【注釈】
■イエス様語録
 今回のイエス様語録は前回とつながります。洗礼者の弟子たちが「立ち去ってから」とあり、イエスが話し「始められた」とあるのも、前回とのつながりを表わしています。ただし、内容的には、前回とは違うまとまりになっています。今回の部分もさらに二つに分かれていて、「では、今の時代の人たちは」以下は別のまとまりを形成しています〔マックQ〕。イエス様語録の版によっては、この二つの区分の間に、マタイ21章32節とルカ7章30節を挿入するか〔ヘルメネイアQ〕、あるいはマタイ11章12節を挿入しています〔D・ツェラー『Q資料注解』今井誠二訳。教文館(2000年)〕。これらの挿入部分は、ここにあげたイエス様語録の本文には組み込まれていませんが、【聖句】に含まれているか、【参照】として下欄にあげてあります。
 したがって、洗礼者ヨハネに関するイエス様語録の全体像は、次のようになります。
(1)洗礼者ヨハネからイエスへの問いかけとイエスの答え〔前回〕。
(2)イエスによる洗礼者ヨハネについての証し〔今回前半〕。
 〔マタイ21章32節とルカ7章30節、もしくはマタイ11章12節〕
(3)二人に対する人々の対応と知恵の正しさ〔今回後半〕。
 今回のイエス様語録も、マタイとルカとで一致する部分が多く、それらは次の通りです。マタイ11章7後半~8節前半=ルカ7章24後半~25節前半/マタイ11章9~10節=ルカ7章26~27節/マタイ11章11節=ルカ7章28節(ただしマタイの「アーメン」はルカになく、マタイの「天の国」→ルカ「神の国」)/マタイ11章17節=ルカ7章32節後半/マタイ11章19節「見ろ、大食漢で大酒飲みだ」=ルカ7章34節/マタイ11章19節「知恵の正しさは・・・・・証明される」=ルカ7章35節。
 前半のイエスによる洗礼者ヨハネについての証しは、イエス以後の教会によって編集されてはいますが、内容とその言葉遣いはイエスにさかのぼると見ることができます。ただし聖書からの引用は教会による編集でしょう。また終わりの「知恵の子の正しさ」の部分も後からの編集だと考えられています。
【風にそよぐ葦】今回の部分が前回からの続きだとすれば、洗礼者は獄に入れられていますが、まだ殉教していないことになります。しかし「荒れ野へ<行った>」や「見に<行った>」と過去形になっていますので、あるいは、この段階で、洗礼者はすでに殉教していたのかもしれません。「風にそよぐ葦」は、ごくありふれた風景を指しますから、なんのためにわざわざ荒れ野で出て行ったのか? と問いかけていることになります。
 ただ、「荒れ野」や「風」や「葦」は、モーセがイスラエルの民をエジプトから導き出した時に、風のお陰で葦の海を渡ってファラオの軍隊から逃れたことを連想させます(出エジプト記14章)。もしもこの出来事が背景にあるとすれば、「あなたたちが出てきたのは、モーセのような預言者に会うためではなかったのか」という含みがこめられていて、洗礼者を暗にモーセと比較しているとも言えましょう。洗礼者は、エリコに近いヨルダン川の東側で水の洗礼を授けていました。これは、モーセが約束の地に入ることができず、代わってヨシュアが、イスラエルを率いてヨルダン川を渡りエリコを攻撃して約束の土地へ入ったことを思い出させます。洗礼者は、モーセのように、神が約束した「新しい御国」に入る直前までイスラエルを導いたと考えられたのでしょうか(申命記34章)〔コイノニア会ホームページ→聖書講話→四福音書への補遺→「洗礼者ヨハネについて」を参照〕。はたして、ここまで深読みできるかどうか疑問ですが、参考までにあげておきます。
【王宮にいる】ヘロデ大王(在位前37~後4年)がエルサレムに建てた宮殿のことでしょう。イエスの頃は、ユダヤはローマ帝国の直轄になっていて、ヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパスが、ガリラヤとヨルダン東側の領主でした。王宮は海辺のカイサリアとエルサレムの城壁内の西の一郭(かく)にあり、冬にはエルサレムの宮殿が用いられたようです。城壁に囲まれたエルサレムの西部分に、さらに城壁に囲まれた一郭があり、そこに壮麗な宮殿が建てられていました。天上と柱は燦然と輝き、柱廊には希な石が用いられていて、大宴会場と無数の部屋があり、部屋にはそれぞれ異なる装飾がほどこされていました。調度品や什器の多くは金銀でできていて、広い遊歩道を具えた園には様々な樹木が茂り、いたるところに青銅の彫像が置かれていたとあって〔ヨセフス『ユダヤ戦記』V:170〕、王宮を中心とする貴族階級の贅沢な生活が偲ばれます。「しなやかな衣服」は洗礼者ヨハネの「らくだの毛衣」と対照的です。
【預言者以上の者】洗礼者は、イエスと異なって、奇跡を行なうことはしませんでしたが、人々から預言者として認められていました(マタイ14章5節)。「預言者」にもいろいろなタイプがありますが、彼は、終末の到来と裁きを警告する預言者であり、また洗礼を授けるという今までの預言者にはなかった特長を帯びています。しかしここでは、洗礼者は「預言者<以上の>者」だと言われています。終末の到来を告げ洗礼を授けたことも、従来の預言者にはなかったことですが、「以上の」とあるのは、それだけでないことが、続く聖書の引用から分かります。大事なのは、この言葉がイエスの口から出ていることです。洗礼者が「預言者以上」であるのなら、これを語るイエスには、神ご自身の霊性が宿っていることを間接的に証ししているからです。
【聖書に書いてある】ここで洗礼者が、「聖書で<預言されていた>預言者」であることが分かります。引用は出エジプト記23章20節「見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わして、あなたを道で守らせ、わたしの備えた場所にみちびかせる」〔新共同訳〕がその源です。ここで言う「わたし」とは主なる神のことで、「あなた」はモーセを指し、「使い」とは「み使い/天使」のことです。また、「わたしの備えた場所」とは、神がイスラエルの民に約束された土地のことです。マタイとルカの引用はほぼ七十人訳そのままです(ただし「の前に」のギリシア語が異なります。またルカは主語の「わたし」を省略)。
 出エジプト記のこの言葉を踏まえた上で、これを受けた預言が、旧約聖書の最後の書であるマラキ書3章1節にあります。「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者、見よ、彼が来る、と万軍の主が言われる。」ここでマラキは、イザヤ書40章3~5節を踏まえて、終末における主ヤハウェの栄光の顕現を預言しています。「使者」は、「天使」とも「人間」とも、また「主なる神自身」を指すともとれます。「契約の使者」とは、おそらく主なる神ヤハウェのことだと考えられます。しかし、その前に出てくる「使者」は、「天使」とも「人間」とも受け取ることができます。この両義性から、イエスが洗礼者を「使者」だと証しする根拠が生じることになります。ほんらい「天使」を指す「使い」が、マラキ書のこの預言を通じて、預言者のこととされるのです。しかもマラキ書には、その「使者」とは、預言者エリヤのことだとあります(マラキ3章23節)。
 ただし、マラキ書のこの預言が、終末に現われる「来るべきあの預言者」かどうかについては問題があります。なぜなら、終末での主なる神の来臨に先駆けて「偉大なメシア」が顕われるとも信じられていたからです。この「偉大なメシア」と再臨のエリヤとは同一人物なのかどうかをめぐっては、かなり混乱があったようです。「偉大なメシア」とは、先駆けとなるエリヤなのか? その「メシア」は、終末に顕現する「主なる神」とどうかかわるのか? この「メシア」は神自身の顕現を意味するのか? この辺がまだ明らかではありません。キリスト教以前のユダヤ教に、そのような「偉大なメシア」信仰があったことを疑問視する説があるのはこのためでしょう。
 おそらく、先に洗礼者ヨハネがイエスに尋ねた「来るべき方」とは、マラキが預言したエリヤのことだと思われます。人々の中には、イエスのことをエリヤの再来だと信じた人たちがいたことは確かです(マルコ8章28節/マタイ16章14節)。洗礼者自身は、自分のことを終末に来臨してイスラエルを救う「あの来るべき預言者」(エリヤ/メシア)だと思ってはいなかったことが、前回の彼の質問から分かります。ところが、イエスはここで、洗礼者ヨハネが尋ねた「来るべき預言者」とは、実は、イエスのことではなく、逆に洗礼者自身のことだと語っているのです。洗礼者が求めていた「そのお方」とは、実は洗礼者自身のことだったのです! 「ある方」を探し求めている者自身が、実は探し求めていた「その者」であったことが、ここで判明する/啓示されるのです。
 問題は、「この来るべき預言者」が先に来て道を備えるのは、いったい「だれ」のためか? と言うことですが、マラキ書から判断するなら、この預言者は、主なる神自身の終末の到来に先立つエリヤです。ただし、イエスの頃のユダヤ教では、「この預言者」は、終末に到来する(主なる神ではなく?)「偉大なメシア」に先立つとも信じられていたようですが、この点ははっきりしません(ルカ9章19節を参照)。福音書では、「来るべき預言者」は、終末に現われる「メシア」の先駆者とされています。
 このイエスの証言によって、洗礼者ヨハネは、終末に再び現われる「預言された預言者エリヤ」だと信じられたのです。マタイ福音書とマルコ福音書ではこの点がはっきり表わされていますが(マタイ17章9~13節/マルコ9章11~13節)、ルカ福音書では、エリヤと洗礼者との結びつきは、ルカ1章17節にでてくるだけで、それ以外には語られません。ヨハネ福音書では、洗礼者とエリヤとの同一視が否定されていますが(ヨハネ1章21節)、これが洗礼者ほんらいの意図を伝えているのかもしれません。このように見ると、出エジプト記の預言→マラキ書での使者→エリヤ→来るべき預言者→メシアの先駆け→洗礼者ヨハネ、というように、福音書の洗礼者ヨハネ像が形成されてくるその系譜/過程が見えてきます。
 以上をまとめると、旧約で「わたしの前に」とある「わたし」とは「主なる神」のことですが、イエス様語録の引用では、「わたし」はキリストであるイエスのことになります。洗礼者が、終末に訪れる救い主のメシア(キリスト)を証しする栄誉に与ったこと、このことが、ここでの「預言者以上の者」の意味なのです。ただし、旧約からのこの引用は、イエス以後の教会によって加えられたと言われています。
【あなたたちに言っておく・・・・・彼よりは偉大である】この部分は前半のまとまりの最後に置かれていますが、マタイでは「アーメン」で始まっていて、ほんらいこれだけで独立した言葉であったことが分かります。マタイの文頭での「アーメン」がほんらいのものであれば、ルカはこれを省いたことになりますが、ルカによる省筆か、マタイによる付加かは不明です。内容的に見ると、洗礼者ヨハネの偉大さと、それとは逆の見方が並列されているのが分かります。並列を切り離して、前半は洗礼者の弟子たちからでた言葉で、後半は、イエスを信じる弟子たちの言葉だと解釈すれば、「偉大さ」と「最小」との逆説的な並列関係は一応つじつまが合います。しかし、この並列は、最初から一つのまとまりをなしていたと見るほうが自然です。こういう逆説的な語り方はイエスにさかのぼると考えていいでしょう。
【女から生まれる】これはセム語的な言い方で、肉体を具えた人間を指します。前後の文脈から、ここでは天国にいる者たちと比較して「弱い」「劣った」人間存在を意味するのでしょうか。ただし、「女から生まれる」という言い方それ自体には、天の存在と人間とを比較するような含みはありません。
【現われなかった】マタイでは「立ち上げる/起こす」という動詞の受動/中動相完了形が文頭に来ていますが、ルカでは「~者はだれもいない」と現在形が文末に来ています。マタイのほうがセム語的な言い方なので、復元にはマタイを用いていますが〔ヘルメネイアQ〕、しかし『トマス福音書』ではルカと同じ言い方になっているので、ルカの可能性もあります。
【彼よりは偉大である】終わりの日に神の支配が到来する時には、「イスラエルの最も弱い者もかつてのダビデのように強くなり、また従来のダビデの家系の者は、さらにそれ以上になり、天使のようになる」という預言があります(ゼカリヤ12章8節)。だからここでも、神の国が到来する時には、最小の者でも最大の洗礼者ヨハネをさらに上回る存在になるという意味でしょう。神の国の到来は、現在の肉にある人間に優る新たな創造をもたらすからです(第二コリント5章17節)。洗礼者ヨハネの偉大さは、ちょうどモーセがヨルダン川の東、すなわち約束の土地の瀬戸際までイスラエルの民を導いたように、イエスの福音の到来直前までイスラエルの人々に語り、彼らに洗礼を授けたことにあります。
 ただし、この解釈だと、洗礼者ヨハネ自身は御国の福音に参与しなかったことになります(だからと言って、モーセと同じように、偉大さが失われることにはなりません)。前回は、洗礼者ヨハネが存命中でしたから、イエスは、彼の質問に対して、「洗礼者をも含めて」御国がすでに開始されたことを伝えました。しかし、おそらくこの段階では、洗礼者はすでに殉教していたのでしょう(「荒れ野へ出て行った」という過去形や「現われなかった」という完了形に注意)。前回指摘したように、神の国は、「すでに」始まっているが「まだ」完全に成就してはいないという不思議な霊性を有しています。洗礼者ヨハネは、その境界にあって、御国の到来を預言したのです。彼はまさにこの不思議な事態を証ししているのですから(ルカ16章16節)、イエスの御国の霊性を思う時、ここを時間的に厳密に解釈して、彼を御国に「含める」のか? それとも「排除する」のか? ということにあまりこだわる必要はないと思います。洗礼者ヨハネをめぐるこの問題は、おそらく洗礼者とイエスとが世を去った後で、両者の弟子たちの間で論じられたのでしょう。なお、イエス様語録の版によっては、この後にマタイ11章12節を挿入しています。
 
 後半のまとまりは、洗礼者ヨハネとイエスとの間に優劣関係をつけていません。また、二人に向けられる批判と嘲りは、後の教会が創出したとは考えられません。イエスはしばしば敵対者の言葉を利用して語ったことや比喩や用語がセム的であることから、後半も内容的にイエスにさかのぼるのと考えられます。今回の子供たちのたとえには分かりにくいところがあって、解釈が大きく二つに分かれています。
(1)「今の時代」を洗礼者ヨハネとイエスを含む人々全体にたとえています。呼びかける子供たちは洗礼者ヨハネとイエスです。呼びかけられるほうは今の時代の人々です。イエスが、結婚の喜びを伝える笛を吹いても、洗礼者ヨハネが、終末に訪れる最後の裁きを伝える弔いの歌を歌っても、そのどちらにも人々は何一つ応えようとせず、反応を示さないのです。この解釈が最も一般的な解釈でしょう。順序としては、洗礼者ヨハネが先でイエスが後になりますが。ただし、人々がイエスや洗礼者に「反応を示さなかった」とあるのは、実際の二人の活動とは違っているのではないか? という指摘もあります。たとえ多くの人たちが二人の言葉に耳を傾けても、全体としてみれば大多数の人たちが、特に宗教的、政治的な指導層は、二人に耳を貸さなかったのです。
(2)「今の時代」を子供たちにたとえますが、そこにはイエスと洗礼者は含まれません。ある子供たちが、笛を吹いて結婚遊びをしようと呼びかけても、ほかの者たちは冷淡で反応せず、別の子供たちが悲しい歌で葬式ごっこをしようと誘っても、ほかの者たちはこれに反応を示さないのです。人々は分裂して、互いに正反対のことを言い合うだけで、何一つ決まらない状態です。したがって彼らは、洗礼者ヨハネの禁欲ぶりを見ると「悪霊憑きだ」と非難し、イエスの自由な振舞いを見ると「酒飲みで罪人の仲間だ」と嘲るのです。この解釈は比較的新しいものですが、洗礼者ヨハネとイエスとに対して、人々がそれぞれ正反対の理由で非難する様子とうまく合致するようです。ただし、この解釈だと、洗礼者とイエスは、批判はされますが、直接たとえの中の人物には加わりません。
【今の時代】「時代」と訳されている「ゲネア」は、「一族」「世代」「世代ごとの時代」を意味します。申命記(1章35節)にも「この悪い世代」とあるように、「今の世代」を「悪い」と見るのは旧約以来、と言うより古今東西同じで、イエスも旧約以来(人類以来?)のこういう伝統に従っています。ちなみに、イエスの再臨の時は、洪水が迫る頃の「ノアの世代/時代」にたとえられています(マタイ24章37節=ルカ17章26節/同17章28節)。だからここでは、特にイスラエルの世代/同時代だけを指すのではなく、ヘレニズム世界をも視野に入れて語られているのです。
【たとえる】「たとえる」と訳されている語は、「似ている」「類似している」の意味で、「たとえ」を導き出す時の言い方です。日本語で言えば「~みたいだ」くらいの言い方です。ここでは、イエスの周囲で起こっている出来事や洗礼者とイエスに対する人々の反応を勝手気ままな、それだけに幼稚な子供たちの遊びの姿に似せているのです。なおルカは「何に似ているか?」と、問いかけを繰り返していますが、マタイは繰り返しを削除しています。ルカのほうが元のイエス様語録に近いでしょう。
【広場に座って】広場に「座る」とあることから、これは、広場で行なわれる公開の裁判のことではないか、という説もあります。この場合「呼びかける」は、裁判ごっこで、子供たちが相手を「喚問する」ことになり、互いに自分勝手で幼稚な批判をやり合っていることになります〔ノゥランド『マタイ福音書』〕。おもしろい発想だとは思いますが、「踊り」や「葬式」とはうまく合いません。ここはやはり、葬式ごっこや結婚式の遊びをしたがっている子供たちのことでしょう。
【笛を吹いた】結婚式ごっこで、女の子たちが笛を吹いて、男の子たちに輪になって踊るようにと誘っているのです〔デイヴィス『マタイ福音書』〕。
【葬式の歌】今度は男の子たちが、葬式の行列でやるように「泣き悲しむ」仕草をして、女の子たちに向かって、これに合わせて弔いの歌(ばん歌)を歌うように求めているのです。弔いの歌は、終末の裁きに備えて、罪を嘆き悲しみ悔い改めを迫る洗礼者ヨハネをイメージさせ、結婚の踊りは、喜びをもたらす「御国の宴会」に招くイエスの福音を思わせます。ところが少年たちは踊ろうともせず、少女たちも歌ってくれないのです。
【食べも飲みもしない】これは洗礼者とその弟子たちが、しばしば断食を行なっていたことを指します。洗礼者ヨハネとイエスのそれぞれの弟子たちが、師に見習って全く違う生活のスタイルを採っていたことは、マタイ9章14~15節=ルカ5章33~35節にでています。
【悪霊に】福音書には、洗礼者が「悪霊に憑かれている」と非難される記事は見あたりません。彼の異様な身なりを見て(マタイ3章4節)、そう思った「無知な」人たちがいたと思われます。イエスの時代には、精神的な異常者も「悪霊」の仕業だとされていましたから、ここを「彼は気が変になっている/狂っている」と訳すこともできます〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』〕。
【人の子】ここでは「人の子」が、イエス自身を指していて、しかもこれが、イエスが自分を洗礼者と区別する意味で用いられているのが注目されます。「人の子」は、もともと「人間」一般を指す言い方です(ヨブ記25章6節/詩編4篇3節/同14篇2節など)。しかし、「人の子」は、エゼキエル書にしばしば出て来て、神からの特別な使命を帯びた者(エゼキエル自身のこと)を指す用語にもなります(エゼキエル書2章1節/同6節/同8節など)。これが、ダニエル書7章13~14節では、「人の子のような者」(原文はアラム語)という言い方で現れます。この「人の子らしき者」は、天において、「日の老いたる者」(神自身を指すか)のみ座の傍らに立って、諸国民、諸民族を支配する権能を授与されると予告されます。この用語は、以後、黙示的な意味を帯びて、終末に到来するメシアを意味するようになります。ただし、パレスチナの一般の民衆が、「人の子」のそのような神学的な内容を理解していたとは考えられません。イエスの時代には、アラム語の「ベル(子)・エナシェ(人)」は、間接的に自分のことを指す場合にも用いられていました(日本語で「せっかく人(自分のこと)が親切に言ってやったのに」のように)。だから、イエスは、「人の子」が意味する黙示的で終末的な意味をも含めて、この用語を「自分を指す」場合に用いたと考えられます。これに基づいて、イエスの受難と復活以後の教会では、弟子たちが、「人の子」をイエスを指す「称号」として、「メシア」などと同じ意味で用いたのでしょう。ただし、イエスが自分を指して「人の子」と呼ぶ場合は、単に自分を他人と区別する個人としてではなく、むしろ、イスラエルの民や神に選ばれた人たちを代表する「わたし」として、<共同体における>自分のことを指して用いているのを見落としてはなりません(マルコ2章28節)。
 今回の「人の子」は、イエス様語録から出ています。しかも、今回は、「人の子」が、「智恵の人」との関連で用いられていることが注目されます。イエス様語録(Q6:22)で「人の子」が最初に出てくるのは、ルカ6章22節(マタイ5章11節と並行)です〔James Robinson et als.eds. The Critical Edition of Q. Hermeneia. Fortress Press (2000)50--51.〕。イエス様語録の「人の子」で、主なものだけをあげると、次は、Q7:34(ルカ7章34節)で〔Q前掲書146~47頁〕、次はQ12:40(ルカ12章40節)で〔Q前掲書364~65頁〕、次はQ17:30(ルカ17章30節)です〔Q前掲書518~19頁〕。なお、イエス様語録にはありませんが、イエスが、ダニエル書13章13節が反映している「人の子」預言を語る場として、最高法院での大祭司に向けた返事が有名です(マルコ14章62節と、マタイとルカの並行箇所)。
 イエス様語録での「人の子」は、(1)黙示的で終末的な「人の子」、(2)受難と復活の「人の子」、(3)神の右に座す権能の「人の子」と、大きく三つの意味で用いられていると指摘されています〔John Collins. Daniel. Hermeneia. Fortress Press (1993)90.〕。この三つは、概(おおむ)ね、共観福音書の「人の子」にも当てはまると言えましょう。イエスは、自分を「来るべき人の子」としてすでに自覚していたと見ることができます〔ルツ『マタイ福音書』〕。ただし、たとえ福音書記者たち自身が、「人の子」を称号として用いたとしても、イエス自身は、実際はより広い意味で用いたと見る説もあります〔デイヴィス『マタイ福音書』〕〔ノゥランド『マタイ福音書』〕。
【飲み食いする】
ここでの「飲み食い」は、洗礼者とその弟子たちが断食を行なっていたことに対照させているのですから、イエスに向けられた「大食漢」や「大酒飲み」という非難は、明らかに誇張です。「大酒飲み」は申命記21章20節から出たのでしょうか。「徴税人」についてはマタイ5章46節の注釈を、また「徴税人や罪人」という言い方は、マタイ9章11節の注釈を参照してください。「大食漢で大酒飲みの人」と「徴税人と罪人」とが並行していて、イエスがこのような人たちの「仲間」だと言われているのは、イエスが神の国を伝えるにあたって、こういう人たちと食事を共にすることがしばしばあったことへの当てこすりとも考えられます。
【知恵はその子たち】「知恵の正しさはその<子たち>によって」はルカの読みに従っていますが、ここはマタイの「知恵の正しさはその<働き/業(複数)>によって」とも読むことができます〔ヘルメネイアQ〕。
 「知恵」(ソフィア)は、旧約以来の霊的な伝統で「知恵文学」として受け継がれています。イスラエルの「知恵」は、擬人化/人格化された神の「独り子」であり(知恵の書7章22節〔新共同訳の「単一」は「独り子」と同じ〕)、世界の初めから存在してこれの創造に携わり(箴言8章22~29節)、イスラエルの救済史を導き(知恵の書10~11章)、イスラエルを選んでその民の間に宿り(シラ書24章8~12節)、受難の苦しみを受け(知恵の書2章10~21節)、「神の姿」を映すものです(知恵の書7章26節)。お気づきかと思いますが、このような「知恵」は、ヨハネ福音書の「受肉のロゴス」の背景となる霊性を有しています。
 大事なことは、こういうイスラエルの知恵が、ここではイエス自身の霊性と関係していることです。すでに知恵の書2章で預言されているように、知恵は人々によって最終的に拒絶されます。にもかかわらず、知恵が「義とされた」〔受動相アオリスト形:直訳〕とあるとおり、神は、人々に拒絶された知恵が正しかったことを人々の前に立証するのです。
 イエス様語録への復元では、ルカによる「知恵の子たち」とマタイによる「知恵の働き」との両方が可能です。「子たち」とすれば、イエスだけでなく洗礼者ヨハネも「知恵の霊」に導かれていたことになります。しかし、「知恵の働き」とすれば、その働き/業は、直前のイエスの行ない/業を指しますから、この場合、「人の子イエス」と並んで「知恵の子イエス」が義とされることになります。どちらかに限定することは難しいのですが、イエス様語録とルカとが二人を「知恵の子たち」と見ていたとすれば、マタイはこれをさらに進めて、イエスこそ「知恵の子」であると見なしていることになります。マタイはおそらく、イエスと洗礼者との対照的な違いに注目して、イエス独特の霊性とその振舞いに知恵の特長を見いだしたのでしょう。
 
■マタイ11章
 マタイとルカとの大きな違いは、マタイ11章12~15節がルカでは抜けていること、逆にルカ7章29~30節がマタイにはないことです。ただし、マタイの11章12~15節に対応するのはルカでは16章16節であり、逆にルカ29~30節に対応するのがマタイでは21章31(後半)~32節です。したがって、これらの抜けている対応部分が【参照】の欄にあげてあります。以下の語句の説明では、イエス様語録と重なる部分が省いてあります。イエス様語録のそれぞれの項目を参照してください。
[7]ここから、イエスとはだれか? から洗礼者ヨハネとはだれか? に移行します。マタイは、ルカには抜けている主語「イエスは(言われた)」を入れています。
[8]【しなやかな服を】直訳すれば「やわらかくまとう」で「衣服」は原文にはありません。
[10]マタイは、七十人訳にもルカとマルコの引用にもない主語の「わたし(は遣わそう)」を入れています。洗礼者が神から遣わされた預言者であることをはっきりさせるためです。
[11]マタイは「わたしは言う」の前に「アーメン」を加えています。また、否定が文頭に来て、「現われる/立ち上げる」〔受動相完了形〕という動詞が用いられています(No one has arisen greater than John...)。これはセム語的な言い方でマタイの編集でしょう。さらに「洗礼者ヨハネ」の「ヨハネ」を加えています。イエスが偉大とされているヨハネよりもさらに優った存在であることをはっきりと印象づけようとしているのです。
[12]ここは、四福音書中でも、解釈が難しいことで知られています。しかしマタイは、イエス様語録の伝承からこの箇所を受け継いでいると見ることができ、さらにここは、イエスにさかのぼると考えられますから、それだけに重要です。ただし、12~13節はほんらい別個の伝承であったと思われますから、マタイは、洗礼者ヨハネの記事全体を一つにまとめているのです。
【彼が活動し始めたときから】13節に「ヨハネの時まで」とありますから、洗礼者とイエスとをそれぞれに時代的に区別して、洗礼者を旧約の律法と預言者の時代の人として、イエスの伝える神の国<以前に>属すると見る解釈と、逆に洗礼者をイエスの神の国に含める見方とが可能です。しかし、すでに述べたように、マタイは、このような区分を設けるのではなく、洗礼者を御国の福音が開始される直前から直後への「境界に」立ち合った人として〔ノゥランド『マタイ福音書』〕、あるいは、洗礼者をイエスと「同時期の」人として〔デイヴィス『マタイ福音書』〕見ています。「~から/以来」は、ヘブライ語では通常そのものを含んだ言い方です。だからイエス自身は、洗礼者ヨハネを自分と同じ時期の人と見なして、彼を御国に含めて見ていたと思われます〔デイヴィス『マタイ福音書』〕。
【力ずくで襲われて】原語「ビアゾー」は、「暴力を振るう/強制する/突き破る」を意味する中動相/受動相3人称単数現在形です。ルツの解釈によれば次のように解釈が分かれます〔ルツ『マタイ福音書』〕。
(1)この動詞を中動相と見るなら、その意味は、「天の国が前進している」あるいはイエスを信じる人たちが「天の国を熱心にとらえようとしている」のように肯定的に解釈することができます。
(2)動詞を受動相にとれば、解釈は肯定と否定との二つに分かれます。肯定的な意味では、「天の国が努力して入ろうとする人たちによって激しく求められている」「人々は天の国へ押しかけている」ことになります。
(3)しかし、受動相を否定的に解釈すれば、「天の国が暴力を加えられている」あるいは「天の国が暴力的な者たちに所有されている」という意味になります。
 この動詞に続いて、「暴力を振るう者たちが(天の国を)強奪している/略奪している」とあることから、マタイ福音書では通常(3)の否定的な意味に解釈されています〔デイヴィス『マタイ福音書』〕〔ルツ『マタイ福音書』〕〔ノゥランド『マタイ福音書』〕。
 ではだれが天の国に暴力を振るったり強奪しようとするのでしょうか? 過激な反ローマ活動をするゼロータイ(熱心党)を特定しようとする説もありますが、このような過激で暴力的な革命家たちだけでなく、洗礼者を逮捕して殉教にいたらせた権力者たちや、イエスに敵対するファリサイ派や高位の祭司階級などがあげられましょう。さらに、霊的な意味では、黙示思想に現われる「憎むべき破壊者」(13章14節)のように、御国の到来に先立つ、あるいはこれの開始に伴う終末的な迫害者どもを指しているのでしょう。
[13]マタイのここ11章12~13節は、【参照】の欄にあるルカ16章16節律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」と対応しています。だから、ルカ16章16節は、これを今回のルカ7章28節と同29節との間に挿入して読むと、マタイとルカとの対応関係が分かります。しかし、マタイとルカとでは、解釈がかなり違っていて、マタイは、「今に至るまで」と時間関係をはっきりさせて、洗礼者を今に含めており、ルカの「神の国」に対して「天の国」を用いています。しかし最大の違いは、マタイ福音書では「(天の国は)暴力を加えられており、強奪する者たちがこれを奪い取ろうとしている」〔直訳〕とあるのに対して、ルカ福音書では「神の国が福音されていて、だれもが力づくでもそこへ入ろうとしている」とあって、暴力を受けているマタイの天の国から、だれもが努力して入ろうとする福音の神の国へと正反対の意味に変容していることです。この違いは、マタイ福音書が、北シリアのアンティオキアを中心としたユダヤ人キリスト教徒たちの集会において著わされたこと、これに対して、ルカ福音書は、おそらくは小アジアかマケドニアで、異邦人キリスト教徒を中心とする集会の中で著わされたことによると思われます。ちなみにルカは、これをルカ16章17節の律法と、さらに同18節の離婚の問題と結びつけていますが、これはルカによる編集です。「時折、イエスの言葉は単なる容器で、この容器が解釈史の経過につれて、繰り返し全く新しい意味で満たされていったという印象を与える。突撃者〔奪う者〕についての言葉の場合、この印象は特に強い。福音書記者マタイは、伝承的な言葉の意味をおそらく完全には汲み尽くさなかった。・・・・・ルカはたぶん、ルカ16章16節で、既存の言葉の容器に全く新しい内容を満たした最初の人である」〔ルツ『マタイ福音書』〕。
[14]~[15]認めようとすれば】原文は「もしあなたがたが望むなら」で、ヘブライ語から出た言い方です。これは、語り手が確信を持てないからではなく、何か新しいことを言おうとする時に、相手がそれを受け入れるか確かでない場合に用いる言い方です。
【現れるはずのエリヤ】ユダヤ教の伝承では、エリヤは死んだのではなく、生きたまま天にあげられたとされています(列王記下2章11節)。だから、イエスの当時のパレスチナでは、エリヤが「来たるべき預言者」として再来すると信じられていたのです。洗礼者ヨハネとエリヤとの関係については、特にマタイ17章9~13節を参照してください。イエスは洗礼者ヨハネをエリヤだと見ていますが、洗礼者自身が、自分をエリヤと同一視していたかどうかについては、意見が分かれています(ヨハネ1章19~21節/ルカ1章17節を参照)。おそらくマタイは、洗礼者ヨハネに関するルカ1章の伝承を何らかの形で知っていたのでしょう。ただし、死んだのではありませんから、洗礼者が、エリヤの「生まれ変わり」という意味ではありません。ルカ福音書にあるとおり、洗礼者には「エリヤの霊と力」が授与されていたという意味です。
【耳のある者は】これはイエスが、語られたことに霊的な注意を促す時にしばしば用いる言い方です。ここで話がひとまず終わり、次の内容へ移ります。
[16]マタイは、イエス様語録とルカにある「(時代の)人たち」を省略し、2度の問いかけを省いています。だからマタイは、「時代」を子供たちにたとえているのに対して、ルカは、時代の「人たち」を子供たちにたとえているのです。
【広場】原語は「アゴラ」で、公共の場として、政治集会や裁判、市場など、いろいろな用途に使われました。マタイでは複数ですが、ルカでは単数です。マタイは、別々の広場にいる子供たちを考えているのでしょうか? 
【ほかの者】原語「ヘテロイ」は複数で、マタイでは、自分たちとは「違う人たちに」の意味合いがあります。ルカでは「互いに」です。イエス様語録の「ほかの者たちに」(原語は「アロイス」?)は、同じ仲間同士の他の者たちを指します。
[17]【葬式の歌】原語は「悲しむ」で、特に弔いの席で嘆きを表わす歌を歌うことです。
【悲しむ】原語は嘆きや悲しみや後悔のために、自分の胸を「叩く/打つ」ことです。ルカでは、マタイの「打つ」ではなく、弔いのために「声を出して泣く」が用いられています。
[18]「ヨハネが来て」の「来て」は、マタイではアオリスト(過去)形で、ルカでは完了形です。またイエス様語録とルカでは、「あなたたちは言う」(直接話法)ですが、マタイでは「彼らは言う」(間接話法)です。マタイでは「食べもせず、飲みもしない」ですが、ルカでは「パンも食べず、ぶどう酒も飲まない」です。これは「食事もせず、飲み物もとらない」という意味でしょう。このように、ルカのほうがイエス様語録に忠実である半面、パレスチナの読者なら説明がなくても分かることをルカはヘレニズム世界の人たちのために分かりやすく言い換えています。
[19]マタイの「(知恵の)業」に対してルカの「子たち」についてはイエス様語録のところで説明しました。
【正しさは証明される】直訳すると「しかし知恵は、その子たちにおいて義とされた」です。「義とされた」〔受動相アオリスト形〕は、セム語的な言い方で、動詞のこの時制は、将来確かに起こることを預言する場合、あるいは、すでに起こったことが、普遍的な真理であることを諺として表わす場合に用いられます。ここでは、預言として用いられているのか、あるいは諺としてか、が問題になりますが、この部分がイエスの後で付加されたとすれば、イエスにおいて預言が成就したことを表わすのでしょう。
 
■ルカ7章
[25]ルカは、マタイにはない「<華美な>衣装をまとい」と「贅沢に暮らしている」を追加しています。「華美な衣装」とは宮廷の女性たちの衣装をイメージしています。荒れ野と宮廷とが対照されているのです。
[27]この節の説明は、イエス様語録の【聖書に書いてある】を参照してください。
[29]~[30]29~30節はマタイ福音書にはありません。ただし、ルカ福音書のここに該当する箇所が、マタイ21章31後半~32節に、兄弟のたとえと共にでてきます。ルカのこの部分では、イエスの洗礼者に対する言葉に直接関係するよりも、むしろ人々の洗礼者に対する態度を著者であるルカ自身が述べています。とは言え、この29~30節は、マタイ21章と内容的に対応していますから、イエスが実際に語ったことがこの部分の背後にあると考えられます〔ボヴォン『ルカ福音書』〕。
【民衆は皆】ルカはここで、「民衆」とファリサイ派や律法学者とをはっきり区別して、イエスを受け入れる者と拒否する者とがどのような人たちであるかを明らかにしようとしています。イエスを信じる民衆とイエスを拒絶する指導者たち、この区別はルカ福音書では一貫していて、イエスの十字架の前に立つ人々の態度にも表わされています(ルカ23章35節)。構文的には、「民衆は皆教えを聞き洗礼を受けた」と読むほうが自然です。「そして徴税人たちも」は、後からルカ自身が追加したのかもしれません。
【その洗礼を】ここでの「洗礼」は、言うまでもなく、洗礼者ヨハネの洗礼のことで、イエスあるいはキリスト教会による洗礼のことではありません。しかし、続いて「神の正しさを認めた」とあるように、ルカは洗礼者の教えを聞き、彼の洗礼を受けることが、神の救いの意図/計画に沿ったことであったと見なしています。ルカは、洗礼者とイエスとを結んで、そこに神による救済の計画/摂理を見ているのです。
【神の御心】原語は「神の意図/計画/目的」。ルカでは救済史的な神の摂理を意味する大事な言葉です。
【律法の専門家】原語のギリシア語「ノミコス」は、ユダヤでもローマでも、法律家/法学者を指します。ユダヤでは、「学者」とは、モーセ五書を初めとする広範な神の律法を解釈する権限を与えられた人たちのことで「律法学者」と呼ばれています(ルカ10章25節)。ルカ福音書ではほかに「学者」(グランマテウス)も用いられますが(11章53節)、意味は変わりません。ルカ福音書では「ノミコス」は、ここのように、マルコ福音書とは異なる資料の場合に見られます。この用語は、ルカが導入したのかもしれません〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』〕。
【自分に対する】律法の専門家やファリサイ派の人たちは、神の意図を人々に伝える指導者ですから、神は「彼らに向けて」その御心を示したにもかかわらず、彼らは神の意図を妨げたという意味です。それだけ彼らの責任は重く問われることになります。
[32]ルカ福音書の「広場」は単数で(マタイ福音書では複数)、このほうが分かりやすく、おそらくこれはイエス様語録からでしょう。また、子供たちが「互いに」呼びかけ合うと明記して、遊びが子供同士のものであることをはっきりさせています。このたとえの意味をよりはっきりさせるためにルカが挿入したのでしょうか。
[33]~[34]【ヨハネが来て】「来た」は、マタイのアオリスト形(過去形)に対してルカは完了形です。洗礼者が今現に「来ているのに~」という意味でしょう。
【パンも食べずぶどう酒も飲まず】「パン」と「ぶどう酒」はルカによる付加です。しかし、「パンとぶどう酒」は、一般に「食べ物、飲み物」を表わしましたから(創世記14章18節)、結局マタイと同じ言い方になりましょう。
【大酒飲み】原文は「大酒飲みの人」で、マタイにはない「人」が入っています。「<人>の子」と「大酒飲みの<人>」が語呂合わせになっているのです。「人の子」も人から見ればただの「人」に映ったようです。
[35]【これに従うすべての人】原文は「知恵のすべての子たち」で、マタイの「知恵のもろもろの業」と異なっています。ルカのほうがイエス様語録に近いでしょう。「知恵」をこのように擬人化するのは、イスラエルの伝統によるものです(知恵の書8章1節/シラ書24章1節)。ただしここでルカは、言葉は異なりますが、知恵の「子たち」(「テクノン」の複数)と遊びを呼びかける「子供たち」(「パイス」の複数)とをかけています。知恵の子たちは(箴言8章32節/シラ書4章11節)、たとえ世の人からは愚かに見えても、神の目からは正しく(第一コリント1章20~25節)、しかも知恵の正しいことは必ず人々の前に明らかにされるのです。
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