【注釈】(2)
■マタイ11章
[1]【指図を与え終わる】この節は、5~7章でのイエスの山上の教えと8~9章での癒しや奇跡の業、これらと10章での弟子たちへの派遣の教えとをまとめています。この意味で、この節は、4章23節や9章35節に対応します。このまとめは、11章から、語り方が新しい段階に入ることを示すものです。弟子たちへの指図を「与え終わる」とあるのは、これまでのイエス自身の教えと業が、ここ11章からは、弟子たちもその「教えと宣教」に参与する段階に入ることを指すのでしょう。ただしイエスの「弟子たち」と言う時、マタイの視野の中には、マタイの時代の教会の人たちも含まれています。
【教えと宣教】マタイ福音書では「教え」が重要な意味を持っています(5章2節)。「宣教」の内容は「神の国」ですが、その具体的な現われは9章35~36節に出ています。
[2]【ヨハネは】ここから18節まで、イエスと洗礼者ヨハネとの関係について語られます。だからここ11章2~18節は、マタイ福音書3章全体と4章12節(洗礼者ヨハネが捕らえられたこと)を受けています(洗礼者ヨハネについては、コイノニア会ホームページ→聖書講話→四福音書への補遺→「洗礼者ヨハネについて」をご覧ください)。
【キリストのなさったこと】原文は「メシア/キリストの業(複数)」です。「業」は、イエスの行なったことだけでなく、イエスの教えをも含みます。問題は「キリスト」のほうです。洗礼者ヨハネを始め、ユダヤ教では、人々の間で「メシア」が待望されていましたが、この場合の「メシア」は、神に遣わされた者ではあっても「人間」のことです。だから、イエス様語録のところで説明したように、この「メシア」は、復活した神の御子としての「キリスト」と同じではありません。このために新共同訳では、四福音書に出てくるギリシア語の「キリスト」をわざわざもとのヘブライ語/アラム語の意味に戻して「メシア」と訳しています(口語訳、岩波訳では、ギリシア語の「キリスト」がそのまま用いられています)。ところが新共同訳のこの箇所では、ギリシア語の「キリスト」がそのまま用いられているのです。これはおそらく、洗礼者ヨハネの視点からではなく、マタイの現在の視点から見て、このように訳したのだと思われます。ただしここでは、洗礼者ヨハネとの関係で「キリスト/メシア」が語られていますから、この「キリスト」という訳が、それだけ問題になってきましょう。英訳聖書では、"what the Messiah was doing"〔NRSV〕とあり、欄外に"Or the Christ" とあります。あるいは "what the Christ was doing"〔REB〕です。
では、マタイでなく、洗礼者自身は、イエスをどのように見ていたのでしょうか? ここで問題になるのはマタイ3章14節とヨハネ1章33~34節です。マタイ3章14節で洗礼者ヨハネは、イエスに向かって「わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるべき者である」と言います。マタイの視点から見るならば、この発言は、洗礼者ヨハネが、イエスの先駆者ではあっても「師」ではないこと、したがって、イエスを「上回る」者でないことをはっきり示しています。
洗礼者のこの言葉に対するイエスの答えから、洗礼者ヨハネとイエスとの関係をさらに洞察することができます。それはイエスが「<今は>、洗礼を止めないでほしい」と答えていることです。洗礼者ヨハネの洗礼は、水による一時的なものにすぎません。それは、やがて来たるべき「メシア」への備えだからです。すなわち、洗礼者は、自分以上の者がやがて来るであろうこと、しかもそれが「誰だか分からない」状態にいることを意味します。だから、マタイの目からは二人の優劣関係が明らかであっても、洗礼者から観るならば、水の洗礼を授ける自分と受けるイエスとの関係は少しも明らかではないのです。なぜなら洗礼者は「これから来る方」を待ち望んでいるからであり、しかも、その方は「火と霊」による裁きを降す方です。それが誰かは分からない以上、洗礼者は、だれがだれに洗礼を授けるのが「ふさわしい」のか、現在と将来との関係において、この点が必ずしも明らかでないのです。ヨハネ福音書では、二人の関係が、水による洗礼と聖霊による洗礼の違いによってはっきりと区別されていますが、これもヨハネ福音書の作者の視点から回想して見た場合に言えることです。
このように見ると、先にギリシア語の「キリスト」を「メシア」と訳したのは、洗礼者ヨハネの視点から見た訳し方であり、これを「キリスト」と訳したのは、すでにキリスト教が確立したマタイの視点からの訳であることが分かります。この問題が大事なのは、これが、「イエス自身の自己認識」とかかわってくるからです。これに続く洗礼者ヨハネの質問が、まさにこのことをイエスに問いかけています。
[3]【来るべき方】ここでの洗礼者ヨハネの質問は、洗礼者から見たイエスへの問いかけですが、同時に、福音書の記者であるマタイから見た問いでもあります。しかもこの問いは、「イエス自身が自分をどう見ているのか?」という、イエスの自己認識をも含む重要な問いかけです。
ここ11章3節は、3章14節での洗礼者ヨハネの発言「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべき」と関係しています。しかも3章14節は、マルコ1章7節とルカ3章16節の「わたしよりも優れた方が、後から来られる」ともつながります。いったい洗礼者ヨハネが「わたしよりも優れた方」と言い、「わたしの後から来る者」と言うのはだれのことでしょうか? ここで、洗礼者ヨハネの視点から見た「来るべき方」の意味が問題になるのです。「来るべき方」という言い方それ自体は、おそらくハバクク書2章3節の七十人訳ギリシア語の「来るべき方」から出ていると思われます。この預言書はクムラン宗団で特に重視されていました。なお、洗礼者ヨハネ自身についての預言は、マラキ書3章1節を参照してください。
「来るべき方」がだれを指すのかについては諸説がありますが、現在学会で出されている説を列挙すると以下のようになりましょう。(1)神自身。(2)人の子。(3)洗礼者の弟子(「後から」はヘブライ語では「後輩」のこと)。(4)メシア的人物(ゼカリヤ書9章9節参照)。(5)エリヤ(火を伴うしるしをもたらす)。(6)モーセのような預言者(申命記18章15節)。(7)ダビデ系の祭司としてのメシア、すなわちイエス自身(これはイエス以後のキリスト教会の見方か?)〔デイヴィス『マタイ福音書』(1)312~314頁〕。
これらのうちのどれを採るかについて議論が分かれますが、(4)のメシア説と(5)のエリヤ説が比較的有力なようです。ただしイエスは、洗礼者がエリヤだと言っていますが(マタイ11章14節)、自分がエリヤだとは言っていません。したがって、(4)のメシア(人間でありながらその正体は不明のまま)が、最も一般的と言えましょうか。
これらの諸説の中で、どれを採り、どれを捨てるべきかは、学会の論議として興味ある問題でしょう。しかし、イエスを外側から「人間」として客観的、歴史的に見ることによって、上にあげたどれかにイエス像を確定しようとしても、このままでは答えが出ません。洗礼者はだれのことを言いたいのか? 特に、イエス自身が自分に働く霊性をどのように見ていたのか? これを洞察しようとする場合には、上にあげた諸説のどれかに、その霊性を特定するのは無理であり、方法論的に見ても正しいやり方とは言えません。なぜなら「霊性」とは、そのような方法で限定したり特定化することそれ自体を不可能にする事態だからです。
例えば、上の列挙の中から「人の子」説をとりあげてみましょう。「人の子」は、キリスト教以後に新しい意味で用いられるようになったというのが、現在では通説になっています。しかし、「キリスト教以後」とは、どういう意味でしょうか? イエスの復活信仰の<後で>、キリスト教会が「人の子」に新しい意味を付け加えて、これを生前のイエスの言葉として創出したという意味でしょうか? あるいは、イエス自身が人の子という言い方をしたのであれば、イエスよりもはるか以前からエゼキエル書やダニエル書で用いられている「人の子」という言葉とは全く無関係に、イエスは「新しい意味で」人の子を用いたのでしょうか? そうでなかったとすれば、イエスはそれまでの「人の子」にどのような意味で、新しい内容を含ませたのでしょうか? また、イエス以後の教会は、イエスのその用語をそのまま用いたのでしょうか? それとも、教会もまた、イエスの用いた人の子に、「新しい意味を」付け加えたのでしょうか? 「人の子」に含まれる霊的な意味を読み取ろうとするなら、このように幾らでも疑問が湧いてきます。
だから、わたしたちは、学問的に見て信頼でき、しかもある程度納得のできる説であれば、たとえ相互に矛盾していても、それら全部が、そこに潜む霊性を何らかの意味で指し示している、このように考えるほかはないのです。この場合、それらの諸説は、その霊性のそれぞれの「現われ方」として特徴づけられましょう。霊性が相互に矛盾した姿を採って現われることが不自然ではないからです。霊性の本質を「定義する」のではなく、諸特徴が指し示す霊性の「現われ方」あるいはその「働き方」に目を留めるほうがはるかに重要だからです。神学的で形而上学的な論証や定義が無意味だとは言いませんが、大事なのは、霊性が示す諸特徴とこれらの諸特徴が示唆している「動向」、すなわち「動き方」それ自体のほうなのです。なぜなら、ここでは、洗礼者もイエス自身も、神の御霊の働きが指し示す顕われ方と同時に、それが、「来るべき」未来に向けてどのように動くのか? すなわち、その方向づけを問題にしているからです。
洗礼者ヨハネ自身は、「しるし」となる奇跡は何一つ行ないませんでした。おそらく彼は、エリヤのような預言者がメシアとして現われて、イスラエル全土に神の正義による裁きを行なって、イスラエルの民を統一し、異民族の支配からイスラエルの民を護る、そのような人物を思い描いていたのでしょう。だから、洗礼者がイエスに「いったい、あなたは!」(原文は強調されています)と呼びかけたのは、このような期待からでもあったと思われます。
[4]【見聞きしていることを】3節と4節との間に、ルカ福音書では、「そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた」(ルカ7章21節)を挟んでいます。ルカ福音書では、洗礼者ヨハネの弟子たちが、現実にその場でイエスの行なう宣教を体験して、彼らが「見たこと、聞いたこと」を洗礼者に報告するのです。だからルカは、洗礼者ヨハネの視点から描いているのが分かります。ところがマタイ福音書では、「見聞きすること」が、何時のことなのか、また、だれから聞くのか、これが明言されていません。もしも「見聞きすること」が、8~9章で語られているイエスの業であったとすれば、洗礼者の弟子たちは、直接「見聞き」するのではなく、「キリストのなさったこと」をイエスの弟子たちから聞いていることになりましょう。おそらくマタイは、すでにマタイ福音書で語られていることを念頭に置いてここを書いているのです。このことは、マタイ福音書の読者/聴衆であるマタイの教会の人たちも彼の念頭にあるからでしょう。だから、マタイは、洗礼者ヨハネの視点からではなく、筆者であるマタイの視点から、この出来事を見ているのです。
[5]ここでイエスがあげている人たちは、(1)「目の見えない人と足の不自由な人」、(2)「らい病の人と耳の聞こえない人」、(3)「死者と貧しい人」のように三組に分けられています。
(1)は、マタイ9章27節以下の盲人の癒しと同1節以下の中風のいやしを指していて、イザヤ書35章5~6節の預言と対応します。
(2)は、8章1節以下のらい病の癒しと9章18節以下の口のきけない人(原語の「コーフォス」は、ものが言えないことと耳が聞こえないことの両方の意味)の癒やしを指します。マタイは「悪霊に憑かれて」口がきけないことと耳が聞こえないことを一つにしているようです(9章32~33節/12章22節/15章30~31節参照)。ここはイザヤ書29章18節/同35章5節の預言と対応します。
(3)は、9章24節と10章6節との出来事を指しています。ここはイザヤ書25章8節/同26章19節/同29章19節/同61章1節の預言と対応します。なお「福音を告げ知らされている」と訳されている原語は1語で「福音する/される」という動詞で、これもイザヤ書61章1節の七十人訳ギリシア語から出ています。
これで分かるように、マタイは、「キリストの業」をイザヤ書の預言と対応させながら、旧約聖書に預言されていたことが、イエスの伝道によって成就した、あるいは預言の成就が「開始された」、こう伝えているのです(この点ではルカも同じです)。ただし七十人訳イザヤ書のギリシア語とマタイ/ルカのそれとが全く一致しているわけではありません。内容的にイザヤ書61章1節に近くても、用語は同35章5節と同じ場合もあります。またイザヤ書26章19節では「しかばね/死者が立ち上がる(原語は「アニステーミ」)」となっていますが、マタイ/ルカでは、「死者がよみがえる(原語は「エゲイロー」)」です。どちらの動詞も新約聖書では「よみがえる/復活する」の意味で用いられています。
ただし、ここに反映しているイザヤ預言は、字義どおりの意味ではなく比喩的な表現で語られているのを、最初期のキリスト教徒たちが、これを「字義どおりの」預言だと(誤って)信じて、これをイエスの働きに当てはめたという解釈があります。しかし、イザヤ預言に比喩性があるとすれば、ここでのイエスの答えにも同じ程度の比喩性が込められています。しかもその「比喩性」とは、それが身体的な癒しを伴う「事実」では<ない>ことを指す「比喩性」、言い換えると、現代的な意味での「比喩」のことではありません〔私市元宏『聖霊に導かれて聖書を読む』8章「聖書の引喩」と「イエスの隠喩」を参照〕。そうではなく、身体的な癒しを含む出来事それ自体が、隠喩的な性格を帯びているという意味での比喩性なのです〔クロッサン『イエス:あるユダヤ人貧農の革命的生涯』太田修司訳:4章「はじめに身体がある」で、この問題が論じられています〕。
どちらにせよ、イエスがイザヤ書で預言された「メシア」であると見ているのは間違いありません。だから、ここで語られているのは、イエスの働きと言うよりは、旧約以来の預言の成就として「神ご自身が」働いていることなのです。神自身の働きが、ほかならぬイエスにあって行なわれていること、このことが次の6節で語られるのです。しかし、このような「メシア」像は、洗礼者ヨハネも、当時のユダヤ教の人たちも予想していなかったでしょう。洗礼者が、弟子たちを送って尋ねさせたのは、このためです。
[6]【つまずかない者】イエスの答えが洗礼者ヨハネを納得させたか、あるいは逆につまずかせたか、ここでは明らかにされていません。確かなのは、ここで描かれているイエスのメシア像が、洗礼者ヨハネの描くそれとは全く異なることです。特に注目されているのは、洗礼者が最も大事なこととして伝えた「裁き」が、この箇所に全く見あたらないことです。ここには、裁きとはおよそ正反対とも思われる癒しや死人のよみがえりなどの「喜びの知らせ=福音」が語られ、しかも出来事として「実現している」のです。これは「よい知らせの終末」であって、「裁きと断罪の終末」ではありません。洗礼者の思い描く「来るべき方」とイエスの神の国伝道とはそれほど違っていたのです。
ただし、イエスの伝えた福音に裁きが含まれていないと考えるのは誤りです。救いと裁きは裏表だからです。また、イエスはメシアとして来臨していますが、人の子として再び来るとも言っています。神の国は、すでに来ていますが、まだ完成してはいません。救いと裁き、今いるイエスと来るべき方、すでに始まっているがまだ完成していない神の国、このような二重性は人々にとってつまずきとなるものでした。洗礼者ヨハネは、このつまずきの問題に直面した最初の人だったのです。洗礼者のこの「つまずき」は、ヨハネ福音書20章24~29節で、トマスがつまずき、そして信仰にいたったその過程にもよく現われています〔ボヴォン『ヨハネ福音書』〕。洗礼者のつまずきも、トマスのつまずきも、ナザレのイエスに内在する霊性へのつまずきなのです。なぜなら、これこそが、復活のイエス・キリストへの最大のつまずきとなるからです。
同じつまずきは現在でも続いています。
しかし、わたしたちはこの箇所に、洗礼者とは違った意味で、「現代のつまずき」を見いだします。その一つは、ここでのイエスのしるしとイザヤ預言との関係です。言うまでもなく、客観的で歴史的な見方からするなら、イザヤの時代とイエスの時代とは数百年の隔たりがあります。過去に語られた人間の言葉が、数百年経ってから、別の人間において成就するなどということは、歴史的客観性に立つ学問的な視点からはありえないことでしょう。
ここで語られている出来事が、ほんとうに起こったのか? という疑問と併せて、この「出来事の預言性」も、したがってこの記事それ自体も、信憑性がないという「非信憑性の原理」がここでも働くのです。この記事は、イエスの十字架以後のキリスト教会が、イエスが旧約聖書で預言されたメシアであることを「証明するために」、イザヤ預言とイエスの奇跡物語を組み合わせて創り出したものだと判断するのはこのためです。客観的に見れば、この解釈は合理的に見えます。しかし、もしもそうだとしたら、なぜ教会は、洗礼者ヨハネや当時のユダヤ教のメシア観に合致させるために、彼らが「つまずかない」やりかたで、イエスのメシア性を「立証」しようとしなかったのでしょうか? この記事がイエス様語録にさかのぼる古いものであることを考え合わせると、創出説には矛盾があります。このような立論の仕方は、合理的で人間一般の通念に受け入れやすいけれども、そのことが、ここで語られている出来事が真正では「ない」という根拠には「ならない」のです。せいぜい言えることは、学問的な視点からは、真偽のほどは「分からない」と言うべきです。
他方、ここで語られていることが真正であるとすれば、過去に語られた言葉が、数百年経った後において、別の人間を通して実現し、成就するという不思議が生じることになります。これは、客観的な歴史学の視点からは立証することも証明することもできません。なぜなら、歴史学は、過去と現在、昨日と今日、イザヤの時代とイエスの時代とを別個のものとして区別する「時代区分の原理」に立っているからです。この前提がなければ、そもそも学問的な歴史学それ自体が成り立たないのです。
だから、イザヤ預言がイエスにおいて成就することを知るためには、時代区分の原理とは異なる別の原理を導入しなければならないのです。過去の言葉が未来において成就するためには、その言葉が生きて継承されなければなりません。言葉は霊的な働きをしますから、言葉の表わす霊性が、語られた以後も受け継がれ、それが霊性として継承されることで初めて、未来の人間において働く、と言うことが起こるからです。これを、「時代区分の原理」に対して「継承性の原理」と呼ぶことができます。旧約聖書の預言を始め、霊的な言葉とこれに含まれる霊性は、このような「継承性の原理」に基づいているのです。
この原理に従うなら、イエスの内には、イザヤ預言の霊性が受け継がれていて、これがイエスにあって変容した姿で実現し、成就した、こう考えることができます。「継承」は単なる「継続」ではなく、常に変容を伴います。このようにして、「継承性の原理」と「信憑性の原理」とは相互に結びついてくるのです。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(ヨハネ20章27節)、こうイエスは言いました。今回も、「罠にはめられない」(「つまずく」の原語の意味)ように注意しなさい。こうイエスはわたしたちに警告しているのです。
■ルカ7章
ルカ福音書では、洗礼者ヨハネに関する記事は、彼の誕生物語に始まり(1章5~38節/同57~80節)、すでにその段階で、洗礼者とイエスとが比較対照されています。次に洗礼者が登場するのは、イエスの洗礼とその系図に先立つ場面で、ここでも洗礼者の活動の歴史的な時期とその意義が語られます(3章1~20節)。人々は、もしかしたら彼こそ「メシア」ではないか、こう思ったとあります。ただし、マタイとは異なって、イエスに洗礼を授けたのが洗礼者ヨハネだとは明言されていません。
今回の箇所は、ルカ7章18~23節/24~28節/29~35節に分かれています。このまとまりは、一見その前後と独立しているように見えますが、7章18節に「これらすべてのこと」とあって、それまでにイエスが行なったこととその教えとが、ここにもつながっていることが確認されています。イエスのガリラヤ伝道に挟み込まれるようにして、イエスがほんとうはだれであるのか? という問題が読者/聴衆に問われると同時に明かされるのです。
[18]ルカはすでに洗礼者の入牢について述べていますので(3章20節)、ここではそのことに触れていません。この文面から見ると、彼の弟子たちは洗礼者を比較的自由に訪れることができたようです。マタイ福音書では「キリストの行なった業(複数)」とありますが、ルカ福音書では「これらすべてのこと」とあるだけで、キリスト(メシア)については触れていません。ルカは、マタイよりも、洗礼者ヨハネの視点から見て描いています。
【二人を】「二人を呼んだ」とあるのは、ユダヤでは(初期キリスト教会でも同じ)、二人ずつ派遣するのが習わしだったからです(ルカ10章1節参照)。また証人として証言する場合にも二人以上が要求されました(申命記19章15節)。
[19]【主のもとに】マタイとは異なって「主」が用いられています。これは「力あるお方」として、また「教会の主」としてのイエス・キリストを意味するのでしょう(ルカ7章13節)。ルカの念頭には、詩編118篇26節の「祝福あれ、主のみ名によって来る人に」があったのでしょうか。ただしここを「イエス」と読む異本もあります。イエスへの質問はマタイと同じです。「ほかの方」が、マタイとルカとでは違った原語になっていますが、意味の違いはないでしょう。
[20]~[21]この部分はマタイ福音書にはありません。「二人」(原語は「その人たち」)、「(イエスのもとへ)やって来て」、「洗礼者ヨハネ」、「ちょうどその時に」などの言い方から見てルカによる編集の手が加えられていると考えられます。「洗礼者ヨハネ」という言い方は、洗礼者の弟子たちからでた言葉ではなく、筆者のルカから見ているのでしょう。ただし、マタイの描き方とはやや異なり、ルカは、その時その場での状況を洗礼者と彼の弟子たちの視点から描いています。
【そのとき】原語は「まさにその時に」"there and then"〔REB〕でルカのよく使う言い方です。二人の人はイエスの癒しの業を目の前で見たのです。「(イエスは)癒やした」は「癒やしていた」と読む異本もあります。
【病気や苦しみや悪霊に】"(heal from)deseases, [and] plagues, and evil spirits."〔REB〕 ([and]は原典による筆者の挿入です)。最後の「悪霊」をその前の「病気や苦しみ」にかけて、これらを悪霊の業にしているという解釈もありますが、三つの言葉が「そして」で切られていますから、これらは区別されていると見るほうがいいでしょう。
【盲人を見えるように】原文は「多くの盲人たちには見える恵みを与えた」。"Jesus granted to many blind persons to see."〔Fitzmyer〕「恵む/恵みを与える」という動詞は、四福音書ではルカだけが用いています。
[22]~[23]この部分は、「聞いていること見ていること〔現在形〕」(マタイ)と「見たこと聞いたこと〔アオリスト=過去形〕」(ルカ)を除くと、マタイとルカは全く一致しています。ただし、マタイにはあってルカでは省かれている「そして」が三箇所あります(イエス様語録の訳は、この点でルカに従っています)。最後の「幸いだ」で始まる文にも珍しく「そして」がついています。ルカ福音書では、「その時その場で」二人が自分で「見たこと、聞いたこと」をそのまま洗礼者に伝えるように、という意味です。二人は、イエスの伝道において、洗礼者が期待していたような「エリヤのように激しい火(=裁き)」をも、終末に臨む復讐や裁きをも認めることができなかったでしょう。ただし、イエスはこの後で、洗礼者ヨハネについて「彼より偉大な者はいない」と証ししています。また、イエス自身も不信仰な者たちに厳しい批判を加えています(ルカ10章13~16節)。
イエスは自分が洗礼者ヨハネの言うような「来るべき者」であるのか、ないのか、その答えを明らかにしていません。今来ているイエスが、これから来る者なのかどうか? という問いそれ自体が謎だからです。ここに秘められた「つまずき」の可能性は、洗礼者に始まり現在も続いています。
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