は加えられていても、ここで語られている出来事は、その大筋において真正です。このように、聖書の記事を読み解く際に、非信憑性と信憑性との両方の原理が働くことに注意してください。信憑性の原理とは、福音書の作者が語り証ししていることをなるべくそのままに受け取ろうとする姿勢のことです。これは、福音書が語り伝える内容「について」自分なりの判断を下そうとするのでは<なく>、福音書が語ろうとしている出来事の「内容それ自体」を読み取ろうとする姿勢です。イエス様のされたことは、当時の人たちの思いも及ばないことであった。このことが、ここの記述を信じない理由にも、信じる理由にもなるのです。大事なのは、霊的な信仰の目です。
■来るべき方
 では洗礼者ヨハネのイエス様への質問とはいったいなんでしょうか? その一つは、「来るべき方」にあります。イスラエルでは、やがてモーセのような大預言者が現われて(申命記18章15節)、出エジプトの時のように、イスラエルの民を圧政から救い出してくださるという信仰が受け継がれてきました。あるいは、エリヤは死ぬ前に天に引き上げられましたから(列王記下2章1〜12節)、このエリヤが、世の終わりに再臨すると信じられていたのです。もしもこの「来るべき方」がイエス様であるのなら、イエス様は「すでに」来ておられる方です。洗礼者ヨハネが「来るべき」と言ったのは、自分よりも「後の」人のことだから、イエス様は彼よりも後から来たから、「来るべき方」である。一般的にはこう考えられているようですが、それなら、イエス様でなくても、洗礼者の後に来る人はだれでも「来るべき」人になりえます。だから、洗礼者の言う「来るべき」とは、ただ「自分の後から来る人」の意味ではないことが分かります。
 イエス様のことを「来るべき方」ではないかと想ったのは、洗礼者一人ではありません。イエス様のなさる癒しやしるしを見て、この方こそ、モーセが預言した大預言者ではないか? あるいはエリヤの再来ではないか? こう思ったり、そう信じたりする人々がいたのです。「今来ている方が、これから来る方なのでしょうか? それとも、今来ている方のほかにだれかを待つべきでしょぅか?」洗礼者がイエス様に尋ねたのはこの疑問だったのです。
 洗礼者の問いは、待ち望んだメシアは、「今の」イエス様なのか? それとも「未来の」だれかなのか? ということです。イエス様は、この洗礼者の問いにはっきりとお答えにはなりませんでした。でも、この問いは、とても大事なことを含んでいます。なぜなら、ここには「イエス様」とはそもそも「だれ」なのか? という根本的な問いが含まれているからです。ここにイエス様の自己認識、すなわち、イエス様ご自身はご自分の霊性をどのように見ておられるのか? ということが問われたのです。いったい、イエス様は、ご自分をメシアだと思っておられたのでしょうか? イエス様は自分のことを「人の子」と呼んでおられました。この「人の子」は、間接的に「自分」を指していると考えられますが、「人の子」の意味はそれだけではありません。イエス様は、終末において「人の子」が来臨するとも言われました。イエス様が人の子で、その人の子が来臨するのなら、それはイエス様が再臨なさることになります。ところがイエス様は、ご自分と人の子とを区別しておられるようにも見受けられるのです(マルコ13章26節)。だとすれば、今来ておられる方は、未来に来る方です。いったいこの二人は同じなのか、それとも違うのか? 未来に来る方は、今のイエス様であって、今のイエス様ではないのか?こういう不思議なことになります。
 これは洗礼者だけの問いではありませんね。イエス様の弟子たちも、そしてイエス様が復活された以後の教会でも、問われ続けた問いです。この問いは今でも続いています。イエス様は「すでに」来られました。しかしイエス様は「また」来られるのです。イエス様の霊性においては「すでに」と「また」とが重なるのです。過去と現在と未来とがダブってくるのです。ここに洗礼者の問いの意味が潜んでいます。
■終末と御国
 洗礼者は、終末が差し迫っている、終末にはメシアが顕われて義人と悪人との間を裁いてくださる、こう信じ、そのように預言していました。旧約の預言者たちは、終末のことを「主の日」、あるいは「終わりの日」と呼んでいました。この「終わりの日」には、主なる神は、イスラエルの民と異邦の諸民族との間を裁いてくださる(エレミヤ30章24節)。そして、エルサレムの神殿を中心とするイスラエルの聖地が、異教徒や異邦の諸民族から敬われるようになり(イザヤ2章2節)、メシアによる支配が「地の果てにまで」および、神に敵対する勢力は一掃される(ミカ4章1節)。洗礼者は、こういうヴィジョンを抱いていたと思います。
 洗礼者は、「間もなく」終末が来て、イスラエルの神による王国がこの地上に実現する。こう信じていたのです。ところがイエス様は、この終末が「すでに」始まっている、それどころが、御国はすでにあなたたちのところへ「来ている」、こう告げ、こう教えられたのです(マタイ12章28節)。ただし、イエス様が、癒しとしるしを伴って御国の福音を「宣べ伝えている」そのことは、御国が「これから」来るようにも見えます。イエス様の御国は、すでに来ているのでしょうか、まだ来ていないのでしょうか? 実は始まっているが完成していないのです。
 これと関連して御国についてもう一つ問題があります。それは、御国は地上に実現するのだろうか? それとも、地上には存在しない天国のことなのだろうか? 「あの世」のことなのか? 「この世」のことなのか? ということです。地上に実現するのなら見えるはずです。あの世のことであれば、地上で癒しやしるしは起きません。イエス様のお語りになる御国は、今来ているのにこれから来る。洗礼者ヨハネから見れば、このような事態は全く予想しなかったことでした。ここに洗礼者がイエス様に「つまずいた」と言われる原因が潜んでいます。洗礼者がイエス様に問いかけたことはこれだったのです。しかしこれは、わたしたちのつまずきの原因にもなりますね。
■御霊のお働き
 共観福音書によれば、イエス様は、これらの点について、洗礼者の弟子たちに説明されてはいません。その代わりに、「あなたがたが、自分で聞いて見てきなさい」とおっしゃって、最後に「わたしにつまずかない者は幸いだ」と言われています。ところが、ヨハネ福音書では、上に述べた幾つかの謎を解く鍵が、イエス様によって弟子たちに与えられています。ヨハネ福音書では、今述べた謎を解く鍵は、イエス様によって父から遣わされるパラクレートス(御霊)にあります(ヨハネ14章15〜27節/16章4〜15章節)。パラクレートスは、イエス様ご自身でありながら、「もう一人のイエス様」です。パラクレートスは、弟子たちにとっては、「すでに」地上に来られたイエス様の「後から」来る方です。しかもそれは「かつての」イエス様です。しかもパラクレートスは、かつてのイエス様と全く同じではありません。パラクレートスは、この世において働いてくださいますが、この世のものではありません。とても不思議です。これが、ナザレのイエス様の霊性の不思議なところです。イエス様が、「わたしにつまずかない人は幸いだ」と言われたのは、こういう意味です。 ヨハネ福音書のパラクレートスについては、皆さんは、ヨハネ福音書の講話と注釈をご存知ですから、これ以上のことは控えましょう。
 パラクレートスなるイエス様の御霊は、説明しようとすればこのようにとても難しいです。けれどもイエス様は、洗礼者の弟子たちに、あなたがたが自分で見て、聞いてみなさい。自分で実際体験してみなさい。こう言われたのです。御霊はすでに働いているではないか。今あなたのところへ来ているではないか。それをそのまま、ただあるがままに、「はい」と言って受け取りなさい。そうすれば御霊がちゃんと働いてくださるのだから。イエス様はこういう言われているのです。
 御霊のお働きは、過去のイエス様と現在のイエス様、現在の臨在と未来の来臨、見える世界と見えない世界など、謎に満ちています。どうしてこのように不思議なのでしょうね? それは御霊のお働きには「動き」があるからです。「動き」があるのは、御霊がどこまでも生きて働き続けるからです。御霊には「継承する/継続する」働きがあります。御霊のお働きは「創造する」のです。すでにできあがったものなら、それ以上創り出すことができません。すでに来てしまったのなら、それ以上に来ることはありません。けれども御霊の働きはそうではありません。どこまでも未来へ向けて動くのです。動くのは、生きているからです。
 わたしたちは今生きていますね。どのようにして生きているのでしょうか? 人間の体内の水分は6週間で全部入れ替わるそうです。人体の全細胞は、10年間で完全に入れ替わるそうです。だから、昨日のわたしたちは今日のわたしたちではないのです。10年後には、今あるわたしのこの体は、全部なくなっています。それなのにどうして「わたし」は生きているのでしょうか? それはわたしが、「動いている」からです。今のわたしがそのまま残るのではない。10年後のわたしに向かって動いているのです。宇宙もまた、このわたしの体と同じように、常に常に動いているのです。「生きる」とはこういうことなのです。
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