81章 洗礼者について証しする
マタイ11章7〜19節/ルカ7章24〜35節
 
【聖句】
イエス様語録
 彼ら〔ヨハネの弟子たち〕が去ってから、〔イエスは〕群衆にヨハネについて話し始められた。
「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。
  風にそよぐ葦か。
では、何を見に行ったのか。
  しなやかな服を着た人か。
  しなやかな服を着た人なら王宮にいる。
では、何を見に行ったのか。
  預言者か。
そうだ。あなたたちに言っておく。
  預言者以上の者である。
聖書に書いてあるのは、この人のことだ。
 『見よ、わたしはあなたより先に、わたしの使者を遣わし、
  あなたの前に道を準備させよう』と。
あなたたちに言っておく。
  女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現われなかった。
  しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。
 
では、この時代を何にたとえようか。
  それは何に似ているか。
広場に座って、ほかの者たちに呼びかけている子供たちに似ている。
『ぼくらは君たちのために笛を吹いたのに、
  踊ろうともしなかった。
葬式の歌をうたったのに、
  泣こうともしなかった。』
ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、あなたたちは言う、
  『あれは悪霊に憑(つ)かれている』。
人の子が来て、飲み食いすると、あなたたちは言う、
  『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。
  徴税人や罪人の仲間だ』。
しかし知恵は、その子たちにおいて義とされた。」
 
マタイ11章
7ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。
「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。
 
8では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。
9では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
10.『見よ、わたしはあなたより先に、使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。
11はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。
12彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。
13すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。
14あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。
15耳のある者は聞きなさい。
16今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。
17『笛を吹いたのに、
踊ってくれなかった。
葬式の歌をうたったのに、
悲しんでくれなかった。』
18ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、
19人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」
 
ルカ7章
24ヨハネの使いが去ってから、イエスは群衆に向かってヨハネについて話し始められた。「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。
25では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。華やかな衣を着て、ぜいたくに暮らす人なら宮殿にいる。
26では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ、言っておく。預言者以上の者である。
27『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。
28言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」
〔下欄のルカ16章16節をここに挿入する〕
29民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた。
30しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ。
31「では、今の時代の人たちは何にたとえたらよいか。彼らは何に似ているか。
32広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子どもたちに似ている。
『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった。』
33洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、
34人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。
35しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」
【参照】
『トマス福音書』78〔『福音書共観表』〕
1イエスが言った、「あなたたちは、何を見に野に来たのか。風に揺らぐ葦を見るためか。
2〔あなたたちの〕王やあなたたちの高官〔のような〕、柔らかい着物をまとった人を見るためか。
3彼らは柔らかい〔着物〕をまとっている。そして、彼らは真理を知ることができない〔だろう〕」。
同46
1イエスが言った、「アダムからバプテスマのヨハネに至るまで、女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大いなる者はない。(ヨハネを前にして)その両眼がつぶれないように。
2しかし、私は言った、『あなたたちの中で小さくなるだろう者が、王国を知り、ヨハネより大いなる者となるだろう』と」。
 
マタイ21章
31b「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国へ入るだろう。
32なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたがたは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」
 
ルカ16章
16律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。」
                      【注釈】
 
【講話】
■洗礼者ヨハネと自己発見
 今回の箇所は、前半と後半と大きく二つに分けることができます。前半は、イエス様が洗礼者ヨハネについて証しされている箇所です。前回は洗礼者ヨハネがイエス様に尋ねた出来事でしたが、今回はその逆です。洗礼者ヨハネは、自分がイエス様に洗礼を授けておきながら、後になってイエス様につまずきそうになりましたね。けれどもそれは彼の一時の思い違いで、つまずくどころか、彼は立派に神様から与えられた使命を果たしたことが、今回のイエス様のお言葉で分かります。洗礼者のこのつまずきと回復は、イエス様の復活を信じなかったトマスの場合と同じだと言う学者がいます〔ボヴォン『ルカ福音書』〕。トマスもイエス様が復活されたと聞いた時に、とても信じられなかった(ヨハネ20章24〜25節)。ところが、イエス様が彼に顕われると「わたしの主よ、わたしの神よ」と叫んだのです。自分ではとても信じられない。そう思っていたのが、いつの間にか、復活のイエス様の御臨在を信じるようになっていた。こういう自分を見いだしたのです。
 イエス様は、洗礼者ヨハネのことを「聖書で預言されたいるのはこの人のことだ」と言っておられますから、彼は、聖書で「預言されていた預言者」です。どういう意味かと言いますと、旧約聖書の最後にあるマラキ書に、「見よ、わたしは使者を送る。彼はわたしの前に道を備える」(3章節1)という預言があります。これは終末に神ご自身が来られて、全人類を裁かれるから、その前に神は、先触れとなる人を遣わそうという意味ですが、マラキはさらに、その預言者とは、実はエリヤの再臨であると告げているのです。ところがマラキのこの預言は、マラキに始まったのではなく、神様はすでにモーセに向かって、「わたしはあなた〔モーセ〕の前に使い〔天使〕を遣わして、あなたの道を守らせる」と告げておられたのです(出エジプト記23章20節)。
 この預言から、イエス様の頃のイスラエルの人たちの間では、メシアである救い主が現われる前に、その先駆けとなる「預言者」が現われて、メシアの到来を告げると信じられていたようです。終末での神ご自身の顕現と、メシアの到来と、預言者エリヤの到来、これらの関係はややこしいのですが、先駆けとなる預言者というのは、エリヤの再来ではないかと言われていたのです。エリヤはエノクと並んで、旧約聖書で死なずに昇天した人ですから、彼はきっと再臨すると信じられたのでしょう。
 イスラエル旅行の時に、北ガリラヤにあるツフォットという所を訪れました。ツフォットは、ユダヤ教のカバラの聖地で、そこに小さいけれども不思議な雰囲気の会堂があります。その会堂に、古びていますが、がっしりした大きな木造りの椅子が置いてあります。説明によると、何時エリヤがこの会堂に来臨しても座れるように常にあけてあるのだそうです。だれも座らないエリヤ専用の椅子です。ユダヤ教では、メシアはまだ来ていませんから、その前にエリヤが来るのです。こういうわけで、イエス様が山上で変貌なさる時に、モーセとエリヤが顕われてイエス様と語り合ったのです。
 イエス様は、洗礼者のことを「肉体を具えた通常の人間の中では最大の人だ」とも言っておられます。マタイ福音書では、イエス様は彼のことをエリヤだとも言っています(11章14節)。ところが、前回皆さんがお読みになったように、洗礼者は、弟子を送ってイエス様に「あなたは来るべき方ですか?」と尋ねさせているのです。おそらく彼は、イエス様をあの預言者エリヤだと思ったのでしょう。しかし、イエス様のなさっていることを聞くと、どうもそれが終末のエリヤのすることではなさそうだ、こう思い始めたのかもしれません。エリヤは火のように激しいから、徴税人や娼婦たちと一緒に食事をするとは考えられませんからね。洗礼者自身は、自分が「だれかのために」神様から遣わされているのは知っていました。しかし、その「だれか」がだれなのか? これが問題だったのです。彼はイエス様に洗礼を授けていますが、それでも、自分のしたことのほんとうの意味が、洗礼者にもまだ隠されていたのです。自分がいったい何者で、神様がなんのために自分を召しておられるのかがよく分からない。これが、洗礼者ヨハネの偽りのない気持ちだったのでしょう。
 わたしたちにも同じことが言えますね。自分は神様を信じて歩んでいるけれども、これはいったい何のためだろう? こう思うことがよくあります。洗礼者ヨハネは奇跡やしるしを全く行ないませんでした。ただひたすら、神様を仰いで、その御心を求めて、後はただ、お導きにお委ねしていたのです。ところがそういう彼のことをイエス様は「人間の中で最大の人」だと言われて、彼こそが、みんなが待っているエリヤだと告げられたのです。驚いたのはだれよりも、洗礼者自身だったかもしれません。もっとも、この頃洗礼者は、すでに殉教していた可能性があります。
 だから、皆さん、どうか焦らないでください。自分でああだこうだと自己限定をしないで、とにかくあるがまま、そのままをイエス様にお献げしてください。それから後は、神様任せ、イエス様の御霊に導かれるままです。変に力(りき)んだり、人と競い合おうなどと考えてはいけません。とにかくマイペース一筋です。そうすれば、自分でも知らない自分が、だんだんと啓示されてきます。ああ、自分はこんなことをする人になるとは思わなかったという事態が訪れるかもしれません。
■聖書の「たとえ」について
 今回の後半では、イエス様はたとえを用いて、「今の時代」を嘆いておられます。古代エジプトの遺跡には、「近頃の若い者は〜」という現在も変わらない嘆きの言葉が刻まれているそうです。「今の世代/時代」を嘆くのは古今東西共通です。だから、現在のわたしたちの時代のほうが、イエス様の時代の人たちよりもましだ、などと考えないでください。このたとえでは、人々が洗礼者やイエス様を無視していますが、「無視」は、イエス様とその父からのお招きに対する最大の侮辱です。
 今回のたとえは分かりにくいので知られています。その理由として、ヘブライ的な「たとえ」(マーシャール)の性格があります。たとえの意味については、イエス様語録の注釈のところをお読みください。「空約束をする政治家とかけて、銭湯(せんとう)と解く。その心は?」「湯(言う)ばかりでほかになんにもないから。」このように、「たとえ」とは、ある事とある事とを比較して、その間に類似性を見いだす語り方です。ところが、ヘブライの「たとえ」では、しばしば、ある状況なり出来事それ自体を「全体としてそのまま」たとえとして提示するのです。言わば、そこに現われる状況や出来事そのものが、「たとえ」の性格を帯びてくるわけです。高価な真珠を見つける商人のたとえでは(マタイ13章45〜46節)、「天国は、商人にたとえられる」(原文直訳)とありますが、その実、天国は真珠のほうにたとえられています。マタイ25章では、天国は「10人の乙女にたとえられる」とありますが、実際には、天国は「結婚する花婿」で表わされるのです。したがって、聞く者は、たとえとして与えられたその状況全体から、何と何をどのように結びつけるのかという「たとえ」それ自体を自分なりに見いだして、その意味を理解する必要に迫られることになります。
 ですから、聖書では、物語や出来事としてある状況が読者に提示されて、「さあ、このなかにたとえが隠されているのだよ。分かるかね?」と尋ねられているわけです。当然のことですが、同じ状況が「たとえ」として与えられても、その解釈は人によって様々です。そこにはいろいろな解釈が生じますから、逆にこういうたとえでは、その人自身の見方や判断や霊的な洞察力が、その「たとえ」によって試されることになります。イエス様が、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言うのは、このようなたとえの霊的な理解力を指しておられるのです。言い換えると、聖書の世界では、一つ一つの出来事が、それ自体の中に、比喩や隠喩や類比など広い意味でのマーシャールが、何らかの「たとえ」として秘めていることになります。霊的な解釈とは、このような比喩的な意味を引き出すことなのです。
■「たとえ」の解釈
 今回の箇所の前半の神の国/天の国の説明では、マタイとルカとでは、解釈が大きく違っています。また、後半のたとえでは、広場で遊ぶ子供たちがでてきます。後半のたとえについては、ふたとおりの解釈がありますので、注釈のほうでご覧ください。今回に限らず、イエス様は、霊的なことをお語りになる場合に、よくたとえで話をされました。これらのたとえについて、二つのことに注意してください。
(1)御言葉の解釈では、その意味が、時の経過につれて変わることです。今回の前半の箇所で言えば、マタイ福音書では、イエス様が、神の国は人々の暴力によって攻撃されていると語っています。実はここのところは、意味がはっきりしません。けれどもルカ福音書では、神の国は、福音として宣べ伝えられていくとあるのです。いったいイエス様はどちらの意味でこのたとえを語られたのか? マタイのほうがもとの形を留めているのでしょうか?こういう霊的な内容の場合は、どちらかに割り切ることができません。ここには、イエス様の語られた御言葉→イエス様語録の言葉→マタイとルカとの解釈のように、時の経過に伴って、御言葉の意味が、その時々の状況によって、違った解釈、違った意味を「呼び込む」ことになるからです。
 イエス様の御霊は、抽象的に、あるいは超越的に働くのではありません。どこまでも、わたしたち一人一人の状況や環境に対応して、具体的で現実的に働きます。だから、御霊が示してくださる解釈は、その人、その民、その状況に応じて様々に変化するのです。聖霊に導かれて聖書を読むためには、このように、時代に対応して、その意味も変容することを知る必要があります。かつては、「殺すな」とあるのは、イスラエル民族の内部のことだけであって、戦争の時などには、異民族や異教徒を絶対に容赦してはならなかったのです。でも現在では、「殺すな」は、たとえどのような人でも殺してはならない、という意味に受け取られています。「たとえ」だけでなく、聖書のような霊的なお言葉は、このように、時代に応じて常に新しい意味をお言葉自体が呼び求めるのです。
(2)次に後半のたとえでは、解釈が分かれることです。このように、解釈が、二つ、あるいは三つに分かれる場合がよくあります。たとえは、「子供たち」や「結婚」や「葬式」のような表象と、その表象が象徴するものを含んでいます。「子供たち」は、わたしたちにはいいイメージを与えますが、ここでは、無知でわがままで冷淡な人を表わします。結婚は喜びの、葬式は悲しみの象徴です。
 聖書だけでなく、一般にわたしたちの日常でも、表象はいろいろな意味を帯びてきます。日の丸は、白地に赤丸の日本の象徴ですが、これが見る人によって、実に様々な意味を持っています。戦争体験のある人とない人、日本人と韓国人、オリンピックの日の丸と日本の自衛隊の日の丸、わたしたちの世代によっても、個人によっても、体験によっても、日の丸は実にいろいろな反応を生じさせます。原爆も今ではひとつの表象です。日本人とアメリカ人とでは、この表象に対する反応がかなり違っているようです。
 日の丸は簡単な図柄ですが、その簡単な表象が、日本の象徴となることによって、このように複雑で様々に異なる反応を人々の間に生じさせるのです。それは、これらの表象が意味する象徴が、一人一人の体験とそこから生じる「連想」と結びつくからです。たとえもこれと同じです。聖書には、羊飼いや子羊やぶどう酒やパンや鳩など、様々な表象が表われます。聖書をよく知っている人とそうでない人とでは、これらの表象の受け止め方が違ってきます。長年聖書に親しんでいる人は、聖書で語られるいろいろな出来事を聖書のほかの箇所にでてくる表象やお言葉と結びつけて、その意味を理解することができるのです。しかも、このような聖書の読み方を身につけた人は、聖書の読み方だけではなく、自分に関係する出来事、あるいは周囲に生じている様々な現実、これらを判断する時にも、聖書のお言葉やたとえが、大事な鍵になるのです。自分に起こる出来事を「霊的な視点から」読み取ることができるからです。
 このように、たとえの解釈は、たとえ話だけでなく、聖書のお言葉を読む時にも、さらに現実の出来事を読む時にも、大事な意味を持っています。しかもそれらの解釈は、人によって異なることを知っておいてください。ただし、このように多様な解釈が出てくると、聖書の言葉なりたとえが、ほんらいはどういう意味だったかを知ることがとても重要になります。学問的な注釈はこのためにあるのです。今回は、たとえの解釈についてお話ししました。聖書のたとえの意味は、時代によって変容すること、また人によってそれぞれ異なること、この二つのことを知っておいてください。その上で、聖書ほんらいの言葉やたとえが意味していたことを知っていることが大事なのです。
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